リレー実録:ケ・パソー?¿Qué pasó? 〈1〉新幹線に乗りたかった男
2015.03.14
とある夏の真夜中にかかってきた電話のぬしは、物腰柔らかそうな男声。
「そちら、L社かぃ?」
どうやら、雑誌奥付の番号を見ながらかけたらしかった。
「今度、キミらが、オレを日本に呼んでくれるんだって?」
……へっ!? あいや旦那、勘違いもいいとこですぜ。呼び屋さんは、別のM社ですぜと、説明するも、相手はまだ日本に行ける喜びを、今この瞬間、どうしても語りたいらしく思われた。
「ねぇ、日本に行ったら、新幹線に乗れるかな〜ぁ」
……って、あーた! ま、大阪公演の噂もあることだし、「たぶんね」と、笑いを噛み殺しながら返す。しかしやはりひと言、ここらで釘をさしておいたほうがよかろう。
「国際的アーティストのあなたが、なんでこんな時刻に日本へ電話してくるわけ? 時差って、知ってる? 今、こっちは午前3時半ですよ!」
男はそんな現実を突きつけても、めげなかった。ニヤニヤ声で、なにやらもっと喋りたそう。やむなく、徹夜作業といいながら痛飲した挙句、デスク下でぐっすり惰眠をむさぼる上司を、叩き起こしてやることにした。「ほーれ、とっとと起きんかぃ! 国際的なスターから電話だよ」と。当のスターと寝ぼけまなこの上司は、その後もくだらん国際通話に興じ、ゲラゲラ笑いしながらしばし歓談を続けていた。
その大物アーティストが、契約書をきちんと熟読していなかったのは、日を見るより明らかである。もしくは、その時点でまだ、正規の契約書を交わしていなかった可能性も考えられる。また、契約交渉に同行した人物が相手側の信用を得るべく、アーティスト本人の紹介記事が載った雑誌を手渡したことも、おそらく誤解(確信犯?)の原因だったと推察されよう。まぁつまり、憶測の域を出ないわけだが……。
実はこのアーティスト、L誌の前身であるCh誌時代より、長らく通信員をつとめていた日本人バンドネオン奏者(!)I氏とは、昵懇の仲だった。I氏は、名門タンゴ楽団の中南米ツアー途中で立ち寄った大都市ニューヨークに腰を落ち着け、長年にわたり演奏活動を続けていたのである。仕事の合間、折しも熱い火花を散らしていたサルサへのシンパシーを抱き、ミュージシャンたちとの交流も密だったという。クラブ仕事を終えて、しばしばI氏出演中の店で、食事したり和んだりする有名アーティストらの姿があったと聞く。深夜の国際電話のぬしも、その一人だったのだ。
この男こそ誰あろう、1987年12月、かのファニア・オール・スターズ公演以来、11年ぶりに来日したウィリー・コロン!
国際電話から数ヵ月後、めでたく再来日を果たした彼と、初めて対面した。インタビューのため用意された部屋は、高級ホテルのスウィートルーム。取材約束から3時間もロビーで待機させられた後、黒塗りのハイヤーでホテル正面玄関に降り立ったウィリー・コロンは、あの垂れ目で、あろうことか「ごめんよ、1時間半も道に迷って、ホテルを探しちまってさ〜」と、のたまった。またしても出た、時間差攻撃!
あいや旦那……残りの1時間半は? ひょっとして電器屋街訪問だったんではねーですかぃ? (完)
★北陸新幹線開業にちなみ(?)『リレー実録:ケ・パソー?』を、おっぱじめるとする。当新企画は複数の書き手がリレーの形をとり、実体験に基づく逸話をご紹介していく。表題『¿Qué pasó?』には、なんだ? なんですと〜?といったニュアンスがある。果たしてどんな裏話が飛び出しますやら……。
次回は、高橋めぐみが相つとめまする。
日本版初上演にちなみ、『イン・ザ・ハイツ』こぼれ話を
2014.04.18
ラップ世代のミュージカル・マニアは、両親がプエルトリコ出身で、ルーツにメキシコも入っているというNYC生まれのラティーノ。19歳のときに創ったプロットと楽曲を幾度も練り直し、2007年オフ・ブロードウェイで開幕。翌08年オン・ブロードウェイ進出を果たし、三世代の共感を呼ぶ大成功作となった。
2009年グラミー賞・最優秀ミュージカル・アルバム賞を受賞。CD『イン・ザ・ハイツ オリジナル・ブロードウェイ・キャスト盤』が、来日タイミングでリリースされている。(Sony Music Japan SICP-2330〜1)
2010年初夏、映画化決定を受けLAでアンコール上演。日本初上陸が同年の夏で、4年後ついに日本版が完成した!というわけだ。
◆
いくら普遍的な家族とコミュニティの結束がテーマとはいえ、正直、日本のミュージカル・ファンにとって、スペイン語混じりの隠しネタ満載、ラティーノ群像劇を焼き直して伝えるのって、難しいんじゃね?と思っていた。だって、劇中の「ノ・パレ・シゲ・シゲ」(※もち、プロジェクト・ウノの爆発ヒット「エル・ティブロン」のフレーズ)に喜ぶなんて、当然限られた日本人だけだろうし、配役の世代やルーツごとに使い分けられるソン、サルサにメレンゲ、バチャータ……うまく日本版で活かせるのかね?と。
なんせLAのお客さんたちが、キューバ移民おばあちゃんの「ノ・パレ・シゲ・シゲ」に大笑いし、タクシー会社を営むプエルトリコ移民父ちゃんの差別発言に「ノ――!」と声を上げ、「酔ったチタ・リベーラ程度には踊れるよ」(※往年のラテン系有名女優)なんて台詞が、かなりウケたりしてたもんですから。
でも、そんな漠とした懸念は吹っ飛びました。本質を外すことなく、日本で理解されないであろう引用や下品なスペイン語の間投詞さえも敢えて削らず、丁寧にうまく織り込んで、「キーワードを知っていたらもっと面白いっすよ〜」てな、柔軟な訳詞と演出ぶり! もともとラップの歌詞や台詞って、聞き取りにくい。それが字幕なしで、ある程度きちんと聞き取れるというのは、かなり助かります(なんちって)。
オリジナルの設定に較べ、衣装が小奇麗でドレッシーすぎ(ほれ、いかにもラティーナっぽいピチピチムチムチ感ってあるでしょ?)、グラフィティ・ピートの振付が優美で少々違和感はありましたけど、これ以上の無茶は言いますまい。
不器用で誠実なウスナビ役のMicro兄さん(Def Techのメンバー、ミュージカル初挑戦なのにうまし!)、ヴァネッサ役の大塚千弘さん、美容室経営ダニエラ姐御を演じたマルシアさんが、特にオリジナルに近い味と歌唱力で、好感度大でした。LAで観たときの感興がたちまちよみがえってきたりして……。ま、LAではお客さんの一喜一憂そのものが、とっても興味深かったんですけどね。日本版の演出・振付は、TETSUHARU氏。日本語詞担当がKREVA氏だそうです。
そうそう、プエルトリコ自慢のピラグア・アイス売り、4年前のLA公演時の役者さんがとってもオツでした。さりげなく美声を響かせておいて、袖にハケる場面でブリッと太めのケツを振って踊る! あの粋な一瞬の仕草が大ウケしてました。もし日本版やることになったら、顔つきそっくりの“グッさん”で決まりだねー、なーんて勝手な話を交わしてたもんです。
◆
さーて、せっかくの機会なので、リン‐マヌエル・ミランダの一部蔵出しコメントをご紹介しときます。
(2010年6月25日、ロサンゼルスにて取材/協力:キョードー東京)
◆主人公のウスナビを、ドミニカーノに設定した理由は?
「僕の育ったワシントン・ハイツ界隈では、ドミニカ系住民が多数を占め、プエルトリカンはマイノリティだった。舞台設定から、ドミニカンにフォーカスしたんだ。しかも、ただドミニカンだけ、プエルトリカンだけなんてバラバラに分断するのではなく、さまざまなルーツのエッセンスを入れた作品にしたかった。
◆クラウディアおばあちゃんには、モデルがいた?
「キャラクターのほとんどが、脚本家のキアラ(・アレグリア・ウデス)と僕のファミリー周辺の人物のミックスだ。キアラは北部フィラデルフィアに育ち、僕はマンハッタン北部に育った。このストーリー自体が、僕たちから家族へのラヴレターみたいなもんだよね。
彼女が『イン・ザ・ハイツ』を観て、どう反応したかだって? 最初に彼女が言ったのは、あんたはこんなに私にお金をくれたけど(※劇中おばあちゃんが宝くじを当てる)、私を殺したね〜、だったよ(笑)。でも、このミュージカルが大好きと言ってくれた」
◆登場人物はみんな悩みを抱え、えらく恋愛下手だが?
「それは、僕が好きな映画やドラマやミュージカルが、ヒューマン・ドラマだから。悪人が口髭を撫で、これから悪事が起きると予感させるストーリーではないからね。僕らは作品を創るにあたって、誰もが苦難に立ち向かう現実を描きたかった。そして、ハリウッドがラティーノをドラッグディーラーや売春婦と形容してきた事実があって、今この瞬間もそんなステレオタイプの形容を続けているわけだが……それに対して僕の描くべきは、この不況の時代にそれぞれのビジネスを抱え、苦労しながら生きる人々だと」
◆主人公ウスナビも、ラティーノなのに口説き下手……まさかご自身の投影?
「ステレオタイプのイメージを壊して申し訳ないが(笑)、僕自身も彼に同じだ。みんながみんな、アントニオ・バンデラスじゃないからね。彼は、僕にとってスクリーン・ヒーローの一人だけど、『デスペラード』を観たとき、一生こんなふうに女の子に向かって喋れないと思ったよ。ラティーノでもシャイな男がいてもいい。僕はエンリケ・イグレシアスになれないし、ならなくていい(笑)」
◆ウスナビという名前は、ドミニカーノによくある? それとも、あのオチを狙ってつけた??
(※劇中、おばあちゃんの歌に……「おまえの名前の由来を思い出してごらん。あんたたち一家がやって来たときのことだよ。通る船を見て、赤ん坊に名づけたんだよ」とある。続けてウスナビ、「それで、US.NAVYってわけなの?」と、つぶやく。客席、ここでネタ割れして爆笑!)
実は移民局で働く友人が、ウスナビって名前の人がいるんだよ!と話してくれてねぇ。これだ!僕の作品のキャラクターに使える!と思ったんだ」
◆
もひとつ最後に、補足情報を。2008年に生誕から50周年を迎えたミュージカル『ウエスト・サイド・ストーリー』は、翌年3月より新プロダクションを得て、ブロードウェイでリバイバル公演を行った。その際、オリジナルでも作詞をつとめたステファン・ソンドハイムが直々に指名。名匠ソンドハイムの依頼でスペイン語詞を手がけたのが、リン‐マヌエル・ミランダだった。
半世紀も慣れ親しんだファンの中には、かえって新たなスペイン語詞に違和を覚える向きもあるようだが、さすがに時代のほうが、不自然な歌詞に改変の必要性を痛感したのだろう。
2009年版『ウエスト・サイド・ストーリー ニュー・ブロードウェイ・キャスト・レコーディング』として、すでに日本盤CDもリリースされているので、ご参考までにどうぞ。(Sony Music Japan SICP-2294))
追悼:パコ・デ・ルシア(2)アルヘシーラスの英雄
2014.04.08
アンダルシア州カディス県、人口約12万のアルヘシーラス。あまりツーリストがそそられるような町ではないが、湾越しに望む英領ジブラルタルへ向かうバスのほか、モロッコのタンジェやスペイン領セウタ行きのフェリー便が出港する要衝だ。いずれの地も目と鼻の先。そんな町の港界隈は、漂着する者に対する警戒心のあらわれか、どうも気安くトイレを借りられるような雰囲気にない。旅行会社が看板を掲げているものの、どの門扉にも厳重に鍵がかけられ、かすかな緊張をはらんでいた。
パコ・デ・ルシアPaco de Lucíaは1947年12月21日、この港町に生まれ育った。本名、フランシスコ・サンチェス・ゴメスFrancisco Sánches Gómez。芸名は、ポルトガル人の母親の名にちなむ。ご近所さんらが皆、“ルシアさん(家)のパコPaco, el de Lucía(Luzía)”と呼んでいたからだ。
近年のパコがとりわけキューバ訪問を楽しみにしたのは、ハバナ旧市街の通りに幼いころ自分が駆け回った故郷の景色を重ねていたせいだ、とも伝えられる。でも実際は幼少期のパコのほうが、現在のハバナで遊ぶ少年たちよりずっと貧しかったらしい。
パコは6歳で、父アントニオ・サンチェスより厳しくフラメンコ・ギターの特訓を受け、のちに長兄ラモンRamón de Algecirasに多くの技法を学んだ。12歳のとき、次兄でカンタオールのペペ(後年Pepe de Lucíaを名乗る)とのデュオ、“ロス・チキートス・デ・アルヘシーラス”名義でプロ活動をスタートする。息子たちは家計を潤すため、芸の道で真剣に稼がねばならなかったのだろう。
兄弟デュオは、60年に3枚のEP盤をイスパボックス社で録音し、62年(61年説もある)ヘレスのコンクールで特別賞を受賞。一躍脚光を浴び、63年にLP『Los Chiquitos de Algeciras』を発表した。
17歳にして海外プロモーターと契約したパコは、ガラ・コンサート「フェスティバル・フラメンコ・ヒターノ」でヨーロッパを巡演。当舞台には、カマロン、エル・レブリハーノ、エル・ファルーコといった歌い手が名を連ねていた。最初パコはサード・ギター、のちにセカンド・ギターをつとめる。ちなみにファースト・ギターは名手、フアン・マジャ・マローテ。録音記録も残されており、かつて3枚組LPで日本盤が出ていた。
65年、先輩ギタリストのリカルド・モドレーゴとのデュオで、3作のLPをフィリップスで録音。当時発売された日本盤タイトルが、それぞれ『情熱のフラメンコ・ギター』、『恋のフラメンコ・ギター』とは、時代を思わせてちょっと笑える? 残る一枚が日本未発売、詩人ガルシア・ロルカの採譜による12のアンダルシア民謡を奏でた作品だった。モドレーゴとはさらにもう一枚、67年にスペイン歌謡集の録音もある。
20歳を迎えたパコは、まさしく“伝説の始まり”を告げる初のフルアルバム『La fabulosa guitarra de Paco de Lucía』(邦題は『天才』)を放つ。カスタネット参加が2曲で、残る8曲は全編ギター・ソロ。恐るべきスピード感と音圧が、のちの片鱗を窺わせて痛快というしかない。
また同67年、兄ラモン・デ・アルヘシーラスとのデュオで、日本のギター・ファンにはお馴染みのラテンアメリカ名曲集『Dos guitarras flamencas en Americalatina』を発表した。収録ナンバーは「シエリート・リンド」「アルマ・ジャネーラ」「カーニバルの朝」「ニッケの花」「シボネイ」ほか、彩り豊かな全12曲。
69年にはソロ・セカンド『Fantasía flamenca de Paco de Lucía』(邦題『幻想』)に加え、ラモンとのデュオによるラテン名曲集第2弾『Paco de Lucía y Ramón de Algeciras en Hispanoamerica』をリリース。おまけに日本のレコード会社からの要請を受け、ラテンやコンチネンタルタンゴ、「荒城の月」までを含む世界のヒット曲集『12 hits para 2 guitarras flamencas y orquesta de cuerda』を録音している。
幸か不幸か60年代までのわが国において、フラメンコ・ギターがラテン・ギターの範疇にあると、一般認識されていた事実は否めない。ゆえに率先してリリースに価すると判断されたのが、若きフラメンコ・ギタリスト、パコ・デ・ルシアの弾くラテン名曲集だったとしても、誰を責められよう。ジャンルの壁は、今よりはるかゆるやかで、とてもざっくりしていた。
以上、60年代までのおもだったアルバムに限ってご紹介してきたが、この間、伴奏ギタリストとしての録音参加は数知れず。わけてもジャズ・テナーサックス奏者、ペドロ・イトゥラルデと共演録音した『Jazz Flamenco』(イスパボックス社/64、66、68年録音)の実験的な作品は、完成度はともあれ、のちのパコへ某かのヒントを与えたに違いない。
レコード会社の求めに応じ大衆路線を甘受する一方で、おそらくパコは独自のフラメンコ世界を切り拓くべく、自らの進化を決意していたのだろう。この時期は、パコにとってもうひとつの象徴的な意味をもつ。すでに拠点をマドリードへ移したパコは、69年以降77年まで“カンテ(歌)”の革命児、カマロンと共鳴し合い、8枚の重要なアルバムを紡ぐこととなるのだから……。
さて、アルヘシーラスの風景を思い出すとき、どうしてもオーバーラップしてしまうのが、トニー・ガトリフ監督の最新作。スクリーンいっぱいにスローガンをちりばめた、2012年の力強い映画『怒れ!憤れ!―ステファン・エセルの遺言―』の港湾シーンだ。
いかにもガトリフらしい、映像と音楽のコラージュで描かれたこの作品には、ドキュメンタリー映像の誘導役として、主人公の少女が登場する。ウォロフ語が母語らしき少女は、仕事を求めて命からがらたどり着いたアテネで、あてどもなくさまよった挙句、不法渡航者として警察へ連行されてしまう。そしてギリシャ、フランス、スペインへと渡り歩き、似たような境遇のもとで仮の寝床に身を横たえる人々、怒りをもって立ち上がり、声を発し始めた大都市の群衆と遭遇するのだった。
ご存じ、『ラッチョ・ドローム』『ガッジョ・ディーロ』『ベンゴ』3部作ほか、『トランシルヴァニア』など、個性あふれる作品群を手がけてきたトニー・ガトリフ監督。自身はアルジェに生まれ、父親がアルジェリア人、母親がアンダルシアのヒターナ。つねに人が移動する必然性を問いかけ、社会のはざまで暮らす者たちの存在を、独特の手法で突きつけてきた異形の監督だ。
この映画体験で、港町アルヘシーラスのはらむ緊張の一端が、ご理解いただけるかも知れない。
http://www.moviola.jp/dofun/
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追悼:パコ・デ・ルシア (1) 最期の日々
2014.03.05
前口上&キックオフ・パーティ選曲リスト
2014.02.23
扱うジャンルは、我が原点のアルゼンチン・フォルクローレとブラジル音楽……を中心に、まぁぼちぼち書き進めて参ります。
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