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日本版初上演にちなみ、『イン・ザ・ハイツ』こぼれ話を

2014.04.18

 2008年トニー賞13部門にノミネート、作品賞・楽曲賞・振付賞・編曲賞の4部門に輝いた、ブロードウェイ・ミュージカル『イン・ザ・ハイツ』。授賞スピーチで韻を踏みながら関係者への謝辞をラップに託し、プエルトリコ旗を振っていた、リン‐マヌエル(マニュエル)・ミランダ。原案と作詞作曲、主人公ウスナビのオリジナル・キャストをつとめたのが、彼だ。
 ラップ世代のミュージカル・マニアは、両親がプエルトリコ出身で、ルーツにメキシコも入っているというNYC生まれのラティーノ。19歳のときに創ったプロットと楽曲を幾度も練り直し、2007年オフ・ブロードウェイで開幕。翌08年オン・ブロードウェイ進出を果たし、三世代の共感を呼ぶ大成功作となった。
 2009年グラミー賞・最優秀ミュージカル・アルバム賞を受賞。CD『イン・ザ・ハイツ オリジナル・ブロードウェイ・キャスト盤』が、来日タイミングでリリースされている。(Sony Music Japan SICP-23301

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 2010
年初夏、映画化決定を受けLAでアンコール上演。日本初上陸が同年の夏で、4年後ついに日本版が完成した!というわけだ。

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 いくら普遍的な家族とコミュニティの結束がテーマとはいえ、正直、日本のミュージカル・ファンにとって、スペイン語混じりの隠しネタ満載、ラティーノ群像劇を焼き直して伝えるのって、難しいんじゃね?と思っていた。だって、劇中の「ノ・パレ・シゲ・シゲ」(※もち、プロジェクト・ウノの爆発ヒット「エル・ティブロン」のフレーズ)に喜ぶなんて、当然限られた日本人だけだろうし、配役の世代やルーツごとに使い分けられるソン、サルサにメレンゲ、バチャータ……うまく日本版で活かせるのかね?と。

 なんせLAのお客さんたちが、キューバ移民おばあちゃんの「ノ・パレ・シゲ・シゲ」に大笑いし、タクシー会社を営むプエルトリコ移民父ちゃんの差別発言に「ノ――!」と声を上げ、「酔ったチタ・リベーラ程度には踊れるよ」(※往年のラテン系有名女優)なんて台詞が、かなりウケたりしてたもんですから。
 

 でも、そんな漠とした懸念は吹っ飛びました。本質を外すことなく、日本で理解されないであろう引用や下品なスペイン語の間投詞さえも敢えて削らず、丁寧にうまく織り込んで、「キーワードを知っていたらもっと面白いっすよ〜」てな、柔軟な訳詞と演出ぶり! もともとラップの歌詞や台詞って、聞き取りにくい。それが字幕なしで、ある程度きちんと聞き取れるというのは、かなり助かります(なんちって)。

 オリジナルの設定に較べ、衣装が小奇麗でドレッシーすぎ(ほれ、いかにもラティーナっぽいピチピチムチムチ感ってあるでしょ?)、グラフィティ・ピートの振付が優美で少々違和感はありましたけど、これ以上の無茶は言いますまい。
 不器用で誠実なウスナビ役の
Micro兄さん(Def Techのメンバー、ミュージカル初挑戦なのにうまし!)、ヴァネッサ役の大塚千弘さん、美容室経営ダニエラ姐御を演じたマルシアさんが、特にオリジナルに近い味と歌唱力で、好感度大でした。LAで観たときの感興がたちまちよみがえってきたりして……。ま、LAではお客さんの一喜一憂そのものが、とっても興味深かったんですけどね。日本版の演出・振付は、TETSUHARU氏。日本語詞担当がKREVA氏だそうです。


 そうそう、プエルトリコ自慢のピラグア・アイス売り、
4年前のLA公演時の役者さんがとってもオツでした。さりげなく美声を響かせておいて、袖にハケる場面でブリッと太めのケツを振って踊る! あの粋な一瞬の仕草が大ウケしてました。もし日本版やることになったら、顔つきそっくりの“グッさん”で決まりだねー、なーんて勝手な話を交わしてたもんです。

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 さーて、せっかくの機会なので、リン‐マヌエル・ミランダの一部蔵出しコメントをご紹介しときます。
 (
2010625日、ロサンゼルスにて取材/協力:キョードー東京)


主人公のウスナビを、ドミニカーノに設定した理由は?

 「僕の育ったワシントン・ハイツ界隈では、ドミニカ系住民が多数を占め、プエルトリカンはマイノリティだった。舞台設定から、ドミニカンにフォーカスしたんだ。しかも、ただドミニカンだけ、プエルトリカンだけなんてバラバラに分断するのではなく、さまざまなルーツのエッセンスを入れた作品にしたかった。

 実のところ『イン・ザ・ハイツ』で、僕は生まれて初めてラテンの音楽を作った。それまでは『オペラ座の怪人』や『レント』が好きで、ああいうミュージカルの曲を書きたいと思っていたけど……70年代にブロンクスで生まれたヒップホップと、僕自身のルーツ音楽、シアターの音楽を混ぜたものを作ろうと思ったんだ」


クラウディアおばあちゃんには、モデルがいた?

 「キャラクターのほとんどが、脚本家のキアラ(・アレグリア・ウデス)と僕のファミリー周辺の人物のミックスだ。キアラは北部フィラデルフィアに育ち、僕はマンハッタン北部に育った。このストーリー自体が、僕たちから家族へのラヴレターみたいなもんだよね。

 おばあちゃんのモデルは、実の祖母ではなく、僕を育ててくれた乳母なんだ。うちの両親は仕事で忙しく、僕が4歳のときにプエルトリコから、父の世話をした乳母をわざわざ呼び寄せた。彼女は根っからのギャンブラーでね(笑)。毎日僕を連れてボデーガへ行き、3時間もスロットマシンをやっていた。ロトくじも毎日買っていたっけな〜。
 彼女が『イン・ザ・ハイツ』を観て、どう反応したかだって? 最初に彼女が言ったのは、あんたはこんなに私にお金をくれたけど(※劇中おばあちゃんが宝くじを当てる)、私を殺したね〜、だったよ(笑)。でも、このミュージカルが大好きと言ってくれた」


登場人物はみんな悩みを抱え、えらく恋愛下手だが?

 
 「それは、僕が好きな映画やドラマやミュージカルが、ヒューマン・ドラマだから。悪人が口髭を撫で、これから悪事が起きると予感させるストーリーではないからね。僕らは作品を創るにあたって、誰もが苦難に立ち向かう現実を描きたかった。そして、ハリウッドがラティーノをドラッグディーラーや売春婦と形容してきた事実があって、今この瞬間もそんなステレオタイプの形容を続けているわけだが……それに対して僕の描くべきは、この不況の時代にそれぞれのビジネスを抱え、苦労しながら生きる人々だと」


主人公ウスナビも、ラティーノなのに口説き下手……まさかご自身の投影?

 「ステレオタイプのイメージを壊して申し訳ないが(笑)、僕自身も彼に同じだ。みんながみんな、アントニオ・バンデラスじゃないからね。彼は、僕にとってスクリーン・ヒーローの一人だけど、『デスペラード』を観たとき、一生こんなふうに女の子に向かって喋れないと思ったよ。ラティーノでもシャイな男がいてもいい。僕はエンリケ・イグレシアスになれないし、ならなくていい(笑)」


ウスナビという名前は、ドミニカーノによくある? それとも、あのオチを狙ってつけた??

 (※劇中、おばあちゃんの歌に……「おまえの名前の由来を思い出してごらん。あんたたち一家がやって来たときのことだよ。通る船を見て、赤ん坊に名づけたんだよ」とある。続けてウスナビ、「それで、US.NAVYってわけなの?」と、つぶやく。客席、ここでネタ割れして爆笑!)

 「あれは、とってもファニーな名前だろ? でも長いこと、こんな変な命名が行われてきたらしくて、1950年代プエルトリコで書かれたある本にも、ウスマイルUS.MAILって名が刻まれているそうだ。
 実は移民局で働く友人が、ウスナビって名前の人がいるんだよ!と話してくれてねぇ。これだ!僕の作品のキャラクターに使える!と思ったんだ」

                                    ◆

 もひとつ最後に、補足情報を。2008年に生誕から50周年を迎えたミュージカル『ウエスト・サイド・ストーリー』は、翌年3月より新プロダクションを得て、ブロードウェイでリバイバル公演を行った。その際、オリジナルでも作詞をつとめたステファン・ソンドハイムが直々に指名。名匠ソンドハイムの依頼でスペイン語詞を手がけたのが、リン‐マヌエル・ミランダだった。
 半世紀も慣れ親しんだファンの中には、かえって新たなスペイン語詞に違和を覚える向きもあるようだが、さすがに時代のほうが、不自然な歌詞に改変の必要性を痛感したのだろう。

 2009年版『ウエスト・サイド・ストーリー ニュー・ブロードウェイ・キャスト・レコーディング』として、すでに日本盤CDもリリースされているので、ご参考までにどうぞ。(Sony Music Japan SICP-2294))

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追悼:パコ・デ・ルシア(2)アルヘシーラスの英雄

2014.04.08

 アルヘシーラス発、ジブラルタル行きのバスに乗ると、じき有名な銅像が窓越しに見えてくる。郷土の誇り、英雄パコ・デ・ルシア像は、19956月に建てられた。右脛から足首あたりを左腿の上に乗せてギターを弾く、あのパコ独特のポーズをとっている銅像だ。
 アンダルシア州カディス県、人口約12万のアルヘシーラス。あまりツーリストがそそられるような町ではないが、湾越しに望む英領ジブラルタルへ向かうバスのほか、モロッコのタンジェやスペイン領セウタ行きのフェリー便が出港する要衝だ。いずれの地も目と鼻の先。そんな町の港界隈は、漂着する者に対する警戒心のあらわれか、どうも気安くトイレを借りられるような雰囲気にない。旅行会社が看板を掲げているものの、どの門扉にも厳重に鍵がかけられ、かすかな緊張をはらんでいた。

パコ・デ・ルシアPaco de Lucía19471221、この港町に生まれ育った。本名、フランシスコ・サンチェス・ゴメスFrancisco Sánches Gómez。芸名は、ポルトガル人の母親の名にちなむ。ご近所さんらが皆、“ルシアさん(家)のパコPaco, el de LucíaLuzía)”と呼んでいたからだ
 近年のパコがとりわけキューバ訪問を楽しみにしたのは、ハバナ旧市街の通りに幼いころ自分が駆け回った故郷の景色を重ねていたせいだ、とも伝えられる。でも実際は幼少期のパコのほうが、現在のハバナで遊ぶ少年たちよりずっと貧しかったらしい。


 パコは
6歳で、父アントニオ・サンチェスより厳しくフラメンコ・ギターの特訓を受け、のちに長兄ラモンRamón de Algecirasに多くの技法を学んだ。12歳のとき、次兄でカンタオールのペペ(後年Pepe de Lucíaを名乗る)とのデュオ、ロス・チキートス・デ・アルヘシーラス”名義でプロ活動をスタートする。息子たちは家計を潤すため、芸の道で真剣に稼がねばならなかったのだろう。
 兄弟デュオは、60年に3枚のEP盤をイスパボックス社で録音し、62年(61年説もある)ヘレスのコンクールで特別賞を受賞。一躍脚光を浴び、63年にLPLos Chiquitos de Algeciras』を発表した。

 また60年より、ホセ・グレコ舞踊団のメンバーに抜擢されて、ワールド・ツアーに参加。全米ツアー中に知己を得た先達ギタリスト、サビーカス、マリオ・エスクデーロに触発されたパコは、伝統の枠に留まらずオリジナル曲を模索するようになったという。

  17歳にして海外プロモーターと契約したパコは、ガラ・コンサート「フェスティバル・フラメンコ・ヒターノ」でヨーロッパを巡演。当舞台には、カマロン、エル・レブリハーノ、エル・ファルーコといった歌い手が名を連ねていた。最初パコはサード・ギター、のちにセカンド・ギターをつとめる。ちなみにファースト・ギターは名手、フアン・マジャ・マローテ。録音記録も残されており、かつて3枚組LPで日本盤が出ていた。
 65年、先輩ギタリストのリカルド・モドレーゴとのデュオで、3作のLPをフィリップスで録音。当時発売された日本盤タイトルが、それぞれ『情熱のフラメンコ・ギター』、『恋のフラメンコ・ギター』とは、時代を思わせてちょっと笑える? 残る一枚が日本未発売、詩人ガルシア・ロルカの採譜による12のアンダルシア民謡を奏でた作品だった。モドレーゴとはさらにもう一枚、67年にスペイン歌謡集の録音もある。
 20歳を迎えたパコは、まさしく“伝説の始まり”を告げる初のフルアルバム『La fabulosa guitarra de Paco de Lucía』(邦題は『天才』)を放つ。カスタネット参加が2曲で、残る8曲は全編ギター・ソロ。恐るべきスピード感と音圧が、のちの片鱗を窺わせて痛快というしかない。

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 また同
67年、兄ラモン・デ・アルヘシーラスとのデュオで、日本のギター・ファンにはお馴染みのラテンアメリカ名曲集『Dos guitarras flamencas en Americalatina』を発表した。収録ナンバーは「シエリート・リンド」「アルマ・ジャネーラ」「カーニバルの朝」「ニッケの花」「シボネイ」ほか、彩り豊かな全12曲。
 69年にはソロ・セカンド『Fantasía flamenca de Paco de Lucía』(邦題『幻想』)に加え、ラモンとのデュオによるラテン名曲集第2弾『Paco de Lucía y Ramón de Algeciras en Hispanoamerica』をリリース。おまけに日本のレコード会社からの要請を受け、ラテンやコンチネンタルタンゴ、「荒城の月」までを含む世界のヒット曲集『12 hits para 2 guitarras flamencas y orquesta de cuerda』を録音している。
 幸か不幸か60年代までのわが国において、フラメンコ・ギターがラテン・ギターの範疇にあると、一般認識されていた事実は否めない。ゆえに率先してリリースに価すると判断されたのが、若きフラメンコ・ギタリスト、パコ・デ・ルシアの弾くラテン名曲集だったとしても、誰を責められよう。ジャンルの壁は、今よりはるかゆるやかで、とてもざっくりしていた。

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 以上、
60年代までのおもだったアルバムに限ってご紹介してきたが、この間、伴奏ギタリストとしての録音参加は数知れず。わけてもジャズ・テナーサックス奏者、ペドロ・イトゥラルデと共演録音した『Jazz Flamenco』(イスパボックス社/646668年録音)の実験的な作品は、完成度はともあれ、のちのパコへ某かのヒントを与えたに違いない。
 レコード会社の求めに応じ大衆路線を甘受する一方で、おそらくパコは独自のフラメンコ世界を切り拓くべく、自らの進化を決意していたのだろう。この時期は、パコにとってもうひとつの象徴的な意味をもつ。すでに拠点をマドリードへ移したパコは、69年以降77年まで“カンテ(歌)”の革命児、カマロンと共鳴し合い、8枚の重要なアルバムを紡ぐこととなるのだから……。


 さて、アルヘシーラスの風景を思い出すとき、どうしてもオーバーラップしてしまうのが、トニー・ガトリフ監督の最新作。スクリーンいっぱいにスローガンをちりばめた、
2012年の力強い映画『怒れ!憤れ!―ステファン・エセルの遺言―』の港湾シーンだ。
 いかにもガトリフらしい、映像と音楽のコラージュで描かれたこの作品には、ドキュメンタリー映像の誘導役として、主人公の少女が登場する。ウォロフ語が母語らしき少女は、仕事を求めて命からがらたどり着いたアテネで、あてどもなくさまよった挙句、不法渡航者として警察へ連行されてしまう。そしてギリシャ、フランス、スペインへと渡り歩き、似たような境遇のもとで仮の寝床に身を横たえる人々、怒りをもって立ち上がり、声を発し始めた大都市の群衆と遭遇するのだった。

 作品の背後には、「アラブの春」に始まり、2011515日、スペイン全土で巻き起こった通称「M-15(キンセ・エメ)」=INDIGNADOS(怒れる者たち)運動、続くヨーロッパ各地での抗議行動がある。ガトリフは、実際のマドリード、パリ、アテネのデモ・シーンを挿入しながら、世界人権宣言の起草にも携わった元レジスタンスの闘士、ステファン・エセル(19172013)が最晩年に記したメッセージを、観る者へ叩きつける。そして諦観と無関心に陥ることの愚かさを、ガトリフ流のやり方で糾弾する。


 ご存じ、『ラッチョ・ドローム』『ガッジョ・ディーロ』『ベンゴ』
3部作ほか、『トランシルヴァニア』など、個性あふれる作品群を手がけてきたトニー・ガトリフ監督。自身はアルジェに生まれ、父親がアルジェリア人、母親がアンダルシアのヒターナ。つねに人が移動する必然性を問いかけ、社会のはざまで暮らす者たちの存在を、独特の手法で突きつけてきた異形の監督だ。
 この映画体験で、港町アルヘシーラスのはらむ緊張の一端が、ご理解いただけるかも知れない。

 都内での上映は終わってしまったが、間もなく名古屋・大阪・山口で、年内に横浜・神戸での公開が控えている。
http://www.moviola.jp/dofun/


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posted by eLPop at 00:11 | 佐藤由美のGO!アデントロ

追悼:パコ・デ・ルシア (1) 最期の日々

2014.03.05

   2月26日、パコ・デ・ルシアの訃報が世界を駆けめぐった。幼くして天才ギタリストの名をほしいままにし、のちに神とも称され(その賛辞に、当人はほとほと嫌気がさしていたのだが)、フラメンコギターの地平を塗り替えてしまった男。とりわけ1980年末に来日した、ジョン・マクラフリン、ラリー・コリエルとの“スーパー・ギター・トリオ”は、ジャンルを越えて多くのギター・ファンに衝撃と興奮を与えた。81年のチック・コリアとの訪日セッションを含め、フラメンコ・フュージョンのひとつの形を提示したといえる。比類なき勇者へ、eLPop流の一文を捧げたい。続きを読む
posted by eLPop at 23:08 | 佐藤由美のGO!アデントロ

前口上&キックオフ・パーティ選曲リスト

2014.02.23

「GO!アデントロ」とは、何ぞや?……奥へ突き進むぜ!との決意表明(のつもり)。「Adentro」は、アルゼンチン・フォルクローレの伝統コーラス・グループが、歌い出しの合図に発する独特の掛け声。彼らの美学に敬意を表し、かく命名せり。

扱うジャンルは、我が原点のアルゼンチン・フォルクローレとブラジル音楽……を中心に、まぁぼちぼち書き進めて参ります。


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posted by eLPop at 21:06 | 佐藤由美のGO!アデントロ