Top > 佐藤由美のGO!アデントロ
INDEX - 目次
目次
【リレー実録:ケ・パソー?¿Qué pasó? 】
【日本版初上演にちなみ、『イン・ザ・ハイツ』こぼれ話を】 2014.04.18

【追悼:パコ・デ・ルシア】
【前口上&キックオフ・パーティ選曲リスト】 2014.02.23

ルス・カサル、初の来日公演迫る!――気品と知性の花

2017.05.02

 2017年5月12〜14日、スペインの国民的スターが、本邦初パフォーマンスをブルーノート東京で披露する。昨秋、四半世紀ぶりに国内盤リリースが実現し、プロモーションのため初来日。アルバム『ラ・パシオン』は彼女にとってソロ12作目、格別の思いが込められた2009年録音のラテンアメリカ曲集だ。来日公演を前に、彼女の芸歴を語る上で外せない局面、アルバム制作に至る経緯などを、彼女自身の言葉でご紹介したい。(2016年11月8日インタビュー@リスペクトレコード/通訳:高際裕哉氏)

LUZ CASAL 2.jpg

◆映画『ハイヒール』の成功がもたらしたもの
 「ピエンサ・エン・ミPiensa en mi」は、メキシコの大家アグスティン・ララが1940年前後に発表した佳品で、「口づけのとき、悲しいときにも、私のことを思っておくれ……」と歌われる。男から、去った(仲を引き裂かれた?)女へ切々と訴えかける歌だが、作者自身の美声が味わえる1943年の録音は、後年に有名トリオが演唱するメキシカン・ボレロに較べてかなり洒脱、きっぷのいい歌い口が印象的だ。
オリジナルの歌詞「口づけのときcuando beses」を、「苦しいときcuando sufras」と最初に歌い替えたのは、誰だったのか? チャベーラ・バルガスの絶唱では、「苦しいとき、悲しいときにも、私を思って……私の命を奪いたいというのなら、それでも構わない。君なくして私の命など、いかほどのものか」と続き、意味合いはいささか変わってくる。
 チャベーラ・ファンでつとに知られるスペイン映画界の奇才、ペドロ・アルモドバル監督は、1991年作品『ハイヒールTacones lejanos』(日本公開92年)で、この往年の名曲の吹き替えをルス・カサルに指名した。当然、歌詞に「苦しいとき」のほうを採用しているが、語りかける相手は、15年ぶりに再会したものの窮地に陥ってしまっている娘だ。母の悔悟、愛憎入り混じる複雑な胸の内が、「ピエンサ・エン・ミ」の歌詞に託される。母役を演ずるのは、大女優マリサ・パレデス。ご存じ、アルモドバル映画常連の一人で、83年作『バチ当たり修道院の最期』、95年作『私の秘密の花』、99年作『オール・アバウト・マイ・マザー』、2011年作『私が、生きる肌』にも出演している。
 80年代よりロック・シンガーとしてのキャリアを積み重ねてきたルス・カサルが、なぜラテンアメリカの名曲へ目を向けることとなったのか……話はまずそこから。

◆ラテンアメリカの名曲への情熱
――『ラ・パシオン』を、なぜ2009年というタイミングで録音されたのか?
LUZ アルバムは、「ピエンサ・エン・ミ(私を思って)」に始まった……そう、91年ね。録音の数日後には、いつの日かこういうスタイル、こんな雰囲気のボレロ・アルバムを一枚作りたいと思い始めていました。2009年に私が2度目の病を患ったとき、いよいよアルバムを作ろうと構想を練り、曲選びを始めたんです。(※彼女はオフィシャルサイトで、2007年と2年後の2009年、乳がんを公表している)
――選曲が素晴らしかった。もちろんスタンダード・ボレロも入っていますが、「べサメ・ムーチョ」のような超有名曲ではない。あなたらしい独特の選曲で、ラテンアメリカのいろんな国のエッセンスが入っていますね?
LUZ そのとおりね。ひとつには、私が好きな曲であるということ。二つ目は、ラテンアメリカの様々な国の作品を再紹介したかったということなんです。例えば、ブラジルの人々はボレロと縁が無いと言われているけれど、かつてはボレロの名歌手やコンポーザーがいた。チリもそう、優れたコンポーザー、素晴らしい歌手たちがいました。キューバにはさらに良い作品があるでしょうが、とにかくできるだけ違う国々の楽曲を紹介したかったのです。「べサメ・ムーチョ」はビートルズでさえ採り上げたぐらい、あまりに歌い尽くされた曲だと思う。「ある恋の物語」もそうだけれど、私には歌ってみようという興味を掻き立てる曲だったわ。「灰」は、ボレロの名曲の中にあって、近年埋もれがちだった。トーニャ・ラ・ネグラが歌うこのメキシコのカンシオンを聴いたとき、がんを患っていて、これを歌わなきゃと思ったのです。愛と落胆、壊れてしまったほかの物事が語られていて、それら異なる要素のコンビネーションこそが、このアルバムを豊かにしてくれると感じた。愛の歌だけじゃないところがね。
――アレンジャーをデオダートに指名したのは、ご自身だったのか?
LUZ 私と、フランス人プロデューサーを含む特別制作チーム全員で選びました。彼はボレロという分野において知識があり、多彩な経験をもつアーティスト。そのプロフィールを見ても、適任な人物だと思いました。
――これが、デオダートとの初仕事だったんですね?
LUZ ええ、これが最初です。私がデオダートの名前を記憶に刻んだのは、70年代の名盤『ツァラトゥストラはかく語りき』。音楽との出合いから何年も経ったのち、その彼と仕事をし、彼の横で歌うことになったわけです。ええ、私が歌うとき、彼はずっと傍らにいてくれましたよ。彼は音楽史の一時代をなす、偉大なアレンジャーですからね。
――日本盤では、その後のアルバム(※2013年作『Almas gemelas』)から2曲ボサノヴァを、ボーナストラック収録。 この2曲の軽やかさが、アルバムの色合いを、より広がりのあるものにしたと思います。
LUZ おそらく、そうね(笑)。ボサノヴァに関しては、人生で初めて歌う機会だったのよ。エウミール・デオダートの後押しがあったから。2曲はいずれも、アントニオ・カルロス・ジョビンがフランク・シナトラと録音した曲。これはスペイン人が歌う、私流のヴァージョンなんです。このブラジルの曲を録音するときに思い浮かべたのは、エリス・レジーナでした。私の人生において様々な局面で重要な意味をもつ女性たちは、順不同で……エディット・ピアフ、ジャニス・ジョプリン、ミーナ、多くのスペイン女性、そしてエリス・レジーナなの。エリスが歌っているテレビ番組を観たとき、涙が止まらなかった。ブラジルの歌い方を知らなかった私が、ボサノヴァを歌うと決めたとき、テレビ番組のエリスを思いながら歌っていたんです。

LUZ CASALジャケ写.jpg

◆ボレロが与えてくれた自由
――もともとあなたは、ロック、ポップロック、バラーダ歌手として人気がありました。「ピエンサ・エン・ミ」を録音したのは、アルモドバル監督からのオファーだったのか、それとも録音後に、映画でテイクが起用されることになったのか?
LUZ ペドロ(・アルモドバル)が、まずこの曲を映画のために使おうと考えたのです。シナリオを作る以前に、映画を撮る前に、この曲ともう一曲(※ミーナ65年の大ヒットで知られる「別離Un annod’amore」。64年ニーノ・フェレル作で、原題は「C’est Irréparable」。アルモドバルのスペイン語訳詞によるカヴァーが「ウン・アニョ・デ・アモール」)を決めていました。そして映画の撮影前に、私に声がかかったんです。それまで私は5枚のロック・アルバムをリリースしていたので、難しい課題だったけれど、結果はとても良かった。私にとって人生の分かれ道になったから。それ以降も、私は私であり続けていますが、この曲を歌ったお蔭で、より自由になれたわ。ロックに留まらない歌の世界を拡げられると分かったし、人々もそれを受け容れてくれると知ったからです。
――じゃあ、映画『ハイヒール』の歌で、初めてロック以外のジャンルにアプローチされたわけ?
LUZ そのとおり。
――ファースト・シングルを発表される前に、ラケル・メレーの生涯を描いた『Las Divinas』という音楽劇の舞台に立たれたそうですが、その頃から古い歌に接しておられたのでは?
LUZ そう、でもとても短い期間の仕事で、あの役を引き受けた理由は安心が欲しかったのと、経験を積みたかったから。77〜78年頃のことね。フランスで有名だったスペイン人女性歌手……ルーツはフランスだし、スペイン=フランスね。彼女は“クプレ”(※スペイン歌謡)の歌い手です。クプレはスペイン文化の一部ですから。でも、歌手としての私が興味をもっていたかと問われれば、必ずしもそうではない。私たちの世代は、すでにアルマンド・マンサネーロのボレロも、「べサメ・ムーチョ」にも親しみを覚えなかったわ。無理もないでしょう? 好きでなくとも知ってはいたし、歌えはしたわ。かの時代への興味はあったけれど、親世代のレパートリーよね。私のではない……私は他の音楽をやりたかったし。

◆歌詞で厳選したレパートリー
――ボレロ・アルバムの中で特に異色で珍しかったのが、マリア・エレーナ・ワルシュの「セミのようにComo la cigarra」。なぜこのカンシオンを、アルバムに入れようと思ったのか?
LUZ それを説明するのは簡単ではないわね。ラテンアメリカのレパートリーを次々に選んでいるとき、アルゼンチンと来て……アルゼンチンのボレロは、どうも私の歌としてしっくりこなかったの。そのとき、マリア・エレーナ・ワルシュが子供のために手がけた作品を思い出した。彼女はとても名声を確立した女性。非常に力強く、反逆者、レズビアンでもあった。彼女の、他者と異なる個性にずっと興味を抱いていたから、もう一度作品を聴き直して、詞の内容からこの曲を選びました。一見して愛の歌のようだけれど、そうではない。しかもこのアルバムは、決してボレロに限定したアルバムではなく、一種のミックスだから、ヴァリエーションのひとつにとてもふさわしいと思ったんです。
――つまり、あなたにとっては歌詞が、選ぶ際の重要ポイント?
LUZ 歌詞はとても大事。選んだ歌すべてにパッションがある。パッションといっても、愛そのものの情熱もあれば失った愛への情熱と、いろいろだわ。例えば「灰」にしても、これまで重ねてきた愛の記憶がすべて灰になってしまうという含みをもたせているわね。歌において音楽と歌詞はどちらも重要なのだけれど、レナード・コーエンが歌詞に重きをおくように、ボレロというジャンルも、音楽よりも歌詞のほうに少しだけ重要性があると私は思う。ボサノヴァでは逆に、歌詞よりもメロディーやハーモニーのほうに比重がおかれていると私は思っています。だから『ラ・パシオン』では、テ・キエロ、テ・キエロ(愛してる、愛してる)……みたいなありふれた歌詞は選んでいないわ。

◆フランスでの人気、日本との奇縁!?
――母国スペイン以外のヨーロッパ、特にフランスでのあなたの人気は絶大です。何か特別なブレイクのきっかけがあったのか? 勲章を授与されるくらい影響力があると聞きますが。
LUZ 人気が出たのは92年、映画の曲「ピエンサ・エン・ミ」がフランスでヒットしてから。フランスでもペドロ・アルモドバルの映画作品は、もっとも注目されてきた。その後、今に至るまで私のパフォーマンスが好まれているようだけれど、理由はよく分からない(笑)。自身がとりわけ他に優れて特別な存在と言えるほど、私は傲慢な人間ではないわ。フランスには優れた歌手がいっぱいいるのに、なぜこんなに今も支持されているのか……。
――フランスのファンは、どんな年齢層なんでしょうか?
LUZ 若い人たちから年長者まで幅広く、いろんな人が聴きに来ます。ここ数年、ダリダのレパートリーで、年上の女性と青年が恋に落ちる歌を採り上げたのが共感を呼んだみたい。他にもフランス語でジルベール・ベコーの曲を歌っていますが、キャリアにとって重要なコンサートをフランスで開催できているのは喜びです。92年から現在まで、大小の公演をずっと続けてこられているんですもの。
――フランス政府から叙勲されたのは、何年のこと?
LUZ 2007年か08年だったかしら? フランス文化人勲章ね。名誉市民としてパリ市の鍵ももらったわ。日本でも、海外の人間に鍵をくれないかしら(笑)。確かにフランスでハードワークをこなしてきたけれど、それは私の人生にとって、プロとして幸運だったわね。
――今はマドリーにお住まい?
LUZ ええ、マドリーに家があるわ。でも、今は日本にいられて幸せ! ずっとずっと、本当に日本に来たかったの。何度か話があったのだけれど、実現しなかった。彼(ディレクターの高橋研一氏)のお蔭で、やっと……。
――彼の“パシオン”で!
LUZ そう、彼の情熱のお蔭よね。やっとここに来られた。92年にセビージャで、ロック・グループの聖飢魔Uと共演したのよ(※聖飢魔U公式サイトによれば、セビージャ万博の前年、91年とあった)。
――ウソ〜!
LUZ 彼らはスペインで有名じゃなかったから、私が共演することになった。その後、訪日の話もあったのだけれど、ヨーロッパでの仕事が忙しすぎて立ち消えになってしまったの。うー、チャンスを逃した!(と、悔しがる) でも、何年も経って、私たちはここにいる。日本については、文学にも映画にもさほど知識豊富というわけではないけれど、ずーっと興味があった。日本文化がもつ特性に興味を抱いていたの。そして、プロ歌手としてチャンスが来るのをずっと待ち続けていたのよ。
(※ちなみに、昨年11月のプロモ来日から帰国したのち、彼女はエル・パイス紙に「!Viva Japón!」と題するエッセイを寄稿した。文中で、訳本を手に入れたばかりの、徳富蘆花『不如帰』読後の感銘を綴っている!)

fmgarcia_luz-casal_00013.jpg

◆故郷への恩返しと社会貢献
 現在はマドリーに暮らすというルス・カサルだが、生まれたのはガリシア州ア・コルーニャ県の町ボイモルト。彼女が幼い頃、一家はアストゥリアス州都ヒホンへ移り住み、音楽教育やバレエの基礎を身につけ、カヴァー専門のロックバンド、ロス・ファニースの活動をヒホンで開始。その後、ソロ・シンガーを目指すべくヴォイストレーニングを重ね、77年にマドリーでプロ歌手の道をスタートさせている。
 スペイン映画界の異能の人、アレハンドロ・アメナーバル監督作『海を飛ぶ夢 Mar adentro』(2004年/日本公開2005年)に挿入された、ガリシアを象徴するナンバー「ネグラ・ソンブラ」をカルロス・ヌニェス伴奏で歌っていたのも、ルス・カサルだ(※1996年録音/ロサリア・デ・カストロの詩作に1892年、フアン・モンテスが曲をつけた)。そして、彼女の故郷ガリシアとの繋がりは、どうやら今も途絶えていなかったらしい。

――生地のガリシアで、現在フェスティバルをずっと続けておられるとか?
LUZ 最初の動機は、生まれ故郷に何らかの恩返しのプレゼントがしたいと思ったからなの。パコ(※彼女のマネージャーで、マラガ出身者)と音楽による行動を起こしたいと、単独でチャリティー・イベントを考えたんです。ガリシアのフェス開催地は、ほとんど農業と牧畜だけで生計を立てているような町。そんな隔絶した土地の人々とともに、音楽のチャリティー・イベントをやっていくことに意味がある。慈善団体への連帯を表明し、そこへ利益をもたらすことに主眼をおきました。今年(2016年)で5回目ですが、年々より大きな実りを上げてきているわ。
――生まれた土地の記憶をお持ちなんですか?
LUZ ええ、フェスティバルの思い出を通して、今も生まれ故郷を体感しているわ。
PACO フェスティバル会場の中に、彼女の生家があるんだ。
――えっ!? ほ〜〜すごい! 農場持ち??
PACO 大農場なんだ。
LUZ 1万5千人が毎日集まるようなところ……2011年からね。
PACO ほら、これが今年の写真だよ。(※と、スマホで牧歌的な会場風景を見せてくれる)
――わーぉ!!!
PACO トウモロコシ畑越しに、草原の客席と特設ステージ、キャンプ用のテントが見えるだろ? これが、屋敷の中の写真だ……
――まさか、大地主の娘さん?
LUZ 私の家系は1730年から続く、ガリシアのファミリーなんです。
――うっひゃーーっ!!
LUZ 今年の収益金は、この12月にポータブル浄水器を戦地に配る活動をしているNGOへ寄付します。
PACO 第1回は、スペイン国内の癌と闘う患者と家族の団体に寄付した。そう、毎年違う団体にね。
LUZ 難病患者の団体や、被災者支援、国境なき医師団へも寄付したわね。
――出演者も、国際的なメンバーが集うわけですね?
LUZ そう、友人であるジャクソン・ブラウンが今年出演してくれたし、スペイン人ではジャズからフラメンコ、ロック、プログレ、ポップと、あらゆるジャンルのミュージシャンが参加しているわ。フェスには4つのステージがあってね。本当にたくさんの経験を重ねたわ。アーティスト招聘に協賛金集め……より良い運営のため、自分たちでたくさんの仕事をこなさなければならないけれど。
――完全にルスさんご自身が、主催者として実務をやってらっしゃる?
LUZ だって、私は経験を積んだ大人の女性ですからね(笑)。うんと幼い頃から音楽と関わってきているし。人は失敗も経験するものだけれど……人生は短い! 死を迎えるのはあっという間よ。私は音楽を通して人々と関係を築いていく人間。人々が今どんな問題を抱え、何によって人々を満足させられるかを考えるわ。歌を通して人々に話しかけるのは、良いことだと思う。だから、何が現実かを知らなければならない……この小さな世界で、歌手はたくさんの異なる世界があることを知る必要がある。そうでなければ、私は人々に対して 「世の中に苦しみや悲しみ、問題があったときは、私のことを思って」(※「ピエンサ・エン・ミ」の一節)なんて歌えない! 真に注意を払わなければいけないのよ。
――素晴らしい志ですね。フェスの正式名称は?
LUZ Festival de la Luz(ルス=光のフェスティバル)。
――パーフェクト! 希望と喜びの光ということですね。
LUZ そのとおりよ。“知ることの光”でもある。子供たちが学ぶ機会もエリア内に設けていて、詩人や科学者のトーク……映画上映や芝居のテント小屋もあるわ。
PACO 食事コーナーやマーケットも会場内にあるんだよ。農産物が並べられ、ヤギなどの動物たちにも触れられる、いかにも田舎のフェスなんだ。

 ルス・カサルのオフィシャルサイトにフェスの詳細も載っているので、興味を持たれた方はぜひチェックを! 2016年9月9〜11日開催の第5回には、ジャクソン・ブラウン、ウィリー・ナイル、リフ・ラフらが出演。スピン・ドクターズのクリス・バロンも駆けつけたそうだ。スペイン勢では、フラメンコのホセ・メルセ、ペドロ・ゲーラ、ラウル・ロドリゲス、スサーナ・セイバネ、ロック界からも多数バンドが参加。
 取材後、「日本のオルケスタ・デ・ラ・ルスは、もちろん活動中よね?」と、ずっと名前にご縁を感じていたのだろう、密かな期待を込めてつぶやいた、ルス姐さんであった。

 ブルーノート東京公演の直前より、彼女は待望2年半ぶりのツアーを再開。4月26日のトゥールーズ公演を皮切りに、年内のスケジュールが発表されている。6月9日には2016年パリ録音、没後30周年記念アルバム『ルス・カサル、ダリダを歌う』がフランスでリリース予定という。

ブルーノート東京公演
posted by eLPop at 02:38 | 佐藤由美のGO!アデントロ

ディエゴ・エル・シガーラ来日インタビュー〈2〉

2015.12.13

ベボの泉、ベボが導いた道

 1968年生まれのシガーラは、天才カンタオール、カマロン・デ・ラ・イスラの後継者の一人として、フラメンコ界の第一線に躍り出た。ソロ・デビュー作は、98年の『ウンデベルUndebel』。いかにもフラメンコで、ヒターノらしい題名……カロー語起源とのことで、神々しさの意。
 “カマロン”がエビ(小海老から車海老サイズまでを指す)なら、“シガーラ”はテナガエビ(正式名称ヨーロッパアカザエビで、イタリアのスキャンピ、フランスのラングスティーヌと同じ)。いつ頃、なぜこんな愛称を芸名にしたのか?との問いに、「若い頃よく動き回っていたので、家族や友人らからそう呼ばれるようになった」と答えている。また、「通常、フラメンコではアーティスト名を選んだり変えたりすることはないので、仕事として歌い始めた頃、シガーラと呼ばれるようになり、そのまま使い続けている」とのこと。
 まず現代のカンタオールで、革命児カマロンの影響を受けなかった者はいない。いかにカマロンの歌唱法から脱却できるかが、長らく後進らに課せられた命題だったともいえる。シガーラは、クランクアップしたばかりのドキュメンタリー映画『Calle 54』を、監督・脚本家フェルナンド・トルエバの自宅で見せてもらい、初めてベボ・バルデスの演奏に触れてたちまち“恋に落ちた”と語った。ベボとの出会いがシガーラに伝統の縛りを超える着想を与え、まろやかな独特の熟成の歌声を体得させていったのは間違いない。とまれ、インタビュー後編をお届けするとしよう。

――前作のプロジェクトはアルゼンチンがテーマだったが、次にサルサへのオマージュと決めたのには、何か特別な意図があったのか?
Cigala いや、『トゥクマンの月のロマンセ』のずっと前から、このアイディアがあった。ベボ・バルデスとも、このアイディアを語り合っていたんだよ。それでキューバを訪れ、ロス・バンバンのフアン・フォルメルとも顔合わせしていたし、そこから少しずつ構想を編んでゆき、形にしていって、何か良いテーマがあるとキープしておいた。そういう探索を、ずっと以前から徐々に始めていたわけだ。もうこの4〜5年かけて探し続けてきて、ようやっと100曲近く聴いた中から絞り込み、レパートリーが固まったんだ。もう毎晩毎晩、旅のさなかでも、『トゥクマン…』プロジェクトの間もずっと。『トゥクマン…』は、仲間と一緒に自宅で録音したんだが、かなり録音期間は短かったね。でも、『ラグリマス・ネグラス(黒い涙)』のほうが、もっと完成まで短かったな。3日間でレコーディングしたんだから。『トゥクマン…』は、集中して連日12時間、3週間かけて作った。というのも、早く録音してしまわないと、自分の気持ちが次のプロジェクトへと動いてしまうのを、どうにも抑えられなかったから。『トゥクマン…』に較べて、サルサのほうが、作業が大がかりになるのは目に見えていたし。サルサは多くのパーカッションを重ね、管楽器も入ってくる。コンガ、パイラ、ボンゴ、パルマ、ギター……もう、いっぱいね。
――あらゆる要素を積み上げていく必要があると。
Cigala もちろん! なので、敢えてゆっくり、時間をかけて作りたかった。衝動的に作ってしまうのではなく、穏やかな状態で、しかも手をかけて完璧に、満足のいくものに仕上げたい。いや、完璧は存在しないが、満足できるクオリティの仕上がりに近づけたいんだ。なぜなら、音楽にパーフェクトは存在しないからね。パーフェクトでは、グラシア(面白味)に欠ける。不完全だからこそ、面白いんだ。

――どのアルバムの選曲にも、単なる名曲尽くしでなく、独自の視点があって興味深い。選曲にあたって、何かポイントがあるのか?
Cigala クラシコ(古典の名曲)はすでにあり、誰もが知っている。だから俺は探し求める。あまり知られていないその曲が、作られた時代には何らかの形で価値を持っていたからだ。残念ながら話題にならなかった、或いは有名曲とは呼ばれなかっただけで、敢えてそこに目をつけ、見直すことに価値があると思ったからだ。あまり聴かれておらず、いわゆる有名曲ではないが、自分がそれを表に、陽の射すところに出そうというわけだ。例えば、セリア・クルスの「クアンド・デスピエルテス」は、ジョニー・パチェーコと共演したレパートリーだが、俺が歌ってみせたら、反対に(ラテン・サイドの)みんなから「それ、何の曲?」って言われたんだよ(笑)。それは、セリア・クルスがファニア・オールスターズとの時代に作られたテーマなんだが、時を経て俺が聴いて、初めて自分の中に飛び込んできたわけだね。とても感動したよ。だけど敢えて、楽曲を探す旅には出ない。探そうとすると見つからないものだからね。だから、自分のほうへ楽曲が訪れ来るのを待つ。向こうからやって来たその歌が、俺に何を見せてくれるのだろうか……という素直な気持ちでいて、自分からは決して求めたりしない。探そうとすれば、永遠にアルバム制作は終わらないからね(笑)。
――ふむ、追えば逃げてしまうわけですな。
Cigala そうそう。
――それに、あなたはフリオ・イグレシアスじゃないから、それでいいんだと思います。
Cigala アッハハハハ……セニョール・フリオ・イグレシアスは尊敬する友人だ。でも互いは、昼と夜みたいに違う(笑)。
――どちらが昼ですかね?
Cigala 俺が夜だ! ハッハッハッハ……

cigala_ts1.jpg

――確認させていただきたいことが……お生まれは、マドリードのどの地域?どのバリオ?
Cigala マドリードでもっとも由緒正しいバリオ、バリオ・ラバピエスだ。ガキの頃、アグスティン・ララ広場の、アグスティン・ララ像の周りでボールを蹴って遊んでいた。
――そこからもう、あなたはラテンアメリカと繋がってません?(笑)
Cigala そのとおりだよ。その頃すでに、繋がっていたんだなぁ、信じられないことにラテンアメリカと……。ララ像の除幕式の日に、マリアッチ楽団がやって来て演奏を披露した。ガキだった俺はメキシコ人が珍しくて、マリアッチ楽士にメキシコのコインをもらったんだよ。ちょうど今の息子(※傍らに寄り添うラファエル少年、7歳)の年齢ぐらいだったな。コインを記念にもらえない?って、声かけたんだ。
――ご家族の中にも、プロのカンタオールやギタリストがいたのか?
Cigala もちろん、父もカンタオールだったし、母方の伯父ラファエル・ファリーナも歌っていた。別の叔父たちもタブラオで歌っていたね。母も美しい声で歌が巧かったが、父がプロ活動を許さなかった……決してね。だから母が歌うのは、結婚式とかクリスマスとかの行事だけ。父が嫌がったんでね。
――昔堅気の方なんですね?
Cigala そう、古い気質と考え方でさ(笑)。

――ベボ・バルデスが、あなたにラテンアメリカの扉を開いたわけですが……。
Cigala 世界の扉をだ! まったく違う世界の扉を開いてくれた。ベボと知り合えたことは、俺にとって英雄に出会えたにも等しい。どの時代を見渡しても、彼ほど偉大な人物はいない。彼のピアノのお蔭……フラメンコギターしか知らなかった自分の世界から、ベボのピアノが新しい世界を見せてくれたのだから。あらゆる音楽に関する知識を、彼は授けてくれた。かつて自分の頭をよぎったこともないような知識まで、惜しみなく教えてくれた。アフロキューバ音楽とラテン音楽から、タンゴまで。「ソレダー(孤独)」(※カルロス・ガルデル作曲、アルフレド・レペラ作詞のタンゴ・カンシオン)とか「ラス・クアレンタ」(※ロベルト・グレラ作曲、フランシスコ・ゴリンド作詞のタンゴ)を歌うようアドバイスしてくれたのも、ベボだった。俺の声が、クルーナーにふさわしい驚くべき幅広い音域を持つと教えてくれて、だからボレロもタンゴも歌えるよと諭してくれた。自分ではまったく理解できていなかったけれど、彼の話を聞くうちに納得できてきたんだ。ベボと出会えたことは、人生最大の幸せだ。彼は音楽の天才だ。一番今、彼に逢いたいよ……。
――じゃあ、亡くなったと聞いた時は悲しかったでしょう?(※2013年3月22日、スペインのマラガで94歳の生涯を閉じた)
Cigala すごく、ものすごく……訃報を聞いたのは、『トゥクマンの月のロマンセ』の録音中だった。スタジオ入りしていて、ちょっと休憩をとるため下の階のロビーに降りてきてテレビをつけたら、ベボ・バルデスが亡くなったというニュースを見た。妻のアンパロと二人して、言葉を失ってしまったよ。その5分後に俺の携帯電話が鳴り始めて、これほどの偉大な音楽家を失ったことについて俺自身のコメントを求めてきた。なので、もういっさい電話には出なかった。ハ〜ァ、本当に苦しかったなぁ……(深い溜め息)。でも、今は天国にいるから……ほかの偉大な仲間と一緒にね。

――2000年のアルバム中の「ノ・ティエネ・ドゥエニョNo tiene dueño」という曲。その一節に……De la fuente que bebo no tiene dueño.(※俺の飲む泉に主はおらぬ)とある。その次のアルバムでは、「ベボの泉La fuente de Bebo」(※bebo=俺は飲むから、固有名詞=Bebo)に変わった。
Cigala それは、ベボへのオマージュだったんだ。収録した『コーレン・ティエンポ・デ・アレグリア』は、ベボと知り合ったばかりのアルバム。レコーディングのさなか、彼に参加して欲しいと誘って、「アマール・イ・ビビール」(※ボレロ)と「セニョール・デル・アイレ」(※グアヒーラ)を共演し、もう1曲「ベボの泉」(※ブレリーア)の歌詞をベボに捧げたわけだ。そのあと、映画監督フェルナンド・トルエバの家で一緒に夕食をとり、酒を飲みながらベボと話をした。一緒にボレロのアルバムを作ろう、とね。彼はすぐ「もちろんだ、息子よ。望むところだ、息子よ……」(※キューバ訛りで再現)ってね。それでスタジオ入りしたら、彼が言うんだ。「私はクバーノのピアノを弾くから、キミはヒターノの歌い方でやりな!」とね。その指示のまま録音を続け、『黒い涙』が3日間で出来上がった。俺はピアノと歌うなんて、なんせ初めてだったからね。たぶん、だからこそ、あれだけの作品が生まれたんだと思う。まぁ初めての経験だったし、ピアノ演奏を追いかけるのに必死で、実はいっぱいいっぱいだったがね(笑)。
――さっきのフレーズがあったので、あなたが「ベボの泉」をどんどん飲みほしているというイメージを、ずっと抱いてきたんです。
Cigala ハハハ、なるほど。ベボというお人は、まったく電撃的な刺激を与えてくれる。あのエネルギーたるや! ベボと顔を合わせていると、彼の眼差しが自分の内側に突き刺さってくるほどのエネルギーだったんだ。ベボの視線にはただならぬものがあって、情熱的。しかも紳士的で、洗練された品格を持つ人物だった。俺が何か解らないことで戸惑っていると、すぐさまそれを見抜き、まるで俺の気持ちを察しているかのように、丁寧にひとつひとつ教えてくれたものだ。たちまち察して、自分の道へと導いてくれたんだ。それがベボという人なんだよ。
――とにかく、次作を楽しみにしています。
Cigala ドミニカ、プエルトリコ、キューバ、ニューヨーク録音となるビッグ・プロジェクトだ。あ゛〜〜〜考えるだけで頭が痛いや(笑)。

 インタビュー終了後のイベント会場で、ラテン音楽との最初のコンタクトについて尋ねると、「子供の頃、ルーチョ・ガティーカなんかをよく聴いたものだが、まともに向き合えたのは、ことごとくベボのお蔭だ」と、あらためて強調していたのが印象に残る。また、eLPop幹事長(?)岡本郁生氏が挙手し、ラテンで一番好きな歌手は?と問えば、迷わず「エクトル・ラボー」と即答。
 シガーラのラテン音楽に対する“恋”は、スペインの記事で綴られていたような“戯れの火遊び”どころか、カンタオールの人生を一変させてしまう宿命的な出会いだったに違いあるまい。
 キャリア10枚目となる新作の完成が待たれるが、併せて2016年にオマーラ・ポルトゥオンドとのヨーロッパ「85」ツアーが予定されていることも、補足しておこう。
posted by eLPop at 03:40 | 佐藤由美のGO!アデントロ

ディエゴ・エル・シガーラ来日インタビュー<1>

2015.12.04

トップ・カンタオールは100%カリベーニョ!?

 15年来、醒めることなく抱き続けてきたラテン音楽に対する熱情を、初めて東京で披露したトップ・カンタオールのディエゴ・エル・シガーラ。もちろん、今や世界でもっとも広く愛されているフラメンコの歌い手だ。前回、10年前の来日公演は、愛知万博のステージ一度きり。なので、ようやっと異端児の果敢な成果に巡り合えた、との感が強い。
 11月27日、オーチャードホール公演では、独特のマイペースな大物ぶりを発揮。定刻からかなり押し気味に、ゆる〜くスタート。グラス酒(ウイスキー?)に指を浸して、はじくように床に数度垂らし、額へひと滴当てて、おもむろにグラスを傾けグビリ。
 前半のプログラムは、9作目『トゥクマンの月のロマンセ』から5曲。急遽、ピアニストがカラメロ・デ・クーバこと、ハビエル・マソー“カラメロ”に交替。フラメンコギターもディエゴ・デル・モラオに替わって、アントニオ・レイが緊急登板。ステージ上で打ち合わせしながらの、いたって長閑な進行だ。
 中盤、かつて出演経験がある都内のタブラオについてコメントした後、レイとの探るような掛け合いを愉しみ、核心フラメンコ3曲をじっくり。これで、ぐっと場内の温度が上昇した。
 後半部は、名花ロシオ・フラードやブラジルの帝王ロベルト・カルロスを讃えるナンバーを含む多彩なラテン曲で、終幕を一気に熱く濃く締め括る。とりわけ「ラグリマス・ネグラス(黒い涙)」、渾身の「テ・エクストラーニョ」の熱演たるや……フラメンコの声とラテンの名曲が、幸せな熟成の時を迎えた瞬間だったと断言していい。
 日本の制作サイドにとって、予定していたプログラム構成を唐突に、客席の反応を読みつつガラリと変えてしまうシガーラのあまりの放縦さは、おそらく勘弁してくれよ〜と言いたいほどの展開だったろう。どうやら構成は、二転三転したらしいし……まったく同情を禁じ得ない。その一方で、これぞ芸能本来の醍醐味ではないかと、腹の中で快哉を叫びたくもなる。

 公演前日の取材日。インタビュー数本を終え、いざeLPopの出番かと思いきや、夜のタワーレコード・イベントを控え、ここらで軽く飯食っておきたいとのことで、しばし待機。どうぞ遠慮なく腹を満たしてくださいな……。で、何を召し上がるのかと思えば、なんと出前の味噌ラーメン! 和食好きとは聞いておったが、よもや味噌ラーメン派とは!? (11月26日、通訳:中原理恵氏)

――なぜ、そんなに味噌ラーメンがお好きなのか?
Cigala すごく美味くて惚れた。チャーシューも味噌スープも美味けりゃ、ゆで卵も入っているしな。和食全般、寿司も刺身も大好きなんだ(笑)。
――それは、なにより。90年代に何度か来日されているとか。どんな舞踊手と来日された?
Cigala パコ・ペーニャ(ギタリスト)と来日したこともあるが、おもに舞踊の伴唱として来日したんだ。たぶんマリオ・マジャの娘、ベレン・マジャと来たな(※93年9月のタブラオ《エル・フラメンコ》出演か?)。アンヘラ・グラナドスの舞台にも、たぶん参加した。あと誰がいたっけ……ギターのロサーダ兄弟。あー、よく憶えてないが……大人数のカンパニーでの来日もあった。ギターにミゲル・リナレスが参加していたし、カンテ(唄)は俺とチャパーロ・デ・コルドバ、アントニオ・ジェジェ・デ・カディス。それから日本在住のカンタオール、クーロ・バルデペーニャスも一緒だった。
――何年だったか憶えています?
Cigala アハハハ(笑いながら、お手上げポーズ)。まだ髭をたくわえてなかった時代だよ。髪も短かったしな(笑)。
――じゃあ、あなただと判らない。
Cigala 20数年前のことだもんな。でも、すごく素敵な体験だったよ。東京の後、沖縄、大阪、京都にも行って楽しかった。
――その時に、味噌ラーメンを味わったわけか〜。
Cigala そうだよ。京都で食べたんだったけかな〜(笑)。

cigala3.jpg

――現在、ドミニカ共和国にお住まいだとか?
Cigala プンタ・カーナPunta Cana(※島の最東端)にね。カリブの暑い気候だが、目の前がビーチで……。
――パコ・デ・ルシアと似た環境!
Cigala まったくだ。息子たちの学校も近くにあり、自転車通学できる距離なんだ。学校帰りに、そのまま海へ直行できる環境でね。ドミニカの人々はみんな心温かいし、キューバの人々みたい。気質が似ているよね。だから居心地が良くて、とても過ごしやすいんだよ。
――でも、マドリードにも家をお持ちなのでは?
Cigala ああ、でもここ3年は、ほとんどマドリードの家には帰ってないね。
――寒さのせい?
Cigala 気候もあるが、今のスペインは厳しいからね。経済状況の悪化で、人々はプレッシャーを感じている状態だ。失業率が高く、大企業のオーナーだったような友人らも失職して所在不明になったり、政府内は汚職まみれだったり。そんな状況下では、負のエネルギーが蔓延しているんだよ。もちろん俺はスペイン人だし、心からスペインを愛しているけれど、この現状のままが続く限り、どうしても気持ちは離れてしまう。歌のオファーが入った時だけ、バルセロナやセビージャを訪れているが、できれば早く飛行機に乗って、ドミニカへ戻りたいと思うようになっているね。
――じゃあ、もう90%ぐらいカリベーニョ?
Cigala 完全にドミニカーノだ!(と、いきなりドミニカ訛りのスペイン語でまくしたてる)

――来日前にメール・インタビューさせていただいたが、その回答で、次のプロジェクトの話が出た。セリア・クルスとエクトル・ラボーのレパートリーを含む新作になるとか……。
Cigala そう、サルサへのオマージュだ。エクトル・ラボー、ロランド・ラ・セリエ、チェオ・フェリシアーノ、ベニー・モレー、セリア・クルス、ティト・プエンテ……サルサの偉人たちを讃えるアルバムだ。ゲストにホセ・フェリシアーノ、オスカル・デ・レオン、マーク・アンソニーを迎える。
――ひゃ〜! 素晴らしい。もう録音は終わったんですか?
Cigala まだ4曲で、5曲目にとりかかったところだよ。東京公演が終わったらプンタ・カーナに戻り、マーク・アンソニーとの録音に入る。彼もドミニカ在住だからね。彼の家で一緒にレコーディング作業だ。それからプエルトリコに行って、ホセ・フェリシアーノとの録音……「コンカボ・イ・コンベクソConcavo y convexo」をね。♪Nuestro amor es así, y al hacerlo tu y yo. Todo es mas bonito〜♪(と、歌い出す。※このヒットソングの作者はブラジル・ポップ界の重鎮、エラズモ・カルロス&ロベルト・カルロスのコンビ)
――オスカル・デ・レオンとの録音は、どこで? ベネズエラ??
Cigala 日本に来る直前、ベネズエラ公演だったんだよ。でも彼は、今マイアミ暮らしでね。残念ながらベネズエラの置かれた状況も芳しくない。だからマイアミでのレコーディングになる。おそらく来年の4月か5月には、アルバムがリリースできるだろう。で、ニューヨーク・セントラルパークでのステージを狙っているんだ……狂気の沙汰に近いけどね(笑)。
――ゲストを迎えて?
Cigala そう、すべてのアーティストたちとだ。ホセ・フェリシアーノ、オスカル・デ・レオンとは、長年友情を育んできて兄弟みたいな付き合いだし、彼らと新作で共演できるのは名誉なことだね。これだけの充実したレパートリーを分かち合えるんだから。良質の選曲だよ……エクトル・ラボーの「エル・カンタンテEl cantante」「ペリオディコ・デ・アジェールPeriódico de ayer」「フアニート・アリマーニャJuanito Alimaña」(※3曲目のみ、よく聞き取れなかったため不確実)「アチェ・イ・マチェーテHache y machete」とか。セリア・クルスの「クアンド・デスピエルテスCuando despiertes」もね。癌で亡くした最愛の妻と、夜な夜な一緒にじっくり時間をかけて、これらのレパートリーを話し合いながら選んでいったんだ。
――奥様はスペインの方だったのか?
Cigala そう、バレンシア出身だ。
――でも、あなた同様、ラテンアメリカに恋してしまった。
Cigala そうそう、むしろ彼女のほうが、俺をカリブに導いた気がする。
――ドミニカ共和国に住もうと言い出したのは、どちら?
Cigala それは、俺だ。(※2013年のことだったらしい)

 四半世紀にわたってシガーラの杖となり支えてきた、奥方アンパロ・フェルナンデスを亡くしたのは今夏、ちょうどロサンゼルス公演の幕が開く数時間前だった。8月19日、ハリウッド・ボウルにおけるシガーラ公演は、「アディオス・ツアー」中であるブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブと対バンのステージ。悲報を受け取っていた彼は、観客やマスコミへ事実を伏せたまま、LA公演を敢行した。亡きアンパロは、シガーラとの間の二人の息子、ディエゴとラファエルの母親だという。
〈続く〉
posted by eLPop at 03:31 | 佐藤由美のGO!アデントロ

リレー実録 ¿Qué pasó?〈3〉サービス満点の語り部

2015.03.25

 インタビューの本筋からどんどん逸脱し、とんでもない裏ネタを明かされることが、ごくたまーにある。殊に他人様のおもしろおかしい噂話などは、誠に罪深き所業ではあるものの、聞かされた側にとって望外のエンターテインメント! ライヴとは別に、もうひとつのオツなショーを見せてもらった気分になる。
 「録音ボタン切っとけよ、これはオフレコだからな」と前置きしたのち、この語り部は、やおら身振り手振り交えながら喋りだした。「絶対に書くなよ〜」などと言いつつ、すでに堂々公表する気合い充分。もう、四半世紀余が経過したことだし……臆面もなく、約束を破ってしまうとしよう。

 ラテン音楽界の覇者ザビア・クガート(1900―1990)が、あっちのほうでもそうとうやり手だったのは、つとに有名な話である。書類上、5回結婚したと記録されていて、最初のお相手はキューバが生んだ名花、女優・歌手のリタ・モンタネール(婚姻期間、1918〜20年)。5度目の年の差カップルと巷を騒がせたのが、テレビはじめショービズ界で活躍した巨乳(今でいう何カップ?)タレント、チャロ(同、1966〜78年)。しかし一線を退いた後も、天下のバンド・リーダーの精力は衰えなかったようである(やるのぅ)。

 「あの御仁はな、結婚の度に心臓発作起こしてな。それでも、まったく懲りないタフな男ってわけよ。引退した今はバルセロナで車椅子生活……ところが、またぞろ新しい恋人ができたってんだから、驚きよ。そのトシで、どうやってんだ?って訊いたら(※何やるのかはご想像にお任せする)……相手は20代のプロ・バレリーナ。めっぽう身体が柔軟だから、最高にうまくいくんだとよ!」

 語り部ときたら、「めっぽう身体が柔軟」のくだりで、わざわざソファから腰を浮かし、片足を高く持ち上げ、微に入り細に入りバレリーナのポーズまで解説する、度を越したサービスぶり。
 目の前で繰り広げられる強烈パフォーマンスのせいで、もうひとつ、ペレス・プラードが公演中にやらかしたという、これまた生々しい秘話のほうの中身を、すっかり忘れてしまったほど。正直に録音ボタンを切ったのが悔やまれる……(ウソ)。
 そうまくしたてた後、「おーっと、今日のオレはえらく饒舌すぎたな。これ以上喋ったら、ギャラを請求せにゃならん。あとは、オレの書いた本でも読んでくれ。じゃあな!」と言い、颯爽と立ち去った。
 残念ながら、出版されたばかりという自伝の存在や、実際そんな卑猥な逸話が綴られていたか否かについては、未確認(※職務怠慢!)。
 取材実施は、1989年8月末。インタビュアーが上田力氏で、通訳は高場将美氏。まぁ、小生は立ち合っただけですが……。当取材から19日後、噂のペレス・プラードの訃報が入り、さらにその1年あまり後、ザビア・クガートまでもがこの世を去ってしまったとは、なんと罪深きことよ……。クガートの死因は、やはり心臓発作だった。

 ステージ同様、圧巻の芸人根性とサービス精神を発揮してくれたお方の名は、ティト・プエンテ。インタビュー本編(※ラティーナ誌1989年11月号掲載)では、もちろん芸歴や音楽についても言及しているが、随所で下ネタへスイッチする、げに巧妙なスティックさばき……例えば、こんな話もあった。
 「ティンバレスに裏の意味があるの、知ってるか? エル・グラン・コンボ25周年記念のマジソン・スクエア公演に招かれたとき、4つもティンバレス・セットがあってな。そしたら誰かが、あいつは狂ってるぜ、自分のヤツも含めて5セットも叩くなんて……なーんて言いやがってよ」等々、終始この日は絶好調。

 その後、来日する度インタビューを試みたが、もはや密やかな裏ネタショーが繰り広げられる機会はなかった。目はとろんと淀み、ろれつが回らない状態……姪ミリーのサポートがなければ、取材現場に果たして姿を現したかどうかすら怪しい。ステージ・パフォーマンスこそ、衰え知らずだったが。
 ま、滅多にないチャンスを逃さずに済んだだけで、世紀のティンバレス・キングへ、あらためて感謝を捧げるとしよう。甚だ不謹慎な裏ネタではあるが、おそらくラテン界の大巨匠らの名誉を汚すことにはなるまい。ごく最近公表された某医療データによれば、老境でお盛んなのは、脳の活性化にとって誠に良きことと、立派に証明されておるらしいし……。
posted by eLPop at 02:32 | 佐藤由美のGO!アデントロ

リレー実録:ケ・パソー?¿Qué pasó? 〈1〉新幹線に乗りたかった男

2015.03.14

 編集屋稼業に携わっていた頃、締め切り間際の深夜にかぎって、よく怪しげな国際電話がかかってきたものだった。ええ、昔はこういういきなりなコンタクト攻撃が、ままあったんす……。
 とある夏の真夜中にかかってきた電話のぬしは、物腰柔らかそうな男声。
「そちら、L社かぃ?」
 どうやら、雑誌奥付の番号を見ながらかけたらしかった。
「今度、キミらが、オレを日本に呼んでくれるんだって?」
 ……へっ!? あいや旦那、勘違いもいいとこですぜ。呼び屋さんは、別のM社ですぜと、説明するも、相手はまだ日本に行ける喜びを、今この瞬間、どうしても語りたいらしく思われた。
「ねぇ、日本に行ったら、新幹線に乗れるかな〜ぁ」
 ……って、あーた! ま、大阪公演の噂もあることだし、「たぶんね」と、笑いを噛み殺しながら返す。しかしやはりひと言、ここらで釘をさしておいたほうがよかろう。
「国際的アーティストのあなたが、なんでこんな時刻に日本へ電話してくるわけ? 時差って、知ってる? 今、こっちは午前3時半ですよ!」
 男はそんな現実を突きつけても、めげなかった。ニヤニヤ声で、なにやらもっと喋りたそう。やむなく、徹夜作業といいながら痛飲した挙句、デスク下でぐっすり惰眠をむさぼる上司を、叩き起こしてやることにした。「ほーれ、とっとと起きんかぃ! 国際的なスターから電話だよ」と。当のスターと寝ぼけまなこの上司は、その後もくだらん国際通話に興じ、ゲラゲラ笑いしながらしばし歓談を続けていた。

 その大物アーティストが、契約書をきちんと熟読していなかったのは、日を見るより明らかである。もしくは、その時点でまだ、正規の契約書を交わしていなかった可能性も考えられる。また、契約交渉に同行した人物が相手側の信用を得るべく、アーティスト本人の紹介記事が載った雑誌を手渡したことも、おそらく誤解(確信犯?)の原因だったと推察されよう。まぁつまり、憶測の域を出ないわけだが……。
 実はこのアーティスト、L誌の前身であるCh誌時代より、長らく通信員をつとめていた日本人バンドネオン奏者(!)I氏とは、昵懇の仲だった。I氏は、名門タンゴ楽団の中南米ツアー途中で立ち寄った大都市ニューヨークに腰を落ち着け、長年にわたり演奏活動を続けていたのである。仕事の合間、折しも熱い火花を散らしていたサルサへのシンパシーを抱き、ミュージシャンたちとの交流も密だったという。クラブ仕事を終えて、しばしばI氏出演中の店で、食事したり和んだりする有名アーティストらの姿があったと聞く。深夜の国際電話のぬしも、その一人だったのだ。

 この男こそ誰あろう、1987年12月、かのファニア・オール・スターズ公演以来、11年ぶりに来日したウィリー・コロン!
 国際電話から数ヵ月後、めでたく再来日を果たした彼と、初めて対面した。インタビューのため用意された部屋は、高級ホテルのスウィートルーム。取材約束から3時間もロビーで待機させられた後、黒塗りのハイヤーでホテル正面玄関に降り立ったウィリー・コロンは、あの垂れ目で、あろうことか「ごめんよ、1時間半も道に迷って、ホテルを探しちまってさ〜」と、のたまった。またしても出た、時間差攻撃!
あいや旦那……残りの1時間半は? ひょっとして電器屋街訪問だったんではねーですかぃ?     (完)


★北陸新幹線開業にちなみ(?)『リレー実録:ケ・パソー?』を、おっぱじめるとする。当新企画は複数の書き手がリレーの形をとり、実体験に基づく逸話をご紹介していく。表題『¿Qué pasó?』には、なんだ? なんですと〜?といったニュアンスがある。果たしてどんな裏話が飛び出しますやら……。
次回は、高橋めぐみが相つとめまする。
posted by eLPop at 02:52 | 佐藤由美のGO!アデントロ