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【リレー実録:ケ・パソー?¿Qué pasó? 】
【日本版初上演にちなみ、『イン・ザ・ハイツ』こぼれ話を】 2014.04.18

【追悼:パコ・デ・ルシア】
【前口上&キックオフ・パーティ選曲リスト】 2014.02.23

リオ・サンバの貴公子、80歳のツアーがスタート

2023.05.26

昨年、80歳を迎えるにあたってMPB(ブラジリアン・ポピュラー・ミュージック)を代表するシンガー・ソングライターの一人、ミルトン・ナシメントが国内外でラスト・コンサートを行ったのは記憶に新しい。

そして、今しも「80歳のツアー」と題しブラジル諸都市公演をスタートさせたばかりなのが、サンバの貴公子ことパウリーニョ・ダ・ヴィオラ。すでに5/14サンパウロ@MIMO Festival、5/19レシーフェ@Teatro Guararapes、5/21マセイオ@Teatro Gustavo Leiteとツアーは進み、これから6月リオ2公演、クリチーバ、7月ベロ・オリゾンチ、バイーア州トランコーソ、8月フロリアノポリス、ジョアン・ペソアときて、11/25首都ブラジリアで幕を下ろす。

Paulinho da Viola 80 Anos

https://www.youtube.com/watch?v=whj4fY9zjzQ&t=60s


ジルベルト・ジル、カエターノ・ヴェローゾ、ミルトン・ナシメントとともに黄金世代と呼ばれる1942年生まれ(※ソングライターではないが故ナラ・レオンも同い年)のパウリーニョだが、柔らかな歌い口のサンビスタには微塵の衰えすら窺えない。派手なアピールや時代に応じた変化など必要とせず、確固たるサンバ哲学を貫いてきたからだろうか。お元気で何より〜♡♡♡

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posted by eLPop at 19:00 | 佐藤由美のGO!アデントロ

バハグニ、ホジェー

2023.04.03


◎「バハグニ/ショート・ストーリーズVol.2」

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桜のシーズンに近場の公園をほっつき歩いていると、数年に一度なぜか橋の上で懐かしい人と遭遇する(ちと意味不明)。今シーズン再会したのはフラメンコ界の某重鎮。会うなり「バハグニいいよね。ハッとするものがある…」と目を輝かせていた。国内盤リリースは昨年末と紹介が遅れたけれど、アルメニア生まれロサンゼルス育ちのフラメンコギタリスト会心の最新作に間違いない。

Vahagni feat. Ara Malikian “Imen Dunis” by Sayat Nova

https://www.youtube.com/watch?v=z8H0is1CP1g

18世紀アルメニアで“歌の主”と称されたサヤット・ノヴァ作品が、フラメンコの薫風を孕む。スペイン在住アルメニアン、ヴァイオリン奏者アラ・マリキアンを迎えたアルバムの1曲目。


◎「ホジェー Rogê/クリマン Curyman」

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ロサンゼルスに活動拠点を移して間もないリオ発サンバ・ソウルの雄が放つ、待望の新作。大先輩ジョルジ・ベンジョールを意識したような音作りも随所に盛り込みつ、アフロ色の中に懐かしさと新味が共存。異色のスロー・ボッサも小粋な、そそられるアルバムの完成だ。

「2月はこれだ」目次に戻る
http://elpop.jp/article/190261244.html
posted by eLPop at 13:24 | 佐藤由美のGO!アデントロ

ヤヌシュ・プルシノフスキ――埋もれた鄙の“マズルカ”を再興させたヒーロー

2019.07.13

 6月9日〜13日、日本・ポーランド国交樹立100周年記念事業の一環で初来日ツアーに臨んだ、ヤヌシュ・プルシノフスキ・コンパニャJanusz Prusinowski Kompania。彼らグループが次々と繰り出す音は、ポーランド農村部にからくも温存された舞曲“マズルカ”の豊かなバリエーションだ。その純度の高い演奏と歌はエネルギッシュで野趣たっぷり。ときに哀愁を帯び、素朴な笑みを湛えるように逞しく美しい。ある種の洗練さえ感じさせるアンサンブルの完成度なのだが、余分な加工や脚色を排した潔い姿勢には、鄙の伝統に対する熱き敬意があふれていた。
 来日前に最新CDを一聴して、たちまち思い浮かんだのが……ブラジル北東部ペルナンブーコ州、内陸のサトウキビ農園地帯で受け継がれる民俗芸能。 “マラカトゥ・フラウ(農村のマラカトゥ)”や“ココ”に“シランダ”、演劇性を帯びる“カヴァロ・マリーニョ”を現代に蘇らせたバンド、メストリ・アンブロージオのサウンドだった。むろん両者はリズムに言語、文化背景さえまったく違う。同じ1990年代の伝統再興ムーヴメントとはいえ、某かの連動や接点があろうはずもない。
 それでもやっぱり、ヤヌシュと仲間たちの朴訥な歌と演奏、とりわけ一部の賑やかなレパートリーを聴くと、どうしてもメストリ・アンブロージオの記憶が甦ってしまう。農村マズルカ(※英語でruralと説明していたから、農村部の…の意で間違いない)で主に音頭を取るのは、フィドル(民俗ヴァイオリン/ポーランド語でスクシェプツァskrzypce)。かたやメストリ・アンブロージオの音頭取りは、ハベッカ(ヴァイオリンの原種にあたるレベック)。歌手やメロディー楽器がコール&レスポンスをユニゾンで展開していくところなんぞも、実にそっくりで……やがて全土の若い世代を踊りの輪へ巻き込む点でも共通している。
 ポーランドで生まれヨーロッパを席捲した3拍子の舞曲マズルカは、19世紀にワルツやポルカ、ショティッシュなどとともに中南米諸国のサロンで大流行した。仏語圏マルティニークでは、20世紀にもたらされクレオール化した8分の6拍子のマズルカが今もポピュラーな存在だ。また、中米ニカラグア北部にもインスト音楽のマズルカが定着していると、90年代にカルロス・メヒア・ゴドイ御大が教えてくれた。
とまぁ、eLPop読者諸氏を喚起せんと、いささか我田引水に過ぎる前置きだが……埋もれかけた鄙の伝統を地道な活動で再興させていく謙虚な音楽家の話には、心揺さぶられる説得力があった。少年期のショパンを夢中にし、あまた作品の源となった農村マズルカ……その現シーンを牽引するヒーローへのインタビューに、しばしお付き合いいただきたい。(2019年3月20日/通訳:染谷和美氏/取材協力・写真提供:THE MUSIC PLANT)

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◆「マズルカは基本的に3拍子」というけれど…
――マズルカと総称されるスタイルには複数のバリエーションがあるとか。大別して3種と聞くが?
ヤヌシュ(以下) マズルカは、ポーランドで“マズレクmazurek”と呼ぶ舞曲で、歌入りの曲もある。様々なスタイルがあって、スロー種の“クヤヴィアクkujawiak”や“オベレクoberek”“マズレクmazurek”などがある。でもね、同時に土地ごとに異なる呼び名があって、ポドルズネ、ポドルズニャク、オクロングウェ……(※以下聞き取れず)等々、ものすごくたくさん名前があるんだ。
――いったい幾つぐらい呼び名があるの?
 誰も数えられないね(笑)。というか、誰も意識せずに演奏しているから。それぞれ違うメロディーとスタイルがあるので、各々の違いを識別するために便宜上名前を付けているだけなんだ。だから特にスタイル名という感じではない。例えば、メロディーの頭だけ歌ってみせて、「誰それが好きだった曲!」という風にリクエストする。「結婚式で教会に向かう時の曲!」とか、そういう憶え方なんだよ。それら多様なすべてをひっくるめて“マズレク”なんだ。
――最新CD『『In the footsteps』の中で、「オベレク from 〇〇」と書かれているのは、人名?
 そう、教わった人の名前を指している。個人から直接習った場合もあれば、録音物から採った場合もある。それは、マスターが誰であるかを忘れないために記しているんだ。
――では、その曲はマスターのオリジナルということ?
 いや、マスターによっては俺のメロディーだということもたまにあるが、普通はその人も他の誰かから教わり、それ以前も別の誰かからというように、世代間で受け継がれてきた伝統なんだ。で、その特徴的な節回しはつねに変化していく。例えばアルバムの最初の曲「オベレク from ピョートル・ガツァPiotr Gaca」。この人物は2年前、89歳で亡くなった。90歳の誕生日を迎える準備をしていたのに、その直前に他界してしまったんだよ。彼はとってもキュートなミュージシャンでね。同じ曲を隣人のスタイル、あるいは他のミュージシャンのスタイルでと、個性あふれる多彩な演奏法を弾き分けて再現できる人だった。
――ピョートル・ガツァ氏はフィドル・プレイヤー?
 そうだよ。彼はいろんなスタイルの装飾音に奏法、それぞれの個性を記憶して真似ることができて、もちろん自分の流儀も持っていた。彼と彼の弟が、まさに農村マズルカの2大巨匠と言える存在なんだ。滅多に二人が一緒に演奏することはなかったんだが、共演すると1曲目はもう最高! でも2曲目には喧嘩が始まってさ。「もうやってらんない!」と言い合いになって、やめちゃう(笑)。「お前が間違ってる」「いや、お前が……」ってね。つまりね、人によって同じ曲でもいかに違う演奏か、ってことなんだ。それぞれが異なるテイストを保って演奏しているわけだよね。で、僕らとしては、つねに教えてくれた人の個性を活かして演奏したいと考えている。と同時に、僕らならではのスタイルを伝えたいとも念じているわけなんだ。
――マズルカのそれらバリエーションは、特定の地域に集中しているのか?
 全土的なものだが、もちろん地方性はある。特に南部山岳地域のスタイルは、他とはまったく違うものだね。中央部マゾフシェの人々は、「私は“マズル”」と言い、「私は“マゾフシェ”生まれ」と言う。彼らがやる音楽すべてを、“マズレク”と呼ぶわけだ。
――マズルカ(マズレク)のリズムは基本3拍子で、アクセントの付け方がいろいろだという。でも、CDを聴くと……必ずしも2拍目か3拍目にアクセントがあるとは限らないような??
 そこは、皆さんに訊かれるところなんだが(笑)……喩えてみれば、マズルカのリズムは球体のようなものなんだよ。歌詞と歌、ダンスと肉体が一つになっていて、すべてが揃わないと理解できないんだ。昔々、フィドラーは単身、結婚式などの宴に乗り込んだものだった。ドラムスやベースのようなリズム隊は、マズルカを踊れる人なら誰でも演奏できちゃうからね。で、基本的にグルグル回るダンスだから、パートナーとの掛け合いで一体となりながら、コミュニケーションによって生じる自然なステップのアクセント、身体の動きが、そのままマズレクのリズムになっている。それを太鼓の音に置き換えようとすると、かえってややこしくなるんだ。(※と、まずはソロで踊ってみせ、続いてマネージャーと組み自然に生じるアクセントのポーズを披露してくれる) 僕はリズミカル・アニマルだから、踊りながら説明するのがだんだん面白くなってきたよ(笑)。次に、具体的にメロディーに乗せてみるね(※と、旋律を口ずさみながら両手で別個のビートを机叩きながら示す)……ほら、自然にポリリズムが成立していくんだ。

◆固有の舞曲マズルカの成り立ちについて…
――これら固有の音楽がポーランドで生まれたのは、何世紀ぐらいだったと言われているのか?
 難しい質問だ。16世紀にはろくな録音が残っていないから……あ、もちろんジョークさ(笑)。フォークミュージックはいずれにせよ、書かれなかった音楽だからね。記録に残されたたぶん最古のものが「フミエルのウエディングソング」で、未だに歌われ続けている。“フミエルchmiel”とは、ビールの原料の“ホップ”のことだ。シンボリックな結婚式のためのこの唄が、譜面に表されたものではないが、たぶん記録としては一番古い。15世紀のヨーロッパで、すでに“ポーリッシュ・スタイル”ともいうべきメロディーとリズムが発生していたそうだ。僕自身はそのことを、スカンジナビアの友人から教えてもらったんだけどね。スウェーデンとポーランドによる共同作業で、ルーツ探しの研究を試みたんだ。(※と言いながら、2016年作品『Polska Dance Paths』DVD+CD+ブックレットを紹介してくれる)
――ヤヌシュさんが共同で制作されたの?
 僕もディレクターの一人で、もちろん僕のバンドも参加しているよ。両国それぞれの特別な音楽チームをオーガナイズし、呼応する4つの曲を集めて、伝統の出合いという主旨を8曲で提示したんだ。
――それだけ、両国は密接な関係なわけ?
 同じ王のもと、統治された時代もあったくらいだからね(※16世紀末)。15〜16世紀、ポーランド固有のスタイルがヨーロッパへと広まっていった。中世の終わりからルネサンス初期には、スローダンスの潮流が4拍子から3拍子に代わっていくが……ドイツ式とポーランド式で、変化の仕方に明らかな違いが表れる。ドイツ式は4拍子を3拍子の中に均等に押し込んだ感じ。一方のポーランド式は、タタタッター|タタタッター|というスタイル。これが、シンプルなマズルカなんだ。ショパンをはじめ、ピアニストが弾くマズルカのスタイルだ。この違いはね、ポーランド語のアクセントから来たものなんだよ。歴史的なこのスタイルはヨーロッパ中に広まり、バロック組曲には必ずポロネーズが入るようになった。“ポロネーズ”とは、“ポーリッシュ・ダンス”の意。“ポルスカ”もまた、ポーリッシュ・ダンスを意味する。舞踏会の最初に演奏され、さぁ踊りましょうと人々を促すのが“ポロネーズ”だった。宮廷で皆が出て来ておじぎをし、踊り始めるのにぴったりのリズムだったわけ。以来、ポロネーズはヨーロッパ文化としてすっかり定着して、なかなかポーランド起源だとは認識されにくくなったんだろうけど。遡ると、そういう歴史なんだ。一方、マズルカのほうはテンポが速いけれど、基本的なリズムはポロネーズと同じと考えていい。
――では、やはりマズルカも、宮廷から庶民へと波及していったのか?
 そう言い切るのは難しいかな。人々の間に広く普及していた……言語同様、宮廷でも村々でも、身分と関係なしに。19世紀の偉大な音楽史家が、ポロネーズやマズレクが、あらゆる階級で踊られていたと記している。つまり、皆のためのダンスミュージックだったということだ。

◆ヤヌシュ・プルシノフスキ、かく農村マズルカと遭遇す…
――あまり聴かれなくなっていた農村マズルカと、あなたはどんな運命的出合いを果たしたのか? 探索の旅の始まりを聞かせて欲しい。
 実は、僕も農村の出身なんだ。ワルシャワの北にあるムワヴァMlawaという村で生まれた。両親は農業を営んでいて、今も僕は生家に住んでいる。今となっては、村というより町なんだけどね。世界的に都市化が進み、自分が町へ出て行かなくても、気づいたら町がこちらに迫って来て、村は町になっていた(笑)。僕自身も、ジャガイモ掘りや麦刈りを手伝っていたものさ。村では皆が集まって作業し、互いを大切にしていた。のちに僕が出会うような農村のミュージシャンたちの暮らしと、さほど変わらなかったよ。でも、僕の故郷の地域では、あまりマズルカが盛んじゃなかったんだ。両親はよく歌っていたけれど、クレイジーでポリリズムもありのマズルカじゃなかったな。十代の頃、フィドルを演奏していたんで、インプロヴィゼーション用に参考となる音楽はないかと探していたんだ。両親からアコーディオンを習い、耳で覚えた唄を歌い始めて……それが、12歳の頃。ギターを手にしてからは、ブルース、ジャズにロックンロールなど、友達と即興できる音楽を弾くようになっていった……なんとなく想像できるでしょ?
――えー、お生まれは何年?
 1969年生まれで、今50歳。この半世紀で、世界は大きく変化したもんだよねぇ……
――豊かな農村音楽と出合い、あなたは聴いて演奏するだけに留まらず、行動を起こした。仲間を集め、ダンス・コンサートやワークショップを開き、フェスティバルへと拡大させていく。その時、あなたが掲げた理念みたいなものがあったら教えて欲しい。確たる使命感をもって始めたの?
 うん、さっきの質問の答えの続きから……ポーランドでコミュニスト政権が終焉を迎え(※1989年9月7日)解放されたため、世の中が自由の気風にあふれていた。そのしばし後、村々のミュージシャンがマズルカを即興演奏しているのを聴いたんだ。それで、ワ〜オ!世界の音楽の中にずっと探し求めていたものが、ここにあったじゃないかと気づかされたんだ。これこそが自由であり、ブルースでありロックンロールだと……。僕の追い求めるものがここから発展させられるし、実現できるんじゃないかと思ったんだ。それが93年のことだった。それに、僕が子供の頃、音楽のクオリティを求めコンポーザーを目指していたことも思い出したんだ。とにかく自分の追い求めていた欲しいものすべてが、ここにあった。だから、まず自分が習うことから始めた。むろん未だ勉強中だけれど……長いこと弾けていないチューンもあるからね。いくらでも楽曲はあって、まだまだ学び続けるべきことがあるんだ。
――なるほど。
 僕が望んだのは、農村マズルカという音楽宇宙を、現代社会に取り戻すことだった。90年代には、まるで捨て石のような扱いを受け、世の中で忘れ去られていたから。当時の我々は、アメリカン・カルチャーのコピー漬けだったからね。中には良いコピーもあったが……本当の宝を自分たちが持っていることに、まったく気づいていなかった。よもや、その持ち主であるマスターたちが、ワルシャワから100キロほどの距離に住んでいたとは。僕は彼らから学び始めると同時に音楽イベントを主催し、農村から彼ら音楽家たちを招いてはバンド演奏をし、ダンスの伴奏をすることにしたんだ。そうすると、マスターたち自身も自分らの価値というものを認識し始めるだろ? イベントを始めて以来、徐々に徐々にこの関係性を取り戻し、それが定着していくにつれ、若者は家族をはじめ年長の音楽家に質問し、世代間を隔てていた繋がりがようやく戻ってきたんだよ。
――つまり、それまでマズルカが、特に注意を払われることはなかったと?
 92年の時点で、ワルシャワでポーランド音楽を聴けるところなんてなかったよ。グローバル都市にポーランド音楽の居場所はなかったね。若い音楽家がマズルカに親しむことなんて、まずあり得なかったんだ。
ヨアンナ(マネージャー&ダンス担当) 私が思うに、マズルカ・フェス(※2009年「マズルカ・オブ・ザ・ワールド・フェスティバル」としてスタートを切った)を除けば、今の首都にだって夜ごと聴けるところなんてないわ。状況はさほど変わっていない。7〜8年前ですら、ポーランド音楽を踊れる場があるなんて、人々は知らなかった。ワークショップもあるよと言われ、「そもそも、その踊りって何なの?」って感じだったのよ。フォークソング・フェスだとは聞いていたけれど、ステージと客席に分かれて体験するような普通のライヴだと思い込んでた。でも、コンパニャのフェスは違う! ステージの出演者も客も入り乱れて、一緒になって踊る。そういうものだとは、私たちですら当初は知らなかったの。(※今やその彼女が、コンパニャのマネージャー兼ダンサーで、管楽器担当ミハウ・ジャクMichal Zakの奥さんだ!)
 連日テレビ・ショーで紹介されるとか、そういう普及の仕方とはまったく違うからね。だけど、今となっては、農村マズルカはポーランド文化の中の“生きた”一部になり得たと思う。こんな逸話もあるんだよ……96年、僕らはヨーロッパをヒッチハイクで回り、ストリートで演奏していたんだ。ある日、パリのノートルダム近くで演奏していたら、ポーランド・ナンバーのバスが停まって、ポーランド人の学生たちが降りてきてさ。僕らの演奏を聴きながら、そのうち一人が尋ねてきたんだ。「これはアイリッシュ・ミュージック?」ってね(笑)。つまり、そんなところから僕らはスタートしたわけだよ(苦笑)。
――うーむ……
 僕としては、出合って以来ずっと愛し、より深く知ろうと努めてきた、かくも素晴らしい音楽や人々、そのストーリーが拒絶され、世界の商業的な何物かに取って代わられてしまっているというのは、あまりにも残念で恥ずかしいことだと思うんだ。だから、僕らのワークショップでは、何も知らない状態の若い人々にまずは演奏やダンスをトライしてもらい、例えば「キミのお祖父ちゃんやお祖母ちゃんに、マズルカの話を訊いてごらん?」と促すようにしている。
――もはや、社会的な活動ですね。
 ヤー、人にはコミュニティ、コネクション、それぞれ愛やストーリーがあり、家族がある。音楽とは、それらのてっぺん、山の頂に存在するものなんだ。

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www.januszprusinowskikompania.pl/en/portfolio-items/in-the-footsteps/
◎最新アルバム収録曲の詳細は、上記オフィシャルサイトで(※英語版あり)。前述のピョートル・ガツァはじめ、土地の伝統を繋いできた真のマスターたちの尊顔も拝める。2008年作『Janusz Prusinowski Trio/Mazurki』、2010年作『同トリオ/Serce』、2013年作『同トリオ/Po Kolana w niebie (Knee-Deep in Heaven)』の紹介コーナーも参照されたし。
www.mplant.com/
◎日本語解説付き、2019年4月14日発売の来日記念盤『ヤヌシュ・プルシノフスキ・コンパニャ/フットステップス』は、上記サイト「CD SHOP」より入手可能だ。

◎来日メンバーの担当楽器
☆ヤヌシュ・プルシノフスキJanusz Prusinowski:ヴォーカル、フィドル(ポーランド語でスクシェプツァskrzypce)、ポーリッシュ・アコーディオン(ハルモーニアharmonia)、ハンマー・ダルシマー(ツィンバウムcymbaum)
☆ピョートル・ピシュチャトフスキ Piotr Piszczatowski:バラバン・ドラムbaraban、フレイムドラム(ベンベネクbe,benek)、他
☆ミハウ・ジャク Michal Zak:木製フルート、クラリネット、サックス
☆シュチェパン・ポスピェシャルスキ Szczepan Pospieszalski:トランペット
☆マテウシュ・コヴァルスキ Mateusz Kowalski:バセトラ(basetla)、ダブルベース、他

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https://coldwar-movie.jp/
◎2019年6月28日より随時、全国で上映中、パヴェウ・パヴリコフスキ監督作『COLD WAR あの歌、2つの心』冒頭に、農村マズルカの歌い手や貴重な楽師の姿が登場する。時代に翻弄されながらも運命の出会いと別れを繰り返す、哀しき男女のストーリー。印象的な唄「オヨヨー♪」の魅力もさることながら、冷戦期に発足した民俗芸術団(※劇中のモデルは、かの有名な“マゾフシェ”)の内実なども織り込まれた、珠玉のモノクローム作品だ。
posted by eLPop at 03:57 | 佐藤由美のGO!アデントロ

ルス・カサル、初の来日公演迫る!――気品と知性の花

2017.05.02

 2017年5月12〜14日、スペインの国民的スターが、本邦初パフォーマンスをブルーノート東京で披露する。昨秋、四半世紀ぶりに国内盤リリースが実現し、プロモーションのため初来日。アルバム『ラ・パシオン』は彼女にとってソロ12作目、格別の思いが込められた2009年録音のラテンアメリカ曲集だ。来日公演を前に、彼女の芸歴を語る上で外せない局面、アルバム制作に至る経緯などを、彼女自身の言葉でご紹介したい。(2016年11月8日インタビュー@リスペクトレコード/通訳:高際裕哉氏)

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◆映画『ハイヒール』の成功がもたらしたもの
 「ピエンサ・エン・ミPiensa en mi」は、メキシコの大家アグスティン・ララが1940年前後に発表した佳品で、「口づけのとき、悲しいときにも、私のことを思っておくれ……」と歌われる。男から、去った(仲を引き裂かれた?)女へ切々と訴えかける歌だが、作者自身の美声が味わえる1943年の録音は、後年に有名トリオが演唱するメキシカン・ボレロに較べてかなり洒脱、きっぷのいい歌い口が印象的だ。
オリジナルの歌詞「口づけのときcuando beses」を、「苦しいときcuando sufras」と最初に歌い替えたのは、誰だったのか? チャベーラ・バルガスの絶唱では、「苦しいとき、悲しいときにも、私を思って……私の命を奪いたいというのなら、それでも構わない。君なくして私の命など、いかほどのものか」と続き、意味合いはいささか変わってくる。
 チャベーラ・ファンでつとに知られるスペイン映画界の奇才、ペドロ・アルモドバル監督は、1991年作品『ハイヒールTacones lejanos』(日本公開92年)で、この往年の名曲の吹き替えをルス・カサルに指名した。当然、歌詞に「苦しいとき」のほうを採用しているが、語りかける相手は、15年ぶりに再会したものの窮地に陥ってしまっている娘だ。母の悔悟、愛憎入り混じる複雑な胸の内が、「ピエンサ・エン・ミ」の歌詞に託される。母役を演ずるのは、大女優マリサ・パレデス。ご存じ、アルモドバル映画常連の一人で、83年作『バチ当たり修道院の最期』、95年作『私の秘密の花』、99年作『オール・アバウト・マイ・マザー』、2011年作『私が、生きる肌』にも出演している。
 80年代よりロック・シンガーとしてのキャリアを積み重ねてきたルス・カサルが、なぜラテンアメリカの名曲へ目を向けることとなったのか……話はまずそこから。

◆ラテンアメリカの名曲への情熱
――『ラ・パシオン』を、なぜ2009年というタイミングで録音されたのか?
LUZ アルバムは、「ピエンサ・エン・ミ(私を思って)」に始まった……そう、91年ね。録音の数日後には、いつの日かこういうスタイル、こんな雰囲気のボレロ・アルバムを一枚作りたいと思い始めていました。2009年に私が2度目の病を患ったとき、いよいよアルバムを作ろうと構想を練り、曲選びを始めたんです。(※彼女はオフィシャルサイトで、2007年と2年後の2009年、乳がんを公表している)
――選曲が素晴らしかった。もちろんスタンダード・ボレロも入っていますが、「べサメ・ムーチョ」のような超有名曲ではない。あなたらしい独特の選曲で、ラテンアメリカのいろんな国のエッセンスが入っていますね?
LUZ そのとおりね。ひとつには、私が好きな曲であるということ。二つ目は、ラテンアメリカの様々な国の作品を再紹介したかったということなんです。例えば、ブラジルの人々はボレロと縁が無いと言われているけれど、かつてはボレロの名歌手やコンポーザーがいた。チリもそう、優れたコンポーザー、素晴らしい歌手たちがいました。キューバにはさらに良い作品があるでしょうが、とにかくできるだけ違う国々の楽曲を紹介したかったのです。「べサメ・ムーチョ」はビートルズでさえ採り上げたぐらい、あまりに歌い尽くされた曲だと思う。「ある恋の物語」もそうだけれど、私には歌ってみようという興味を掻き立てる曲だったわ。「灰」は、ボレロの名曲の中にあって、近年埋もれがちだった。トーニャ・ラ・ネグラが歌うこのメキシコのカンシオンを聴いたとき、がんを患っていて、これを歌わなきゃと思ったのです。愛と落胆、壊れてしまったほかの物事が語られていて、それら異なる要素のコンビネーションこそが、このアルバムを豊かにしてくれると感じた。愛の歌だけじゃないところがね。
――アレンジャーをデオダートに指名したのは、ご自身だったのか?
LUZ 私と、フランス人プロデューサーを含む特別制作チーム全員で選びました。彼はボレロという分野において知識があり、多彩な経験をもつアーティスト。そのプロフィールを見ても、適任な人物だと思いました。
――これが、デオダートとの初仕事だったんですね?
LUZ ええ、これが最初です。私がデオダートの名前を記憶に刻んだのは、70年代の名盤『ツァラトゥストラはかく語りき』。音楽との出合いから何年も経ったのち、その彼と仕事をし、彼の横で歌うことになったわけです。ええ、私が歌うとき、彼はずっと傍らにいてくれましたよ。彼は音楽史の一時代をなす、偉大なアレンジャーですからね。
――日本盤では、その後のアルバム(※2013年作『Almas gemelas』)から2曲ボサノヴァを、ボーナストラック収録。 この2曲の軽やかさが、アルバムの色合いを、より広がりのあるものにしたと思います。
LUZ おそらく、そうね(笑)。ボサノヴァに関しては、人生で初めて歌う機会だったのよ。エウミール・デオダートの後押しがあったから。2曲はいずれも、アントニオ・カルロス・ジョビンがフランク・シナトラと録音した曲。これはスペイン人が歌う、私流のヴァージョンなんです。このブラジルの曲を録音するときに思い浮かべたのは、エリス・レジーナでした。私の人生において様々な局面で重要な意味をもつ女性たちは、順不同で……エディット・ピアフ、ジャニス・ジョプリン、ミーナ、多くのスペイン女性、そしてエリス・レジーナなの。エリスが歌っているテレビ番組を観たとき、涙が止まらなかった。ブラジルの歌い方を知らなかった私が、ボサノヴァを歌うと決めたとき、テレビ番組のエリスを思いながら歌っていたんです。

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◆ボレロが与えてくれた自由
――もともとあなたは、ロック、ポップロック、バラーダ歌手として人気がありました。「ピエンサ・エン・ミ」を録音したのは、アルモドバル監督からのオファーだったのか、それとも録音後に、映画でテイクが起用されることになったのか?
LUZ ペドロ(・アルモドバル)が、まずこの曲を映画のために使おうと考えたのです。シナリオを作る以前に、映画を撮る前に、この曲ともう一曲(※ミーナ65年の大ヒットで知られる「別離Un annod’amore」。64年ニーノ・フェレル作で、原題は「C’est Irréparable」。アルモドバルのスペイン語訳詞によるカヴァーが「ウン・アニョ・デ・アモール」)を決めていました。そして映画の撮影前に、私に声がかかったんです。それまで私は5枚のロック・アルバムをリリースしていたので、難しい課題だったけれど、結果はとても良かった。私にとって人生の分かれ道になったから。それ以降も、私は私であり続けていますが、この曲を歌ったお蔭で、より自由になれたわ。ロックに留まらない歌の世界を拡げられると分かったし、人々もそれを受け容れてくれると知ったからです。
――じゃあ、映画『ハイヒール』の歌で、初めてロック以外のジャンルにアプローチされたわけ?
LUZ そのとおり。
――ファースト・シングルを発表される前に、ラケル・メレーの生涯を描いた『Las Divinas』という音楽劇の舞台に立たれたそうですが、その頃から古い歌に接しておられたのでは?
LUZ そう、でもとても短い期間の仕事で、あの役を引き受けた理由は安心が欲しかったのと、経験を積みたかったから。77〜78年頃のことね。フランスで有名だったスペイン人女性歌手……ルーツはフランスだし、スペイン=フランスね。彼女は“クプレ”(※スペイン歌謡)の歌い手です。クプレはスペイン文化の一部ですから。でも、歌手としての私が興味をもっていたかと問われれば、必ずしもそうではない。私たちの世代は、すでにアルマンド・マンサネーロのボレロも、「べサメ・ムーチョ」にも親しみを覚えなかったわ。無理もないでしょう? 好きでなくとも知ってはいたし、歌えはしたわ。かの時代への興味はあったけれど、親世代のレパートリーよね。私のではない……私は他の音楽をやりたかったし。

◆歌詞で厳選したレパートリー
――ボレロ・アルバムの中で特に異色で珍しかったのが、マリア・エレーナ・ワルシュの「セミのようにComo la cigarra」。なぜこのカンシオンを、アルバムに入れようと思ったのか?
LUZ それを説明するのは簡単ではないわね。ラテンアメリカのレパートリーを次々に選んでいるとき、アルゼンチンと来て……アルゼンチンのボレロは、どうも私の歌としてしっくりこなかったの。そのとき、マリア・エレーナ・ワルシュが子供のために手がけた作品を思い出した。彼女はとても名声を確立した女性。非常に力強く、反逆者、レズビアンでもあった。彼女の、他者と異なる個性にずっと興味を抱いていたから、もう一度作品を聴き直して、詞の内容からこの曲を選びました。一見して愛の歌のようだけれど、そうではない。しかもこのアルバムは、決してボレロに限定したアルバムではなく、一種のミックスだから、ヴァリエーションのひとつにとてもふさわしいと思ったんです。
――つまり、あなたにとっては歌詞が、選ぶ際の重要ポイント?
LUZ 歌詞はとても大事。選んだ歌すべてにパッションがある。パッションといっても、愛そのものの情熱もあれば失った愛への情熱と、いろいろだわ。例えば「灰」にしても、これまで重ねてきた愛の記憶がすべて灰になってしまうという含みをもたせているわね。歌において音楽と歌詞はどちらも重要なのだけれど、レナード・コーエンが歌詞に重きをおくように、ボレロというジャンルも、音楽よりも歌詞のほうに少しだけ重要性があると私は思う。ボサノヴァでは逆に、歌詞よりもメロディーやハーモニーのほうに比重がおかれていると私は思っています。だから『ラ・パシオン』では、テ・キエロ、テ・キエロ(愛してる、愛してる)……みたいなありふれた歌詞は選んでいないわ。

◆フランスでの人気、日本との奇縁!?
――母国スペイン以外のヨーロッパ、特にフランスでのあなたの人気は絶大です。何か特別なブレイクのきっかけがあったのか? 勲章を授与されるくらい影響力があると聞きますが。
LUZ 人気が出たのは92年、映画の曲「ピエンサ・エン・ミ」がフランスでヒットしてから。フランスでもペドロ・アルモドバルの映画作品は、もっとも注目されてきた。その後、今に至るまで私のパフォーマンスが好まれているようだけれど、理由はよく分からない(笑)。自身がとりわけ他に優れて特別な存在と言えるほど、私は傲慢な人間ではないわ。フランスには優れた歌手がいっぱいいるのに、なぜこんなに今も支持されているのか……。
――フランスのファンは、どんな年齢層なんでしょうか?
LUZ 若い人たちから年長者まで幅広く、いろんな人が聴きに来ます。ここ数年、ダリダのレパートリーで、年上の女性と青年が恋に落ちる歌を採り上げたのが共感を呼んだみたい。他にもフランス語でジルベール・ベコーの曲を歌っていますが、キャリアにとって重要なコンサートをフランスで開催できているのは喜びです。92年から現在まで、大小の公演をずっと続けてこられているんですもの。
――フランス政府から叙勲されたのは、何年のこと?
LUZ 2007年か08年だったかしら? フランス文化人勲章ね。名誉市民としてパリ市の鍵ももらったわ。日本でも、海外の人間に鍵をくれないかしら(笑)。確かにフランスでハードワークをこなしてきたけれど、それは私の人生にとって、プロとして幸運だったわね。
――今はマドリーにお住まい?
LUZ ええ、マドリーに家があるわ。でも、今は日本にいられて幸せ! ずっとずっと、本当に日本に来たかったの。何度か話があったのだけれど、実現しなかった。彼(ディレクターの高橋研一氏)のお蔭で、やっと……。
――彼の“パシオン”で!
LUZ そう、彼の情熱のお蔭よね。やっとここに来られた。92年にセビージャで、ロック・グループの聖飢魔Uと共演したのよ(※聖飢魔U公式サイトによれば、セビージャ万博の前年、91年とあった)。
――ウソ〜!
LUZ 彼らはスペインで有名じゃなかったから、私が共演することになった。その後、訪日の話もあったのだけれど、ヨーロッパでの仕事が忙しすぎて立ち消えになってしまったの。うー、チャンスを逃した!(と、悔しがる) でも、何年も経って、私たちはここにいる。日本については、文学にも映画にもさほど知識豊富というわけではないけれど、ずーっと興味があった。日本文化がもつ特性に興味を抱いていたの。そして、プロ歌手としてチャンスが来るのをずっと待ち続けていたのよ。
(※ちなみに、昨年11月のプロモ来日から帰国したのち、彼女はエル・パイス紙に「!Viva Japón!」と題するエッセイを寄稿した。文中で、訳本を手に入れたばかりの、徳富蘆花『不如帰』読後の感銘を綴っている!)

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◆故郷への恩返しと社会貢献
 現在はマドリーに暮らすというルス・カサルだが、生まれたのはガリシア州ア・コルーニャ県の町ボイモルト。彼女が幼い頃、一家はアストゥリアス州都ヒホンへ移り住み、音楽教育やバレエの基礎を身につけ、カヴァー専門のロックバンド、ロス・ファニースの活動をヒホンで開始。その後、ソロ・シンガーを目指すべくヴォイストレーニングを重ね、77年にマドリーでプロ歌手の道をスタートさせている。
 スペイン映画界の異能の人、アレハンドロ・アメナーバル監督作『海を飛ぶ夢 Mar adentro』(2004年/日本公開2005年)に挿入された、ガリシアを象徴するナンバー「ネグラ・ソンブラ」をカルロス・ヌニェス伴奏で歌っていたのも、ルス・カサルだ(※1996年録音/ロサリア・デ・カストロの詩作に1892年、フアン・モンテスが曲をつけた)。そして、彼女の故郷ガリシアとの繋がりは、どうやら今も途絶えていなかったらしい。

――生地のガリシアで、現在フェスティバルをずっと続けておられるとか?
LUZ 最初の動機は、生まれ故郷に何らかの恩返しのプレゼントがしたいと思ったからなの。パコ(※彼女のマネージャーで、マラガ出身者)と音楽による行動を起こしたいと、単独でチャリティー・イベントを考えたんです。ガリシアのフェス開催地は、ほとんど農業と牧畜だけで生計を立てているような町。そんな隔絶した土地の人々とともに、音楽のチャリティー・イベントをやっていくことに意味がある。慈善団体への連帯を表明し、そこへ利益をもたらすことに主眼をおきました。今年(2016年)で5回目ですが、年々より大きな実りを上げてきているわ。
――生まれた土地の記憶をお持ちなんですか?
LUZ ええ、フェスティバルの思い出を通して、今も生まれ故郷を体感しているわ。
PACO フェスティバル会場の中に、彼女の生家があるんだ。
――えっ!? ほ〜〜すごい! 農場持ち??
PACO 大農場なんだ。
LUZ 1万5千人が毎日集まるようなところ……2011年からね。
PACO ほら、これが今年の写真だよ。(※と、スマホで牧歌的な会場風景を見せてくれる)
――わーぉ!!!
PACO トウモロコシ畑越しに、草原の客席と特設ステージ、キャンプ用のテントが見えるだろ? これが、屋敷の中の写真だ……
――まさか、大地主の娘さん?
LUZ 私の家系は1730年から続く、ガリシアのファミリーなんです。
――うっひゃーーっ!!
LUZ 今年の収益金は、この12月にポータブル浄水器を戦地に配る活動をしているNGOへ寄付します。
PACO 第1回は、スペイン国内の癌と闘う患者と家族の団体に寄付した。そう、毎年違う団体にね。
LUZ 難病患者の団体や、被災者支援、国境なき医師団へも寄付したわね。
――出演者も、国際的なメンバーが集うわけですね?
LUZ そう、友人であるジャクソン・ブラウンが今年出演してくれたし、スペイン人ではジャズからフラメンコ、ロック、プログレ、ポップと、あらゆるジャンルのミュージシャンが参加しているわ。フェスには4つのステージがあってね。本当にたくさんの経験を重ねたわ。アーティスト招聘に協賛金集め……より良い運営のため、自分たちでたくさんの仕事をこなさなければならないけれど。
――完全にルスさんご自身が、主催者として実務をやってらっしゃる?
LUZ だって、私は経験を積んだ大人の女性ですからね(笑)。うんと幼い頃から音楽と関わってきているし。人は失敗も経験するものだけれど……人生は短い! 死を迎えるのはあっという間よ。私は音楽を通して人々と関係を築いていく人間。人々が今どんな問題を抱え、何によって人々を満足させられるかを考えるわ。歌を通して人々に話しかけるのは、良いことだと思う。だから、何が現実かを知らなければならない……この小さな世界で、歌手はたくさんの異なる世界があることを知る必要がある。そうでなければ、私は人々に対して 「世の中に苦しみや悲しみ、問題があったときは、私のことを思って」(※「ピエンサ・エン・ミ」の一節)なんて歌えない! 真に注意を払わなければいけないのよ。
――素晴らしい志ですね。フェスの正式名称は?
LUZ Festival de la Luz(ルス=光のフェスティバル)。
――パーフェクト! 希望と喜びの光ということですね。
LUZ そのとおりよ。“知ることの光”でもある。子供たちが学ぶ機会もエリア内に設けていて、詩人や科学者のトーク……映画上映や芝居のテント小屋もあるわ。
PACO 食事コーナーやマーケットも会場内にあるんだよ。農産物が並べられ、ヤギなどの動物たちにも触れられる、いかにも田舎のフェスなんだ。

 ルス・カサルのオフィシャルサイトにフェスの詳細も載っているので、興味を持たれた方はぜひチェックを! 2016年9月9〜11日開催の第5回には、ジャクソン・ブラウン、ウィリー・ナイル、リフ・ラフらが出演。スピン・ドクターズのクリス・バロンも駆けつけたそうだ。スペイン勢では、フラメンコのホセ・メルセ、ペドロ・ゲーラ、ラウル・ロドリゲス、スサーナ・セイバネ、ロック界からも多数バンドが参加。
 取材後、「日本のオルケスタ・デ・ラ・ルスは、もちろん活動中よね?」と、ずっと名前にご縁を感じていたのだろう、密かな期待を込めてつぶやいた、ルス姐さんであった。

 ブルーノート東京公演の直前より、彼女は待望2年半ぶりのツアーを再開。4月26日のトゥールーズ公演を皮切りに、年内のスケジュールが発表されている。6月9日には2016年パリ録音、没後30周年記念アルバム『ルス・カサル、ダリダを歌う』がフランスでリリース予定という。

ブルーノート東京公演
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ディエゴ・エル・シガーラ来日インタビュー〈2〉

2015.12.13

ベボの泉、ベボが導いた道

 1968年生まれのシガーラは、天才カンタオール、カマロン・デ・ラ・イスラの後継者の一人として、フラメンコ界の第一線に躍り出た。ソロ・デビュー作は、98年の『ウンデベルUndebel』。いかにもフラメンコで、ヒターノらしい題名……カロー語起源とのことで、神々しさの意。
 “カマロン”がエビ(小海老から車海老サイズまでを指す)なら、“シガーラ”はテナガエビ(正式名称ヨーロッパアカザエビで、イタリアのスキャンピ、フランスのラングスティーヌと同じ)。いつ頃、なぜこんな愛称を芸名にしたのか?との問いに、「若い頃よく動き回っていたので、家族や友人らからそう呼ばれるようになった」と答えている。また、「通常、フラメンコではアーティスト名を選んだり変えたりすることはないので、仕事として歌い始めた頃、シガーラと呼ばれるようになり、そのまま使い続けている」とのこと。
 まず現代のカンタオールで、革命児カマロンの影響を受けなかった者はいない。いかにカマロンの歌唱法から脱却できるかが、長らく後進らに課せられた命題だったともいえる。シガーラは、クランクアップしたばかりのドキュメンタリー映画『Calle 54』を、監督・脚本家フェルナンド・トルエバの自宅で見せてもらい、初めてベボ・バルデスの演奏に触れてたちまち“恋に落ちた”と語った。ベボとの出会いがシガーラに伝統の縛りを超える着想を与え、まろやかな独特の熟成の歌声を体得させていったのは間違いない。とまれ、インタビュー後編をお届けするとしよう。

――前作のプロジェクトはアルゼンチンがテーマだったが、次にサルサへのオマージュと決めたのには、何か特別な意図があったのか?
Cigala いや、『トゥクマンの月のロマンセ』のずっと前から、このアイディアがあった。ベボ・バルデスとも、このアイディアを語り合っていたんだよ。それでキューバを訪れ、ロス・バンバンのフアン・フォルメルとも顔合わせしていたし、そこから少しずつ構想を編んでゆき、形にしていって、何か良いテーマがあるとキープしておいた。そういう探索を、ずっと以前から徐々に始めていたわけだ。もうこの4〜5年かけて探し続けてきて、ようやっと100曲近く聴いた中から絞り込み、レパートリーが固まったんだ。もう毎晩毎晩、旅のさなかでも、『トゥクマン…』プロジェクトの間もずっと。『トゥクマン…』は、仲間と一緒に自宅で録音したんだが、かなり録音期間は短かったね。でも、『ラグリマス・ネグラス(黒い涙)』のほうが、もっと完成まで短かったな。3日間でレコーディングしたんだから。『トゥクマン…』は、集中して連日12時間、3週間かけて作った。というのも、早く録音してしまわないと、自分の気持ちが次のプロジェクトへと動いてしまうのを、どうにも抑えられなかったから。『トゥクマン…』に較べて、サルサのほうが、作業が大がかりになるのは目に見えていたし。サルサは多くのパーカッションを重ね、管楽器も入ってくる。コンガ、パイラ、ボンゴ、パルマ、ギター……もう、いっぱいね。
――あらゆる要素を積み上げていく必要があると。
Cigala もちろん! なので、敢えてゆっくり、時間をかけて作りたかった。衝動的に作ってしまうのではなく、穏やかな状態で、しかも手をかけて完璧に、満足のいくものに仕上げたい。いや、完璧は存在しないが、満足できるクオリティの仕上がりに近づけたいんだ。なぜなら、音楽にパーフェクトは存在しないからね。パーフェクトでは、グラシア(面白味)に欠ける。不完全だからこそ、面白いんだ。

――どのアルバムの選曲にも、単なる名曲尽くしでなく、独自の視点があって興味深い。選曲にあたって、何かポイントがあるのか?
Cigala クラシコ(古典の名曲)はすでにあり、誰もが知っている。だから俺は探し求める。あまり知られていないその曲が、作られた時代には何らかの形で価値を持っていたからだ。残念ながら話題にならなかった、或いは有名曲とは呼ばれなかっただけで、敢えてそこに目をつけ、見直すことに価値があると思ったからだ。あまり聴かれておらず、いわゆる有名曲ではないが、自分がそれを表に、陽の射すところに出そうというわけだ。例えば、セリア・クルスの「クアンド・デスピエルテス」は、ジョニー・パチェーコと共演したレパートリーだが、俺が歌ってみせたら、反対に(ラテン・サイドの)みんなから「それ、何の曲?」って言われたんだよ(笑)。それは、セリア・クルスがファニア・オールスターズとの時代に作られたテーマなんだが、時を経て俺が聴いて、初めて自分の中に飛び込んできたわけだね。とても感動したよ。だけど敢えて、楽曲を探す旅には出ない。探そうとすると見つからないものだからね。だから、自分のほうへ楽曲が訪れ来るのを待つ。向こうからやって来たその歌が、俺に何を見せてくれるのだろうか……という素直な気持ちでいて、自分からは決して求めたりしない。探そうとすれば、永遠にアルバム制作は終わらないからね(笑)。
――ふむ、追えば逃げてしまうわけですな。
Cigala そうそう。
――それに、あなたはフリオ・イグレシアスじゃないから、それでいいんだと思います。
Cigala アッハハハハ……セニョール・フリオ・イグレシアスは尊敬する友人だ。でも互いは、昼と夜みたいに違う(笑)。
――どちらが昼ですかね?
Cigala 俺が夜だ! ハッハッハッハ……

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――確認させていただきたいことが……お生まれは、マドリードのどの地域?どのバリオ?
Cigala マドリードでもっとも由緒正しいバリオ、バリオ・ラバピエスだ。ガキの頃、アグスティン・ララ広場の、アグスティン・ララ像の周りでボールを蹴って遊んでいた。
――そこからもう、あなたはラテンアメリカと繋がってません?(笑)
Cigala そのとおりだよ。その頃すでに、繋がっていたんだなぁ、信じられないことにラテンアメリカと……。ララ像の除幕式の日に、マリアッチ楽団がやって来て演奏を披露した。ガキだった俺はメキシコ人が珍しくて、マリアッチ楽士にメキシコのコインをもらったんだよ。ちょうど今の息子(※傍らに寄り添うラファエル少年、7歳)の年齢ぐらいだったな。コインを記念にもらえない?って、声かけたんだ。
――ご家族の中にも、プロのカンタオールやギタリストがいたのか?
Cigala もちろん、父もカンタオールだったし、母方の伯父ラファエル・ファリーナも歌っていた。別の叔父たちもタブラオで歌っていたね。母も美しい声で歌が巧かったが、父がプロ活動を許さなかった……決してね。だから母が歌うのは、結婚式とかクリスマスとかの行事だけ。父が嫌がったんでね。
――昔堅気の方なんですね?
Cigala そう、古い気質と考え方でさ(笑)。

――ベボ・バルデスが、あなたにラテンアメリカの扉を開いたわけですが……。
Cigala 世界の扉をだ! まったく違う世界の扉を開いてくれた。ベボと知り合えたことは、俺にとって英雄に出会えたにも等しい。どの時代を見渡しても、彼ほど偉大な人物はいない。彼のピアノのお蔭……フラメンコギターしか知らなかった自分の世界から、ベボのピアノが新しい世界を見せてくれたのだから。あらゆる音楽に関する知識を、彼は授けてくれた。かつて自分の頭をよぎったこともないような知識まで、惜しみなく教えてくれた。アフロキューバ音楽とラテン音楽から、タンゴまで。「ソレダー(孤独)」(※カルロス・ガルデル作曲、アルフレド・レペラ作詞のタンゴ・カンシオン)とか「ラス・クアレンタ」(※ロベルト・グレラ作曲、フランシスコ・ゴリンド作詞のタンゴ)を歌うようアドバイスしてくれたのも、ベボだった。俺の声が、クルーナーにふさわしい驚くべき幅広い音域を持つと教えてくれて、だからボレロもタンゴも歌えるよと諭してくれた。自分ではまったく理解できていなかったけれど、彼の話を聞くうちに納得できてきたんだ。ベボと出会えたことは、人生最大の幸せだ。彼は音楽の天才だ。一番今、彼に逢いたいよ……。
――じゃあ、亡くなったと聞いた時は悲しかったでしょう?(※2013年3月22日、スペインのマラガで94歳の生涯を閉じた)
Cigala すごく、ものすごく……訃報を聞いたのは、『トゥクマンの月のロマンセ』の録音中だった。スタジオ入りしていて、ちょっと休憩をとるため下の階のロビーに降りてきてテレビをつけたら、ベボ・バルデスが亡くなったというニュースを見た。妻のアンパロと二人して、言葉を失ってしまったよ。その5分後に俺の携帯電話が鳴り始めて、これほどの偉大な音楽家を失ったことについて俺自身のコメントを求めてきた。なので、もういっさい電話には出なかった。ハ〜ァ、本当に苦しかったなぁ……(深い溜め息)。でも、今は天国にいるから……ほかの偉大な仲間と一緒にね。

――2000年のアルバム中の「ノ・ティエネ・ドゥエニョNo tiene dueño」という曲。その一節に……De la fuente que bebo no tiene dueño.(※俺の飲む泉に主はおらぬ)とある。その次のアルバムでは、「ベボの泉La fuente de Bebo」(※bebo=俺は飲むから、固有名詞=Bebo)に変わった。
Cigala それは、ベボへのオマージュだったんだ。収録した『コーレン・ティエンポ・デ・アレグリア』は、ベボと知り合ったばかりのアルバム。レコーディングのさなか、彼に参加して欲しいと誘って、「アマール・イ・ビビール」(※ボレロ)と「セニョール・デル・アイレ」(※グアヒーラ)を共演し、もう1曲「ベボの泉」(※ブレリーア)の歌詞をベボに捧げたわけだ。そのあと、映画監督フェルナンド・トルエバの家で一緒に夕食をとり、酒を飲みながらベボと話をした。一緒にボレロのアルバムを作ろう、とね。彼はすぐ「もちろんだ、息子よ。望むところだ、息子よ……」(※キューバ訛りで再現)ってね。それでスタジオ入りしたら、彼が言うんだ。「私はクバーノのピアノを弾くから、キミはヒターノの歌い方でやりな!」とね。その指示のまま録音を続け、『黒い涙』が3日間で出来上がった。俺はピアノと歌うなんて、なんせ初めてだったからね。たぶん、だからこそ、あれだけの作品が生まれたんだと思う。まぁ初めての経験だったし、ピアノ演奏を追いかけるのに必死で、実はいっぱいいっぱいだったがね(笑)。
――さっきのフレーズがあったので、あなたが「ベボの泉」をどんどん飲みほしているというイメージを、ずっと抱いてきたんです。
Cigala ハハハ、なるほど。ベボというお人は、まったく電撃的な刺激を与えてくれる。あのエネルギーたるや! ベボと顔を合わせていると、彼の眼差しが自分の内側に突き刺さってくるほどのエネルギーだったんだ。ベボの視線にはただならぬものがあって、情熱的。しかも紳士的で、洗練された品格を持つ人物だった。俺が何か解らないことで戸惑っていると、すぐさまそれを見抜き、まるで俺の気持ちを察しているかのように、丁寧にひとつひとつ教えてくれたものだ。たちまち察して、自分の道へと導いてくれたんだ。それがベボという人なんだよ。
――とにかく、次作を楽しみにしています。
Cigala ドミニカ、プエルトリコ、キューバ、ニューヨーク録音となるビッグ・プロジェクトだ。あ゛〜〜〜考えるだけで頭が痛いや(笑)。

 インタビュー終了後のイベント会場で、ラテン音楽との最初のコンタクトについて尋ねると、「子供の頃、ルーチョ・ガティーカなんかをよく聴いたものだが、まともに向き合えたのは、ことごとくベボのお蔭だ」と、あらためて強調していたのが印象に残る。また、eLPop幹事長(?)岡本郁生氏が挙手し、ラテンで一番好きな歌手は?と問えば、迷わず「エクトル・ラボー」と即答。
 シガーラのラテン音楽に対する“恋”は、スペインの記事で綴られていたような“戯れの火遊び”どころか、カンタオールの人生を一変させてしまう宿命的な出会いだったに違いあるまい。
 キャリア10枚目となる新作の完成が待たれるが、併せて2016年にオマーラ・ポルトゥオンドとのヨーロッパ「85」ツアーが予定されていることも、補足しておこう。
posted by eLPop at 03:40 | 佐藤由美のGO!アデントロ