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リレー実録:ケ・パソー?¿Qué pasó? 〈2〉後光がさす男

2015.03.16

 さて、このところ何かと話題のキューバであるが、インターネットで何でもわかっちゃう現代でも、彼の地には行ってみないとわからないことが今でもけっこうある。そのひとつが建物。世界遺産になっているハバナ旧市街でなくても、クラシカルなホテルやなんだか由緒正しそうな立派な建物や、「高級住宅地」にはおとぎ話に出てきそうなかわいいお屋敷がごろごろしている。最近では「今後」の値上がりを期待して不動産市場は活況を呈しているというような話も聞くが、かつては「がんばれば買えるかも」というお値段の物件もあり、夢も希望ももはやどうでもよくなったわたしのようなオバハンでも「ミラ・マルのサーモンピンクのお屋敷ほしい」と思ってしまったぐらいだ。
 今回のお話はそんなハバナの立派すぎる建物のひとつ「Teatro Amadeo Roldán(以下、アマデオ・ロルダン劇場)」の楽屋口あたりでのエピソード。
 
 本題に入る前に、物語を秘めているアマデオ・ロルダン劇場について少々。この劇場は1929年に建てられ現在も使われている中規模(約900席)の劇場で、国立キューバ交響楽団の拠点となっている。1977年に放火によって相当なダメージを受けたが1999年に修理を終えて再開した。
 この劇場の名前になっているアマデオ・ロルダン(1900-1939)はパリに生まれマドリードで学んだキューバ人ヴァイオリニスト/作曲家だ。ハバナに移り住んだ1920年代に異例の若さでハバナ交響楽団のコンサート・マスターになり、32年には指揮者になっている。ロルダンはまだこれからという38歳で病死してしまうのだが、彼の業績で特筆すべきは「アフロ・キューバン」の文化をクラシック音楽に積極的に取り入れたことだ。特に、アフロ系の祭のリズムを取り入れたバレエ組曲『ラ・レバンバランバ』は有名だ。世代的には作家のアレホ・カルペンティエル(1904-1980)とほぼ同世代なので、まさに「アフロクバニスモ(キューバ文化におけるアフリカ的側面)」の研究が盛んになった時代ではあった。
 ロルダン亡き後、彼が成し遂げようとした音楽はアレハンドロ・ガルシア・カトゥルラに託された。ガルシア・カトゥルラは16歳でハバナ交響楽団の第2ヴァイオリンに抜擢される才能の持ち主で、その後フランスに留学し、弁護士業(後には裁判官)の傍ら音楽の仕事を続けた。前述のカルペンティエルが彼のオペラ作品にリブレット書いている。しかし、なんと彼はロルダンの後を追うかのように1940年にたった34歳で死んでしまう。しかも、その日に収監が決まっていたチンピラに殺されるという悲劇的な最後だったのだ。

 さて、長〜い前置きになったが、ある日のハバナ、わたしは用事があってアマデオ・ロルダン劇場に行った。その日はちょうど音楽フェスティバルが行われていたので、大勢の人が劇場周辺にいた。美しい建物に見とれつつ楽屋口を探していたところ、ごちゃごちゃした人混みの中に一ヶ所なんだか光が差しているように輝いて見える場所があった。ウソでも誇張でもなくそこだけがカリブの陽光の中、さらにスポットライトが当たっているように見えたのだ。
 「なにごと?(まさに¿Qué pasó?)」と思って近づいてみると、光の中には、常夏の島なのにちょっと大袈裟なコートを着たおばちゃんパーマの様なヘアスタイルにメガネの太り気味のおっさんがいた。こういっては何だがわたしは仕事に関わるミュージシャンはどんなに世界的に有名な人でも声をかけることにまったく緊張しないのであるが、このときは完全に固まってしまい、そのおっさんにさらに近づくことも声をかけることができなかった。白昼の金縛りである。
 
 もう、おわかりですね。その光り輝くおっさんはシルビオ・ロドリゲスとともにヌエバ・トローバを代表するシンガー・ソングライター、キューバだけでなく、カリブ・中南米諸国で絶大な人気を誇る素晴らしいメロディ・メーカー、パブロ・ミラネスだったのである。『Yolanda』『Para vivir』『Buenos dias America』『El amor de mi vida』『Amame como soy』など大ヒット曲は枚挙に暇がない大巨匠。
 後に一緒に仕事をした彼の娘、アイデーによれば「けっこう普通の人」だそうだが、あんなにすごいオーラを放っている人を見たのは後にも先にもあのときだけ。
 暑さにやられたわけではなく(多分)、本当にパブロ・ミラネスは光って見えたのだ。

 〈完〉
posted by eLPop at 19:59 | 高橋めぐみのSOY PECADORA

女子名を名乗りいくつになっても王子様のような雰囲気、しかしその心は荒野を行く孤独な騎士のようなベテラン・シンガー・ソングライター、「ニルダ・フェルナンデス」:インタビュー(前編)

2014.12.12

 2014年12月2日から5日まで飯田橋のアンスティチュ・フランセ東京でフランスからアーティストを招いて行われる「ブラスリー・ライブ」があった。今回来日したのはスペイン人でありながらフランスで活躍してきた人気シンガー・ソングライターのニルダ・フェルナンデスだった。幸いにもアンスティチュのシリル・コピーニさんから連絡をもらったので、ショーを堪能し、またインタビューもすることができた。
 
 まず謝っておくが、おかしなタイトルで申し訳ない。ニルダは気さくで感じが良くて気取ったところのない素敵な人なのだが、なぜか「その心は荒野を行く孤独な騎士」という印象を持ったのでそのようにタイトルを決めた。
 ニルダ・フェルナンデスという名前から想像される性別は女性である。わたしも初めてその声を聞いたときには、「少しスモーキーなのが魅力的なきれいな歌声」だと思い、女性シンガー・ソングライターだろうと思った。
 実際に華奢な体格でサラサラヘア、可愛らしい顔立ちなので、写真を見ても「あれ?男なの?」と思っても仕方がない。おまけに「ニルダ」という女性名だし。しかし、彼は男性だ。
 ニルダ・フェルナンデスはスペイン、アンダルシアにルーツを持つ両親のもと、バルセロナで生まれた。一家は彼が6歳の時にフランスのリヨンに移住し、以後はずっとフランスに住んでいる。ただし、教育は両国で受けておりバルセロナの大学に通った。基本的に歌う歌詞はフランス語が多いが、スペイン語もまた彼の母語であり、スペイン語で歌うこともあるし、歌詞をフランス語とスペイン語のふたつのバージョンを作ることもある。
 学業を終え、スペイン語教師、同時通訳の仕事などをしながら、リヨンやトゥールーズで「レ・ルフレ(Les Reflets)」というグループで地道な音楽活動を続けていた1987年に転機が訪れた。スペインの人気歌手/俳優のミゲル・ボセーがニルダのセカンド・アルバムから「マドリード、マドリード」を取り上げ大ヒット。おかげでニルダ・フェルナンデスの名前がフランスとスペインで注目され、1992年にはアカデミ・シャルル・クロ(Académie Charles Cros)によるディスク・グランプリで「最優秀男性新人賞」を受賞した。「マドリード、マドリード」のミゲル・ボセーのバージョンとニルダのオリジナルを聞き比べると、声の質に寄るところも多そうだが、前者の方がドラマチックで少々芝居がかった哀愁に彩られているのに対して、後者の方は淡々と歌っていてより直接的に切なさが伝わってくる。今回のインタビューでわかったことだが、歌詞の中に3つだけ「カタルーニャ語」の単語が入っているが、ミゲル・ボセーのバージョンでは、それがカステジャーノ(一般的なスペイン語)に変えられているとのこと。ニルダ曰く、それはカタルーニャに対する「ささやかな弾圧」らしい。もちろん政治的な事情だ。「あの曲をミゲル・ボセーの曲だと思う人がけっこういるけれど、あれは僕の曲だからね。それをきちんと書いて(笑)。スペインから離れてしまった人間にしか書けない曲でしょう」。ああ、確かに、散文詩のように状況が散りばめられた歌詞、知っている場所なのか知らない場所なのか、不安を煽るようなメロディは外から見ている者の視線だ。
 いずれにしてもこの曲は素晴らしい名曲なので、ぜひ聞き比べてほしい。
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アルバム「Nilda Fernandez」(1991)「マドリード、マドリード」収録。
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アルバム「Los Dias Aquellos」(1997)

 しごくおおざっぱにニルダの生い立ちとシンガー・ソングライターとしてのスタートまで語ったが、「後編」ではメルセデス・ソーサとの共演、そして一番の代表作にしてフェデリコ・ガルシア・ロルカを歌ったアルバム「Catelar 704」、名前の秘密などを書く予定。
posted by eLPop at 19:04 | 高橋めぐみのSOY PECADORA

ラテンアメリカの解放〜ヒスパニック労働者

2014.08.11

 今年も開催される『Latin Beat Film Festival』のラインナップ第一弾が発表された。さすが、興味深いタイトルが並んでいる。

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 まずは、『Libertador(邦題:解放者ボリバル)』。現在のベネズエラの正式国名República Bolivariana de Venezuela(ベネズエラ・ボリバル共和国)にも名前が使われている、シモン・ボリバルの半生を描いた伝記映画だ。シモン・ボリバルは19世紀初頭に南米のベネズエラ、コロンビア、ペルーなどの国をスペイン統治から独立に導いた英雄。スペイン王国に100回の戦いを挑み、47歳で亡くなるまで12万キロ近く馬で駆け巡ったと言われる。映画は、子供時代から、先住民や奴隷の解放、独立への戦いを挑む青年期までが描かれているようだ。
 ほぼすべてのカリブ中南米諸国にこの人の名前が付いた通りや広場がある。

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 そして、『César Chávez(邦題:セザール・チャベス)』(しかし、この邦題は間違いです!カナにするなら「セサル・チャベス」でしょう?)
 1960年代、米国の農場労働者の権利のために戦った労働運動のリーダー、セサル・チャベスの活動を描いた作品。1965年に起きた葡萄農園でのストライキ(5年後に勝利)の周辺から描かれている。この人が唱えた"Sí, se puede"(そうだ、できるんだ)がオバマの選挙の時のスローガンに繋がったと言われている。メキシコの人気俳優ディエゴ・ルナが企画・製作・監督した作品。
 
 上記二つの映画にも歴史的に関連していると思われる記事を発見した。米国で多くの黒人がリンチ殺人で命を落としたことは周知の事実だが、メキシコ系労働者も同じような目に遭っていた、というBBC Mundoの記事。わかっているだけでも600人がリンチ殺人の被害に遭ったと書かれている。ショッキングな写真もあるので閲覧注意。
La historia oculta del linchamiento de mexicanos en EE.UU.

現在発表されている『Latin Beat Film Festival』のスケジュールは以下の通りだが、まだまだいろいろ発表される予定。情報はFacebookで見られる。
「第11回ラテンビート映画祭」
新宿バルト9(10/9〜10/13)
梅田ブルク7(10/24〜26)
横浜ブルク13(11/7〜9)
posted by eLPop at 17:22 | 高橋めぐみのSOY PECADORA

こういう人が日本にもいるんです(2) スペイン語と映画に生きるLa Doña Setsu 後編

2014.06.12

 「やっぱり、ボラーニョからどんどん離れている」とお思いの方、それはまだまだ違います。まあ、半分は合っています。しかし、この方がいなければ、私とボラーニョは出会わなかったのです(ちょっと嘘)。とにかくおもろい姉さんの半生記(後編)にチャレンジさせてくださいませ。
 
 ということで後半です。どうしても「ドニャ」だの「姉さん」と呼びたくなってしまうようなラテン女っぽいって言うけど、どんな美女なの?とお思いの方もおられると思うので、写真を載せますね。「手の残像が写るほどの早さでワインリストをめくるドニャ」の図。小股の切れ上がったいい女です。
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 さて、27歳で(今のところ一度だけの)結婚をして、青年海外協力隊のコーディネータをしていた夫(今は元夫)と共にケニアに行き、都合2年間をアフリカで過ごした後、英語とスペイン語がペラペラとはいえ「もう語学に関わる仕事はこりごり」な気分で帰国したときは29歳。心機一転、とあるイベント会社で働いた後、またまたフリーになって、今度は当時大盛況だったレゲエ・サンスプラッシュの音響スタッフの通訳などを始める。そこでも(またかいな)、何にでも文句を付けるアーティスト・サイドのディレクターを一喝し、「俺にそんなことを言ったやつはいない!」と逆に信用されることに。(私の知ってる範囲ですが、この手法は「賭け」です。よくぞ言ってくれた!と相手が反省してくれて上手く行けばいいけれど、「なんだ、きさま!」とクビになる可能性も大いにあるわけでして。比嘉さんも「啖呵を切って失敗」談には事欠きませんから)
 そして、1992年、バルセロナ・オリンピックが開催され、スペイン語の通訳が大勢採用されることになり、そこからまた比嘉さんの語学の仕事が本格的に始まるのであるが、今度は「訳すのも反吐が出そうな」企業の親父の通訳ではなかったのでぴったりフィット。(余談ですが、反吐が出そうなことを訳すのは本当に辛い。通訳でも何でもない私でもごく稀に経験しますが、そんな時は「今の千倍スペイン語が出来ても通訳にはなれない」と痛感しますね)
 さらにはNHK BSでTVE(テレビシオン・エスパニョーラ:スペイン国営放送)のニュースの同時通訳の仕事も始まり、「ニュースの通訳は、とにかくきちんと訳せばいい」というところが「自分に合っている」とスペイン語とラテン文化にふたたび近くなる。が、そこで満足しないのが姉さんです。元々好きだった映画にもっと関わりたいと、NHK BSと平行してスペイン映画祭やメキシコ映画祭で仕事をしながら、1999年に自分の会社Action Inc.を設立。いよいよ映画の配給に本格的に挑むことになる!ちなみに、この時期(多分1997年)に青山の草月ホールで「メキシコ映画祭」があって、私は生涯忘れることのない映画「夜の女王(原題:La Reina de la Noche)」(1994 監督:アルトゥーロ・リプスタイン)を見た。ランチェーラ歌手のルチャ・レジェス(Lucha Reyes)の36年の短い生涯をフィクションを交えつつ描いた傑作映画だ。ルチャは美人で素晴らしい歌手で且つとても不幸な私生活の人。暗くて退廃的で絶望的に美しい映画。見ると死にたくなる。だから、一生忘れない。その映画祭に関わっていたのが比嘉さんだったのだ。しかし「夜の女王」はその後BSで一度放映されただけで劇場公開はなかった。「暗くて退廃的で絶望的に美しい映画」を公開に踏み切る劇場がなかったからだろうか。
この写真だとイメージはわかりにくいと思いますが、一応載せておきます。
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 Action Inc.が最初に配給した映画はキューバ映画の「永遠のハバナ」だ。これはハバナの庶民の普段の生活を淡々と描いた台詞がほとんどない映画。最後の方に出てくるあることに涙がこぼれる。音楽もシルビオ・ロドリゲスからバンボレオまでハバナに暮らすキューバ人の日常を彩る選曲が自然で素晴らしい。
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 その後は、突然の民営化の波にさらされた90年代の鉄道員たちの厳しい現実をとらえた社会派ドラマ「今夜、列車は走る」(アルゼンチン)、軍事政権下の現実が8歳の少年の瞳を通して綴られる「瞳は静かに」(アルゼンチン)、突然失業したおばちゃんが生きるために奮闘する「ルイーサ」(アルゼンチン)、民俗植物学者の母とシングル・マザーの娘の関係を軸に老いや病を描く「グッド・ハーブ」(メキシコ)、南米唯一のル・コルビジェの家を舞台に繰り広げられるサスペンス・タッチのブラック・コメディ「ル・コルビジェの家」(アルゼンチン)、聖地サンティアゴ・デ・コンポステーラが舞台のグランド・ホテル形式のドラマ「朝食、昼食、そして夕食」(スペイン)、女性シェフと二人の彼氏(?)が繰り広げるラブ・コメディ「地中海式 人生のレシピ」(スペイン)、大都会でそれぞれ別々に生きる若い男女の物語「ブエノスアイレス恋愛事情」(アルゼンチン)、サンパウロの片隅で閉塞感を感じて生きる男女3人の物語「聖者の午後」(ブラジル)等々の映画を次々に配給。「グッド・ハーブ」にはウルグアイの伝説的シンガー・ソングライター、エドゥアルド・マテオの「ポル・ケ?」が効果的に使われていたり、「朝食、昼食、そして夕食」では典型的なガリシアのパーティでガイタ吹きが出てきたりと楽しい発見もある映画ばかりだ。
 それぞれ、年代もシチュエーションも主題も様々だが、彼女が配給する映画を決めるポイントは「日本人が想像するステレオ・タイプなイメージを持っていないこと」だそうだ。例えば間もなく公開される「幸せのバランス」は最初のポイントに加えて「テーマは普遍的」→「描きにくいものを描く監督の心意気」→「私がやらなければ誰がやる!」という順番で決まったそうだ。
 Action Inc.配給の映画については比嘉さんの公式ブログ「ラテン!ラテン!ラテン!」が一番詳しいので、ご参照いただきたい。

 そして、6月14日から新宿ケイズシネマで公開されるのが、イタリア映画の「幸せのバランス」だ。ささやかな過ちから、安定していたはずの人生が壊れていく物語。今の日本社会にも充分に起こりうる切なく現実的な映画だ。6月14日(土)と15日(日)は家族2名以上で来場するか、家族の写真持参の人は「父の日を記念して、父の日記念家族割り」で当日料金が、なんと1000円になるそうです!映画の日より安い!
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posted by eLPop at 14:41 | 高橋めぐみのSOY PECADORA

こういう人が日本にもいるんです(1) スペイン語と映画に生きるLa Doña Setsu 前編

2014.06.06

「なんだか、ボラーニョからどんどん離れている」とお思いの方、それは少し違います。いえ、半分は合っています。しかし、この方がいなければ、私とボラーニョの出会いはずっと遅くなっていたのです。おもろい姉さんの半生記にチャレンジさせてくださいませ。

 La Doña Setsuとは、私がかってに付けた呼び名なのであるが、彼女を前にすると思わず「ドニャ」と言いたくなるのである。一般的な通り名(?)は比嘉セツさんだ。
 その昔、あるスペイン人ミュージシャンのコンサートで、私はボランティアでアテンドをしていた。その時にやはりボランティアで通訳をしていたのが比嘉さんで、それまでは全く知らない人だったのだが、その豪快な飲みっぷりと素晴らしいスペイン語の通訳ぶりに平伏したのである。それで、なんとなく知り合いになって10年以上が経ったが、今も相変わらず平伏したままであることに変わりはない。後から知ったのだが、NHK BSのTVEのニュースの同時通訳や様々なスペイン語の語学学校でプロを相手に講座を持つぐらいなので、その力量は推して知るべし。
 よく、着物が似合って方言をしゃべったりする外国人を「生まれた国を間違えた」と言ったりするけれど、まさにこの人は日本に生まれつつも生粋の「latina(ラテン女)」。ただ単に陽気でノリが良くてとかそういう表面的なことではなく、ガツ〜ンと来るのに涙もろかったりと、芯からそうなのだ。
 こういう人が日本にもいるんです。
 
 神戸生まれの比嘉さんは、高校時代に米国にホームステイした。その時のホスト・ファミリーのイケメン男子がスペイン語を勉強していたのに影響されたのが、スペイン語との出会い。きわめて単純だ。関西外語大学に入学時に、ラテン・アメリカ諸国の資源の豊かさ、スペイン語の多様性と話者の多さ等々から「これからはラテン・アメリカだ!」と思い、卒業までの4年間は猛勉強。4年生の時に奨学金を受けてメキシコのケレタロの自治大学に留学。ケレタロはメキシコ・シティから200キロあまりの内陸部の古都で、先住民オトミー族の地である。
 その留学中に、なんと彼女は由緒あるケレタロ自治大学の「エストゥディアンティーナ」のメンバーになったのだ。「エストゥディアンティーナ」は男子学生を中心に独特な演奏と合唱を行う集団で、女子は入れなかった。何と言われようともそういう決まりだったのだが、そこはLa Doña Setsu、ゴリ押しに押して潜り込み、多くの歌を学び、ギターを弾いた。彼女いわく、「エストゥデアンティーナのレパートリーは、その頃流行っていたメキシコの甘ったるい歌謡曲とは違っていて新鮮だった」とのこと。なので、頼めば今でも歌ってくれる。元々、ジャクソン・ブラウンが好きで、その後にはキューバのヌエバ・カンシオンの両巨頭のひとり、シルビオ・ロドリゲスの歌詞を書き起こしたりするような人なのだから、まあ、想像に難くない。(余談だが、女人禁制だったケレタロ自治大学の「エストゥディアンティーナ」に25年前に遂に女子部が出来たということをネットで発見。写真を載せておきます。左が男子、右が女子)
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 そして、帰国して優秀な成績で大学を卒業を予定するも、一流企業の最終面接で不合格に。なぜなら「お茶くみも出来ますか」という偉い人の質問に「将来の見えないお茶くみは出来ません」と答えたらしいので(多分)。「言いたいことを黙っていると死にそうになる」というラテン気質(?)のせいか、その後も、神戸製鋼や日産に就職するも長続きせず、遂にJAICAの青年海外協力隊として、ケニアに行くことになったのでした。その時、なんとまだ20代半ば。
 《後半に続く。》
 
 さて、そんな比嘉さんは、2000年代に入り「映画の配給」を始めた。キューバ映画を皮切りに、アルゼンチン、スペイン、ブラジル、メキシコ、イタリアと隠れた名作を紹介してきたのだ。
 そして、もうすぐ公開されるのが、イタリア映画の「幸せのバランス」だ。ささやかな過ちから、安定していたはずの人生が壊れていく物語。今の日本社会にも充分に起こりうる切なく現実的な映画だ。
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posted by eLPop at 12:24 | 高橋めぐみのSOY PECADORA