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【こういう人が日本にもいるんです〜スペイン語と映画に生きるLa Doña Setsu】
【ペドロ・アルモドバルの映画と音楽】
【世紀の大傑作小説「2666」の著者、ロベルト・ボラーニョと音楽】
【私はいかにしてラテンにハマったのか?】

『時に応じて駆けない騎手は、自らの墓標を刻む』 グアコ・インタビュー

2017.02.28

グアコ・インタビュー by 高橋めぐみ

列席:グスタボ・アグアド、ルイス・フェルナンド・ボルハス
通訳:石橋 純
2016年11月13日@中野サンプラザ 楽屋にて

 記事のアップがこんなに遅くなってしまったのだが、昨年(2016年)の日本におけるラテン音楽界の最大トピックは、グアコの来日公演だろう。この日を待ち焦がれていた人がどれだけいたことか。一昨年に非公式ながらその噂を耳にしたときに文字通り心が震えた。過去にも何度かそういう話は浮上しつつ、いつの間にか消えていたので、今回はどうやら「本当」らしいということがわかるにつれ、期待はどんどん高まった。
 ベネズエラ音楽研究の第一人者である石橋純氏を擁するeLPopでは、氏のトークを中心に来日前に3回に分けて『勝手にグアコ祭り』を開催して、まさに勝手に来日を盛り上げた。わたしは90年代に2回グアコのライブを見ているので、第2回の聞き手にご指名をいただき、個人的な盛り上がりは頂点に達した。さらには、インタビューもせよ、という指令まで来た。まさに、「生きててよかった!」だったのだ。

※『勝手にグアコ祭り』Vol.1の前半後半、Vol.2の前半後半をご参照ください。
※ 記事中の写真:by 石橋 純

 東京公演当日のリハ前にインタビューに臨んだ。カリブ・中南米のミュージシャンは押しも押されぬ大スターでありながらも、気さくな人が多い。あこがれのグスタボもまさにそういうタイプで、ニコニコと柔和な笑みを浮かべつつ話してくれた。

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【バンドの歴史は反骨精神】 
 わたしが最も聞きたかったのは、50年以上もの長い間続けて来られた理由だった。もちろん、結成時の1958年と今のグアコは同じではない。何度かの変貌を遂げつつ、トップ・バンドで有り続けられたのには秘訣があるはずだ。
 「グアコの哲学というのがあってね」と前置きしながら、「バンドとしての基礎はあるけれども、いつも現状に満足せず反骨精神を持って新しい挑戦をする。時に応じて駆けない騎手は、自らの墓標を刻む、ということだね」。
 さらに「いろいろなことを経験して思い出の多い人は孤独ではない。しかし、思い出にのみ生きる者は愚か者だ」と続けた。さすがである。グスタボは60代後半という年齢であり、見た目はそれなりにおじさんであるが、他の3人の若いフロントマンたちと一歩も引けを取らず歌い踊れるのは奇蹟でも何でもなく、彼の心意気の賜物なのだ。
 例えば、ローリング・ストーンズやエル・グラン・コンボのように世界には50年以上続いているバンドがいくつかあるが、その中でもグアコは図抜けて変化に富んだ音楽性を持っていると思う。そのあたりについては、「哲学だよ!例えばタンボーラやチャラスカといった伝統楽器を演奏していても、唯一無二のオリジナルであることを心がけている。今まで批判を浴びたこともあるけれど、グアコのサウンドはカリブ・中南米発のラテン音楽へのベネズエラからの回答なんだ。常に反骨精神を持ってね」と語る。
 
【ライブとアルバムの違い】
 3回に渡り開催した『勝手にグアコ祭り』の中で石橋氏が繰り返し語った説によれば、グアコには、その成立から現在まで第1期から第5期まで5つに分けられるそれぞれの期間があり、グスタボが言うようにバンドとしても基本姿勢は変わらなくても、その時々の特徴あるサウンドを作り上げてきた。ただし、常にそのステージはダンサブルでエキサイティングなものであったという。
 わたしが見たのは90年代後半で、いずれもヨーロッパでの音楽業界のコンベンションでのショウ・ケースだった。業界人(笑)という人種は概ね会場の後方の全体を見渡せるポジションでの鑑賞が一般的で、その端くれのわたしも友人たちと後ろの方で「グアコどうかな」などと話しながら見始めた。しかし、そんな斜に構えた無礼な態度は一瞬に吹っ飛んだ。気がつけば一番前で「グスタ〜ボ〜」と絶叫していたわたし。キャッチーなメロディ、時にうっとりするほどロマンティックですらある楽曲の美しさ、バックが繰り出す厚みのある複雑なリフ、声よし見た目よしダンスよしのボーカル陣。その乗りの良さは格別だった。
 しかしながら、アルバムは必ずしも興奮のステージと同じではないのだ。それはグアコに限らず言えることだが、ライブとアルバム(録音物)がまったく同じということはほとんどない。その中でもグアコは、かなり違う印象を持ったので、その辺も率直に聞いてみた。
「そうだね。録音の時はどうしても少し臆病になるかな。それに対して、コンサートではフロントの歌手4人も自由に動きながら発散して歌い、楽器の演奏も一体感を持って演奏できる。歌を聴くと言うよりもグアコの全体を楽しんでもらえる」。
 確かにアルバムはその都度コンセプトを決めて制作されるので、グアコのような大所帯でそれをステージで再現することに固執することはあまり意味がないかもしれない。つまり、仮にアルバムが少し大人しめであっても、グアコのライブは絶対にノリノリで楽しいものであることに間違いがないということだ。

【耳で聞いて足が動き出す】
 さて、そんなオリジナリティと反骨精神バリバリのグアコが影響をうけた音楽は何だろう。メンバーも何度も入れ替わっているし、上記の『勝手にグアコ祭り』でも語られたように、その時々のヒット作を手がけたソングライター達が影響を受けた音楽も同じではないだろうが、まずはグスタボはどうなのか、その点を聞いてみた。
 わたしのキューバ公演についての質問を受けて、「キューバには行っていない。本当だよ。アマウリ・グティエレスとか、仲のよい友人はたくさんいるけれど」。
 ロス・バン・バンの影響が感じられる曲があるのではという質問には、「ロス・バン・バンよりもこっちの方が歴史があるよ(笑)!ドラムを入れたのもティンバレスを独立させたのもグアコの方が先だし、似たように聞こえてもグアコの方が複雑なことをやっている。とはいえ、アース・ウインド・アンド・ファイヤーの影響は受けた」。アース・ウインド・アンド・ファイヤーの影響を受けていないミュージシャンはいるのか、と思うほど、カリブ・中南米でも多くのミュージシャンが「影響を受けたバンド」にその名を上げる。しかし、きちんと調べなかったのも悪いのだが、まさかまだキューバ公演を行っていないことには驚いた。なぜなら、キューバのミュージシャンにもグアコ・ファンはたくさんいる有名なバンドだからだ。
 「そういえば、だいぶ前の話だけれど、イサック・デルガドがベネズエラに来た時にグアコの公演を見に来た。それでキューバに帰国して、グアコを真似た編成のバンドを組んだ(笑)。これは本人がそう言ってるのだから作り話じゃないよ。グアコはNG ラ・バンダやイラケレより先にドラムを入れてる!グアコの音楽は頭から入って足が動き出すものを目指しているんだ」と笑いながら話しつつ、最後に「でも、もちろんロス・バン・バンは大好きだ。ソンゴはいいよ。私たちはとにかく何でも聞くんだ。ミュージシャンとして功成り名を遂げたとしても、音楽を聞かないやつはだめだ」とにっこりした。
 そして、「もうひとつ言っておきたい」と前置きをして、「私たちの音楽にとってアフリカ系の人々がもたらしてくれたものがとても重要だ。ハイチ、ジャマイカ、ドミニカ、キューバといったカリブの島々だけでなくベネズエラにも到達している。コロンビアもそうだ。海岸地方にはアフリカ系の人々とその文化がある。スリア州でもマラカイボの湖南地方にある。それはアメリカ大陸全ての宝なんだよ」。
 自らを「活字中毒ならぬ音楽中毒」と称するグスタボ・アグアド。孫が5人いるらしいのだが、「ぜひ100歳まで歌い踊ってください」と頼んだら「そりゃあ、無理だよ」と爆笑した。

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【グアケーロから看板歌手へ】
 今回は、もうひとり、ルイス・フェルナンド・ボルハスにも話を聞くことが出来た。事前に石橋氏から「彼は本当にかっこいい」と知らされていたので、大抵のイケメンにはまったく緊張しないわたしもちょっとドキドキしていたのだが、部屋に入ってきたときにすでに悩殺されかかった。「俺ってかっこいいだろ」というような態度は全くなく、おしゃれでもない(失礼!)のだが、めちゃくちゃステキなのだ。それがスターというものさ、と言えばそれまでだが、とにかく「華がある」というのが一番ぴったりきた。
 グアコ最大のライバル・バンドである、グラン・コキバコアの音楽監督ネギート・ボルハスの甥であるルイス・フェルナンドがグアコのボーカルになるというのは、サッカーで言えば、FCバルセロナのスター選手を叔父に持つのにレアル・マドリードに入って大活躍みたいな感じで、その加入時にはちょっとした話題になった。実のところは、18歳の時に街のライブハウスでグスタボにスカウトされたという。彼はグアコの曲「Quiero ser un guaquito(ちびっ子グアコになりたい)」を地でいくグアケーロ(グアコ・ファン)で、そのことを家族や親類は反対もせず温かく見守ってくれていたそうだ。
 「だから、グスタボに声をかけられたときは本当に嬉しかった。彼は僕がボルハス家の人間とは知らなかったんだ。まるで世界中が僕の味方をしてくれて奇跡が起きたと思ったよ」とさわやかな笑顔で語る。横からグスターボが「本当に偶然だったんだよ」と合いの手を入れた。
 とはいえ、18歳でグアコのメンバーとなったルイス・フェルナンドも、もう40歳。かれこれ20年以上のキャリアを誇る看板歌手だ。
 「とにかくグアコで歌えることがひとりの人間として嬉しく誇らしい。でも、それは毎日がチャレンジで、グアコを通じて世界に向けてラテン音楽を発信している責任を感じている、僕の双肩にかかっているんだ(笑)」。
 今の世の中、40歳はまだ若い。これからもルイス・フェルナンドには多くの女性ファンの悩殺し続けて、グアケーロを踊らせてほしいものだ。

 インタビューの後に、リハーサルも見せてもらったのだが、そのリハーサルはなんと帰国後の公演及び、4月ベネズエラ全土で公開予定のドキュメンタリ映画『Semblanza』収録用のオーケストラ(グスタボ・ドゥダメル指揮)とのスタジオ共演を想定してのリハーサルでもあったようだ。確かに日本公演は終盤にさしかかっていたので、サウンド・チェックさえしっかりやれば本番の曲は完全に身体に染み込んでいるので問題なしというわけだ。だったら次の準備を怠りなくということなのだろうが、しかしまあびっくりである。
 その後の本番。とにかく夢のような体験だった。さすがに一番前での絶叫こそしなかったものの、こんなに最後まで楽しかったライブはいつ以来だろうと考え込んだ。その後、親しい仲間で行った勝手な打ち上げの時に、石橋氏からひとつの驚愕の事実を聞いた。グアコは結成当時から現在までギャラは完全に均等割だという。すごすぎる。
posted by eLPop at 19:19 | 高橋めぐみのSOY PECADORA

岸のりことラス・ペルラス:インタビュー 「これぞ、エンタテイメント!」後編

2016.05.26

 前編でご紹介した岸のりこのバック・コーラスとして「東京キューバンボーイズ」の公演時などに一緒に活動してきたのが、ラス・ペルラスのベアトリスこと毛利真帆とメルセデスことナナ・カンタリーナの2人だ。3人は「東京キューバンボーイズ」のツアー時などに、「何か歌がメインの新しいことをやりたい」とよく話していたそうで、岸のりこは「私と2人のコーラスではなく、3人のコーラス・ワークでできることを考えた」という。行動に移すきっかけとなったセカンド・アルバム『Doce Recetas De Amor(恋の12の料理法)』の収録曲のいくつかでその片鱗を聞くことが出来る。ラス・ペルラスはキューバやメキシコ、プエルト・リコの楽曲にこだわらず、ロネッツの大ヒット曲「ビー・マイ・ベイビー」など幅広いレパートリーを持ち、オリジナルも徐々に増やしていく方向のようだ。
 ここで、「ラス・ペルラスとはどんなグループなのか」という大切なことを説明しなければならないのだが、その前に、興味深い話が聞けた毛利真帆とナナ・カンタリーナについても少し書いておきたい。
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 毛利真帆は、「とにかく子供の頃から歌や踊りが大好きでアイドルになることを夢見る」少女時代を送り、卒業アルバムの将来なりたい職業欄に「歌手」と書いてしまうほどだった。しかし、そういう少女のほとんどは歌手にはならない。彼女も一旦は諦めかけたが、あるとき『恋のゆくえ/ファビュラス・ベイカー・ボーイズ』(1989)というジャズ・ピアニストの兄弟が女性ボーカルを入れて成功&挫折する映画を見て、「こういう生き方もあるのか!」と心機一転、働きながらジャズ・ボーカルのレッスンを受けるようになった。そして、アルバイトをしていたライブハウスで知り合ったミュージシャンのバンドにボーカルとして参加し、一気に音楽のジャンルが広がった。そこからクレイジーケンバンドの横山剣まで人脈が広がりレコーディングにも参加した。仲良くなったキーボード・プレイヤーがキューバ音楽が好きだったことをきっかけに、毛利真帆は急速にキューバと接近、旅行だけでなくボーカル修行にまで出かけることになった。
 現在はラス・ペルラスを含むいくつかのユニットで活躍中で、「好きなことはボレロやフィーリンを歌うこと。ヌエバ・トローバも好き」という彼女だが、「今後歌いたい一曲を選ぶとしたら、ビオレータ・パラの『グラシアス・ア・ラ・ビーダ(人生よ、ありがとう)』なんです。これはいつか必ず歌いたい」という希望を聞かせてくれた。岸のりことはまた違った歌の世界観を持つ毛利真帆が、『グラシアス・ア・ラ・ビーダ(人生よ、ありがとう)』を歌う日が来たら、わたしは是非その場にいたいと思う。

 3人の中で実は異色の経歴を持つのが「ピアノは習っていたけれど音楽は特に好きではなかった」ナナ・カンタリーナだ。とはいえ、プロとしての活動が一番早かったのは彼女なのだ。小学6年生の時にバンドを結成してギターを担当、中学生の時には高校生とバンドをやり、ロックからファンク・ロックの方向に向かった。ギタリストとして「フライド・エッグ・ジャム」というバンドでメジャーからアルバムを1枚リリースしている。とはいえ、本格的な歌はまだでせいぜいコーラスぐらい、今の姿からは想像できない「ミュージシャン」生活が続いた。しかし、そこから、ナナにとって遠い世界であったラテン音楽にサルサを通じて少しずつ近寄って行くのだが、そのきっかけは大阪帝国ホテルにあったサルサ・クラブ「パタパタ・デ・ラ・サルサ」への出演だった。サルサ・クラブを謳うだけあってお客さんは耳の肥えた人が多く、「サルサを聞きに、踊りに来るのに、こんなにラテンを知らないのはまずい」ということになり、バンドのメンバーと「こうなったら既成事実を作ろう」といきなり1ヶ月のキューバ旅行に出かけた。そこで痛感したのは「これは生半可な気持ちでできることではない」という当然と言えば当然なことだった。
 そこから毎年キューバに行くようになり、大阪の人気ティンバ・バンド「サブロスーラ・デル・ソニード」のメイン・ボーカルとして歌唱力と小悪魔的なルックスで人気者となった。アルバムも2枚リリースした。2005年に活動拠点を大阪から東京に移しバンドが解散した後、「ナナ・ソノーラ」というユニットで2枚のアルバムをリリースしている。「あれよあれよという間に、キューバ音楽の世界にどっぷり浸かってしまった」ナナ・カンタリーナは、「ギタリストだったので言葉から音楽に入っていない。よくも悪くも歌詞にこだわりがなくリズムが優先してしまう。でも、これからはなんとか言葉を操る歌手を目指したい」と締めくくった。
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 ラス・ペルラスはそんな3人がコミカルな小芝居を混ぜて、素晴らしいボーカルとコーラス・ワークを聞かせてくれる。バックのミュージシャンは、最早日本のラテン・ピアノの第一人者と言っても過言ではないあびる竜太、頼れるベーシストは渋谷和利、パーカッションなら何でもおまかせの伊波叔という実力派揃い。これで面白くないはずはない。わたしが初めてラス・ペルラスを見たのは、結成して3回目ぐらいのライブで、拠点としている下北沢のボデギータだったのだが、笑い転げるような珍妙な小芝居とは裏腹の高い音楽性を持ったステージに圧倒された。ジャンルをくくればラテンなのだが、ソウルやジャズ、オールディーズの要素もたっぷり楽しめる。
 現在はさらに進化していて、小芝居は縮小し歌を聞かせる部分が大きくなっている。

 2016年6月16日のスペシャル・コンサートの後半がラス・ペルラスのステージだ。今回はスペシャル・ゲストにヴァイオリンのSayakaとドラムの藤井摂が参加し、開演前と休憩時間にはsayakaとelectropicoのDJも会場を盛り上げてくれる。

岸のりこ、Las Perlas スペシャル・コンサート
〜Realidad y Fantasía〜(現実と夢)
2016年6月16日(木)
会場:JZ Brat SOUND OF TOKYO
Open 17:30
1st:Start 19:30
2nd:Start 21:00
入替なし
チャージ ご予約¥4,320 当日¥4,860
ご予約受付中:03-5728-0168(平日15:00~21:00)
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posted by eLPop at 19:33 | 高橋めぐみのSOY PECADORA

岸のりことラス・ペルラス:インタビュー「これぞ、エンタテイメント!」前編

2016.05.25

 若い人の音楽離れが語られて久しいが、実はそのことよりも、わたしは中年以上の人があまり出かけないことが気になる。さすがにオールス・タンディングやオール・ナイトは体力的に無理だとしても、たまにはライブに行きましょう!もちろん、若い人もね。
 そこで、「行きたいけれど、何に行けばいいのかわからない」とお嘆きのラテン好き諸兄姉にお勧めしたいのが、今回のインタビューに登場してくれる「岸のりこ」と「ラス・ペルラス」だ。

 わたしが岸のりこを初めて見たのは、かつて歌舞伎町にあったラテン音楽を聞かせる大型のライブ・レストラン「Cocoloco」だった。ここは海外からなかなかすごいメンバーを招聘して連日ライブを繰り広げていた伝説のお店だ。懐古譚はしたくはないが、こけら落としがティト・プエンテとセリア・クルースというあり得ない豪華さで、2000年に閉店するまでよく通った。そんなある日、今でも活動している「大高實とカリビアン・ブリーズ」の公演で噂の女(ひと)がゲストで1曲歌うらしいという情報が流れた。その噂の女(ひと)こそ、一時帰国していた岸のりこだったのだ。ベネズエラのSONYからアルバムを出していて、海外での活動が主な彼女が日本で歌うことは滅多になかったので、多くのお客さんが期待しながらその登場を待った。正直なことを言えば「本場のラテン音楽界で活躍しているなんて、怖い姐さんなんじゃないだろうか」とも思っていた。

 岸のりこは東京生まれ。タンゴやラテン音楽が好きだった父、アメリカン・ポップスやジャズをよく聞いていた兄によって自然と音楽に親しむ家庭に育った。女子美術大学でグラフィック・デザインを学んだ後、在学中から続けて来た女優/舞台美術の勉強をした。その後、女優活動の傍ら歌手としてステージに立つようになり、当時の花形ショービジネスのキャバレーでのレビュー・ショーなどにも出演。次第に歌手活動の方に仕事の重点を置くようになった。そして、70年代半ばに、当時珍しかったサルサ・タイプのラテン音楽を演奏する「オルケスタ246」に歌手として参加。さらには名門ラテン・オーケストラの「東京キューバンボーイズ」を率いていた見砂直照氏と出会い、89年の見砂氏最後の公演となったコンサートにも出演、氏が生前最後に認めたラテン・シンガーとなった。とても幸運なスタートを切ったのだ。
 キューバには84年に初めて渡航。90年から本格的に移住。コンフント・フォルクロリコでキューバ音楽の基礎を徹底的にたたき込まれる。その後、人気歌手パウリートFGがいたオプス・トレッセに参加し、音楽大国キューバで外国人としては珍しい第一線での活躍をする。93年に、国際的に活躍する指揮者の福村芳一氏からベネズエラでの活動を勧められ、ベネズエラのSONY MUSICと4年間の契約を結び、デビュー・アルバム『NORIKO』をリリース。公演先のパナマではファンが彼女の顔を大きく描いた「のりこバス」が街中を走るほどの人気を得た。その後、ニューヨークやラスヴェガスでの活動を経て2000年に帰国。日本ではDIVA NORIKOの名で歌手活動を始めた。
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 わたしのラテン系女性歌手に対するイメージの貧困も相まって、この略歴からも想像されるのはやはり、「豪快に笑う化粧バッチリのちょっと怖い姐さん」であるのだが、話は「Cocoloco」のステージに戻る。黒っぽい衣装で出てきた岸のりこは、堂々たる歌いっぷりで「Camas Separadas(離れたベッド)」を披露。あとでわかったのだがこの曲はアルバム「Noriko」に収録されていて、「のりこバス」が走っていたパナマでかなりヒットしたのであった。それがわたしの岸のりこ初体験で、思った以上の衝撃であった。見た目は予想通りの化粧バッチリのちょっと怖い姐さんだったのだが、良い意味で「この人は只者ではない」というオーラがびんびんだったのだ。その時は、口をきくことはおろか、15年後にまさか自分が彼女のアルバムをプロデュースするとは夢にも思わなかった。
 しかし、それは実現した。「うちにいてのんびり暮らす人生もありだと思うけど」と言いつつも、岸のりこは全然落ち着かない。本当のところはそういう人生にはあまり興味がないのだと思う。彼女は人生で選択を迫られたときには「必ず困難な方を選んでしまう」生活をずっと送っているのだ。2013年にセカンド・アルバム(!)『Doce Recetas De Amor(恋の12の料理法)』のコンセプトを考えたときに、とにかく彼女が好きな歌を歌ってほしかったのと、長く聞き続けられるアルバムにしたいという気持ちが強かった。なぜならば、岸のりこはそこで一旦捕まえないと、またどこかへ行ってしまいそうな人だったからだ。とにかくその時の彼女を音盤に閉じ込めようと思ったのである。結果は現物を聞いていただきたい(本音)。
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 岸のりこはこの作品で「コーラス・ワークの楽しさを再発見した」と言っているが、後編に登場するふたりの若手と結成したラス・ペルラスの原型はこのときに出来ていたのだ。「1曲は1幕の芝居のようなもの。今後は芝居のような歌のような、そんなステージをやってみたい」という。それはファンとしては大いに望むところ。「化粧バッチリのちょっと怖い姐さん」に見えた人は、実は心根の優しい人であり冒険者でありカルメンとして「永遠の29歳」を演ずる挑戦者だったのだ。

 2016年6月16日のスペシャル・コンサートの前半はこの岸のりこのステージだ。後半のラス・ペルラスの誕生などは後編に続く。

岸のりこ、Las Perlas スペシャル・コンサート
〜Realidad y Fantasía〜(現実と夢)
2016年6月16日(木)
会場:JZ Brat SOUND OF TOKYO
Open 17:30
1st:Start 19:30
2nd:Start 21:00
入替なし
チャージ ご予約¥4,320 当日¥4,860
ご予約受付中:03-5728-0168(平日15:00~21:00)
posted by eLPop at 19:32 | 高橋めぐみのSOY PECADORA

リレー実録:ケ・パソー?¿Qué pasó? 〈4〉軽い足取りの男

2015.04.07

 美しいコートダジュールの海岸線、建ち並ぶグランメゾンのブティック、その堂々たる姿を見せつける5つ星のクラシカルな有名ホテル群、映画祭の頃には女優のたまご達が一縷の望みに賭けてトップレスで闊歩するらしい街、カンヌ。
 わたしは一時期毎年そのカンヌに通っていた。もちろん仕事でだ。しかし、通っていた1月は南仏とはいえ冬。パリに比べれば寒くはないが、日によっては風がビュウビュウ吹いたり雨がザーッと来たりして、ゴージャス感はあまりない。ただ、物価は高めでも店の人も住人達も外国人になれていて、おしなべて感じの良い平均的なサービスが受けられるのは良いところ。そして、地図を見ればわかるのだが、イタリアが近いのでとても美味しいイタリア料理が食べられることも美点。創業100年以上の素晴らしいデリカテッセンがあること、しけたホテルでも朝食のクロワッサンは毎日焼きたて、カフェのサラダは山盛りで美味しい、と「食」についてはいいことずくめの街。

 さて、そんな素敵なカンヌでわたしは4日間で体重が2キロ減るようなハードなスケジュールをこなしていた。その日もクタクタになって、仕事の会場パレ・デ・フェスティバルからホテルまでの道をとぼとぼと歩いていた。その時、こちらに向かって歩いてくる細身のまあまあ若く顔の幅の狭い男。フットワークが軽い。ダンスでもやっていそうなすごくスタイリッシュな歩き方。
「あれ、誰だっけ。わたしはあの人を知っている」
仕事で何十人もの人に会うので「絶対知り合い」だと思ったのだが、名前と会社名が思い出せない。男はどんどん近づいてくる。
「え〜と。まあ、笑って挨拶だけしておこう」と思い、すれ違う間際に笑顔を作りかけたら、相手はちょっと妙な表情に。
 
 その瞬間わかった。

 知り合いじゃなかった。
 その人は、その夜兄マイケルと共にショーケースに出演する「The Bacon Brothers」のケヴィン・ベーコンだった。と言うよりも、『フットルース』の人と言ったほうがわかりやすいか。ミュージシャンとしてでなく俳優として有名だ。初めてすれ違ったハリウッド・スター。

 まあ、それだけの小粒な話な上に、ラテンとは何の関係もないわけですが、ケヴィン・ベーコンは今や代表作がたくさんある名優。『ワイルド・シングス (Wild Things)』、『ミスティック・リバー (Mystic River)』、『秘密のかけら (Where the Truth Lies)』、『狼の死刑宣告 (Death Sentence)』など、好みが分かれるパンチ映画だけど、面白いですよ。
最近、彼が主演の『フォロイング (The Following)』というドラマにはまったので書いてみました。

 ちなみに、「The Bacon Brothers」のショーケースには行きませんでした。
 すんませ〜ん!
posted by eLPop at 20:32 | 高橋めぐみのSOY PECADORA

リレー実録:ケ・パソー?¿Qué pasó? 〈2〉後光がさす男

2015.03.16

 さて、このところ何かと話題のキューバであるが、インターネットで何でもわかっちゃう現代でも、彼の地には行ってみないとわからないことが今でもけっこうある。そのひとつが建物。世界遺産になっているハバナ旧市街でなくても、クラシカルなホテルやなんだか由緒正しそうな立派な建物や、「高級住宅地」にはおとぎ話に出てきそうなかわいいお屋敷がごろごろしている。最近では「今後」の値上がりを期待して不動産市場は活況を呈しているというような話も聞くが、かつては「がんばれば買えるかも」というお値段の物件もあり、夢も希望ももはやどうでもよくなったわたしのようなオバハンでも「ミラ・マルのサーモンピンクのお屋敷ほしい」と思ってしまったぐらいだ。
 今回のお話はそんなハバナの立派すぎる建物のひとつ「Teatro Amadeo Roldán(以下、アマデオ・ロルダン劇場)」の楽屋口あたりでのエピソード。
 
 本題に入る前に、物語を秘めているアマデオ・ロルダン劇場について少々。この劇場は1929年に建てられ現在も使われている中規模(約900席)の劇場で、国立キューバ交響楽団の拠点となっている。1977年に放火によって相当なダメージを受けたが1999年に修理を終えて再開した。
 この劇場の名前になっているアマデオ・ロルダン(1900-1939)はパリに生まれマドリードで学んだキューバ人ヴァイオリニスト/作曲家だ。ハバナに移り住んだ1920年代に異例の若さでハバナ交響楽団のコンサート・マスターになり、32年には指揮者になっている。ロルダンはまだこれからという38歳で病死してしまうのだが、彼の業績で特筆すべきは「アフロ・キューバン」の文化をクラシック音楽に積極的に取り入れたことだ。特に、アフロ系の祭のリズムを取り入れたバレエ組曲『ラ・レバンバランバ』は有名だ。世代的には作家のアレホ・カルペンティエル(1904-1980)とほぼ同世代なので、まさに「アフロクバニスモ(キューバ文化におけるアフリカ的側面)」の研究が盛んになった時代ではあった。
 ロルダン亡き後、彼が成し遂げようとした音楽はアレハンドロ・ガルシア・カトゥルラに託された。ガルシア・カトゥルラは16歳でハバナ交響楽団の第2ヴァイオリンに抜擢される才能の持ち主で、その後フランスに留学し、弁護士業(後には裁判官)の傍ら音楽の仕事を続けた。前述のカルペンティエルが彼のオペラ作品にリブレット書いている。しかし、なんと彼はロルダンの後を追うかのように1940年にたった34歳で死んでしまう。しかも、その日に収監が決まっていたチンピラに殺されるという悲劇的な最後だったのだ。

 さて、長〜い前置きになったが、ある日のハバナ、わたしは用事があってアマデオ・ロルダン劇場に行った。その日はちょうど音楽フェスティバルが行われていたので、大勢の人が劇場周辺にいた。美しい建物に見とれつつ楽屋口を探していたところ、ごちゃごちゃした人混みの中に一ヶ所なんだか光が差しているように輝いて見える場所があった。ウソでも誇張でもなくそこだけがカリブの陽光の中、さらにスポットライトが当たっているように見えたのだ。
 「なにごと?(まさに¿Qué pasó?)」と思って近づいてみると、光の中には、常夏の島なのにちょっと大袈裟なコートを着たおばちゃんパーマの様なヘアスタイルにメガネの太り気味のおっさんがいた。こういっては何だがわたしは仕事に関わるミュージシャンはどんなに世界的に有名な人でも声をかけることにまったく緊張しないのであるが、このときは完全に固まってしまい、そのおっさんにさらに近づくことも声をかけることができなかった。白昼の金縛りである。
 
 もう、おわかりですね。その光り輝くおっさんはシルビオ・ロドリゲスとともにヌエバ・トローバを代表するシンガー・ソングライター、キューバだけでなく、カリブ・中南米諸国で絶大な人気を誇る素晴らしいメロディ・メーカー、パブロ・ミラネスだったのである。『Yolanda』『Para vivir』『Buenos dias America』『El amor de mi vida』『Amame como soy』など大ヒット曲は枚挙に暇がない大巨匠。
 後に一緒に仕事をした彼の娘、アイデーによれば「けっこう普通の人」だそうだが、あんなにすごいオーラを放っている人を見たのは後にも先にもあのときだけ。
 暑さにやられたわけではなく(多分)、本当にパブロ・ミラネスは光って見えたのだ。

 〈完〉
posted by eLPop at 19:59 | 高橋めぐみのSOY PECADORA