Top > 高橋めぐみのSOY PECADORA
INDEX - 目次
目次
【こういう人が日本にもいるんです〜スペイン語と映画に生きるLa Doña Setsu】
【ペドロ・アルモドバルの映画と音楽】
【世紀の大傑作小説「2666」の著者、ロベルト・ボラーニョと音楽】
【私はいかにしてラテンにハマったのか?】

欧米の隅々 市河晴子紀行文集、7ボックス

2023.08.03


読んだ本:
欧米の隅々 市河晴子紀行文集(2021 元の書籍の執筆は主に1930年代)
編者:高遠弘美
素粒社

81rNbcikHXL.jpg

https://soryusha.co.jp/books/009_obeinosumizumi_910413082/

 わたしはただただ圧倒されています。この市河晴子という人に。

 先に言ってしまうと晴子はかの渋沢栄一の孫(母が娘の歌子)で、1986年に生まれ1943年に亡くなっています。東京女子高等師範学校(現・お茶の水女子大学)卒業後、19歳で10歳年上の英語学者の市河三喜(日本人初の東京帝国大学英文科教授)と結婚します。

 個人的には、渋沢栄一にあまり興味はないものの、その孫の渋沢敬三が自宅に「アチック・ミューゼアム(屋根裏博物館)」を開設し、多くの民俗学者を育て、岡正雄、宮本常一、網野善彦らに援助を惜しまなかったこと、さらにそのコレクションは、現在吹田の国立民族学博物館の収蔵資料となっていることは知っていました。

 渋沢栄一は、ウィキペディアに曽孫から先の玄孫(やしゃご)、来孫(らいそん)まで記述があり、日本の中枢に大勢の子孫を送り込んでいるので、まさに渋沢一族恐るべしではありますが、とりあえず晴子と敬三が生まれてくれたことは喜ばしいです。

 この本の主な部分は、第二次世界大戦が勃発する10年前の1931年に、夫の欧米諸国視察の旅に同行した際の紀行文です。日本女性が見た欧米というその内容の新鮮さから、発表当時にも大きな反響があり、なんとイギリスとアメリカでも出版されたというのは驚きです。

 市河晴子のすごいところは、とにかく博覧強記、とてつもない教養の持ち主で且つ好奇心が強く、興味を持ったらどんどん入り込んで行くような行動力です。そして、今で言うところのフェミニズム的な考え方の人でもあり、物事を公平に見ています。その文章は時にユーモラスで、時に辛辣に船旅やヨーロッパの国々を縦横無尽に駆け巡ります。100年近くも前のことなのに、少しも古びたところがなく、読む者の旅心を刺激します。

 もちろん、当時の日本でこのような境遇にあるというのは、ごくごく一部の恵まれた人々だけであり、彼女もそのひとりであったことは言うまでもありません。しかし、彼女がその類い希なる資質とこの文章力を持たない、ただの富豪の令嬢であったら、この本を今読むことは出来ませんでした。そこが一番肝心なところです。

 引用したい文章が盛りだくさん過ぎて困るものの、やはりわたしはこの「スペインに入る」の冒頭を記しておきます。

「黒ビロードの上に、ルビーをばらまいてスペインを想え。鑢紙の上に鮑貝を伏せてスペインを想え。荒涼と絢爛との卍に入り乱れた国。光と影、寒暑、貧富、愛憎、全ての物が偏在してその極端から極端へと飛び移る国。ほどのよいとかほんのりとか中庸などという生温い味は、ただしめっぽい国に、黴と共にのみ存在を許させる」

 常に現実的で実際的な晴子の文章にしては、やや詩的なのですが、非情に的確にスペインという国を表しています。
 
 長生きしてくれたら、戦後も様々な物を見聞きして素晴らしい文章を遺してくれたであろう市河晴子は、たったの46歳でその生涯を閉じてしまいます。その経緯を知ったとき、わたしは唖然として悲しさと悔しさを押さえることが出来ず、ひとり大声で「ええええ〜〜〜」と絶叫しました。

 この本の元となったほぼ忘れられていた晴子の本を、編者でフランス文学者の高遠弘美氏が、2006年に神保町の古書店で偶然手に取るエピソードも、鳥肌が立つようなすごい話なので、「はじめに」と「解説」もお読みください。


観た映画:
7ボックス(原題:7 Cajas)2012 パラグアイ
監督:フアン・カルロス・マネグリア(Juan Carlos Maneglia)、タナ・シェンボリ(Tana Schémbori)
出演:セルソ・フランコ(Celso Franco)、ラリ・ゴンサーレス(Lali Gonzalez)

7cajas.jpg

https://www.imdb.com/title/tt2333598/

Amazon Prime Videoで視聴可能

 映画産業はあまり盛んではないといわれている南米パラグアイの映画です。本作は、スペインのサン・セバスティアン国際映画祭のコンペティション作品として出品され、Cine en Construcción賞を受賞しました。2012年に公開されるやいなや、それまで一位だった『タイタニック』を超えて、パラグアイの映画興行成績を塗り替え、批評家だけでなく一般の観客からも強い支持を得ました。

 物語はごくシンプルですが、侮れないスピード感と面白さに満ちていて最後まで一気に観てしまいます。

 時は2005年、首都アスシンオンの有名なメルカド4(市場4)で、粗末なネコ台車で運搬の仕事をしている17歳のビクトルは、ライバルのネストルがある理由で遅刻したために、7つの箱を運ぶ仕事を得ます。運び賃は破格の100米ドルですが、半分に裂いた100ドル札の片方を渡され、無事配達が終わったら残りを渡すと言われます。その時点で、めちゃくちゃうさんくさい。

 カメラ付きの携帯電話がほしくてたまらないビクトルは、とにかく箱を送り届けようとするのですが、仕事を取り戻そうとネストルが組織した荒くれ運び屋集団や、完全に犯罪者の依頼主周辺、そして少々ぼんくらな警察が要り乱れて大混乱となります。そもそも、箱には何が入っているのか?物は途中でわかりますが、理由は不明のまま追跡劇は続きます。

 果たしてビクトルは箱を届けて、携帯電話が買えるのか!?

 ビクトルを助けたり邪魔したりするリズ(演じるラリ・ゴンサーレスは今や大スター)、ビクトルの姉のタマラ、そのタマラに気があるので必然的に活躍してしまう韓国系青年のジム、最後の方にちょっとだけ出てくるトランス女性(演じるベト・アラヤはパラグアイを代表するダンサー)など魅力的な出演者と、超弩級の面構えの悪役の皆さんとの対比もすごくて飽きません。

posted by eLPop at 13:48 | 高橋めぐみのSOY PECADORA

花びらとその他の不穏な物語、アルゼンチン1985〜歴史を変えた裁判〜

2023.05.26

読んだ本:
花びらとその他の不穏な物語(原題:Pétalos y otras historias incómodas 2008(日本での出版は2022)
著者:グアダルーペ・ネッテル(Guadalupe Nettel)
翻訳:宇野 和美
現代書館
ISBN978-4-7684-5931-7.jpg
http://www.gendaishokan.co.jp/goods/ISBN978-4-7684-5931-7.htm

 短編集『赤い魚の夫婦 (El matrimonio de los peces rojos)』で読者の度肝を抜いたグアダルーペ・ネッテルの第二弾が、同じ翻訳者で発売されました。執筆年は今回の『花びらとその他の不穏な物語』の方が早いのですが、何とも言えない不穏な(incómoda)雰囲気はしっかりと確立されています。強いて言えば、本作の方がもやもやとした不穏さはより強いと言えるでしょう。

51BRRJoZ6ML._SX336_BO1,204,203,200_.jpg

 収録されているのは、「眼瞼下垂」「ブラインド越しに」「盆栽」「桟橋の向こう側」「花びら」「ベゾアール石」の6作品です。誰にでもある(かもしれない)、他人には言えない奇妙な癖や嗜好、思い込みを持った人々が主人公です。それだけでちょっと怯んでしまう方もおられるかも知れませんが、「大丈夫、とにかく読んでみて」と言っておきます。

「眼瞼下垂」は、まぶたが垂れ下がり見えにくくなったために、形成外科手術を受ける患者の術前と術後を撮影する写真館の息子の話です。彼はある術前の瞼に強く惹かれてしまいます。さてどうする?

「ブラインド越しに」は、通りを隔てた向かいに住む男をのぞき見ることがやめられない女の話。男の行動が超弩級ではないものの図抜けて変態的です。

「盆栽」は、日本が舞台のお話で、村上春樹の影響が伺われると言われている作品。村上春樹を読んだことがないので、そういうことなのか、と思うことしかできないのですが、馴染みの植物園の園丁に示唆されて自らをサボテン的である思い、妻との関係が悪い方向に変化して行く男の話です。

 わたしが一番好きなのは、次の「桟橋の向こう側」。〈ほんものの孤独〉を求める少女が、叔母夫婦の買った離島のしょぼい別荘で過ごすひと夏。ワケありのフランス人少女との交流もあり、どうにも面倒臭く子供でありながら、少し大人びてもいるローティーンの切なさがたまらない。中学の時の友人で、今はまったく交流がなく消息も不明のMさんを思い出しました。

 表題作の「花びら」は、女性トイレの(臭いを含む)痕跡を探し回る男の話。ある日、理想的な痕跡に出会い「それ」に「フロール」と名付け、遂にその主と出会うのですが...。読後にどんな感情を抱けばいいのか、正直戸惑いました。渦巻くような且つ大胆ではない変態的な行動の果ての「無」とでも言っておきます。
 「ベゾアール石」は抜毛症の少女が、ある男と出会い散々な目に遭い、出口のない入院生活を過ごす病室で書いている手記という体裁の話。抜毛症は思春期の女性に発症することが多い強迫症の一種で、重症の場合は全身の毛を抜きたくなるという病。読んでいて息苦しくなりますが、ある種の清々しさも感じる作品。

 奇癖悪癖、あるいはフェティシズム、人には言えない、言わない方がいい秘密は,多分誰もが持っているでしょう。好き嫌いは分かれるかも知れませんが、とにかく全編、妙に引き込まれる物語ばかりです。次は長編が読んでみたい作家です。


観た映画:
アルゼンチン1985〜歴史を変えた裁判〜(原題:Argentina 1985)2022
監督:サンティアゴ・ミトレ(Santiago Mitre)
出演:リカルド・ダリン(Ricardo Darín)、ピーター・ランサニ(Peter Lanzani)
https://www.imdb.com/title/tt15301048/
Amazon Prime Videoで視聴可能

81Tn8TO20bL._RI_.jpg

 わたしが初めてアルゼンチンを訪れたのはもう30数年前のことで、冷静になってみるとこの映画の裁判(Juicio a las Juntas)が行われて間もない時でした。一観光客には何の影響もないことではありますが、今思うとちょっと背筋が寒くなります。
 
 この映画は、軍事独裁政権の弾圧に対する裁判を映画化した作品です。その弾圧とはいったいどういうことだったのかを細かく解説すると、とんでもない文字数が必要になるのと、未だ完全に解決したとは言えないことなので、簡単な説明にとどめます。

 現在は民主国家であるアルゼンチンは、1976年から1983年の間、国家再編成プロセスという名の下に軍事独裁政権下にありました。そこでは組織的で大規模な弾圧と人権侵害(拉致拘束、性的虐待を含む拷問、自白の強要、関係のあるなしに関わらず友人知人の密告など)が行われました。ほとんどの人は証拠のない告発やイデオロギーを元に行われた強制的失跡(desaparecidos)によって、突然姿を消し、現在でも多くの行方不明者がいるだけでなく、正確な犠牲者の数は今もわからないままです。また、妊娠中だった女性は、獄中で出産した子供を取り上げられ、その子供は軍関係者の養子にされました。映画の中にも出てくる白いスカーフを身につけた女性達は、「5月広場の母たち(Madres de Plaza de Mayo)」という行方不明者の家族会で、今も活動を続けています。彼女たちが探しているのは、息子や娘だけではなく、生まれたはずの孫たちの捜索も訴えています。

 今までも、この暗黒の時代とそれがもたらした出来事は何度も映画化されています。わたしが覚えているだけでも、出自が明らかでない養女を巡る『オフィシャル・ストーリー(La Historia Oficial)』(1985)、実際に拉致された青年の著作の映画化の『ナイト・オブ・ペンシルズ(La noche de los lápices)』(1986)、獄中生活を送った主人公の心情を描く『スール その先は...愛(Sur)』(1988)、亡くなった母の秘密を知ってしまう少女の心の変化『瞳は静かに(Andres no quiere dormir la siesta)』(2009)などが挙げられます。いずれも機会があったら鑑賞していただきたい良い映画です。

 さて、前置きが長くなりましたが、本作は1985年に行われた軍事独裁政権に対する裁判の映画です。元大統領のビデラを含む、あまりにも強大な権力を相手にするために、検察側の人選が難航します。引き受けたただ一人の検察官が、名優リカルド・ダリン演ずる本作の主人公、フリオ・セサル・ストラセラ検事でした。さらに彼を補佐する副検事に、裁判未経験のルイス・モレノ・オカンポが決まりますが、彼の家族は軍を支持する立場を取っていました。難しい証言や証拠を集めるために多くのスタッフが必要ですが、皆軍部を恐れているため集まりません。なんとか手配できたのは、法学部の学生だった若者たちでした。

1673319374676-9eoDAUsrXk.jpg

 もちろん、ストラセラ検事は何度も脅迫に遭います。時間がない中、いったいなぜそのような恐ろしい拷問や殺人が行われた理由を突き止めることが出来るのか、必死で裁判を進めていく彼等に勝機はあるのか、とハラハラしますが、これは歴史的な事実なので心配は要りません。勝ちます!

 とにかくテンポが素晴らしく、登場人物の心の内も表しながら、物語はどんどん進みます。生還者の恐ろしい証言や、実際の映像も使われ臨場感もたっぷりです。

1673319311611-fwUTPuJWZJ.jpg

 今のアルゼンチンではこのようなことは起きていません。しかし、国民はこのことをずっと背負って生きているのだと思います。歴史を塗り替えることは出来ませんが、忘れずに心に留め置くことは出来るのです。それは、他のどの国にも言えることで、たとえそれが辛く悲惨なものだとしても、歴史から学ぶことは本当に大切だと気づかされる傑作映画です。

→目次に戻る
 
posted by eLPop at 18:57 | 高橋めぐみのSOY PECADORA

「ブエノスアイレスに消えた」グスタボ・マラホビッチ

2023.04.03


グアダルーペ・ネッテルの『花びらとその他の不穏な物語』と、ホセ・レサマ=リマの『パラディーソ』を紹介しなければいけないという使命感に燃えてはいるのですが、諸般の事情で叶わず状態なので、思わぬ拾いものだったアルゼンチンのミステリを紹介いたします。

読んだ本:
ブエノスアイレスに消えた(原題:El jardín de bronce 直訳:ブロンズの庭園)2012(日本での出版は2015)
著者:グスタボ・マラホビッチ(Gustavo Malajovich)
翻訳:宮崎 真紀
ハヤカワ・ポケット・ミステリ

eljardindebronce.jpg

https://www.hayakawa-online.co.jp/shopdetail/000000012710/author_MAgyo_MI_4085/page1/disp_pc/

 本作は、本国アルゼンチンのみならず、スペイン語圏で評判になったミステリです。著者のマラホビッチは、主人公同様に建築学んだものの、その後映画やテレビ番組の脚本家として活躍して、本作で華々しく作家デビューという経歴の持ち主なので、出版時にシリーズ化の構想があったという用意周到さがにじみ出ている作品です。2017年にはHBO (Latinoamérica)でドラマ化されています。さすが、業界人というところでしょうか。

 物語は、ブエノスアイレスの晩秋、建築家ファビアンの娘とペルー人のベビーシッターが、友だちのバースデーパーティに出席するために地下鉄に乗り、忽然と姿を消すところから始まります。警察の捜査も遅々として進まない中、元々微妙だった妻との関係もこじれていきます。さらなる不幸が重なり業を煮やしたファビアンは、バローロ宮殿(モンセラート地区にある100年前に建てられた有名な高層建築)に事務所を構える探偵を雇い、自らも捜査を始めます。この探偵は一見怪しげですが、クセのあるいいキャラクターです。すると、次々に手がかりを得ます。しかし、恐ろしい殺人が起き、娘を発見するには至りません。そもそも、誘拐だとしても、なぜ娘がいなくなったのか、その理由も掴めないのです。妻との顛末や、事件の発端から展開していく不安要素の散りばめ方が巧みで読ませます。

 そして、数年が経ち、捜査を諦めかけ、昔取った杵柄でバレボールを再開していたファビアンに新たな展開が訪れます。娘を探して、大河の流れる奥地に向かうことになった彼を待っていたのは、想像もしていなかった忌まわしい過去と.......。

 正直長いです。饒舌な語り口というよりも、途中「これは要るのか?」と少々首をひねるちょっと冗長な描写に、うんざりしてしまう人もいるかもしれません。しかし、映像関係出身の人だけあって、表現がとてもビジュアル的で、状況が画像として浮かんできます。これはなかなか面白い特長です。そして、話の展開は全く予想がつきません。この二点で「長いけど読ませてしまう」作品に仕上がっているのではないでしょうか。

 著者は、主人公はなるべく「普通の人」として描くよう心がけたとのことですが、そのせいかアルゼンチンならではのペルーやパラグアイの人々へのちょっと差別的な意識なども、包み隠さず書かれています。ファビアンもその他の登場人物も正義の人でもスーパーヒーローでもなく、確かに「居そうな人」です。ただし、犯人はトラウマ級におぞましい。
  

「2月はこれだ」目次に戻る
http://elpop.jp/article/190261244.html
posted by eLPop at 13:23 | 高橋めぐみのSOY PECADORA

アルモドバルの意欲作『パラレル・マザーズ』

2022.12.14

待ちに待ったペドロ・アルモドバル監督の新作『パラレル・マザーズ』の紹介です。

観た映画:
パラレル・マザーズ(原題:Madres paralelas)2021(日本公開2022)
監督:ペドロ・アルモドバル(Pedro Almodóvar)
出演:ペネロペ・クルス(Penélope Cruz)、ミレーナ・スミット(Milena Smit)
https://pm-movie.jp/
予告編https://www.youtube.com/watch?v=GPzHnU4czY4
pm.jpg
 その長いキャリアの中でアルモドバルが度々取り上げてきたテーマは「家族」。中でも「母と娘」の関係は定番と言ってもいいほど何度も取り上げ、様々な形で描いてきました。そして、正面切って取り上げてこなかったテーマが「スペイン内戦(スペイン市民戦争)」(註参照)です。今回はそのふたつのテーマが一見すると別項目のように、しかし実は細く長い鎖のように繋がって据えられています。
 仮にスペインの近代史にまったく親しんでいない人がこの映画を観たとしても、ちんぷんかんぷんではないと思いますが、可能であれば最低限の知識はつけた状態で観ていただきたいと思います。その意味で劇場で販売されているプログラムの柳原孝敦氏のテキストは必読です!読むと読まないのとでは内容への理解度がまったく変わると思います。ちなみに筆者のスペインの友人の間でもこの件は非情にデリケートで、親や祖父母が戦死あるいは虐殺された人がいる反面、祖父がファランヘ党(フランコの政党)支持者だった人もいるので、(万が一)話題にする際には今でも本当に気を遣います。
 
 本作は、まず、写真家のジャニス(ペネロペ・クルス)が撮影で知り合った法医学考古学者のアルトゥーロに、曾祖父との他の村民が葬られている可能性がある故郷の野原の発掘を依頼するところから始まります。ふたりは親密になりジャニスは妊娠しますが、病気の妻がいるアルトゥーロとは別れます。その後、彼女は出産のために入院している病院で、アナ(ミレーナ・スミット)という10代のシングルマザーと知り合い、ほぼ同時にふたりとも女の子を出産します。産まれた娘を訪ねてきたアルトゥーロに会わせると、彼は怪訝そうに「自分の子供ではないと思う」と言います。確かにお互いに白人である2人に反して、娘のセシリアはやや浅黒い肌と切れ長の目を持っています。そこで、ジャニスは「これは名前もわからない私の父に似たのだ」と言います。彼女の父は、ヒッピーだった母がイビサ島で知り合ったベネズエラ人だと聞かされていたのです。
 さて、ここでまた余談になりますが、世界的なヒッピー・ムーブメントは一般的に1960年代後半に起こりますが、スペインではフランコ政権の弾圧のため、10年遅れてやってきました。ジャニス(ジャニス・ジョプリンから取られた名前)が生まれた頃にやっとヒッピー文化が花開いたのです。
 実家に戻っていたアナと連絡を取ったジャニスは、やがてその娘であったアニータがすでに亡くなっていることを知ります。そして、アナはジャニスのアパートメントに転がり込み、セシリアの面倒を見ながら一緒に暮らします。子供が病院で取り違えられたという疑いを持ったジャニスによって、DNA検査の結果が明らかになります。
 物語はジャニスとアナの関係や、女優であることを追求するために家族を顧みられなかったアナの母親のことを描き、やがて集団墓地と思われるジャニスの故郷の発掘が行われます。果たしてそこは本当に墓地なのでしょうか。二人の母を持つ娘セシリアのはどうなるのでしょうか。
 見事に描かれた「家族とは血縁だけではない」ことを教えてくれるアルモドバル。母と娘の物語、そして内戦の傷痕は、最後に寒気がするようなシーンで終わります。
 
 さらなる余談ですが、イスラエル・エレハルデが演じるアルトゥーロは、アルモドバル映画史上もっとも平凡でボンクラ感溢れるナイスガイで、毎度お馴染みロシィ・デ・パルマ演じる雑誌の編集長はやたらかっこいいのでした。

註:スペイン内戦(Guerra Civil Española)は、1936年から1939年まで第二共和政期のスペインで発生した内戦、スペイン市民戦争とも言う。マヌエル・アサーニャ率いる左派の共和国人民戦線政府(ロイヤリスト派)と、フランシスコ・フランコを中心とした右派の反乱軍(ナショナリスト派)とが争い、反ファシズム陣営である人民戦線をソビエト連邦、メキシコが支援し、欧米市民文化人・知識人らも数多く義勇兵(国際旅団)として参戦、フランコをファシズム陣営のドイツ、イタリア、ポルトガルが支持して直接参戦した結果、1939年にフランコ側が勝利。 その後、フランコの死の1975年まで独裁政権が続き、人民戦線派の残党の処刑は2万人以上と言われ、未だに行方不明者が多くいる。詩人のフェデリコ・ガルシア・ロルカが内戦勃発直後に銃殺されたことは有名。独裁政権は、バスク、カタルーニャ、ガリシアなどの言語の使用禁止などの自治の弾圧を招いた。また、国際旅団にアンドレ・マルローやアーネスト・ヘミングウェイが参加していたことも知られている。
posted by eLPop at 18:03 | 高橋めぐみのSOY PECADORA

さようなら「岩波ホール」&『歩いて見た世界 ブルース・チャトウィンの足跡』

2022.06.30

 日本におけるミニシアターの草分けである神保町の「岩波ホール」が2022年7月29日をもって閉館する。エキプ・ド・シネマ運動(註1)によって、商業ベースに乗りにくい作品を上映し、長く映画好きに親しまれてきた。個人的には足繁く通っていたわけではないが、生涯忘れられないいくつかの作品に出会うことができた。
 例えば、初めて岩波ホールで観たのはフランス映画好きの亡父が連れて行ってくれた『大いなる幻影』(1937年 ジャン・ルノワール監督作品)で、1976年のことだった。これが一生忘れられない素晴らしい映画で、ジャン・ギャバンが一応主演ではあるが、脇を固めたピエール・フレネーとエリッヒ・フォン・シュトロハイムの印象が強烈で、思い出すときに私の記憶にはジャン・ギャバンはまったく出てこないほどだ。第一次世界大戦が舞台のルノワール監督曰く「リアルな」戦争映画で、監督も一部の俳優陣も従軍経験があり、従来とは違った戦いの姿を描き出した傑作映画だ。
 他にも『惑星ソラリス』、『家族の肖像』、『ルードヴィヒ』、『山猫』、『八月の鯨』、『ハンナ・アーレント』、『ピロスマニ』など忘れたくても忘れられない映画体験をさせてくれた作品が思い起こされる。
nomad.jpg
nomad_back.jpg
 その岩波ホールの最後の上映作品が、ヴェルナー・ヘルツォークの『歩いて見た世界 ブルース・チャトウィンの足跡』(2019年 原題:NOMAD in the footsteps of Bruce Chatwin)だ。この映画が観られるとわかった時点で号泣した人も少なくないと信じたい。ブルース・チャトウィン(1940-1989)はイギリスの旅行作家で、小説家、ジャーナリストだ。10年余りの作家としての短い活動期間に、これまた私が生涯手元に置いておきたい作品を何作か発表している。その代表作である『パタゴニア』(1977年 原題:In Patagonia)は、いつまでも光り輝く宝石の様な作品だ。子供の頃に自宅のキャビネットに飾られていた品の中に「プロントザウルスの毛皮」と言われるものがあり、それは彼の祖母の従兄が、チリ側のパタゴニアの洞窟で発見し一部を送ってきた物だった。その毛皮がチャトウィンの旅心に小さな火を灯し、その火はいつしかその人生をも決定づける燃えさかる炎になっていく。実際にパタゴニアを旅しながら語られる細かいエピソードも全部おもしろいので、少しでも興味を持たれた方はぜひご一読いただきたい。
 『パタゴニア』が高く評価され旅行作家の地位を確立したかに見えたチャトウィンだが、彼の本領は物語を語ることだった。彼も時々奇蹟的に現れる「天性のストーリーテラー」だった。ブラジル人が西アフリカで奴隷商人となる『ウイダーの副王』(1980年 原題:The Viceroy of Ouidah)は、1987年にヘルツォーク監督によって『コブラ・ヴェルデ』というタイトルで映画化されている。さらに、晩年の大著『ソングライン』(1987年 原題:The Songlines)は、オーストラリアのアボリジニの人々の文化である目には見えない道「ソングライン」に導かれ旅をした、フィクションとノンフィクションの境目のような紀行文学の傑作だ。

 実は、私が初めて読んだチャトウィンの作品は最後の作品である『どうして僕はこんなところに』(1989年 原題:What am I doing here?)で、原語で読破できた2冊目の本になったものだ。エッセイとごく短い物語などで構成されていて舞台もさまざまだが、チャトウィンのエッセンスがぎゅっと濃縮したような作品だ。邦題は直訳で「僕はここで何をしているのだろう?」の方が内容と合っていると思うのだが。
 さて、『歩いて見た世界 ブルース・チャトウィンの足跡』がどんな作品かというと、チャトウィンの生前親交のあったヘルツォーク監督が、彼の人生を辿るように作られていて、監督本人のナレーションに加え、チャトウィン自身の朗読による作品紹介、妻エリザベスをはじめとした縁のある人々へのインタビューなどで構成されている。生前撮影された映像や旅先の写真なども豊富に紹介される。
 私は幸いにも若い時にパタゴニアを旅した。チャトウィンのルートを辿ったわけではないが、彼が魅了された化石を多く展示しているラプラタ自然史博物館を訪れることが出来て、巨大なアルマジロのような古代生物の標本は見ている。当時は物凄い数の標本に辟易したのであるが。
 放浪癖がなくても、伝説や物語に興味がなくても、ぜひ『歩いて見た世界 ブルース・チャトウィンの足跡』を観てほしい。人がなぜ旅をするのか、未知のものに心惹かれるのか、さらに考えたくなる映画だから。

註1 エキプ・ド・シネマ運動の定義(ウィキペディアより):
※ 日本では上映されることの少ない、アジア・アフリカ・中南米など欧米以外の国々の名作の紹介。
※ 欧米の映画であっても、大手興行会社が取り上げない名作の上映。
※ 映画史上の名作であっても、何らかの理由で日本で上映されなかったもの。またカットされ不完全なかたちで上映されたもの。
※ 日本映画の名作を世に出す手伝い。
posted by eLPop at 17:30 | 高橋めぐみのSOY PECADORA