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濱田滋郎先生を送る

2021.04.07

3月21日、濱田滋郎先生が亡くなった。スペイン、ラテンアメリカそしてギターの音楽に関心を寄せる人であれば、きっと濱田滋郎筆による音楽評論に触れたことがあるはずだ。私は中学生のころから濱田作品の強い影響を受けていたが、東京外大非常勤講師として教壇に立った濱田先生から直接教えを受ける幸運にも恵まれた。ライターとして活動するきっかけも濱田先生の紹介によるものだ。濱田滋郎を師と仰ぐ人は世の中にたくさんいるだろうが、私にとっては本当の師匠であったと思っている。

濱田滋郎著作の多くは雑誌連載あるいはライナーノーツとして発表されたものであり、その膨大な業績からすれば単行本は案外少ない。『エル・フォルクローレ』(晶文社、1980)、『スペイン音楽のたのしみ』(音楽之友社、1982。改訂新版2013)、『フラメンコの歴史』(晶文社、1983)の3冊が代表作だ。その分野の入門書として今も私たちに多くを教えてくれる名著である。

濱田滋郎『スペイン音楽のたのしみ』音楽の友社
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https://www.amazon.co.jp/dp/4276371082/ref=cm_sw_em_r_mt_dp_P844HJXW8X16GC4CCH7P

濱田滋郎『フラメンコの歴史』晶文社
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濱田滋郎 『エル・フォルクローレ』晶文社
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いずれも情報がぎっしりつまった概説部分は読みやすいとはいえない。それを必要とする読者が該当箇所だけを事典的に使ったとしても、著者はきっと許してくれるだろうと思う。濱田滋郎ワールドに奥深く分け入りたいと願う人には、まず「じっくり拾い読み」することをお勧めしたい。掘るべき鉱脈は、アーティストの芸風、スペイン・ラテンアメリカの人びとの気風、楽曲や音楽ジャンルへの思いの丈を、著者が(あたかもその場で見てきたかのような「妄想」も含め)自由に物語る細部だ。それらは、著者のスペイン語文学体験により発酵熟成して編まれた珠玉の詞章である。スペイン語書誌を博覧した著者が、民衆音楽という切り口からその知見を世に問う、一個の文学者・詩人の仕事といえる。こうしたスタイルを前面に出した新著(いまとなっては生前最後の単行本)として『約束の地、アンダルシア』(アルテス・パブリッシング、2020)も加わった。まずはこの一冊から読み始めるのもよいかもしれない。 https://amzn.to/3wu7D6m

著者が愛した歌の詞章さながらに、濱田節もまた熱い言葉を高揚させることがある。

「私は、かつてどのような党派にも属したことがないし、これから先も属さないで生きていく者である。〔…〕しかし、人間が人間らしくあるために、守らねばならぬものごとは私なりにわかる。ビクトル・ハラを殺した者に手を差し伸べ国賓にしようという政府が、「自由」および「民主」の名を即刻返上しなければならない政府であることは、他の何より明白にわかる」(『エル・フォルクローレ』239ページ)

「フラメンコの神髄を語る歌い手たち、あるいは〔…〕ギタリストたちが遺したレコードに心して耳を傾けてほしい。〔…〕幾度かそれらを聴いてなにひとつ感動を覚えない人を相手に、スペイン音楽を語りたいとは私は思わない。」(『スペイン音楽のたのしみ』新版66ページ)

「〔マノロ・〕カラコルの「アイ!」の一声〔…〕を直感でしかと受けとめられる人びとが、この本を「むだなもの」と言い捨てたとしても、私はいっこうに腹が立たない」(『フラメンコの歴史』386ページ)

濱田著作の奥付には、昔から最終学歴として「日比谷高校病気中退」の文言が記されていた。近年、その後の経歴に、「1953年頃からスペイン、ラテンアメリカの音楽研究を志し、1960年頃から翻訳、雑誌への寄稿、レコード解説などの仕事に就く」、という記述が加わっている。病気を契機にニートとなった18歳が、「社会」から必要とされていないスペイン語圏の音楽の研究を「志」すとは、いかなる境地だったのか。そして、25歳にして、それを「仕事」となしえたのは、どのような奇跡によるものだったのだろうか。

以下に記す逸話は、濱田先生から折に触れ直接伺った話の断片にもとづいているが、年月を経て、私の記憶は語り手本人の言葉から乖離しているかもしれない。それゆえ、「自称・弟子」の脳内で自然発酵・長期熟成し、いつしか妄想もまぎれこんだ、「青年・濱田滋郎の物語」としてお読みいただきたい。

歩行困難を伴う病を患い、高校を1年で辞めた濱田青年は、スペイン語の独学とスペイン語圏の音楽の探求にのめりこむ。どうしても手に入れたい一枚のレコードへの思いが痛みにうち克ち、ある日、神田のレコード屋まで出かけることができた。その運命の一枚とは、ユパンキだったろうか? それともセゴビアだったかもしれない……。この日を境に、本とレコードを買うためであれば、街を出歩くことができるようになった。いつしか重い荷物さえ苦にならなくなっていた。現在の私たちからすれば、このときすでに濱田青年の身体の病は快癒に近づいており、歩行困難を長引かせていたのは心因性のものだったのではないかと想像される。そうして引きこもっていたオタク青年のたぐいまれな情熱が、ミューズの目にとまるところとなる。ラジオ・書籍・レコードを通じて、女神は幾度となく青年に微笑みかけ、「社会」の扉を開いて見せ、広がる「世界」へと誘ったのだ。

ところで、先生の父は童話作家として名高い浜田広介(1893--1973)である。日本語環境で幼少期を過ごしたなら、『泣いた赤鬼』や『椋鳥の夢』といった「ひろすけ童話」を、一度は読んだか読み聞かされた記憶があるはずだ。大作家・浜田広介の人と作品について、評論家・濱田滋郎が語るのを、私は読んだり聞いたりしたことがない。ただ、一度だけ、「父」の思い出を、先生の口から聴いたことがある。

スペイン語圏の文学と音楽が生きがいとなっていた濱田青年は、その日、いつにもまして胸を高鳴らせていた。予約していたロルカ全集が洋書店に入荷したという知らせが届いたからだ。高価なこの本の購入のために、父は資金提供を申し出てくれた。首尾良く本を落掌した神田からの帰路。喜び勇んでページをめくる濱田青年の手が「あっ」と止まった。ページが一カ所、大きく破れていたのだ。もちろん替えの在庫などない稀少な一冊であることはよくわかっている。帰宅すると、濱田青年は嬉しくも残念な事の次第を父に報告する。父は、黙って、夭逝の詩人の編章を1ページまた1ページと眺めていた。スペイン語を解さない父が読んでいたはずはないのだから……。

翌朝。ロルカ全集を開いた濱田青年は、ふたたび驚く。破損箇所がきれいに直っていたのだ。破れ目の見分けがつかないほど見事につながっている。ページをめくると、活字の行間を飛び飛びに、切手の「耳」が打ってあった。夜中に父がせっせと修復してくれたのだ。1950年代中頃、濱田滋郎・20歳前後の出来事である。

ロルカ全集を繰り返し読みふけった濱田青年は、5年ののち「志」を遂げ、スペイン・ラテンアメリカ音楽評論の「仕事に就く」ことになる。以来60年。滋味あふれる詩情とともに、その素晴らしさを伝え広める生涯であった。

音楽評論家・濱田滋郎(1935〜2021) 享年86歳。
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追悼ロベルト・トッド

2016.07.24

8月に来日するベネズエラの大歌手セシリア・トッドの兄で、ギタリスト、クアトロ奏者、プロデューサー、評論家であったロベルト・トッドが7月23日に亡くなった。近年は認知症を患い、療養中であった。享年79歳。

ロベルト・トッドは1937年カラカス生まれ。家庭の伝統でベネズエラ民衆音楽にしたしみ、クアトロとギターを独学。のちにクアトロ独奏をフレディ・レイナに師事。1970年代末にはブラジルに留学し、ギターを学んだ。

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追悼エルナン・ガンボア(1947-2016)

2016.01.13

"El cuatro de Venezuela"「ベネズエラのクアトロ」の肩書きで世界に知られたクアトロ奏者、歌手、作曲家のエルナン・ガンボアが2016年1月10日、アルゼンチンのブエノスアイレスで、肺がんのため亡くなった。享年69歳。

音楽一家から人気カルテットへ

エルナンの父・カルミート・ガンボアは歌手、作曲家、バンドーラ奏者として活躍し、グアヤナ地方の古都シウダボリバルで大きな影響力のある音楽家であった。ギタリスト・作曲家のアントニオを輩出したラウロ家、マンドリン奏者クリストバルのソト家、クアトロ奏者チェオを産んだウルタード家とならんで、ガンボア家はこの町有数の音楽一家であった。

父の影響でエルナンは幼少時から音楽活動を開始。とくにクアトロにその才能を発揮した。ガンボア家に集っていた同郷の大学生仲間とともに1972年4人組ボーカルユニット《セレナータ・グアヤネサ》を結成。故郷グアヤナ地方の伝統音楽を皮切りに、当時まだ全国的には知られていなかったベネズエラ各地の民衆音楽を大衆に親しみやすいポップな男性コーラスのスタイルで普及させた。1986年に脱退するまで11枚の音源をこのユニットで録音している。


セレナータ・グアヤネサ「復活祭の朝」


独奏クアトロの開拓

人気グループ、セレナータ・グアヤネサで活動する傍ら、エルナン・ガンボアは、ベネズエラの民衆的4弦ギターであるクアトロの技術開拓にも力を注いだ。都市弦楽ユニット《ロス・アナウコ》に参加。1977年には初の独奏アルバムを録音。クアトロ奏者・歌手として2011年まで25枚のアルバムを世に出している。

器楽奏者としてのエルナン・ガンボアの一大功績は、「カンブール・ピントン」の呼称で知られる伝統的なクアトロ調弦(ラ・レ・ファ#・オクターブ下のシ)を温存しての、独奏クアトロのテクニック開発にあった。これは、右手のストローク(ラスゲオ)を温存しつつも、爪弾き(プンテオ)ならびに左手の押弦と開放弦を組み合わせることによってメロディを奏でる方法で、ガンボアは「ラスガプンテオ奏法」と名づけている。ウクレレで行われる「ジャカソロ」と原理は同じであるが、ベネズエラ音楽はポリリズムが複雑であり、上下両方向にカッティングされるため、ガンボア流の奏法は打楽器的な技術においてより高度である。また、カンブール・ピントン調弦によるクアトロは、音域が2オクターブと狭く、ポジション移動の速度が要求される。


エルナン・ガンボア独奏「エロルサの祭り」

それまでに知られたクアトロ独奏者には、ハシント・ペレス、フレディ・レイナがいた。民衆音楽家であったペレスは主に爪弾きによって出身地ミランダ州の民謡を演奏。学究肌の教養人レイナは第一弦をオクターブ上げて、旋律演奏を容易にし、音域を拡大した独自のメソッドを提唱した。レイナにより、バロック・ギター曲から民謡までを演目としてリサイタルを行うソロ楽器としてのクアトロ奏法が確立した。これにたいして、エルナン・ガンボアは、ベネズエラ民衆が500年間伝承してきた伝統調弦を使用しながらも、豊かなリズムを十全に表現し、ベネズエラ全土の音楽をあますところなく演奏した。現代のクアトロ奏法はガンボア以降爆発的に発展することになる。クアトロの第一人者としてたびたび来日しているチェオ・ウルタードは、エルナンとともにカルミート・ガンボアの薫陶を受けた弟分と呼べる関係である。


エルナン・ガンボア独奏「パハリージョ」
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アルデマロ・ロメロ歌詞の世界2 「今宵女房と酔いしれて」

2014.11.12

「今宵女房と酔いしれて」 
Esta noche voy a emborrachar con mi mujer
詞:アルデマロ・ロメロ

今宵、女房と酔い痴れたい
まずはなじみのピアノバー、6時にしよう
彼女には、一輪のバラ、マティーニ一杯、キャビア少々
俺には、いつものやつと、ボサノヴァにジャズ
ディナータイムは10時頃と行きますか
フレンチ・クオーターのどこかの店で
デザートと食後酒の後で、彼女はこう言うかな
「たまには言い訳ぬきで、踊りに連れてって」
踊ろうじゃないの! ダンスはからきしのこの俺が
夜更け過ぎまで、恋女房に寄り添って
そして囁やこう、彼女の耳元で、愛のコトバ
大胆にして奔放、《成人指定》の決めゼリフ
シャンペンが脚まで回って
おもむろにもっと自由に振る舞いたくなって
彼女はよく心得たもの、俺の気分を察して
「家に帰りましょうか」と先回りして
車の中で彼女はねだる「カセットかけて」
アントニエッタのボレロ「キエン・エス・ウステ」
でもすぐに気が変わって
こう言うはずさ「あなたの歌が聴きたい」って
歌おうじゃないの! 歌手じゃないこの俺だけど
ちょっと意味深な歌しか知らないけど
そしてまだ埴生の我が家には着いてないけど
どこかの薄暗い路地裏で、、、
今宵、女房と酔い痴れたい

Esta noche me voya a emborrachar con mi mujer
empezando en el mismo piano bar, coo a las seis
para ella una rosa y un martini y un poco de caviar
para mí lo de siembpre, combinado en bossa nova y jazz

Cuando llegue la hora de cenar, como a las diez
nos iremos a un rinconcito del Barrio Francés
y despés de los postres y licores, ella me pedirá
que me deje de rollos y temores y la lleve a bailar
Y bailaré, yo que no bailo nada
hasta la madrugada, pegado a mi mujer
y le diré piropos al oído
audaces y atrevidos, censura "C"

Por estar saturado de champán hasta los pies
de repente me querrá gobernar la insantez
pero ella que sabe lo que pasa y sabe como soy
me dirá que vayamos a la casa, pues sabe a lo que voy

Ya en el carro ella me pedirá "pon el cassette"
donde canta Antonietta su canción "¿Quién es usted?"
y es seguro que luego de un momento ella cambie de opinión
y me diga que ella lo que quiere es que le cante yo

Y cantaré, yo que no soy cantante
canciones insinuantes de esas que yo me sé
y aún sin llegar a una puerta segura
en cualquier calle oscura. . . .
Esta noche me voya a emborrachar con mi mujer.

古き良き時代のチャチャチャの形式で書かれた、アルデマロ・ロメロ1980年代の作品。この歌詞は、回想でなく、妄想であることにお気づきだろうか?
このころ、巨匠は、10年余りにわたり手がけてきたクラシック音楽関連のプロジェクトに挫折し、失意のうちにあった。さらに追い打ちをかけるように、妻にも去られてしまう。
身も心もボロボロになった巨匠は、お気に入りのピアノ・バーに出没し、夜な夜な往年の自作ボレロを歌い、さらには即興の詩曲に傷心を託し、、、それでも想いあふれてやまない巨匠は、ついに歌手としてレコード・デビューまで果たしてしまう。「歌手じゃないこの俺が」と自覚していた巨匠を歌わせたのは、彼の傍らにはすでにいない、恋女房だったのだ。
劇中劇のように言及される、「キエン・エス・ウステ」(あなたという人は)は、1980年代中頃、ボレロ・リバリバルを先取りして、彗星のように消えていったベネズエラのシンガー、アントニエッタのヒット曲だ。1940年代末、20歳そこそこでベネズエラ初のボレロの国際ヒットを書いたアルデマロ・ロメロ。その40年後傷心の巨匠はかつての自分と同じ年頃の女性がうたうボレロを聴きながら、クダまいていたのだろう。
「クソだな。このアレンジ。俺に頼めばもっと格好よく編曲してやるのに、、、でも、なぜか泣けるぜ、この子の歌」
脳天気にラブラブな恋女房との虚構に、ふと割り込んだボレロのリアリティ。そう思って聞き直すと。巨匠の歌もまた胸にせまる。

巨匠自らの歌でどうぞ
https://www.youtube.com/watch?v=IrRDipCbpxw

劇中歌「キエン・エス・ウステ」熱帯の歌姫の、この寂寥感はどうだ!
https://www.youtube.com/watch?v=g_fAOh18nZ4
posted by eLPop at 22:38 | 石橋純の熱帯秘法館

アルデマロ・ロメロ歌詞の世界1 「街道よ」Carretera

街道よ Carretera
詞:アルデマロ・ロメロ

Carretera, acórtate, carretera
que me ahoga la distancia
de qué manera, de qué manera

街道よ、端折ってくれ、街道よ
この距離が息苦しくて
死にそうだ、死にそうだ

Sementera, perdóname, sementera
si tumbo la flor del llano
con mi carrera, con mi carrera

芽吹いた道よ、許してくれ、芽吹いた道よ
もし平原の花を踏みつぶしても
この疾走で、この疾走で

Gavilanes de las nubes,
vayan hasta la rubiera
y me traen por los cabellos
a Isabel María Contreras
Mi catirita llanera
Isabel María Contreras

雲上の灰鷹よ
いっそ羽目をはずしちまえ
髪を鷲掴みにして連れて来い
イサベル・マリア・コントレラスを
愛しい平原の金髪娘
イサベル・マリア・コントレラス

Carretera, remonta la cordillera
antes de que me convierta
en tolvanera, en tolvanera

街道よ、山並を駆け上がれ
俺が姿を変える前に
つむじ風に、つむじ風に

1971年録音 オリジナル音源
https://www.youtube.com/watch?v=hTFPz1iF0_0

オンダヌエバの代表的作品。ボサノバでいえば「イパネマの娘」に匹敵する定番曲。物語は、アルデマロ・ロメロの実体験にもとづく、フィクションだ。その実体験とは?
「ベネズエラ民衆文化の父」として慕われたシモン・ディアス。今年3月に亡くなったばかりだが、シモンとアルデマロは、信頼しあう友人同士だったという。1950年代、ベネズエラ音楽業界ならびにテレビ・ラジオ業界草創期から、ふたりは欠くべからざるタレントとして、活躍してきた。
日本の放送芸能業界にたとえるなら、コミカルなマルチタレント、歌よし、トークよし、演技よしという意味では、シモン・ディアスは黒柳徹子のような存在だったといえるかもしれない。「田舎出身」キャラという点では、三橋美智也的要素も包含する。ジャズをベースにした都会風の放送音楽を、作詞作曲ともに手がけたアルデマロ・ロメロは、さしづめ永六輔・中村八大コンビといったことろか。
放送音楽業界草創期から活躍する両巨頭が、1960年台の末、旅に出る。ベネズエラの伝統音楽ホローポをベースに、ジャズとボサノバの要素を融合した新スタイル、オンダヌエバを発表していたアルデマロ。彼を、シモン・ディアスは、自身の故郷でありホローポの本場である平原地方に誘いだしたのだ。都会っ子のアルデマロは、平原の奥地に足を伸ばしたことが、それまでなかった。
果てしない大地、大河、木陰、草花、野生動物たち、生身の牧童、はるかなアンデスの山並み、、、この旅の体験は、アルデマロの心を揺さぶった。「街道よ」は、この時の旅の体験と、シモン・ディアスの友情に捧げれれた曲なのだ。
曲の設定は「親愛なる友」との思い出でなく、架空の平原娘イサベル・マリアへの疾る思いに置き換えられてはいるが、、、
「だって、そのほうがキレイだろう?」
巨匠ふたりの高笑いが聞こえてきそうだ。
posted by eLPop at 22:30 | 石橋純の熱帯秘法館