だがときおり、ベネズエラ・ピアノ音楽のCDを献呈したり、譜面や文献を紹介したり、私がプロデュースする来日アーティストの公演を聴きに来てもらうなど、細々とした情報交換を継続するうちに15年近い月日が流れた。ついに、日本で初めてとなるベネズエラピアノ音楽特集のアルバムが世に出ることになった。

『ベネズエラ・プリズム』ーー下山が選んだこのタイトルは ベネズエラ音楽の魅力をみごとに言語化している。無色の光線は、三角柱のクリスタルを透過すると、彩りを顕わにする。分散して6つに別れることもあれば、寒暖の2色に感じられる光もある。ときには、3と2のグループに分かれた5色に見えることもある。
芸術的色彩の背後に光の波長という物理現象があるように、ベネズエラ音楽の鮮やかな彩りの背後には、光学的に精緻なリズムの遊びが隠されている。下山静香は、音楽学的なこだわりと傑出したオタク力をもって、ベネズエラのリズムを探求してきた。そうした20年以上に及ぶベネズエラ音楽研究の成果として世に出されるがこのアルバムなのだ。
主として以下の作曲家の作品から選曲されている。
当時世界一有名なピアニストであったテレサ・カレーニョ、大家デルガド・パラシオス、録音されることが稀なフォルメルやブランなど、19世紀のピアノ音楽の作曲達によるバルス。彼らのスタイルをひきついだ20世紀前半のモレイロやカステジャノスらのバルスとホローポ。そして民衆音楽についての知識が都市教養層にも普及定着した20世紀後半のラウロ、ボル、パエサノらのメレンゲ、ホローポをはじめとする、より「とがって」ベネズエラ的なレパートリーなど。
クラシック・ギターの大作曲家として知られるラウロは、管弦楽・室内楽・声楽の作品も残している。今回録音された『ベネズエラ組曲』はピアノ独奏のためのオリジナル曲である。人口に膾炙したギター曲よりもより20世紀音楽的な和声の響きをもっている。
マリア・ルイサ・パエサノは、クラシック音楽とポピュラー音楽の境界を行き来した20世後半のピアニスト兼作曲家だ。都市器楽ブームの1980年代にピアノ、ベース、クアトロからなる《エル・トリオ》という冗談のような名前のアンサンブルで何点かのアルバムを残した。
そのデビューアルバムタイトルとなったメレンゲ曲「エル・トランカオ」があまりに衝撃的すぎて、人びとはこのユニットを「トリオ・エル・トランカオ」と呼び習わしたものだ。下山はパエサノ作品に並々ならぬ傾倒を示し、ベネズエラ・メレンゲの5拍目と1拍目の間の真空に宇宙エナジーがみなぎるような、演奏は、まさに「トランカオな(ブレーキを踏み込んだ)」ノリを体現している。
特筆すべきは、ピアノの女傑テレサ・カレーニョの「夢の舞踏会」というファンタジーである。自由な構成の本編は「舞踏会」シーンが描かれていると思われるが、その特徴あるリズムにメレンゲの5拍子が隠されていることを、下山は譜面の行間から読み取った。
メレンゲの記譜法は、3連符入りの4分の2拍子、6拍目を休符にした8分の6拍子の、8分の5拍子など、歴史的にも書き手によっても揺らいできた。とくに19世紀の作曲家は「5拍子」という変な拍子で自国のリズムを記譜出版するには抵抗(文化的劣等感)があったと想像され、より西欧的常識にかなう表記に落とし込もうとしたのだ。女傑カレーニョも例外ではない。ベネズエラ・メレンゲを探求し、弾きこみ、これらの身体化した下山は、大巨匠カレーニョが隠そうとして隠しきれなかったベネズエラ流大宴会のノリを、21世紀の聴衆の耳に再現して見せた。
ベネズエラ音楽の光彩は、輝きの頂点でキラキラと踊りながら、余韻を残ざず消えて、すぐに別の色を反射させる。下山静香の鍵盤の(プ)リズムは、その色彩も輝きも、みごとに磨き上げている。
(編集部追記)
12/3にレコード・アルバム発表を記念して、ベネズエラ音楽にスポットを当てたライブ「ベネズエラ・プリズム」を新大久保のスペースDoにて開催された。

(最新盤音源がまだYouTube掲載前なので、前作『ピアソラ・ピアノより』
https://youtu.be/eyIqpWQTg4w?si=82WI7ZdJJpT3dUxV
下山静香さんはクラシック・ピアニスト。
桐朋学園大学卒業・研究科修了後、欧州各国で活躍。99年、文化庁派遣芸術家在外研修員としてマドリードに。帰国後はNHKでの多くの番組や様々なコンサート活動を行う。 ウィーン・ヴィルトゥオーゾ、チェコフィル六重奏団、M.ホッセン、R.シメオ、V.スンをはじめ数々の来日アーティストと共演。
スペイン、ラテンアメリカのクラシックのみならず、タンゴ、ジャズ、フォルクローレとのコラボレーション行っている。また演奏活動のかたわら、翻訳・執筆・講演・朗読と多方面もで活動。
2015年より「下山静香と行くスペイン 音楽と美術の旅」を実施(主催:郵船トラベル)。
アルバムは今回リリースのものを含め14枚の作品を発表している。
今回の作品は【中南米ピアノ名曲コレクション】シリーズの1枚。
《ロマンサ・デ・アモール〜メキシコ&キューバ珠玉の小品集》中南米ピアノ名曲コレクションvol.1
《アルマ・エランテ》中南米ピアノ名曲コレクションvol.2(アルゼンチン編)
《アルマ・ブラジレイラ〜ショーロ&ブラジルタンゴ コレクション〜》
中南米ピアノ名曲コレクションvol.3 (ブラジル編)
《ピアソラ ✕ ピアノ》 中南米ピアノ名曲コレクション特別編
そして第五弾が今回の発表の《ベネズエラ・プリズム》。