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カントジフア@代官山〈晴れ豆)、カニサレス

2023.08.03

■カントジフア 代官山〈晴れたら空に豆まいて〉2023年7月18日
スティールパン・伊澤陽一、ギター・菅又 -Gonzo- 健、チェロ・薄井信介

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写真(石橋純)


前号で紹介したスチール・パン、ギター、チェロによるトリオ〈カントジフア〉がeLPopイベントでもおなじみの代官山〈晴れたら空に豆まいて〉に登場。最新作のバッハ《ゴールドベルク変奏曲》全曲録音のお披露目ライブについては前号で報告したが、今回はメンバー自作曲を中心としたステージ。そこに、絶妙の構成でゴールドベルクからの抜粋が織り込まれた。

 カントジの3人はみんな曲を書く。それがどれも肩肘張らない素敵な旋律で、3人の楽器の音が絡み合い、響き合う。長年合奏を積み重ねてこその阿吽の呼吸のようにきこえるが、2009年以来11年間も活動を休止しており、再開そうそうコロナ禍でライブ活動ができなかった。そのことがとても信じられないほど密なコミュニケーションのトリオだ。

 「いつもどこかの街角で音を奏でていたい」というのが彼ら信条であり、バンド名の由来でもある。きっと読者の活動圏でも演奏を聴く機会があるはずなので、ぜひ聴きに行ってほしい。

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写真(石橋純)

カントジフア《どこかの街角で》より〈ホアンキエムの昼下がり〉

https://youtu.be/ybF90K9C_sk


■カニサレス

フラメンコ・ギターの巨匠、カニサレスが7月来日した。私がカニサレスを初めて聴いたのは1990年。パコ・デ・ルシアがアランフエス協奏曲を初演した時、Bプログラムとして引き連れていたトリオのセカンドを弾いていたのがカニサレスだった。めっぽう巧い若手だという以上の印象は残らなかった。その後、彼の仕事を知ったのは、歌手エンリケ・モレンテが1998年に発表したアンダルシア・ロックの名作《オメガ》におけるギター演奏ならびに作編曲だった。

エンリケ・モレンテ《オメガ》(1998)より〈マンハッタン〉
ギターならびに編曲カニサレス


https://youtu.be/wbJQ3l5v6rc

カニサレスの本領は、スペインのクラシック音楽にフラメンコギターの知見を活かした貢献をすることであり、これまでのリーダー作の大半をこのような路線の作品が占めている。こうした試みは、パコ・デ・ルシアがファリャ作品や、アランフエス協奏曲などで開拓してきた分野であるが、カニサレスはそれをより深掘りしてきたといえよう。カニサレスもアランフエスを演奏しており、2011年にはベルリンフィルと、2017年にはNHK交響楽団と共演している。

ファリャ「はかなき人生」よりスペイン舞曲第1番
カニサレス&フアン・カルロス・ゴメス


https://youtu.be/4QUoKrBCRLw

私が聴いたのは7月20日フィリア・ホール。御大の独奏ならびにセカンドギターのフアン・カルロス・ゴメスとの2重奏だった。すばらしい作編曲と演奏を堪能したものの、常にPAのリバーブがマシマシだったことがすこし気になった。アップテンポ曲は、もっとエフェクトを抑えめにしてもよかったのではないだろうか。

次回はぜひバンド編成で、できることなら小規模会場でカニサレスを聴いてみたい。

カニサレス作曲El Abismo
セカンド・ギター:フアン・カルロス・ゴメス


https://youtu.be/W6nAdtFDqqU


posted by eLPop at 13:50 | 石橋純の熱帯秘法館

スチールパン+ギター+チェロのユニットがおりなすゴールドベルク変奏曲

2023.05.26

スティールパン・伊澤陽一、チェロ・薄井信介、ギター・菅又-Gonzo-健によるユニット、カントジフア。「いつもどこかの街角で音を奏でていたい」という思いのもと、2007年に結成された。

しばらく活動を中断していたが、2019年に再出発。カリプソ、ブラジル音楽、クラシックと、メンバーの出自である音楽ジャンルはもちろん、既存のジャンルにとらわれない、心地よくもオリジナルな楽曲を丁寧に磨き上げているユニットだ。2022年5月にははそんな彼らのオリジナル作品10曲を集めた1st アルバム《どこかの街角で》をリリース。ポルトガル語で「街角」を意味するバンド名の通りライブハウス、カフェ、レストランなどに限らず、お寺、家具屋、古民家、キャンプサイト、博物館、ギャラリーなど、さまざまな場所でライブを行ってきた。

カントジフア1stアルバム《どこかの街角で》より「フルーツ市場のサンバ」

https://youtu.be/NdIPrkziCVk


 カントジフアが昨年12月に出した2ndアルバムはバッハの「ゴールドベルク変奏曲」全曲演奏。私はすでにストリーミングでアリアと30の変奏をすべて聴衆していたが、緻密なアンサンブルと緩やかな響きがあいまったその完成度ゆえに、スタジオ限定プロジェクトだと思い込んでいた。5月7日、銀座の小さなカフェで全曲通してのライブが上演されるということで、聴きに行ってきた。

 がんらいバロック器楽には、ある種の可塑性があるように思う。とりわけバッハの音楽は、ジャズでもよくとりあげられてきた。管弦楽や器楽の組曲などに含まれる舞曲のなかには、ラテンアメリカ伝統音楽とも共通のルーツをもつリズムも存在し、ラテンアメリカの様々なジャンルの音楽家から愛されてきた。トリニダードで行われるスチールバンドのクラシックコンサートでも、必ずといってよいほどバッハは演目に入る。

 カントジフアはそうした先例に見られる換骨奪胎、ニューアレンジとは一線を画している。鍵盤楽器用の原典になるべく忠実に3つの楽器にパート分けしたアンサンブルの試みなのだ。

カントジフア「ゴールドベルク変奏曲」

https://youtu.be/3ud_xRb_JAo


 5月7日、東京銀座のカフェ「月のはなれ」で演奏されたゴールドベルク全曲は、すばらしかった。平素チェンバロやピアノで聞き慣れているあの旋律たちが、ギター、チェロ、パンの音色により、フルカラー3次元できこえてくる。フーガなど対位法の妙を尽くした変奏は、音色のまったくことなる3つの楽器で3人が演奏するので、一人の鍵盤楽器奏者が演奏するより、不即不離の遊びごころが際立つ。もちろん難所をのりきる緊張感も、合奏ならではのものだ。

 バッハの音楽と真剣に戯れるために、カントジフアはこの楽曲の指導を、バッハの専門家である指揮者・鍵盤奏者の鈴木優人に依頼したという。鈴木はこのプロジェクトについて「心おきない仲間たちの会話に思わず笑顔がこぼれる「ラテン」なバッハ」という賛辞を寄せている。私に言わせれば、「ラ米伝統音楽とバッハの音楽がもつ共通の身体性が、3人の日本人奏者によって引き出された」となるだろうか。

 カントジフアは今年日本各地でこのプロジェクトをお披露目して回る。その多くは、彼らの信条である、小規模の会場でのライブとなるそうだ。一足先に体験してきたリスナーとして、楽しくも贅沢な時間となることを保証したい。

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posted by eLPop at 18:59 | 石橋純の熱帯秘法館

ベネズエラギター音楽その2:ジョン・ウィリアムス

2023.04.03

ベネズエラギター音楽その2
入門の1枚


今年はベネズエラのギター音楽を紹介していきます。
まず入門の一枚として万人にお勧めしたいのがこちら。巨匠ジョン・ウィリアムスが2003年に発表した、ベネズエラのクラシックギターの代表作だけを集めた1枚。

John Willams
El diablo suelto : guitar music of Venezuela

Sony Music Entertainment (2003)


https://youtu.be/M_QcDjN4HFk}

ジョンは、先月紹介し、今後も折に触れて取りあげる予定の、巨匠アリリオ・ディアスと同じセゴビア門下。直系の弟弟子といえる。

このCDの楽曲のほぼ半分はアリリオ・ディアスが編曲したベネズエラの伝統的な旋律、もしくはアリリオが校閲出版した譜面による有名作曲家の作品だ。ジョンは、アリリオの招きで、何度かベネズエラを訪れており、アリリオ・ディアスの名を冠した国際ギターコンクールの審査員も務めたことがある。

ホローポ、バルス、アギナルドなどベネズエラ伝統音楽の形式にもとづく楽曲の、解釈とくにリズム表現なども、兄弟子の直接の助言を受けているはずだ。


演奏はどれもすばらしいが、入門としては、まず7曲収録されているアントニオ・ラウロ作品を聴いてほしい。とくにホローポの代表的スタイル「セイス・ポルデレーチョ」(トラック4)とバルスの「アンゴストゥラ」(トラック15)は必聴だ。

自作は発表していないアリリオ・ディアスのギターアレンジの代表作はアントニオ・カリージョのバルス「星の涙Como llora una estrella」(トラック3)。

ベネズエラ20世紀音楽の父ともいわれるビセンテ・エミリオ・ソホが合唱用に採譜編曲したベネズエラの伝統曲を、アリリオがギターに編曲し直した珠玉の作品もトラック10他収録されている。

ややレアなところでは、アリリオやラウロを育てたベネズエラ・クラシック・ギター音楽の開祖ともいうべきラウル・ボルヘスの「バルス・ベネソラーノ」(トラック23)と現代ベネズエラのギター音楽を代表する演奏家・作曲家のアルフォンソ・モンテスの「さよならの前奏曲
Preludio de Adiós」(トラック25)にも注目してほしい。

ボルヘス作品は19世紀から20世紀初頭にかけてのベネズエラ国民楽派のピアノ作品を思わせるクラシック音楽王道といった作品。

現在ドイツで活躍しているアルフォンソ・モンテス作品は、21世紀ベネズエラ都市器楽の息づかいも感じさせる現代的かつロマンティックな小品。


巨匠ジョン・ウィリアムスが弾く、正確無比で一点の曇りもない演奏は、磨き7割の大吟醸酒みたいな感じで、濃醇な雑味を愛でるラテン音楽ファンには少し物足りないかもしれない。来月以降、アリリオ・ディアスをはじめ、ベネズエラ人演奏家の音源を少しずつ紹介していきたい。



「2月はこれだ」目次に戻る
http://elpop.jp/article/190261244.html
posted by eLPop at 13:22 | 石橋純の熱帯秘法館

『大瀧詠一と古典メレンゲ(後編)』

2021.04.11

(当サイト「3月のお気に入り」掲載の前編より続く)

3月21日にサブスク解禁となった「ナイアガラ」レーベル時代の大瀧詠一(歌手名義・大滝)作品。その中から「恋はメレンゲ」を聴いた私は、それがメレンゲの古典ナンバー「コンパドレ・ペドロ・フアン」を元歌としていることに気づいた。そして、たんに「元ネタ」を見抜いたことにとどまらない違和感を覚えてしまった。その違和感の正体を解きほぐすために、音源を聴き進めてみたい。

まずは、大瀧「恋メレ」と元歌「コンパドレ・ペドロ・フアン」を、前編とは別バージョンで聴き比べてみよう。

大滝詠一「恋はメレンゲ」1978


"Compadre Pedro Juan" Angel Viloria y el Conjunto Tipoco Cibaeno 1950年代初頭録音


両者がそっくりなことは誰しも直感すると思うが、ここでは異同の認められる主要な部分を確認しておきたい。まずはサビのリフのメロディである。「コンパドレ・ペドロ・フアン」では、【コーラス】「Baile」【ソロ】「Compadre Juan」というコール&リスポンスが、2小節X2回=4小節1セットで執拗に繰り返される。「恋メレ」では「こいはメレンゲ+2分休符」という2小節1セットがコーラスで4回だけ繰り返される。

もうひとつは、サビのあとのコーダを含む構成である。原曲はひとたびサビにのリフ入ったら、二度とテーマに戻らない。カリブ音楽特有の「モントゥーノ」と呼ばれる様式である。ダンス現場ではこの部分でインスト・リフをたたみかけたり、アドリブ・ソロで楽しませた後、歌のリフにもどって止め拍子で終わる。これが伝統的なメレンゲのお作法だ。だがサビの後テーマに戻らないという構成は、日本のポップスとしては無理があったのかもしれない。そのためダカーポするためのコーダ(歌詞「たったいちどの〜」)を加えたのだろうか? じつはこの部分には別の元ネタがある。イーディ・ゴーメ1963年のヒット曲「恋はボサ・ノバ Blame It on the Bossa Nova」(詞シンシア・ワイル、曲バリー・マン)から引用されているのだ。「恋メレ」の大滝版(75、78年)ならびにシリア・ポール版(77年)では間奏のキーボードソロの旋律もここから引用している。

「恋はボサ・ノバ」(イーディ・ゴーメ、1963年)


大瀧は「恋はメレンゲ」の英語タイトルを「Blame It on the Merengue」と付けている。この曲が「Blame It on the Bossa Nova」を踏まえていることをわかりやすく匂わせており、メディアでネタばらしもしている。いっぽう「恋はボサ・ノバ」よりはるかに多くの部分を借用し、なおかつメレンゲの手本にもした元歌「コンパドレ・ペドロ・フアン」の存在を黙殺した態度は不可解である(註1)。ここに私が抱いた違和感の根源がある。

ナイアガラ・レーベル時代の大瀧は、洋楽のダンス・リズムを渉猟し、楽曲化する実験を重ねた。その集大成として、日本の盆踊りと洋楽ダンスビートをフュージョンすることに傾倒し、《Let's Ondo Again》(1978年)というアルバムを発表した。この実験は「イエローサブマリン音頭」(歌・金沢明子、大瀧詠一・プロデュース、1982年)の大ヒットとして結実する。

「イエローサブマリン音頭」(金沢明子、1982年)


レノン&マッカートニー作品は言うに及ばず、《Let's Ondo Again》収録の「呆阿津怒哀声音頭」(原曲レイ・チャールズ ”What d'I say")などの作品を聴けば、元歌を参照・引用・パロディ化する高度な遊びを展開しながらも、同時に原曲への深いリスペクトを表明してきたことが聴きとれる。漢字表記ではあるが、原作者のクレジットも欠いていない。

《Let's Ondo Again》より「呆阿津怒哀声音頭」(作詞・曲 礼茶亜留守)

https://www.youtube.com/watch?v=9MHKwGTHN4s

Ondoの実験から感じられるのは、洋楽を消化吸収した日本土着の(ヴァナキュラな)ダンスビートを創出することを、大瀧が、遊び心とともに真摯に実験していたということだ。その意味で興味深い仕事がもうひとつある。1960年代前半に洋楽翻案文化のあだ花として短期間活動したビートルズの日本語カバーバンド「東京ビートルズ」の復刻である。「猿真似」とそしられ、技術・知識の不足、美学・感覚の相違により完コピがかなわず、誤解したり、間違えたりしながら懸命に新奇な外来文化を血肉化しようとする先人の滑稽な情熱を、(笑いのネタにしつつも)異文化受容過程で生ずる創造の臨界事案として、大瀧がキュレーションしたことがうかがえる。

東京ビートルズ - TOKYO BEATLES - 抱きしめたい I wanna hold your hands

https://youtu.be/AiiulbZm7Bs

大瀧は、「東京ビートルズ」のサウンドから、1960年代の日本の文化産業の末端に起こった、粗野にして無垢で無意識の土着感覚がにじみ出たクリエイティビティを嗅ぎ取り、音源を発掘・世に出したのではないか。同じ時代、貪欲に、闇雲に、拙速にラテン音楽を流行歌に取り入れる過程で、「南米のコーヒー農園」の歌を「アラブのお坊さん」の歌にしてしまう翻案が行われた。納期が迫って苦し紛れに着想したであろうハチャメチャさがウケたのか、その曲「コーヒールンバ」は昭和歌謡のスタンダードとして定着することになる。ここにもヴァナキュラな無意識の創造性が見て取れるように私は思う。

いっぽう、時代も下り70年代の大瀧らは、知的まなざしをもって世界の音楽を相対化し、それらをとりいれつつ新しい日本のポピュラー音楽を創出することを自覚的に試みた世代の先駆けだった。そうした立ち位置のクリエーターが、とある国の民族舞踊の古典曲に目をつけ、民族音楽学的精密さでそれを分析・模倣し、その成果を自己名義で作品化してしまうという行為の根底にはどのような(無)意識があったのだろうか。ポピューラー音楽の世界序列の中で「自分より格下」と決めつけた相手は、その名を挙げて敬意を示すに値しないとする意識なのだろうか? 素性を知らずに流用した作品が当該文化の古典的名曲であるかもしれない、ということへの想像力の欠如だろうか?

真相はどうあれ、大瀧詠一が、レノン&マッカートニー、レイ・チャールズあるいはワイル&マンに示したのと同様のリスペクトをもってメレンゲの巨匠ルイス・アルベルティを待遇しなかったことが、とても悲しい。1970年代日本の先端音楽人が、ブラジルでもアルゼンチンでもキューバでもないラ米の音楽に対峙する意識は、残念ながらその程度のものだったのかもしれない。20世紀末にはポピュラー音楽史をラジオで講じ「音楽に貴賤なし」と説いた大瀧も(註2)、その20年前にはこのような植民地主義的な価値観から脱け出せていなかったということだろうか。

ちなみに、「コンパドレ・ペドロ・フアン」の歌詞は、「華やかなメレンゲ・パーティに気おくれする親友に、女の子を誘って踊れと促す」という内容である。「恋はメレンゲ」もまた「パーティでメレンゲを踊り、恋が実る」という詞であるが、大瀧はこのプロットを「恋はボサ・ノバ」から発想したものと思われる。もしも、大瀧が「コンパドレ・ペドロ・フアン」の詞まで参考にしていたなら、「シャイな彼氏のピーター・ジョン」や「二人の恋を見守る指揮者のルイス先生」なんてキャラを登場させて、カリブ音楽ファンをニヤリとさせてくれたかもしれないのだが……

ところで「恋メレ」の伴奏陣として細野晴臣(Ba)、松任谷正隆(Key)、鈴木茂(Gt)、林立夫(Drs)が起用されていることを、大瀧(Vo、作編曲、P&D)は誇らしげにライブコンサートで紹介している(本稿前編参照)。だが、後のJ-POPの重鎮となる音楽家たちが鋭意模倣作業に取り組みながら、「恋メレ」は、どこか本物のメレンゲとノリが違うということを、カリブ音楽ファンは直感するに違いない。それは大瀧と4人の名手達が「クラベ」の感覚を共有していないからだと思われる。

「クラベ」(clave)は、「鍵」「キーワード」「合言葉」を意味するスペイン語だが、ここではカリブのダンス音楽の根幹をなすリズム原理の名称である。3-2|●○○●○○●○|○○●○●○○○|もしくは2-3|○○●○●○○○|●○○●○○●○|というパターンでパルス●の位置が配分され、2小節で1循環する拍節感の法則である。全員が●位置を毎回強く演奏するということではない。これらは強さの位置というより、そこに重心あるいは節目がある、という感覚である。クラベはダンスとも密接不可分で、演奏のクラベがズレれば踊り手達はステップを踏み外すことになる。よってクラベ感覚は、打楽器だけでなく、和声楽器のコードチェンジや、旋律のフレージング、そして旋律に対する歌詞韻律のハメ方までをも支配する。原理さえ体得していれば、日本語詞をクラベに気持ちよくハメて歌うことも可能である。

クラベのパルスを拍子木(楽器名クラベス)でメトロノーム的に打ち鳴らすことは伝統音楽などでは行われるが、モダンな楽団になると、それはダサいと見なされる。一番大切なことはあえて明示しないからこそクールなのだ。全員がそのことを深く身体化している楽団と、音源を模倣しただけの演奏の間には、超えられない一線が存在する。クラベ感覚が不在の大瀧「恋メレ」には、メレンゲとしては心地よくない瞬間が出現するのだ。

それは元歌を大きく改編した部分で顕著に現れる。「恋はボサ・ノバ」から借りた旋律をつぎはぎした「たったいちどのダンスでロマンスの〜」の部分では、歌の節まわしと詞くばりが、曲全体を支配する(はずの)3-2クラベから逸脱、迷走している。踊る男女が足を踏んづけあって転倒、一度のダンスで恋も冷めかねない。サビのコーラス「こいはメレンゲ」は、3-2クラベの前半|●○○●○○●○|だけに配当されており、後半|○○●○●○○○|は、音楽的に空疎な時間が流れる(三田寛子版ではコール&リスポンスになっているが、リスポンスがクラベを外している)。クラベに合う主旋律でこの部分を埋めないのであれば、パーカス、ベースあるいはキーボードで●を感じさせる手を利かせるべきなのだ。こうしたことは東京ビートルズが「抱きしめたい」のBメロ冒頭で一部コードを差し替え(間違え?)ているという事象と、構造的には類似していると、私は思う。つまり音響現象の奥に埋め込まれた文化的認知原理の看過といえようか。

以上が大瀧詠一「恋はメレンゲ」に私が感じた違和感のすべてだ。とはいえ、1970年代に、古典的なメレンゲの現地音源を徹底的に聴きこみ、そのサウンドを日本のポップスに活かそうと着想し、名手たちに弾かせ、人気アイドル歌手に録音させるに至った大瀧詠一の試みは、日本におけるラテン音楽受容史の1ページに記して評価されるべきと思う。主要引用源であるドミニカの元歌の存在をほのめかしてすらいないことが唯一残念な点だ。

最後に、大瀧「恋はメレンゲ」のカバーをもう一種聴いていただこう。あの「魔法使いサリー」の主題歌をうたった伝説の女声コーラストリオ《スリー・グレイセス》の1994年録音である。メンバーの星野操が大瀧詞にもとづいて英語詞を作っている。

スリー・グレイセス「恋はメレンゲ」

https://youtu.be/r6FTAjpJoaI

イントロをのぞき全編3-2のクラベにぴったり合っており、私が先に指摘した問題も見事に編曲処理されている。詞くばりの難所である「たったいちどの」の部分は、星野の英語詞では「chiki chiki chiki」というスキャットが当てられていて、その前後も含めて小気味よくクラベに乗っている。大瀧原詞にないエロティシズムが加味され、大人の男女の恋が描かれる。ノリは典型的なメレンゲ・ドミニカーノとはいえない。1990年代のズークやコンパなど仏語圏のサウンドとの親和性も感じられる。ビートを寸断して挿入される大胆な無音のブレイクは同時代のニューヨークやキューバのサルサを彷彿とさせる。いずれにせよラテンジャズの一作品として違和感なく踊り通せる仕上がりだ。ドミニカの古典メレンゲにマニアックに接近しながら肝心のクラベを外していた以前のバージョンと比べて、クラベの土台の上に日本発の無国籍ラテンダンス音楽を構築したこのバージョンは、あらゆる意味ではるかに格好いい。

アレンジは、福山雅治らのディレクションを務める作編曲家・キーボード奏者の井上鑑(あきら)。井上は、大瀧と「師弟関係」にあったといい(註3)、両者はナイアガラ時代から緊密にコラボしている(註4)。ただしラテン音楽の現場に関わった経験は、井上には無いようだ(註5)。プロデューサーの大森昭男は、CM音楽の大家であり、「大滝詠一伝説」としてしばしば語られるサイダーのキャンペーンに25歳の大瀧を抜擢した張本人である(註6)。大森はスリー・グレイセスならびに井上をたびたびCMに起用している(註7)。大瀧と井上を引き合わせたのも大森だという(註8)。

これほどの密なコネクションのなかで大瀧作品をカバーするとなれば、制作チームが大瀧の助言を仰がないはずがない。ここから私が想像するのは、初録音から19年の期間にトロピカル・ラテン音楽を「勉強」した大瀧が「リベンジ」の好機を逃さずアイディアを提供したのではないかということだ。わいわいガヤガヤとエンディングに向かう演出は、大瀧のONDO連作を想い起こさせる。「ガヤ」の一人として大瀧も加わっているのではと、と妄想したくなる。

異文化が接触するさいには、文化的コードを共有していないがゆえの「誤解」は避けられないものである。文化変容はそこから起こる。その過程をモデル化し、再帰的に適用するならば創造作業の手法となりうる。1970年中葉に大瀧詠一が着手したメレンゲ土着化の発想は、そうした過程を踏んで、「似非メレンゲ」からはじまり、熟成し、大森・井上・星野らの協働を得て「日本発無国籍メレンゲ」として1994年にひとつの完成をみたと言ってもよいのではないだろうか。J-POPの中に一大潮流を起こすには至らなかったけれども、大瀧メレンゲは何度か花を咲かせ、枯れずに実を結んだ、とここに書き記しておこう。

*井上鑑さんの業績について、キーボード奏者・作編曲家の奥山勝さんからご教示いただきました。記して謝意を表します。

(註1) 「ナイアガラ・ムーン」『大滝詠一 Talks About Niagara Complete Edition』(『レコードコレクターズ』4月号別冊)通巻第33巻第7号、2014年、82−84ページ。このインタビューの中で「恋はメレンゲ」の鍵盤ハーモニカ・パートについて「チロル民謡を弾いている。南米(ママ)のリズムのメレンゲでチロル民謡という、ただのアダプトでないところにナイアガラ色がある」と大瀧は述べている(83ページ)。この分散和音は、私には伝統的メレンゲのアコーディオンの型をただ「アダプト」しただけのように聞こえるが、そもそもドミニカのアコーディオンはドイツ伝来であり、その奏法はチロル民謡とも似ているのだ。いずれにせよ、わざわざ中部ヨーロッパ山岳地帯の民謡を持ち出す前に、(南米ではなく)「カリブの島ドミニカの伝統音楽」に依拠していることにこそ言及すべきだろう。
(註2) NHK・FM 大滝詠一「日本ポップス伝U」1999年1月3日(第1夜) https://www.youtube.com/watch?v=2ROv1To2ymc&t=6269s (2021/04/13アクセス)
(註3) Musician A CROSS-NETWORK MUSIC INDUSTRY GUIDE リレーインタビュー 第44回井上鑑氏 キーボード奏者/アレンジャー/プロデューサー https://www.musicman.co.jp/interview/19512 (2021/04/13アクセス)
(註4) FM東京『大滝詠一のニューミュージック・フォーラム〜スピーチ・バルーン』ゲスト・井上鑑 1982.5.28 https://www.youtube.com/watch?v=fwz3mHtiJMQ(2021/04/13アクセス)
(註5)「作詞 作曲 編曲 変奏家として発信を続ける音楽家・井上鑑オフィシャル・サイト」Profile 略歴と年譜 https://www.akira-inoue.com/profile (2021/04/13アクセス)
(註6) FM東京『大滝詠一のニューミュージック・フォーラム〜スピーチ・バルーン』ゲスト・井上鑑 1982.5.28 https://www.youtube.com/watch?v=fwz3mHtiJMQ(2021/04/13アクセス)
(註7) Wikipedia 大森昭男 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%A3%AE%E6%98%AD%E7%94%B7 (2021/04/13アクセス)
(註8) FM東京『大滝詠一のニューミュージック・フォーラム〜スピーチ・バルーン』ゲスト・井上鑑 1982.5.28  https://www.youtube.com/watch?v=fwz3mHtiJMQ(2021/04/13アクセス)
posted by eLPop at 13:25 | 石橋純の熱帯秘法館

濱田滋郎先生を送る

2021.04.07

3月21日、濱田滋郎先生が亡くなった。スペイン、ラテンアメリカそしてギターの音楽に関心を寄せる人であれば、きっと濱田滋郎筆による音楽評論に触れたことがあるはずだ。私は中学生のころから濱田作品の強い影響を受けていたが、東京外大非常勤講師として教壇に立った濱田先生から直接教えを受ける幸運にも恵まれた。ライターとして活動するきっかけも濱田先生の紹介によるものだ。濱田滋郎を師と仰ぐ人は世の中にたくさんいるだろうが、私にとっては本当の師匠であったと思っている。

濱田滋郎著作の多くは雑誌連載あるいはライナーノーツとして発表されたものであり、その膨大な業績からすれば単行本は案外少ない。『エル・フォルクローレ』(晶文社、1980)、『スペイン音楽のたのしみ』(音楽之友社、1982。改訂新版2013)、『フラメンコの歴史』(晶文社、1983)の3冊が代表作だ。その分野の入門書として今も私たちに多くを教えてくれる名著である。

濱田滋郎『スペイン音楽のたのしみ』音楽の友社
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https://www.amazon.co.jp/dp/4276371082/ref=cm_sw_em_r_mt_dp_P844HJXW8X16GC4CCH7P

濱田滋郎『フラメンコの歴史』晶文社
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濱田滋郎 『エル・フォルクローレ』晶文社
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いずれも情報がぎっしりつまった概説部分は読みやすいとはいえない。それを必要とする読者が該当箇所だけを事典的に使ったとしても、著者はきっと許してくれるだろうと思う。濱田滋郎ワールドに奥深く分け入りたいと願う人には、まず「じっくり拾い読み」することをお勧めしたい。掘るべき鉱脈は、アーティストの芸風、スペイン・ラテンアメリカの人びとの気風、楽曲や音楽ジャンルへの思いの丈を、著者が(あたかもその場で見てきたかのような「妄想」も含め)自由に物語る細部だ。それらは、著者のスペイン語文学体験により発酵熟成して編まれた珠玉の詞章である。スペイン語書誌を博覧した著者が、民衆音楽という切り口からその知見を世に問う、一個の文学者・詩人の仕事といえる。こうしたスタイルを前面に出した新著(いまとなっては生前最後の単行本)として『約束の地、アンダルシア』(アルテス・パブリッシング、2020)も加わった。まずはこの一冊から読み始めるのもよいかもしれない。 https://amzn.to/3wu7D6m

著者が愛した歌の詞章さながらに、濱田節もまた熱い言葉を高揚させることがある。

「私は、かつてどのような党派にも属したことがないし、これから先も属さないで生きていく者である。〔…〕しかし、人間が人間らしくあるために、守らねばならぬものごとは私なりにわかる。ビクトル・ハラを殺した者に手を差し伸べ国賓にしようという政府が、「自由」および「民主」の名を即刻返上しなければならない政府であることは、他の何より明白にわかる」(『エル・フォルクローレ』239ページ)

「フラメンコの神髄を語る歌い手たち、あるいは〔…〕ギタリストたちが遺したレコードに心して耳を傾けてほしい。〔…〕幾度かそれらを聴いてなにひとつ感動を覚えない人を相手に、スペイン音楽を語りたいとは私は思わない。」(『スペイン音楽のたのしみ』新版66ページ)

「〔マノロ・〕カラコルの「アイ!」の一声〔…〕を直感でしかと受けとめられる人びとが、この本を「むだなもの」と言い捨てたとしても、私はいっこうに腹が立たない」(『フラメンコの歴史』386ページ)

濱田著作の奥付には、昔から最終学歴として「日比谷高校病気中退」の文言が記されていた。近年、その後の経歴に、「1953年頃からスペイン、ラテンアメリカの音楽研究を志し、1960年頃から翻訳、雑誌への寄稿、レコード解説などの仕事に就く」、という記述が加わっている。病気を契機にニートとなった18歳が、「社会」から必要とされていないスペイン語圏の音楽の研究を「志」すとは、いかなる境地だったのか。そして、25歳にして、それを「仕事」となしえたのは、どのような奇跡によるものだったのだろうか。

以下に記す逸話は、濱田先生から折に触れ直接伺った話の断片にもとづいているが、年月を経て、私の記憶は語り手本人の言葉から乖離しているかもしれない。それゆえ、「自称・弟子」の脳内で自然発酵・長期熟成し、いつしか妄想もまぎれこんだ、「青年・濱田滋郎の物語」としてお読みいただきたい。

歩行困難を伴う病を患い、高校を1年で辞めた濱田青年は、スペイン語の独学とスペイン語圏の音楽の探求にのめりこむ。どうしても手に入れたい一枚のレコードへの思いが痛みにうち克ち、ある日、神田のレコード屋まで出かけることができた。その運命の一枚とは、ユパンキだったろうか? それともセゴビアだったかもしれない……。この日を境に、本とレコードを買うためであれば、街を出歩くことができるようになった。いつしか重い荷物さえ苦にならなくなっていた。現在の私たちからすれば、このときすでに濱田青年の身体の病は快癒に近づいており、歩行困難を長引かせていたのは心因性のものだったのではないかと想像される。そうして引きこもっていたオタク青年のたぐいまれな情熱が、ミューズの目にとまるところとなる。ラジオ・書籍・レコードを通じて、女神は幾度となく青年に微笑みかけ、「社会」の扉を開いて見せ、広がる「世界」へと誘ったのだ。

ところで、先生の父は童話作家として名高い浜田広介(1893--1973)である。日本語環境で幼少期を過ごしたなら、『泣いた赤鬼』や『椋鳥の夢』といった「ひろすけ童話」を、一度は読んだか読み聞かされた記憶があるはずだ。大作家・浜田広介の人と作品について、評論家・濱田滋郎が語るのを、私は読んだり聞いたりしたことがない。ただ、一度だけ、「父」の思い出を、先生の口から聴いたことがある。

スペイン語圏の文学と音楽が生きがいとなっていた濱田青年は、その日、いつにもまして胸を高鳴らせていた。予約していたロルカ全集が洋書店に入荷したという知らせが届いたからだ。高価なこの本の購入のために、父は資金提供を申し出てくれた。首尾良く本を落掌した神田からの帰路。喜び勇んでページをめくる濱田青年の手が「あっ」と止まった。ページが一カ所、大きく破れていたのだ。もちろん替えの在庫などない稀少な一冊であることはよくわかっている。帰宅すると、濱田青年は嬉しくも残念な事の次第を父に報告する。父は、黙って、夭逝の詩人の編章を1ページまた1ページと眺めていた。スペイン語を解さない父が読んでいたはずはないのだから……。

翌朝。ロルカ全集を開いた濱田青年は、ふたたび驚く。破損箇所がきれいに直っていたのだ。破れ目の見分けがつかないほど見事につながっている。ページをめくると、活字の行間を飛び飛びに、切手の「耳」が打ってあった。夜中に父がせっせと修復してくれたのだ。1950年代中頃、濱田滋郎・20歳前後の出来事である。

ロルカ全集を繰り返し読みふけった濱田青年は、5年ののち「志」を遂げ、スペイン・ラテンアメリカ音楽評論の「仕事に就く」ことになる。以来60年。滋味あふれる詩情とともに、その素晴らしさを伝え広める生涯であった。

音楽評論家・濱田滋郎(1935〜2021) 享年86歳。
posted by eLPop at 11:57 | 石橋純の熱帯秘法館