
https://mishimasha.com/books/9784911226155/
本書は、世界的口笛奏者の経験と、音楽・科学・信仰を横断するライターの知的好奇心とが交錯し、「口笛」という周縁的主題を対位法的に織り上げた一冊である。
語り手・武田裕煕は、世界大会で幾度も優勝した口笛奏者・研究家である。本書では、自らの経験と技法を開示するのみならず、その圧倒的なオタク力をもって、話題は中国南北朝の文人、平安貴族、馬をなだめる欧州の農夫から、口笛で一家を支えた米国の興行師、バンドマン顔負けのメキシコのバス運転手、さらにはベネズエラの口笛妖怪にまで及び、口笛が時代と文化を横断して人と社会を結んできた軌跡を描き出す。
武田裕煕は、「ルネサンス的ホビイスト」「最強のアマチュア」と呼ばれるにふさわしい。彼が選んだのが、口笛という周縁的な技芸だったからこそ、広大な知的・芸術的宇宙がその背後にひろがることになった。もしフルートやサックスのような市場性のある技芸に傾いていれば、その情熱は狭く深く、「プロの道」に収斂していたかもしれない。
こうした博覧強記の表現者は、しばしば自身の知見や技法を体系化して語るのが不得手である。そこに、最相葉月という稀有なエデュテインメント・ライターを対話者として得たのは僥倖だった。最相は音響・文化・技術の各次元を丁寧に掘り起こす。読者はQRコードから実際の音を聴きながら、「読む」から「吹く」へと身体を通して移行していくことができる。
本書には、「ライシーアム」「ショトーカ」といった19世紀米国のオルタナティブ教育運動が登場する。制度化された学校の外で、民衆に実践的技芸と教養を伝えた営みが、口笛という身体技法に場を与えてきたという指摘には多くの示唆がある。こうした運動は、ラテンアメリカの民衆教育――19世紀のシモン・ロドリゲスやホセ・マルティ、20世紀のパウロ・フレイレ――とも共鳴する。制度の外で伝承されてきた口笛のオルタナ性は、産業社会に奉仕するプロフェッショナリズムを乗り越えて、人間の生を豊かにする力を秘めている。
漢那朝子『南米力と沖縄愛 日系16人のライフヒストリー』ボーダーインク、2025年

https://borderink.com/?pid=186467487
語りとは、移動の記録であると同時に、その過程で再構成されていく自己像の軌跡でもある。本書は、南米出身の日系人たちが「沖縄に帰ってきた」あるいは「やってきた」理由と、その後の生活のリアリティを丁寧に聞き取り、描き出した、稀有なライフヒストリー集である。
ブラジル、ペルー、ボリビアなどラテンアメリカ各地で生まれ育ち、日本語よりもポルトガル語やスペイン語に親しんできた人々が、沖縄という地にやってきて生活の基盤を築いていく。その語りには、距離と時間を超えて交差する「ふるさと」と「現在地」のせめぎあいが、通奏低音として響いている。
熟年にさしかかってから、急速に沖縄系二世としてのアイデンティティに目覚めた著者の耳が捉える声は、移動のドラマティシズムや民族的抒情に回収されることなく、日常の現場へと分け入っていく。世代や移動経路の異なる語り手たちが、それぞれに描き出す沖縄像・南米像のズレは、ともすれば一枚岩に語られがちな日系人像に多声性と陰影をもたらす。
本書で描かれる「沖縄愛」は、血縁・信仰・文化・言語に息づく静かな持続力として浮かび上がり、しばしば語り手達は衝撃的な出会いとともに、それらを自らのルーツにいちづける。「南米力」は、いわゆるラ米文化への誇りよりも、主流社会や国家が提示する生き方を相対化し、自律的に人生を選び取る経験の集積として感じられる。語り手の多くは、沖縄に暮らしてはじめて、それが東アジア近代史のなかで周縁化されてきた地であることを知る。周縁性の発見は、「沖縄愛」と「南米力」を統合する触媒として働いているように読み取れた。
16人の語りを一方向に収束させない構成には、口述史としての倫理と敬意が宿っている。 著者による感動の演出や定型的なドラマツルギーを排し、あくまで語り手に寄り添う筆致は、淡々としているが奥行きがある。次回作では、南米で家族を成し、日本に帰還し、さらには沖縄移住者の母ともなった著者自身の感性と思想を前景化させた作品を読んでみたい。