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エディ・パルミエリとニューヨーク・ラテン@

2014.09.16

ニューヨーク・ラテン界のレジェンド、孤高のピアニスト、エディ・パルミエリがブルーノート東京にやってくる。2012年9月以来ほぼ2年ぶりとなる来日で、前回同様<サルサ・オーケストラ>を率いての公演だ。どんな強烈な音を聞かせてくれるのか? いまからもう、わくわくドキドキの毎日である。

そこで、公演が待ちきれない紳士淑女の皆さまのために、筆者が07年に行ったインタビューを引っ張り出して、それをネタにしながら、彼の音楽の世界、さらにニューヨーク・ラテンの歴史をいま一度おさらいしてみたいと思う。

※ちなみにこのインタビューは、08年に出版した『米国ラテン音楽ディスク・ガイド50’s-80’s LATIN DANCE MANIA』(リットー・ミュージック)の中に一部を使用したものの、ほとんどの部分は今回初めて陽の目を見るものです。

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エディ・パルミエリは1936年、ニューヨークのエル・バリオ(スパニッシュ・ハーレム)でプエルト・リコ人の両親のもとに生まれた。9歳年上の兄・チャーリーの影響でピアノを弾くようになり、15歳でプロになると、50年代にはさまざまな名門楽団に参加する。50年代のニューヨークといえば何といってもマンボの全盛時代。キューバ音楽が世界を席巻していた時代だ。

――1950年代のニューヨークではマンボが大きな人気を博していました。プエルトリコ音楽はどうでしたか? コルティーホとか…。
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posted by eLPop at 18:18 | 岡本郁生のラテン横丁

チェオ・フェリシアーノ追悼:熱狂のジョー・クーバ・セクステット

2014.05.19

 チェオ・フェリシアーノが亡くなり、彼のキャリアを辿って行くうちに、改めてその偉大さを実感したのがジョー・クーバ楽団である。
ジョー・クーバといえば、1960年代半ばに「エル・ピト」や「バン・バン」を大ヒットさせブーガルー・ブームの先駆けとなった人、というイメージが強い。しかし実はそれ以前、50年代後半〜60年代前半にかけて、ニューヨークで物凄い人気を誇っていたバンドなのだ。

 1931年、ニュー・ヨークのエル・バリオで生まれたジョー・クーバ(本名:ヒルベルト・カルデロン)は、高校卒業後にティト・プエンテに弟子入り。やがて、ホーン・セクションの代わりにヴィブラフォンを入れたセクステットを結成する。彼のセクステットは、そのクールなサウンドと粋なファッション、ユニークなステージ・アクションでアッという間に話題を集めることになった。当時コンガは座って叩くのが普通だったが、ジョーはそれを椅子の上に置いて(のちにはスタンドを使って)立って叩き、ティンバレスのジミー・サバテール、歌のウィリー・トーレスと3人でダンス・ステップを踏むのである。レパートリーはマンボやチャチャチャ、ボレロなどラテン・ナンバーとジャズやR&Bのカヴァーであった。このあとトーレスがバンドを離れたところに加入したのがチェオ・フェリシアーノである。

 当時、50年代半ばはまだマンボの全盛期、マチート、プエンテ、ロドリゲスがパレイディアムを毎夜湧かせていた時代。しかし一方でジョー・クーバ・セクステットは、一味違う超ファンキーなサウンドで人気を博していたのだった。



 そのへんの話を、ここでは、descarga.comに掲載された2000年2月23日の記事(アベル・デルガドによるチェオへのインタビューの一部)からご紹介したい。続きを読む
posted by eLPop at 22:48 | 岡本郁生のラテン横丁

セレーナの誕生日に…

2014.04.17

 昨日から今日にかけて(4/16〜17)、Facebookでセレーナに関するいくつかの興味深い書き込みを目にした(もちろん米国からの書き込みです)。例えば…
「もし私が生きてたら、ジェニファー・ロペスなんて今ごろタコベルで働いてたでしょ」
という、セレーナの顔写真をでっかく使ったページ。
 JLOはプエルトリカンなのでタコベルで働くかどうかは知らないが、これはちょっと悪意があるなーと思いつつ、でも、なんとなくわからないでもない、って感じ。

 そう。4月16日はセレーナの誕生日なのだった。1971年4月16日、テキサス州レイク・ジャクソンの生まれ。生きていれば今年で43歳。今ごろはいったいどんな歌手/アーティストになっていたのだろう? そして、彼女のいる音楽界はどんな状況だったのだろうか…。

 95年3月31日。24歳の誕生日目前、英語アルバムが完成間近という時期に射殺されてしまったセレーナのことを覚えている日本人はもうほとんどいないかもしれない。しかし現地では…冒頭のFBページでもわかるとおり…いまだに永遠のスーパー・スターなのだ。ディズニー・チャンネルから登場して人気者になったセレーナ・ゴメス(92年生まれ)は、もちろんこのセレーナから名前を取ったのである。

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posted by eLPop at 17:46 | 岡本郁生のラテン横丁

セルヒオ・ジョージ・インタヴュー<4>

 さて、マーク・アンソニーがデビュー・アルバム『オトラ・ノタ』(93年)の1曲目で歌っていた「パラブラス・デル・アルマ」。米国内では当時あまり知られていなかったベネズエラの人気歌手イラン・チェスターが作ったこの曲をマークに歌わせたのは、セルヒオ・ジョージその人なのだった。

「イラン・チェスターのあの歌はラジオで聞いて、大好きになったんだ。で、彼がニューヨークに来て小さいクラブで演奏したとき見にいったら、お客はたったの10人。10人だよ(笑)。でも、ピアノの弾き語りであの曲を歌ったら、その10人が10人とも手を上に上げてウエーヴさせながら一緒に歌うんだ(笑)。10人全員が知ってる曲ならヒットするぞ!と思ってマークに歌わせたら、案の定、大ヒットしたってわけさ...」


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posted by eLPop at 15:28 | 岡本郁生のラテン横丁

セルヒオ・ジョージ・インタヴュー<3>

2014.04.15

――楽器を始めたのは?
「まずトランペットとヴァイオリンをやって、ピアノは15歳ぐらいからだ。はじめは独学で2年、そのあと個人レッスンを受けて、大学に入ってからジャズのジャッキー・バイヤードについて2年。そしてMJQ(モダン・ジャズ・クァルテット)のジョン・ルイスに習った。最初に参加したレコードは、ラテン・パーカッション社(※)から出たコンフント・カチェーのアルバムで、77年ごろだったからね。ボクは16歳ぐらいで、音楽についてはほとんど何も知らなかったね」

(※)ラテン・パーカッション(LP):ニューヨークをベースにするラテン・パーカッションのメーカー。1970年代初頭から、教則レコードをはじめ、ティト・プエンテ、カルロス“パタート”バルデスなどパーカッション奏者を中心としたさまざまなアーティストのアルバムをリリースするようになった。続きを読む
posted by eLPop at 00:20 | 岡本郁生のラテン横丁