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アントニオ・サンチェス・インタビュー<前篇>

2015.04.24

 今年のアカデミー賞で4部門を受賞した話題の映画「バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)」で音楽を担当したドラマーのアントニオ・サンチェスが、先日、自己のグループを率いて来日公演を行った。
 これに先立ち、4月13日に丸の内のコットンクラブにて、映画のプロモーションを兼ねた記者会見が開催された。当日はミュージシャンの菊地成孔氏による講演のあとサンチェスが登場。会場に映し出される映画の1シーンにあわせてドラム・ソロを演奏するというパフォーマンスがあり、その後、菊地氏が中心となってのインタビューとなった。
 ここで、このときの記者会見およびそのあと私が行ったインタビューの模様をご紹介したい。
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菊地成孔(以下K)ある作品を称賛するために他の作品をいやしめることは非常に品位に欠けることであると承知のうえで申しあげますが、私は日本のすべてのジャズ・ドラマーに、今年のオスカー・ノミニーのうち「セッション」と「バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)」(以下「バードマン」)は必ず見るように呼びかけています。前者ではジャズドラムへの合衆国ひいては世界的な無理解を嘆いていただき、後者で、ジャズ・ドラマーという自分の職業の自信と誇りを取り戻し、大いなるイマジネーションを受けるように呼びかけています



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posted by eLPop at 19:11 | 岡本郁生のラテン横丁

ラリー・ハーロウ・インタビューB(最終回)

2015.01.08

――オーケストラ・ハーロウと並行してアンバーグリスというロック・バンドをやっていましたよね。ロッド・スチュワートと一緒にツアーしてたんですか?

ロッド・スチュワート&ザ・フェイシズ、テン・イヤーズ・アフター、グレイトフル・デッド、ジミ・ヘンドリックス…。アンバーグリスは楽しかったね。ルイス・カーンもいたんだ。楽しかった(笑)



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posted by eLPop at 19:58 | 岡本郁生のラテン横丁

ラリー・ハーロウ・インタビューA

2015.01.07

――60年代になってどう変わったんでしょうか?

60年代というのは革命のときだ。ビートルズ、ベトナム、ウッドストック、セックス、ドラッグ・・・そして音楽も変わった。

50年代後半は、♪1,2,3,…together,1,2,3… bailando cha cha cha…みたいなシンプルな歌詞、シンプルなコード、シンプルなアレンジの曲ばかりだったが、このころから、ヒューマニティ、戦争、プロテストなどを書くようになった。

歌詞もアレンジももっと良くなったし、演奏者ももっと良くなった。プエルトリコから、そしてキューバからの亡命者も来た。ファンも多くなった。われわれが演奏するところにはいつも200人の女の子が来ていた。そうすると、300人の男が来る。なので常に500人の客がいた。

週に10回のステージをやってたよ。クラブからクラブへまわって。私だけじゃない。ウィリー・コロン、パチェーコ、オルケスタ・ブロードウェイ、リッチー・レイ…みんなそうだ。衣装も変わった。サイケデリックな感じになったりして。楽しかったね。



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posted by eLPop at 21:51 | 岡本郁生のラテン横丁

ラリー・ハーロウ・インタビュー@

2015.01.05

 ラリー・ハーロウ率いるラテン・レジェンズ・オブ・ファニアが約1年ぶりに来日公演を行う。オレステス・ビラトーとホルへ・サンタナを迎える今回はいったいどんな強烈なパファーマンスを見せてくれるのか!? ますます期待は高まるばかりだが、これに先駆けて、昨年来日時のインタビューの模様をここに掲載したいと思う。一部は月刊「LATINA」で紹介したが、ほとんどは紙幅の関係で収録し切れなかったものだ。
(2014年1月27日ブルーノート東京にてインタビュー)

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 まずはやはり、2012年6月に79歳で亡くなった長年の盟友、ヨモ・トロ(Yomo Toro)のことから訊いてみた。07年、ラテン・レジェンズで一緒に来日しビルボードライブ東京に出演したのが、ヨモの日本での最後の姿となった。
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posted by eLPop at 00:23 | 岡本郁生のラテン横丁

ホセ・フェリシアーノ

2014.11.13

現在ブルーノート東京で来日公演中のホセ・フェリシアーノ(11/11〜11/13)。溢れ出る圧倒的なエネルギー、パワフルなパフォーマンス……そのステージに刺激されて、思わず、昔の原稿を(恥ずかしながら)蔵出しすることにします。
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 “ラテン的なるもの”に一番初めに接したのは一体いつごろのことだったろうか?と考えていて、実はホセ・フェリシアーノだったのではないかという結論に達した。

 サルサという音楽の存在を初めて知ったのは70年代半ば、高校生のころで、実際にハッキリとそれを意識し始めたのはファニア・オール・スターズ来日(76年)のときだった。が、それ以前に、どうも無意識のうちに“ラテン”が気になっていたようなのである。「ようなのである」とはあまりにも曖昧、まるで他人事のようであるが、実際、中学生のころはラテン的なものはあまり好きではなかった(と思い込んでいた)。当時の中学生のご他聞にもれず、ビートルズをきっかけにロックの世界にのめり込んでいたもんだから、ラテンというものに対しては、何となく違和感を覚えていた。というより、イヤでしかたがなかったのだが、イヤだと思うこと自体が、いま考えてみれば、気になって仕方がないことの裏返しだったようである。

 こんなことがあった。たしか中学2年だったと思うが、ある日、音楽雑誌を見ていて、ひとつのコラムが目に入った。あとから考えると、おそらくイラストレーターの河村要助さんが書いたもので、ウィリー・コローンとエクトル・ラボーがどうしたこうした(コンビを解消したという話しだったか?)という内容だった。それを読んだとき、このふたりの名前の響きがあまりにも異様に思えて、こういう人たちとはあまり付き合いたくないなーと思ったのだった(そのコラムのイラストまで、いまでもよく覚えている)。

 ウィリーとエクトルに比べれば、ホセ・フェリシアーノという響きは、筆者にとってはずっと親しみやすかった。実際、彼の曲が、当時ラジオでわりとよくオンエアされていたせいかもしれない。「ライト・マイ・ファイアー」がストーンズやTレックスなんかの合間にかかったりしても、それほど妙な感じはしなかったし、むしろカッコいいなぁーと思いながら聴いていた記憶がある。いま思えば、彼の名前を知ったとき、つまり“ホセ・フェリシアーノ”という名前を意識したときが、筆者とラテンとの出会いだったのかもしれない。

 ホセ・フェリシアーノは、デビュー曲「ライト・マイ・ファイアー」を大ヒットさせ、68年のグラミー賞で“ベスト・ニュー・アーティスト”と“ベスト・コンテンポラリー・ポップ・ヴォーカル(男性)”の2部門を受賞。23歳にして、一躍トップ・スターの座を獲得している。生まれたのは45年の9月10日、プエルト・リコのラレス。5歳のときに両親と共にニューヨークに引っ越したホセは、6歳でコンセルティーナ(小型のアコーディオン)を独学で始め、なんと9歳のときにはプエルト・リカン・シアターの舞台に立つという天才ぶりを発揮した。そのあとコンセルティーナに物足りなりなさを感じてギターに転向するが、こちらもまったくの独学で、レコードだけを先生に、一日に14時間も練習していたということである。ときはまさに50年代後半、ロックンロールの黎明期。彼もいつしか歌を歌うようになっていく。

 17歳で学校をやめた彼は、仕事のない父の代わりにカネを稼ぐため、まずはグリニッチ・ヴィレッジのコーヒー・ハウスで弾き語りを始めた。時代は60年代前半、ボブ・ディランはじめさまざまなフォーク歌手がグリニッチ・ヴィレッジで活動を始めたころである。同じ年にデトロイトのフォーク・ライヴ・ハウスでホセを見た評論家は、「比類なきスタイルで6本の弦と戯れ・遊び・響かせる、10本指の悪魔。新しきスターの誕生を目撃したいのなら、ニューヨークへ帰ってしまう前に絶対に見るべし」と最大級の賛辞を送ったということだ。

 彼の素晴しさとは? まずはなんといっても、ギターのテクニックにある。芯のしっかりとした音色とドッシリしたリズム、歌心あふれるフレーズは、まさに超一流で、「ギター・プレイヤー」誌の“ベスト・ポップ・ギタリスト”賞、「プレイボーイ」の読者投票による“ベスト・ジャズ/ロック・ギタリスト”に何度も輝いているほどである。そしてもうひとつのポイントは、もちろん、歌。一声聞けばすぐに彼だとわかる、伸びやかで艶やかな深みのある歌声は、何物にも替えがたい魅力だといえる。

 その彼の最新アルバムが、『セニョール・ボレロ』である。
 英語の歌から始めていきなりメジャーでブレイクしたホセ・フェリシアーノだが、実際には彼のルーツは常にしっかりとラテンにある。このことは、この30年の間に彼自身が証明してきていることだが、新作は、そんな彼のキャリアの中で、ひとつの集大成とでも呼べそうなアルバムといえるだろう。

 ホセが子供のころ、おかあさんは食事の支度をしながら、よく古いボレロを聞いていて、彼はそれに合わせて一緒にギターを弾きながら歌っていたのだそうである。デビューした少しあと、彼が南アメリカで録音した何枚かのボレロ・アルバムは続けて大ヒットを記録したのだったが、子供のころのボレロの記憶がそれに大きく関与していたことは間違いないだろう。今回の『セニョール・ボレロ』にも、当然、彼の中にあるさまざまな思い出がさまざまな形で投影されているはずである。ボレロを歌うとき、彼の記憶に立ち現われるのは、どんな思い出たちなのだろうか?

(1999年月刊「LATINA」に掲載)
posted by eLPop at 01:00 | 岡本郁生のラテン横丁