Top > Calle eLPop

ラテンミュージシャン・インタビューシリーズ:カルロス菅野 PART2

2025.09.06


(PART 1 より続く)

(東京に移った菅野さん、いよいよデラルスの活動が始まります)

IMG_7765.JPG


///////////////////////////

菅野:東京に出て行く前に、(オルケスタ・)デル・ソルが大阪に来た時に、大阪の「桃山学園オールナイト学園祭コンサート」ってのがあったんですよ。そこにデル・ソルが出ると。で、楽器がないというんで、ゲタ夫さんだったか誰かから、「楽器ちょっと頼めない?」「いいですよ」って言って、自分の楽器を持ってそこに行って貸してあげて、その時に大儀見(元)に初めて会って。まだ入ったばっかりの頃。

スクリーンショット 2025-08-30 215036.png

――じゃあ、82、83年?

そのくらいかな。それで知り合いになってて。
で、もう一つは、ヤマハのLMCのコンテスト出た時に、ジュニアでNORAとか大儀見たちのバンドが出てたらしいんですね。で、その時ジュニアで優勝したのはチェッカーズだったんですよ。僕らがシニアっていうか大人の部で優勝して、その時にNORAは客席にいて僕らがやってるの見てたんですって。


――それ、なんかちょっと聞いたことあるような・・・なんかコンテストで、と。

そう。ヤマハのLMCのステージで、僕がパーカッションやってるのを見てて。
で、僕が東京出てってクロコダイルにデル・ソルを見に行ったら大儀見がいて、NORAもいて。で、「ああ知ってる知ってる」とか、大儀見は知ってたから「お久しぶり」とかいう話をして、NORAも「ああ知ってる、私見たんです」みたいな話になって。

で、ちょうどその頃、大儀見とNORAで若手の次世代のサルサバンドを作ろうって言ってた時で、それで、そこの場だと思うんだけど「コンガ探してるんだけどやんない」って話になって。「やるやるやる」って言って始まったんですよね。ちょうど時を同じくして。


スクリーンショット 2025-08-30 220758.png

――その時はだから、NORAと大儀見さんとカルロスさんと・・・

(江川)ゲンタ、沢田(浩史)くん、

――ほぼ・・・

で、ピアノは前島康明っていう初代のピアノ、今はもう作曲家大先生になっちゃってる・・・。で、その頃もう、(佐々木)史郎くんいたのかな? ホーンはね、いろいろ、カネコキンちゃん(金子隆博, sax)がいたりね、いろいろしましたから。原宿の「サンビスタ」から始まってね。

――曲は何やってたんですか?

その頃は(レイ・)バレットとか、(エディ・パルミエリの)「ヌンカ・コンティゴ」とか(セリア・クルスの)「クカラ」とかそういうの。硬派サルサ系のことやってて。


Eddie Palmieri "Nunca Contigo"


――それ、歌はカルロスさんも歌ってたんですか?

いや。僕はもうその頃は、コロとコンガ専門だった。僕がコンガで、大儀見がボンゴで、ゲンタがティンバレスだったんですよ最初は。最初のラインナップですね

ーーそうか。面白いですね、タイミング的に。すごいタイミングですよね。じゃあ、ウィリーさんの方が先に東京に来て、松岡さんのところは・・・

僕の先代だから、僕の2、3年前なんじゃないですか? たぶんそうですよね、82年とかじゃないかな。

――以前、ウィリーさんと話していて、やっぱりカルロスさんとのコンビネーションがすごい良い、っていう話になったんです。やっぱり、なんかこう、あるんですかね?

ちょうど、ウィリーはプエンテだったじゃないですか。フレーズが全部プエンテだから、僕はカルロス・パタート・バルデスに憧れてたから、そのお互いのヴァイブがそこで共通項で合うわけですよ。
ウィリーに「プエンテ行けー!」っていって、こっちはベース・ラインをやってる、みたいなコンビネーションが出来上がってたから、そこが上手くいったんじゃないですかね。


――松岡バンドの印象っていうか、なんかエピソードは・・・

いや、松岡さんのバンドでは、もう散々勉強させられましたよ。ていうか、いろんなものを頂きましたよね

――やっぱりそこは一つ大きいんですね。

いやもう厳しかったしね。もう厳しい厳しい。もう、毎回、コンサート終わると楽屋来て30分から1時間説教ですからね。毎回ですよ、毎回、毎回

464911421_8866910333369928_8765302420094963426_n.jpg
松岡直也

――例えば、どんなことを説教されましたか?

スピード感のこと散々言われましたね。「遅い!」って。

松岡さんめちゃくちゃ速いんですよ、裏がね。裏が速いんだけど、テンポは速くなんないんですよ、不思議なことに。少しは速くなるんだけど。考えられないぐらい前行くんだけど、それについていけないんですね。それを散々もう毎回言われて。

あの頃松岡さんは「僕がやってるのはロックなんだ」って言って、「ドラムは2,4だ」って言って、ドゥーン、ダー、ドゥーン、ダーっていってて、僕とウィリーがラテンで突っ走らなきゃいけないんですよ。ゲタ夫さんと3人でね。そのドゥンダー...に対してラテン隊が後ろ行っちゃったらもう絶対ダメなんですよ。常に前にいなきゃいけないと。

それを毎回のように指摘されて。ウィリーに結構、集中攻撃をしてたんですけど(笑)、それは言いやすかったからだと思うんですね。自分が連れてきた子だから。それを通じてみんなに伝えてるみたいな。
でも、それに喰らいついて、喰らいついて。松岡さんのソロの入り口のスピード感のアクセルが入るんですよ。わかるんですよね。グーンってアクセル踏むから、そこを掴んでなきゃいけないっていう・・・。アクセル入った!って、そこにピタッとくっついていかないと、みたいなことをずっとやってて。


――でも、上手くいって、今日はまあまあだったな、みたいなことは?

いや、ほとんどなかった(笑)。でもまぁ、オッケーの時は何も言われないですからね。ニコニコして、何も言わない。ダメな時はもうとにかくダメ。

あと、大変だったのはレコーディングですよ。
松岡さんは「簡単だから」って言って譜面をパンと出すんですけど、そこに16分(音符)が鬼のように書いてあって(笑)、「うーん、これなんだー? えっと〜」みたいになって。ウィリーは読めないとわかってるんで、読まないんですね、譜面で音楽しないから。あらかじめ松岡さんが音を渡して、こう、音で覚えてきてるんですよ。僕らは当日スタジオで渡されるんですよね。そうすると、それをまず解読するのにみんなでスタジオの真ん中で車座になって、「これをどう解読する?」みたいな。そこから始まるんですよ。解読して、「こうだね。♪ダンチャダン、タラタタタタタタタタタタタタタター」そこをまず解読して。相当鍛えられましたよね。


――さっき、あんまり譜面は得意でないっていうことをおっしゃってたけど、やっぱりやっていくうちに当然・・・

そうですね、大阪にいた時にスタジオの仕事とかやり始めないかって言われて。浪花(エキスプレス)の清水興とかに「そろそろスタジオの仕事とかもやれば」って。「でも譜面が俺、苦手なんだよ」って言ったら「いや、パーカションだったら勉強すればすぐできるよ」って言って、そこからいろいろこう譜面のことを勉強し始めて。ま、一応ギターも弾いてたし、全く何も知らなかったわけではないので。それを体と見たものとマッチングさせるだけの作業をずっとやって。でも最初はいろいろ大変でしたけどね。間違っちゃったしね・・・

――松岡さんに、終わってから楽屋でいろいろいわれて、そのあと、リズム・セクションだけのリハとか、そういうのやったりするんですか?

いや、リズム・セクションだけのリハとかじゃなくて、当時ね、僕がちょうど来た頃、例えば森村献ちゃん家で夜集まって、アメリカのね、軍の関係のプエルトリカンから送られてきたビデオとかの鑑賞会があるんですよ。

そこにペッカーから、それこそゲタ夫さんから、もうみんな集まって、キムチさんもいて、ウェリーもいて、ミチャキーノもいて、俺もいて、みたいな。で、どんなことをどうやってるんだろうっていうことを解析する会みたいのがあったんですよ。それをしょっちゅうやってたんですね。

それをやりながら、昼間は千駄ヶ谷の公園でみんな楽器持ってきて、一日中、ボカチャカボカチャカ叩きまくって、そこでどうなってるか解析しようよとかね。そういうところでアンサンブルを身につけていこうっていう会が、あちこちであったんですよ。

で、例えば、当時のボデギータとか、誰か外国の、ダニエル・ポンセが来たって言ったら、ワークショップやってもらおうよ、みたいな感じで。みんなで集まってそれを見たり。

そういう情報交換会みたいなのが夜な夜なあって。で、そこで外でアンサンブル作ってるみたいな。同時にデラルスも始まってたし、いろんなとこでそういうことをやってましたね、外でね、


――千駄ヶ谷の公園で。

そうそう、今はきれいになっちゃった国立競技場の下のホープ軒とか近くにある、明治公園。それこそチカブーンとかみんな集まって。もう僕らも、ウィリーも俺も、みんな大規模になって。一日中やかましかったと思いますよ。バカすかバカすかやってんだから。

――誰かがそこの近くに住んでたんですか? じゃなくて、なんか・・・

なんとなくそこが根城みたいになってて・・・。あと、大儀見とミチャキーノと俺の3人で、砧公園でバタのアンサンブル会とかね。3人でこう、一日中バタ叩いてる、みたいなことやってた。

――へえ、そういうのがあったんですか。

そういうのがありましたね。

――あまり知られていないですよね、そんな話は。

いや、それはもうあの、本当に創世記はみんな・・・。中心がね、森村献宅が結構中心だったんですよ。そこにみんなで集まって。納見(義徳)さんとかも来てた。

――ああ、そうなんですか。じゃあ、世代もちょっと・・・

乗り越えて、みんなでこう・・・。そこでダンスステップはどうなっているのかとかね。情報が当時ないじゃないですか。

――その頃その、ちょっとダンスのお話というか、ダンスってどんな感じだったんですかね?

その頃は誰も分からないですよね。デル・ソルのライブとか、僕はなぜか踊りが好きで、体を動かすの好きで、踊り方わかんないんだけど、デル・ソルのライブで僕とNORAが客席で踊りまくってる、みたいなことがずっとあって(笑)

――あの頃ってなんかその本当にちっちゃなコミュニティで踊っている人っていうか、踊り始めた?勉強し始めた?なんだっけ、オルケスタ246の人とか。

はいはい、僕もちょっと一時期お手伝いしてましたけど、

――もう本当、そこも手探りで同じように手探りで進んでたっていう。

当時ヘンリーさんとかも献ちゃん家に来てたりしたから、その向こうのバンドの動きをそこでみんなで解析しようよみたいな。そのステージダンスのね、ステップをそこでやってましたよ。エル・グラン・コンボの動き方とかね、コンボ・デル・アジェルの踊りとかね。


El Combo de Ayer "El Viento me da" 2分30秒くらいからのダンスに注目。
フロントは左からルイジ・テキシドール、ペジン・ロドリゲス、アンディ・モンタニェスの
ボーカルに後ろからペジンとアンディの間にロベルト・ロエナ(bongos,campana)登場。


そういうのをどういう風に取ってんだろうみたいな、見た目と全然違うんですよ、僕らの考えてるのとね。「2」で踊るから、ああ、こういうことなんだって。

その頃なんとなくそういうことをやり始めて、デラルスも始まってたし、デラルスもステージで簡単なステップだけど、大儀見とNORAが前でステップを合わせて、これでやるみたいなことをやり始めてたし、僕も好きだったし。

その後海外行くようになってから、もうちょっと深いとこへ入っていくんですけど。ダンス界の話もね、いっぱいあるんですよ、裏話は。したいことがもういっぱいありますよ。
今やもうすごいダンス界になってますけどね。


――ダンス界の話もわけわかんなくなってますよね。

ダンス界は最初・・・ダンス界の話に入っちゃいました。これちょっと別ルートですけどね。
デラルスで海外行き始めて日本に帰ってくるじゃないですか。誰も客席に踊れる人いないですよね。でも向こう行くと、目の前でクラブ・ブロードウェイとかね、パレディアムとか、名ダンサーたちがバリバリ踊っていると、こっちのビートがめちゃくちゃ良くなるわけ。ああ〜、こういうグルーヴなんだ!って。

日本に帰ってくると誰も踊れないと、こうなってるだけだ、と思って何とかしなきゃって、日本に帰ってきて日本のコンサートの前にダンスレッスンをやるようになったんですよ。お客さんに向けて希望者を募って。
そこで、一人じゃできないから、NORAはボーカリストで忙しいし、東京と大阪にサルサ・ダンスができる子を見つけて、ペアダンスのレクチャーを始めて。それが東京は市川奈美だったんですよね。


――大阪はキヨミ(中村清美)さんとか。

そう、キヨミだったんですよ。ニューヨークで僕知り合ったからね。
で、そこから始まって、なんとなくそこの教室が始まって、そこから弟子ができて、そこからいろんなとこへ行ってってなってって・・・で、その当時僕らがやってたニューヨークスタイルのON2とロサンゼルススタイルのON1との派閥争いって(笑)、もうすでにそうあったんです、始めからね。
僕はどっちでもよかったんだけど、僕は最初に当時のBMGビクターで、じゃあダンスレクチャービデオ作りましょうよって言って、うじきつよし主演でビデオ作ってたんですよ。あの時はON1で作ったんですよ。


――でしたね、ON1でしたね。

難しいから。で、あれのコーディネートしてくれたのがキヨミだったんですよ。そこで習ってたから。
で、作るにあたって、ON2ももちろんできるんだけどあそこでも。ON2だと最初とっつきにくいんで、じゃあON1でやろうっていうことになって、あのビデオをON1で作って、最後に付録でON2の映像を入れたんですよね。エディ・トーレスのとこの人を頼んで。


スクリーンショット 2025-08-25 191018.png

――僕も持ってます。

僕らとしてはON2を普及させたかったんだけど、最初日本人にとってちょっと難しいかなと思ってON1でスタートした。

――(伊藤が)プエルトリコにいた時に、キヨミさんが1回目のコングレスに来て、で、結構みんなあれON2で踊ってるって結構評判になったんですよね。

ニューヨークはみんなON2でしたからね。

――ちゃんと踊れたんですよね。

ON2で踊るとね、ビートの解釈が全く変わるんですよ。
ンクパク、ンクトゥトゥン・・・そのコンガのアクセントとピッタリ合うようになるから、パレディアム・ダンサーズみたいな人たち、みんなON2だから。


――それって、カロスさんも旗振った役だし、さっき出たキヨミさんと奈美さんと、みたいなところで。でも、コミュニティというか、教えられる人って本当に数少なかったわけですよね。

でもそこからどんどんどんどん枝分かれして、で、今度、海外にいた人が戻ってきてこういうことやれるんだったらっていう人が増えていって、スポーツクラブでもサルサ教えるみたいな感じになって。その間にコングレスという問題が起きて、そこにある人が現れて・・・(笑)

――そうですよね。

ある人が、問題の人が現れて、そこで利権を全部持っていくという。

――そうですよね(笑)。

そこから僕もノータッチです。ここにはタッチするのやめようと。

――なるほど・・・これはこの辺にしておきましょうか。



(PART3に続く)
posted by eLPop at 21:11 | Calle eLPop

ラテンミュージシャン・インタビューシリーズ:カルロス菅野 PART1

2025.08.31

日本が世界に誇るラテン・ジャズ・ビッグ・バンド、熱帯JAZZ楽団が、今年(2025年)、結成30周年!
リーダーのカルロス菅野さんに、これまでの30年を振り返っていただきつつ、現在、そしてこれからについて、うかがいました。

carlos_pht2016.jpg

(インタビューアー:岡本郁生&伊藤嘉章)

//////////////////////////////

生まれはね、実は、池尻の都営住宅なんですよ。あそこの自衛隊病院で生まれまして。

カルロス幼少期1.jpg

そこに、何歳だろうな、幼稚園の年少までいたのかな。
それでその後、町田に、都営住宅が当たって町田に引っ越して、森野っていうところで。で、そこで小学校の2年ぐらいまで・・・1年間かな? 
それから今度、親の転勤で浜松に連れて行かれて、浜松に2年住んで、それから戻ってきて、また町田に半年ぐらい住んで、その後、横浜の菊名に家を買って。で、そこがまあ、今の実家なんですよ。


――それはいつぐらい?

えーとね、小学校の5年の時に横浜に移って、そこから基本的に実家はずっと横浜で。
で、中学は横浜で、高校になる時に、親が今度また広島に転勤だからついて来いって言われて、嫌だって抵抗したのに無理やり連れていかれて、そこで広島に住むことになったんですね。


カルロス幼少期3.jpg

――そうなんですか。じゃあもう、言葉は基本的には関東弁?

そうそう。もともと家の中はもう、普通に関東弁でしたから。

――お父様のお仕事は?

普通の自動車部品会社なんですよ。

――結構、転勤があるんですね。

そうそう。マツダとかね、そういう関係で、浜松とか、そういうところの。

――大儀見元さんは、おじいさんがイギリス人とうかがってますが、カルロスさんはそういうのは・・・?

全くないです。全く。

――だってほら、NORAさんの本に書いてあったけど、(オルケスタ・)デ・ラ・ルスで最初にアメリカに行ったときに、「ふたり、ラティーノいるだろ?」って言われたって・・・
(※カルロスさんと大儀見さんのこと)

そうそう。「こいつら、(日本人とは)違うだろ」って言われたっていう(笑)。

――まあ、今でこそ、こういういい感じのおじいちゃんになって・・・って言ったら怒られるかもしれないけど(笑)

当時はね、なんか、とんがらがってたからね〜(笑)

―― この人は絶対ラテン系の・・・と思ってました。

まっっったく入ってないんですよ。父方は福島の三春だし、母方は山梨だし、もう何の血も入ってなくて。

IMG_7755.JPG


――で、広島から、大学が・・・

大阪になったんですよ。音楽は中学ぐらいの時にフォークソングのバンド作って。

――フォークソングのバンド?

ギター弾きながらコーラスやって・・・

――ジャパニーズ・フォークですか?

最初、赤い鳥とか五つの赤い風船とか、そういうのから始まって。その時代ですよね。ガロやったり、そのあと、サイモン&ガーファンクルをやったり。

――ということはもうそこから、歌ってた?

歌ってましたね。

――どっかのサイトで、お薦めのアーティストとして、サイモン&ガーファンクルをピックアップしてましたよね?

そう。好きですよ、いまだにね。アナログ盤に、こうやって針落としながら、みんなでハーモニー聴いて、この音だろう?とか言いながら、一所懸命、ガロとかを・・・。(音楽雑誌)『ガッツ』とかのタブ譜を見ながらね。

スクリーンショット 2025-08-25 143109.png

――『ガッツ』、懐かしいですね。

『ヤングギター』とかね、そういう世代。

――ラテンという意味では、(何かの影響は)あるんですか?

その頃は、もう、ラテンの「ラ」の字もないですよ。ま、幼児体験として、親が音楽好きだったんで、例えばテレビで「アンディ・ウィリアムス・ショー」とかやってると家族で見てたりとか、妹はピアノを習ってて、家の中では、みんなでたまに、妹のピアノと、僕はギター弾いて家族で歌ったり。親ふたりは音楽かけながら踊ってたりするような家だったんですよね。

――(当時としては)珍しいですよね?

音楽好きで、「世界の音楽」とか全集とかいう、レコード付きのブックみたいなやつを買い込んで、いろんな国の音楽を聴いたり、そういうような家でした。

――特によく、聴いてたのは・・・

いろんなものが入ってましたね。あの頃、結構テレビ番組ってアメリカの番組が多かったじゃないですか。それこそ「奥様は魔女」とか「ルーシー・ショー」とか。そういうのはよく見てて。

――でも、高校ぐらい(※1970年代はじめ)じゃないですか? ファニアの音源とかが少しずつ入ってころですよね?

全然全然。高校時代は僕、ブリティッシュ・ロック・マンでしたから、バッド・カンパニーとかフリーとか。広島で、学校の仲間でバンド作って。結構ね、広島高校界ではトップ2ぐらいのバンドで、ヤマハでしょっちゅう「毎日のように練習していいよ」って言われて。で、コンテストに出たりするようなバンドになってて。

――じゃ、どこかで、エレキ(・ギター)を買って・・・

僕その時はボーカル専念だったんですよ。

――ボーカルだったんですか! じゃあポール・ロジャースだったんですか?


Bad Company "Can't Get Enough"

そうそう。ポール・ロジャースだったんですよ。♪Can’t get enough of your love〜とかって。それで、高校時代はロック・バンドやってて、大学になって、今度、大阪の大学に入って、工業大学なんだけど、学校ほとんど行かずに軽音の部室直行で。その頃もボーカルで、大学の1年の夏から大阪のミナミの、あ、十三だ・・・トップレス・ビアガーデンのバンドの仕事をずっとやってましたよ(笑)。

――それは、ロックじゃないですよね?

なんでもありだから、当時のAORもあるし、ロックもあるし、ファンクもあるし、なんでもいいんですよね。ビアガーデンだから、まあ、踊れる曲やって、みたいな感じで、ダンサーの女の子がお立ち台で踊ってるみたいな

大学箱バン時代3.jpg.jpeg
大学の寮祭にて。譜面台の上の楽譜ノートノカバーは「赤い鳥」

――そこの「ハコバン」(※キャバレーなどで演奏するレギュラーバンドのこと)に入ったわけですか?

ハコバンに入ったっていうか、大学の軽音の先輩たちがそこで仕事してて、「お前ちょっと来て歌え」って言われて、そこで仕事してお金もらうようになって・・・。その後もずっと、ミナミのでっかい、バンドが入ってるディスコみたいなところとか、梅田のお店とか、駆け持ちで、2ヶ月交代ぐらいに店が移動するんですけど、そこでずっと仕事してて・・・大学の間は

――大学行ってないですね(笑)

大学行ってないですよ。でも、ちゃんと4年で卒業しましたからね

――ちなみに専攻は?

経営工学、インダストリアル・エンジニアリング。

大学箱バン時代1.jpg.jpeg
大学ハコバン時代

――その頃は、いわゆるブリティッシュな・・・?

高校の時はロングヘアでロンドンブーツ(※お笑いのコンビではなくヒールの高い靴)
履いてやってましたけど、大学はそんなに・・・ちょっと長めかな。

スクリーンショット 2025-08-25 144113.png
ロンドン・ブーツ

それで、その頃ハコバンをやってて、ディスコ・バンドとかあるじゃないですか。そうすると、インストもやるし、歌のある曲でも、ちょっとパーカッションが入ってる、WARとかね、アース(・ウィンド&ファイアー)にしても、パーカッション入るといいよねみたいな話になって。買えよっていうことになって(笑)。ボーカリストは手が暇だから買えよ、みたいになって(笑)


――お前、もう、楽器やれみたいな。

そうそうそう、入ってたらいいじゃんとかなって。それで白いパールの白いコンガを2本買ったんですよ。

――まずは、コンガ。

「シスコ・キッド」・・・とか歌いながら、コンガ叩いて。サンタナやったりね


"CISCO KID" WAR

――誰かに習ったんですか?

全然。見よう見真似っていうか、音を聞いて適当にやってたという段階ですよね。

――それが・・・

大学だから20歳前後ですよね? 20歳から21歳ぐらいですか 

――77年ぐらい?

そんな感じですね。

――その頃、東京で言うと、1976年にファニア・オール・スターズが来て、その辺はまだ触れてないですか?

全然触れてない。たまたま、その、一緒にハコバンやってたベースの奴が、ハコバンじゃなくてライブ・バンドをやってて。ライブ・バンドとハコバンは、ちょっと分かれてたんですよ。ライブ・ハウスをやるバンドとハコバンっていうのは。

ハコバンっていうのは“汚れ”の世界で、ハコバンばっかりやってると汚れちゃうから、そのうちどっかでやめた方がいいよ、みたいな世界だったんですよね、ミュージシャン的には。でも、ハコバンやってた時の仲間は、ハウンドドックの橋本(章司)ってドラムだったり、あと鮫島(秀樹)ってベースとか、そういう連中がいっぱいいたんですよ。大阪のハコバンで。


――鮫島さんって(世良公則&)ツイストですよね?

ツイスト入る前ですよ。だから、ハコバンでずっと一緒にやってたりして、そういうミュージャンがいっぱいいたんですよね。山岸潤史とかもハコバンで同じ店でやってたし。

――十三ですか?

それは、ミナミのでっかい店で。
大阪って不思議で、そういうハコバン・・・僕らの世代より前は、ハコバンをやってた連中がプロになっていったんですけど、僕らぐらいからちょっと、例えば浪花エキスプレスだとか、そういうライブハウス系のバンドとハコバンがちょっと分かれていくんですよね。

そのライブハウス系のバンドから声かかって、「パーカッションやるんだったら一緒にやんない?」ってなって、たまたまそこのバンドでドラム叩いてた人が、関西外大のスペイン語学科から行ってて、普通は日本語でJ-POPをね、みんなで曲書いてポップスのバンドなんですよ。あとマイケル・フランクスとかね、ちょっとAOR系の楽曲ばっかりやるバンドで、そこのドラムの人がスペイン語で歌えたんで、サルサが好きで、「ボランダ」とかやってたんですよ。そのバンドで。


大学箱バン時代2.jpg.jpeg
大学ハコバン時代

――ソノラ・ポンセーニャの・・・?

そう。ピアノの子も、女の子だったんだけど、パポ・ルカが大好きで。ちょっとジャズっぽいじゃないですか、ポップスっぽいのがあるから、そういう曲を選んで、♪アイ・ボランダ〜とか、みんなでコーラスしながら「ボランダ」やってたんです。


"BORANDA" - SONORA PONCEÑA

――そのバンドの編成は・・・

それはね、ドラム、ベース、ギター、ピアノ、パーカッション、それだけでやってたんです。

――そこに呼ばれて・・・

「一緒にやんない? 歌えるし、やるんだったら一緒にやろうよ」って。そこに入って、そこでラテンの端っこに触れたわけです。「面白いね。」って。同時にもちろんブラジリアンの、ちょっとサンバ系の曲とかもやってたし。

――そのドラムの方は、その後は?

今はもう一人で大阪でギターで歌うたいながら、まだ活動してます、頑張っているみたいです。

――なんかその頃の、始めた時の、ラテンに対するイメージとかありました?

その頃はね、全く分かんないで、見よう見真似でやってたから、まだね、構築されたものと思ってないんですよね。なんとなく雰囲気いいなーっつって。ゴリゴリのサルサバンドでもなかったんで、ダンスとのコネクションもなかったし、普通にライブの中に一曲、スペイン語のサルサが入ってるみたいな。

――他は? AOR的な・・・?

もう完全に。自分たちが作る楽曲も(山下)達郎さんとか、あの辺の感じのJ-POP系のテストの楽曲ばっかり作って、自分でもオリジナル書いたりして。で、そのバンドも、結構、関西の毎日放送のコンテストで優勝して、東京出るか出ないかみたいなところまでは行ったんですけど。

――なんていう名前ですか?

スイートエリア1.jpg
スイート・エリア

スイート・エリアってバンドだったんですけど、今はもうないんですけどね。
同時に、パーカッションやり始めたんで、関西のフュージョンバンド、当時、関西フュージョン・ブームっていうのがあって、浪花エキスプレスとかラレーニャとかいうバンドがいくつかあって、それのほとんどに関わるようになったんですよね、パーカッション・プレイヤーとして。
で、なんか色々交流が始まって、「パーカッション面白いなぁ」と思ってたところに、ティト・プエンテのラテン・パーカッション・ジャズ・アンサンブルが来るって言うんで・・・


スイートエリア2.jpg
スイート・エリア

――やっぱりあれですか・・・

あれですよ。それを見に行ったわけですよ。ヤマハの、L.P.のプレゼンテーションで来ると。プロモーションで来ると。で、エディ・マルティネスが来れなくて、最初の2本は松岡さんがピアノで。エディ・マルティネスのビザがダメで来なかったので、最初は大阪で、大阪と福岡だったかな、2本だけ松岡さんがトラでやったんですね。

僕行ったとき、松岡さんで、そこでその御大たちのアンサンブルを見たわけですよ。
で、コンサート前にワークショップっていうかレッスンもあって、で「はい!」って出てってコンガ叩いたら、パタートに、「ダメだそんなんじゃ!」って、ギュ〜って手を捩じられて(笑)。「曲がってる」って。「真っ直ぐ下ろせ」って怒られて。

でも、ティンバレスの叩き方も分かんないし、「左手こうなってんだ」みたいなとこから始まってますよね。で、その時その見たものがあまりにすごくて、「なんだこれ」と思って。


――もうちょっとその時の印象を・・・。

いや、あのね、それまではだから、今も大学で教える時に言うんですけど、ラテンの音楽って、こう、パーカッションがね、チャカボコチャカボコ言ってて、で、グルーヴしてて、ま、そんなもんだろうと。だから、自由にみんな楽しく演奏してるんだろうと思ってたら、そこで、そうじゃない、こうじゃないって言って、クラーベはこうだよっていう話があるんだけど、半分チンプンカンプですね。どういうこと?みたいな。

でも、どうもこれはなんかここに至るまでになんかすごい緻密なものがあるんだって、その時に目から鱗がボロボロボロ・・・と落ちたんですよ。これはすごい音楽だと思って。

で、感覚的に、僕も怠け者だから音楽教育も受けてないし、ドレミファソラ指導で音楽してないんですよね、ずっと。もう中学高校大学からずっと譜面なんかほとんど見ないし、耳で覚えて音楽するみたいな。関西は割とそういう文化っていうか、それでええんちゃうの?と・・・


――ブルースのね・・・

ソウルとかもやってたんで、あまりアカデミックに何かを考えるってことはなかったんですよね。
だけど、これはなんかすごい、緻密な何かがあるなと思って、で、火がついちゃったんですよね。これをやりたいと思って、突然火がついて、こういうバンドを作ろうと思って。

そこから思い立って、いろいろドラマーとかにね、ティンバレスやんない?とか、僕がコンガやるから、と。で、ジャズやってる連中とか、そのポップス・バンドやってた時のピアノの子がラテン大好きだったし。そこのベースも好きなやつだったし、じゃあ本格的なやつやってみようよって、管楽器を3本か4本入れてラテン・ジャズ・バンドを作ったんですよね。見よう見まねで。


――ラテン・ジャズ・バンドですか。

まだ歌い手もいないし、インストゥルメンタル系のカル・ジェイダーとか、ああいうなんかこう、ゴリゴリというよりちょっとラテン・ジャズ系のバンド。(ティト・)プエンテが「マリア・セルバンテス」やってたみたいなバンドを作ろうと思って作ったんですね。


Tito Puente "Maria Cervantes"

――何か名前とかあったんですか。

それはね、コンフント・マジョル。

――その前やってたそのバンドが発展したみたいな・・・

そう。そっちはそっちでやってたんですけど、こっちはラテンやるセット、みたいな感じで、並行して。で、そのバンドのギターのやつが、誰もいないからボンゴやるよって最初はしてたんですけど。

それで、それが始まって、最初はもう訳分かんないけどって言ってた頃に、ちょうど僕ヤマハでバイトしてたんですよ。ハコバン足洗おうって、大学を卒業するくらいの時に足洗って、心斎橋のヤマハにバイトで入って。で、LM売り場つってね、楽器売り場でね、バイトしながら、そこにドラムのクリニックでマーティン・ウィルウェバーって人が来ると。ヤマハの先生でしたからね。それで店内のスタジオでドラムのクリニックをやりますって、僕、準備してて。

スクリーンショット 2025-08-31 133659.png
マーティン・ウィルウェバー(perc)

で、マーティンが来て、準備してる時にマーティンがドラム叩き始めて、ラテンぽいこと、やっぱり上手いじゃないですか、ウィシングとかもやってたから。で、ちょっとやってたら、横にコンガが、スタジオの中にあって。横で僕がそれに合わせてコンガ叩き始めたら、「あれ、コンガ叩けるの?」って話になって、「いや、ラテンやってるんです」って言って、「あ、そうなの?」って言って、そこでマーティン・ウィルウェバーと繋がって。で、家に遊びに行ったり、神戸だから、実家がね。

で、しょっちゅうコンタクト取るようになって。それで、その当時、ウィシングのメンバー、松岡直也バンドに関わってたメンバーを中心に、コンフント・ミチャキーノっていう、田中倫明(たなか・みちあき=ミチャキーノ)がやってた、ウィリー(・ナガサキ)とミチャキーノとキムチ(木村誠)さんがいて、マーティン・ウィルエバーがドラムで、森村献ピアノで、そういうセットがあったんですよ。

スクリーンショット 2025-08-25 145623.png
田中倫明(ミチャキート)

d_kimchi2.jpg
キムチ(木村誠)

で、それがね、大阪に来る時に、マーティンが「じゃあ、一緒にやんない?」ってことになって、バナナホールとか、そういうちょっと大きめのホールでジョイントでやろうよって言って、僕らが最初やって、コンフント・ミチャキーノがやってみたいなことを何か所かでやるようになったんですよね。

当時、大阪は何にも情報がないわけですよ、ラテンに関して。なので、そこで話ししながらキムチさんとかミチャキーノとかにね、「モザンビーケってこの間さ、ペジョ(・エル・アフロカン)ってのが来て、モザンビーケのあれがあってさ、こうやるんだよ」みたいなことを一個ずつ一個ずつレトリーブして。

当時、大阪にはね、分かってる人誰もいなかったんですよ。クラーベなんて概念もないし、パーカッションの先輩はいたんだけど、それこそペレス・プラドの世界の人しかいなくて。


――なるほど、大阪、京都っていうか、京阪神のラテン事情ってそんな感じだんたんですね?

そう、もう全然後進国で、誰も何も分かんない。

――レコードなんかは…

レコードはね、レコード売ってる店があったんですよ。マニアックなお店が一軒だけ。
なんだっけ、なんていうの…スイートココ? スイートココになる前にね、もう一軒あったんですよ。そこにみんなで行って、こうやって探して。


Sweetcoco.jpg

――大阪ですね?

大阪で。すごいマニアックなお店が一軒だけあって。

――どの辺にあったんですか?

梅田のね、阪急の商店街の端っこを通り越したね、端っこのマンションの一階の一室みたいなところにあったんです。

――それはすごい。その、ミチャキーノとかやってたのは何年くらいですか。その時、もうウィリーさんはいたんですか? 

コンフント・ミチャキーノにはウィリーはいた。

――じゃあ、80、81年とか?

うん、なんかそのくらいだと思う。

――カルロスさんが東京に来たのは?

84年。

――それは松岡さんに入るから…

いや、そうじゃなくて、全く何のつてもなく。

――え、そうなんですか!?

っていうのは、その前に大阪でラテンバンドをやりながら、フュージョン系のバンドのパーカッションとかいろんな仕事してたんですよ、レコーディングもやってたし。

でも一個のバンドはヤマハのLMCっていう、ライトミュージックコンテストの復活第1回目でグランプリ取ってロサンゼルスで1ヶ月レコーディング行って、で、発売しますって言ってポニーキャニオンから出たんだけど、全然やっぱり鳴かず飛ばず・・・大したことにならなくて。


――それはなんというバンド?

アーリーバーズ(Early Byrds)っていうバンドで。
で、その他にも、浪花(エキスプレス)を中心に、いろんなバンド、ラレーニャとかフォーナインとか、当時すごい技術的にはものすごく高いんだけど、ちょっとこだわりのあるようなフュージョンバンドが関西にいっぱいあって。それが、みんなで東京へ殴り込みに行こうって、六本木のピットインを1週間借り切って、入れ替わり立ち替わりでライブやるみたいなことをやったりしてたんですね。

スクリーンショット 2025-08-25 120501.png

で、浪花はソニーから出て、僕らは、アーリーバーズはキャニオンのヤマハ系から出て、こっちはコロンビアから出てみたいなアルバムがどんどん出てって、そこでやってたんだけど、なかなか仕事的に広がっていかないし、やっぱりハウス・バンドみたいな仕事をしながら、それをやってなきゃいけないみたいな状態だったので。

で、84年ぐらいになって、もう東京行こうかなと思って。で、実家も横浜にあったし。


――まあ、実家に住めばいいぐらいの感じ。

で、おばさんが住んでたんだけど当時。親たちは広島とか関西にいたんで。だけど、まあ行くかっつって。もう結婚もしてたんですけど。

――そうなんですか。

で、車の中に、シビック1台で、ボロボロのシビックにコンガ詰め込んで、東京まで走ってきて。で、横浜に移り住んだんですね。

――すごいですね! それでどうなったんですか。

れでね、だから来ても何もないわけですよ、何も決まってなかったから。
で、朝から、いろんな配送の紐掛けのバイトとかガッチャンガッチャンとかやって、2時とか3時ぐらいに上がって。で、終わったら知り合いが出てるライブハウスに勝手に行くんですよ。で、入口で待ってて。楽器運びますからって言って、カネもないから。で、(高橋)ゲタ夫さんとかね、もうみんな知り合いだったから。で、入れてくださいって言って、手伝いますからって言って、ローディーをやりながら、そのライブハウスに入れてもらって。で、虎視眈々とタイミングを狙ってるわけですよ。

スクリーンショット 2025-08-30 215425.png

で、最後の方、盛り上がってくると、ゲタ夫さんとか分かってるから、あ、いいから上がってきて叩けよ、みたいになる。で、カウベル1個持って殴り込んでいったりね。そんなことを数ヶ月やってたんですよね。
そしたら、ある時、ゲタ夫さんから電話がかかってきて、「松岡さんがね、コンガ探しててオーディションやるって言ってるんだけど、来る?」って言われて。

31400893_1849896201738078_1816395648627376128_n.jpg
松岡直也

「行きます行きます」って、松岡さんのオーディションだと思って、楽器持って行ったら、ワーナーのスタジオで。で、譜面ポッと置かれて、はい録ります!って言って(笑)。で、「Long For The East」のレコーディングで。そこでウィリーと2人でレコーディングして。

スクリーンショット 2025-08-26 225148.png
松岡直也『Love for the East』

終わったら松岡さんが、「じゃあツアーよろしく」って言われて、「あ、そうですか!」って(笑)。で、そこで松岡グループに入ることになったんですよ。


――その時はグループの名前は?

松岡直也バンド・・・グループかな。

――その前は誰だったんですか?

僕の前は、ミチャキーノとウィリーだった。

――あ、そっか。倫明さんが辞めて・・・

辞めて、ペッカーで半分録ったみたいなんですね。でも何か、探してるって・・・。
たまたまね、ギターも探してて、僕が一緒にポップ・バンドやってたバンドのギターを、ゲタ夫さんが推薦しようと思って、デモテープを渡したんですって。その中にラテンっぽい曲も入ってて。そしたら松岡さんがそのテープ聞いて、「このコンガの人は誰? ちょっと呼んで」って言って、そこへ行くことになって。


――その前は、直接会ったことは? ブエンテの来日で見たことはあったんですよね?

見たことと、あと、やっぱり松岡さんも大阪にツアーで来た時に、僕、楽器運びに行って、ミチャキーノとか知り合いだったから、ウィリーとか手伝って。で、遠くで見せてもらったりしたんだけど、松岡さんと話することはなくて。もう雲の上の人みたいな。おっかないし、「どうも、はじまして」くらいの感じで。
84年、秋ぐらいですね。東京に出てきて、半年ぐらいの間に、松岡さんに入るってことになって。


――なんかすごいですね。

すごいですよね。

――いろいろこう、偶然もあれば、必然もあれば。

もうなんか出会いですよね。で、出会ってないと・・・。

――でもなんかちょっと印象的だなと思ったのは、カルロスさん、ソフトじゃないですか。だけど、今のお話って、向こうのブロンクスで、若手が食いついてる、みたいな。なんかイメージのかなりのギャップに・・・

いや、もう必死でしたもん。もう何とかして食い込むんだと思ってたから。

それでまあ、来る前にゲタ夫さんとか献ちゃんとか、そのミチャキーノ関係で、キムチさんもそうだし、いろいろ繋がりできてて、来るんだったら遊びにおいでよみたいな話をずっともらってたから、それでいろんなとこに顔を出して、向井(滋春)さんの次郎吉のライブで飛び込んでいったりね、いろんなことして。
で、もう一つはその同い年、その年に(オルケスタ・)デ・ラ・ルスが始まるんですよ。


((2)へ続く)

posted by eLPop at 13:46 | Calle eLPop

eLPop初夏号「2025年 前半はこれだ」

2025.06.14

さて2025 年もぼちぼち折り返し!
メンバーが音楽、映画、本などから「2025年前半はこれだ!」を選びました。

目次の各記事見出しをクリックすると記事のページにリンクが飛ぶようになっています。

さわやかな初夏のeLPopを楽しんで頂けたら!

■筆者別

石橋純:『口笛のはなし』、『南米力と沖縄愛 日系16人のライフヒストリー』(本:日本)
水口良樹:ミレナ・ワルトン(ペルー)
佐藤由美:パウリーニョ・ダ・ヴィオラ、ベッチ・カルヴァーリョ、ゼカ・パゴヂーニョ(ブラジル)
長嶺修:シコ・メンデス、中米パナマの憂うつ(本:日本)
山口元一:ディアナ・ブルコ、サファラ、La-33(コロンビア)
高橋めぐみ:教皇選挙(Conclave)(映画)
宮田信:ブイェポンゴ、キタペナス、6/23-7/11『晴れたら空にジャズ!』(チカーノ)
高橋政資:オルランド・マラカ・バジェ、オルケスタ・アラゴン、ビルヒニア・グアンタナメラ他(キューバ)
岡本郁生:シーラ・E & グロリア・エステファン(USラテン)
伊藤嘉章:パレスチナ、そしてトランプ(スペイン、プエルトリコ、ベネズエラ)

2025年後半もよろしくお願いします。



エルポップ(eLPop)一同

eLPopメンバーズ(記事等着順)
石橋純(熱帯秘法館/CASA CACHIBACHI担当/ベネズエラ& more)
高橋めぐみ(SOY PECADORA担当/スペイン語圏の本・映画)
水口良樹(ペルー四方山語り担当/ペルー)
山口元一("Ay hombe"担当/コロンビア)
宮田信(DANCE TO MY MAMBO担当/USA+MEXICO)
高橋政資(ハッピー通信担当/キューバ、ペルー、スペイン)
長嶺修(猫の目雑記帳担当/スペイン & MORE)
岡本郁生(ラテン横丁・USA LATIN & MORE)
佐藤由美(GO! アデントロ!/南米、ブラジル & more)
伊藤嘉章(カリブ熱中症担当/カリブ諸島&沿岸+US)

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
posted by eLPop at 01:36 | Calle eLPop

ラテン・ミュージシャン・インタビュー〜NORA:PART3

2025.03.16

IMG_3952.JPG

(PART 2から続く)
(PART 1はこちら)

――ところで、さっき(PART 1で)も出ましたけど、赤木りえさんのバンド(Watusi Improvisczario)でやったりとか、サルサじゃないとこでもやってるじゃないですか。あのバンド、ジャズもやってるけど、あのとき(「晴れたら空に豆まいて」でのライヴのとき)のブガルーとか、ファンクやディスコをやったのが・・・ラス・オセアナスも結構そんなテイストありますけど・・・またすごい面白くて、うまくハマってて。ラテン・ロックみたいなのも、面白かったですね。

WATUSI.jpg

276031479_10226848093698147_1381090698466055211_n.jpg

ブガルー大好きですよ。だって、ラテンとソウルが好きなんだから(笑)。混ざってんのが、もともとソウルですから。

――やっぱり、気持ちよかったですか?

そうですね。もう、何の違和感もなく。
でも、アレサ(・フランクリンのナンバー)はちょっとトライだったんです。アレサは大好きなんだけど、キーがすごい高いし、あんな歌えねえよ・・・みたいな感じでずっと思ってたんでトライしてなかったんですけど、歌ったら気持ちよかったですね。

なんかやっぱりこう、ああいうビートとか、ああいう曲は好きですね。自分の中にあるっていうか、ブルースが好きなんですよね。だから、ブルース・コードの曲だとやっぱり盛り上がるっていうか、永遠に回っていくっていうか、なんかそういうのがあります。サルサもそうなんですけどね、そのコードのまわりが気持ちいいと、なんか癖になるっていうか。


――(赤木さんのバンドとNORAさんは)いい組み合わせですよね。

ありがたいですよね。面白いんですよ、アレンジが。セッションだからそのままやるのかなと思ったら、ちゃんとアレンジしてくるんですよ。

――ああいう分野・・・オセアナスももちろんですけど、サルサは常にど真ん中にあるとして、やっぱりこれから、ソウルとかR&Bとか、ああいうとこもやっていく感じですか?

やりたいです、もちろん。でも、(ああいうのは)日本でしかできないというか。
やっぱりラティーノは、私が他の、英語とか・・・日本語はまだいいんだけど・・・英語とかで歌うと全然「イイネ」してくれないんですよ(笑)。本当にイメージがあって。「NORAはサルサを歌う人」ってなってるわけです。「歌ってくれる」っていう感じ・・・どっちかっていうと。だから、違うことをやってほしくないっていうのはあると思う。だから、あんまり受けが良くないです、海外ではね。


――でも、ブガルーは、いいかもしれませんね。

逆に接点ですもんね。

――接点なので、僕がFacebookに上げたら、プエトリコの友達はみんな結構「いいね、いいね、NORAさん歌ってんの?」と・・・。

じゃあ、そっちから行かないと(笑)。いきなりアレサとかじゃなくて、ブガルーから(笑)。
でもそういう曲、デ・ラ・ルスでもどんどんやっていきたいんです。前にブガルーの曲も作ったことあるんですよ。


――まだレコーディングしてないですよね? ライヴでやりました?

「ブガロジー」っていう曲を・・・でも、インストだったりします。歌ものはいまのとこないので、歌もので作ってみたいですね。前に作ったのはあるので、ちょっとリメイクしてみます。“東京のブガルー”みたいなイメージのものを作ってみたんです。

Orchestra De La Luz - Boogalogy

https://youtu.be/L6cR9jRAIbw?si=HH--G6KCjhFhDHjR

――それ、いいじゃないですか! やっぱりちょっと広がるものがあるっていうか・・・。ど真ん中にサルサを持ってるのは当然で、オルケスタを持ってるっていうのは、大事なことですし。

「マス・カリエンテ」みたいな、「サルサ・カリエンテ・デル・ハポン」のアンサーソングをずっと作りたいと思ってて、なかなか出てこなくて。今回やっと出てきたので、入れたんですけど、やっぱりこういうのはメインにしとかないと(と思います)。イメージがあるじゃないですか。「前と同じサウンドだね」みたいな。

(今回のアルバムは)1曲目からファニア(・オール・スターズの楽曲)っぽいっていうか、メンバー紹介して・・・っていう。(ライヴでは)オープニングでやってたんですけど、それをちょっとメンバー紹介入れたりしてやってみたら、やっぱり昔のサルサ好きな人は、あ、嬉しい!・・・みたいな(感想がありました)。


――そうですよね。やっぱりそういうのはメインにやっていただいて・・・。

それは外せないんですよね。やっぱり日本人が聴くので、「涙そうそう」もやらなきゃいけないし。でも、すごい良い曲だし、本当に。トニー(・スッカル)に、「なんか日本の良い曲をアレンジして」っていったら、彼もYouTubeで色々探して、やりたいっていった曲が、「真夜中のドア」だったんですよ。

涙そうそう (Cover Salsa Ver.)

https://youtu.be/DJ2ktt7Rtog?si=B4zpDmT24Xg7p3aS

――最近人気の・・・。

私、大好きでソロでも歌ってるんですけど、なんと、ウィリー・カルデロンっていうパーカッショニストでコロンビア人・・・彼がもうカバーしちゃったんですよ、サルサで。

で、私がいろいろ探して「涙そうそう」を提案しました。そしたら、ペルーでも有名な曲だって。日系ペルー人の間でね。あ、だったらいいかなって、それで決めたんですけどね。みなさん知ってるし。
「あの日に帰りたい」っていうのは(鈴木)ヨシローが提案したんですけど、そういうね、昔の日本の名曲もやりたかったし、オリジナルといろいろ混ぜ合わせて。

でもホント、もっと時間があったら・・・本当は14曲入りくらいになったはずなんですけど・・・やっぱり時間かかったわ〜っていうのが感想でした。これだけの人数でちゃんとレコーディングすると、これだけ手間がかかるんだ、って。


――そうですよね。やっぱり、オルケスタって大変だ。

そうなんですよね。前のアルバムの『グラシアス・サルセーロス』っていうのは、半分、ライヴで録った音源なんですよ。(青山の)「MANDALA(マンダラ)」でやったライヴをちゃんと録音してて、それをエンジニアさんにミックスしてもらったので、半分だけ録れば良かったので楽だったんですよね。
今回は全部フルなので、すっごい・・・本当に疲れた(笑)。いま思い出しても疲れたなぁと思って。


スクリーンショット 2025-03-16 134656.png

Gracias salseros.jpg

――次回作は・・・?

どんどん曲も作って。最低でも(結成)45年には・・・(笑)。だって、35年(記念アルバム『グラシアス・サルセーロス』を)出して、あっという間に5年経っちゃいましたもんね、コロナ禍があったから。

――そうか。一昨年ぐらいかな、みたいな気がしてたけど。

その3年、パッて記憶が飛んでる。5年も経ったんです。だから、次の5年は、ちゃんと活動してたら、もうちょっと充実感があると思う。
ちょっと2曲ぐらい録って配信で、とか、いうのもあるんですけどね。ずっと新曲ないのもなんなんで。じゃあ、ブガルーに挑戦しようかな。


――そうですよ! そういうの入れていただくと、DJやってるときに使いやすい。

用途によって使いやすい曲とか、ありますよね。
いま、知り合いのダンサーさんが、「フィットネスでサルサ」っていう計画をやってて、その方たちが結構使ってくれてるんですけど、「マス・カリエンテ」とか「ミ・アルマ」とか、頭乗りで、キューバンのモザンビーケのリズムなんで、わかりやすくこうやって、♪ランランラーって振り付けしてくださったりとかしてるっていってたので。

それで面白いのが、「トド・ミ・コラソン」って曲あるじゃないですか。これJINとデュエットで、もともとJINの曲なんです。私の企画アルバムで、ウェーブリングのソロの企画アルバムをちょっと前に出したことがあるんですけど、その中に入れたんですよ。で、日本語で歌ってるんですね、全部日本語の歌詞にして。(今回収録したのは、)その曲のリメイク・スペイン語ヴァージョンで、歌詞をジャセルに書いてもらったんですよ。・・・っていうのは、「トド・ミ・コラソン」って恋愛の歌だから、私が書くより、やっぱりラティーノが書いて、ちょっとエロくなったほうがいいかなって。


――なるほど。

物語が歌いたくなるような歌詞になったほうがいいな・・・と思って書いてもらったら、すっごいイメージ湧いて、すぐ書いてくれて。「バーって書けました」みたいな感じで、すごい良いのが上がってきたんですよ。

そしたら、リトさんっていうパナマ人のプロモーターなんですけど、サンフランシスコに住んでて・・・いろんなラテンのイベントを企画したり、昔、デ・ラ・ルスもLAでやったときも彼がプロモーターでやってくれたんですけど・・・このアルバムを送ってくれと。で、「いろんなところで動くから」っていってくれて。で、この間、パナマとペルーとコロンビアで、いろんなラジオとかでプロモーションしてくれたら、「トド・ミ・コラソン」もすごい評判がいいみたいな。「へ〜〜〜意外!」と思って。で、それもあって、オリジナルだから著作権とかも大丈夫ですし、飛鳥クルーズに乗った時に、ビデオ撮ったんです。


"Todo mi corazón" Orquesta de la luz

https://youtu.be/NM5gVfa1lP0?si=28H1qBrKvAsfJ710

――へー、いいですね。

ほんと「ノー予算」なんで、全然凝ったビデオじゃないですけど、でもなんか変に生々しくて(笑)、逆に新しいかも・・・ぐらいの感じの(笑)

――やっぱり現地のウケるものはちょっと違うんですね。面白いです。
ところで、プロデューサーっていう意味では、トニーはどういう感じなんですか?

トニーは基本的に性格がいいから、すごいやりやすくしてくれるっていうか、言葉ひとつひとつが優しいし、なんていうかな・・・喜んでくれるんですよね。その上でアドバイスするって感じです。そういうところもすごい日本人っぽいんですけど、丁寧なんですよ。全てにおいて丁寧だから。で、結構、完璧主義なんですよね。自分でもいってました。「もう本当に完璧主義で自分で困る」っていってたんですけど、特にパーカッションにおいては・・・例えば、グィロのシュッてあるじゃないですか。そのシュッが、ここが気に入らないと、そこを切って削除して、他のところとかをくっつけたりするんですよ。そのぐらい細かいらしいです。こだわりがすごくて。

だから、デ・ラ・ルスの音を送ったときに、パーカッションがちょっとでもズレてると気になるっていうことをいってました。ただ、もう直せないって(笑)・・・もう一回できない、って。ま、バンドだからいいか、みたいな。自分でやるときは完璧主義を貫くタイプです。
もちろんみんな・・・セルジオ(・ジョージ)も細かいし、トニーも細かいんですけどね。トニーは特にパーカッショニストだから、パーカッションに関してはすごい細かいと思います。
歌に関しては、そこまで細かくないかな。ただ、ミックスするときに、すごく細かくやってると思います。ちょっとでもズレてると直したりとか、やってると思います。


Tony and NOra.jpg

――そういうトニーから、何かいわれるとすれば、どういうこといわれるんですか? アドバイスとして。

「スキヤキ」のときに初めてレコーディングのアドバイスを受けたんですけど・・・その後はほら、もうできたの送ってるので、直接アドバイスは受けてないですけど・・・「スキヤキ」で、歌入れはその場でしたので、特にそんなにすごいいっぱい言うっていう感じはないんですけど、例えば「もうちょっと熱量が欲しい」とか、あとは逆に、「もうちょっと温度下げていいよ」みたいなとこもありました。

「ちょっと熱入れすぎちゃった」みたいな(笑)。「そこは楽に歌ってくれて、自然に歌ってくれればいいよ」とか、あとは、なんか私がちょっとフレーズを変えて歌ったら、「それいいね。じゃあこれはどう?」みたいな感じで、また違うメロディを提案したりとか、「あ、じゃあこっちにしようか」とか、「あ、君の方がやっぱり良かったね」とか、そういうやりとりがありましたね。

常に聴いてくれるし、なんか、お互い一緒にやってる感じ。プロデューサーと歌手とかじゃなくて、一緒に良い音楽を作ってるっていう交流がある感じですね。ヘッドホンして声だけ聞いてやってるけど、そんな感じでした。

トニーはもう、2023年は大忙しでしたよね。これからちょっと、いろいろな付き合いができるから、楽しみですね。今度、ソロ・アルバムを作りたいなと思ってるんですけど、トニーにプロデュースしてもらおうかなって、ちょっと考えたりして。マイアミでね。


――いいですね!

できれば、いろんな曲を入れて。サルサも入れるかもしれないけど、基本的にちょっとボレロとか、ゆっくり歌を聴かすアルバムにはしたいですけどね。・・・とは思ってます。

――そうですよね、確かにボレロだけではないにせよ、そういうのが中心というのは、いいかもしれない。

グロリア・エステファンの『アモール・イ・スエルテ(Amor y Suerte)』っていう、ボレロばっかり入っているアルバムなんですけど、あんな感じは好きですね。あと、ルイス・ミゲルの『ロマンス』シリーズみたいなね、あれは名作ですよね。あの3部作、あれで私ボレロを知ったんですよ。それまで全然ボレロをちゃんと聴いたこともなくて。

Gloria Estefan "Amor y Suerte" , Luis Miguel "Romance"
G;loria Luis.jpg

――確かに・・・

全然曲知らなくて、ラテンの曲を。それでルイス・ミゲルのあれを聴いたら、うわーいいな!と思って、それで全部いろんな名曲を知ったんですよ。

――現地でもそうだったかもしれませんね。

かもしれないですよね、若い人にとっては。

――まだまだ、これからも楽しみにしてます。本番、これからですよね。リハーサルが終わったとこですもんね(笑)。アイデア、あふれまくりですよね。
ところで、NORAさんとしては、やはり、プエルトリコのサルサに特別な思い入れがあるんですよね?

ニューヨーク系も好きだけど、やっぱりプエルトリコの、あの、なんというか・・・

――微妙な感じがね。

たまんないですね。たまんないんですよね、あのプエルトリコのね・・・懐かしいんですよ、私は。懐かしい。現地に行ってもそうなんだけど、もうね、聴いてるだけで・・・プエルトリコでサルサを聴いた時の懐かしさって言ったら、前世ここにいたのかなって感じがしますよね。懐かしくてしょうがないんですよ。哀愁しかないんですよね。

――哀愁ですよね。

好きなんですよね。やめられないんですよね、日本人にそんなにいないですからね。そこまでコアな・・・そこの良さをわかる人がいない。

――そうなんですよね。NORAさんの本にも出てきますがが、何回行ってますか?

数十回行ってますね。前は、特にね。エル・グラン・コンポの50周年も行ってきましたし、多分、毎年1回は行ってます。
なんか、でも、日本人と似てるとこも感じません?


――うん。なんか、(同じような)メンタリティーとかもあるし。

なんか調和を大事にするっていうか。ラティーノなのに結構きちっとしてますよね。もちろんいい加減で、すぐ血が騒いでバーッと忘れちゃいますけど。
例えばね、ラジオ局とか行くと、ノリでバーッとやるんだけど、例えば、お手洗いとか行くじゃないですか。結構キレイなんですよ、どこ行っても。キチっとしてるんですよ。結構こまかくモノを置いてあるのとかも。

あと、前チャーリー・ドナートっていう(プエルトリコの)ベーシストがデ・ラ・ルスの5枚目のプロデュースしたときにも思ったんですけど、「縦」をすごい揃えようとするんですよね。(ニューヨリカンの)セルジオはやっぱり、そこまでじゃなかったんですよ。チャーリーはもう、きちっと「縦」が揃ってないとダメみたいな。「プエルトリコではそうだから」みたいな感じで、すごい揃えるようにしたんですけど、やっぱり揃ってないと気持ち悪いみたいな。日本人みたいなところがあった。


――ちょっと似てるかも・・・。

そこは感じました。同じ島国でっていうのもあるのかと思ったんですけどね。プエルトリコって独特な文化なんですけど、私はすごい共通点を見つけるんですよね。

***************************
昨年末にインタビューのPART 2 をお届けしてから、このPART 3のリリースまでまでに時間があいてしまい(すみません!!)、その間にNORAの活動も多忙を極め、インタビューに登場した皆さんも色々な活躍がありました。

TONY SCCARはMIMY SCCARとのライブ・アルバム”Alma, Corazón y Salsa (Live at Gran Teatro Nacional) ”が2025年のグラミー賞ラテン・トロピカル・アルバム部門最優秀賞受賞の快挙。
スクリーンショット 2025-03-16 141038.png

国立大劇場でのライブ盤。ノラさんも内5曲も参加でした。おめでとうございます!

スクリーンショット 2025-03-16 141708.png

NORAさんは昨年末からデ・ラ・ルス40周年記念ライヴ、ニューイヤー・ライヴ、そして4月からパナマ・ワールド・ツアーに向けて3月下旬のツアー・スタート・ライヴと目白押し。
パナマ・ワールド・ツアーは、ソノーラ・ポンセーニャ、プエルトリカン・パワー、グルーポ・ガレ、レイ・ルイスが共演。

スクリーンショット 2025-03-16 144634.png

ソロでも"NORA SPECIAL UNIT"での多くの公演や、藤川 靖彦さん米米CLUBの金子隆博さんと音楽ユニット「Tokyo Flores(トキオ・フロレス)」の活動もスタート

今年も楽しみです!

IMG_3955.JPG


(了)
posted by eLPop at 12:33 | Calle eLPop

eLPopの「2024はこれだった!」

2024.12.31

FELIZ AÑO NUEVO 2025!

1.jpg

さて2024年も終了、2025年が幕開きです!
2024年は記事読んで頂いたり、関連イベントに参加頂いたりありがとうございました!
2025年はメンバー一同、一層濃厚に楽しんだり発信したりして参りますのでよろしくお願い申し上げます!

2024を振り返りメンバーが音楽、映画、本などから「2024はこれだった!」を選びました。
このページにプレイリストのように並べクリックすると音楽はYouTube音源に、映画は関連解説にリンクが飛ぶようになっています。

年末のお時間に楽しんで頂けたら!

■筆者別
石橋純:下山静香
高橋めぐみ:小島章司、ペドロ・パラモ
水口良樹:ミゲル・バルンブロシオ、フロール・デ・ラップ、トレンケ・ラウケン
山口元一:コロンビアの10曲
宮田信:ジ・マーローズ
高橋政資:サラ・ゴメス、革命する大地、La Banda El Recodo、NAKIBEMBE、JOE BATAAN
長嶺修:『戦争は、』、伊那市と愛川町のペルー料理店
伊藤嘉章:PR & NY取材、村上春樹、UK
岡本郁生:クマイルス、マーク・アンソニー
佐藤由美:石塚隆充、浅草サンバカーニバル、横浜ベイスターズ優勝、私の想う国、ゼー・イバーハ、花田少年史


■カテゴリー別

【音楽】
Cardencheros de Sapiorizの「La Noche Llegará」。(from 高橋めぐみ)

https://m.youtube.com/watch?v=EMk6INn0aLo

Miguel Ballumbrosio "Yana Luna" (Peru)2013(from 水口良樹)

https://www.youtube.com/watch?v=aujZZcJcDXw

Flor de Rap "Inmarchitable" (Chile)2019(from 水口良樹)

https://www.youtube.com/watch?v=dawCDu2lQTg

El León Pardo "La Perica"(from 山口元一 )

https://www.youtube.com/watch?v=DLNjt4yQ4oE


Matachindé ”Morir Cantando・(from 山口元一 )

https://www.youtube.com/watch?v=fZxYjO8zvaA&list=OLAK5uy_mMNwjVEamVtUUTdGRjTSNXXrNt17guXZY&index=1


Clandeskina ”En Cali se quedó(from 山口元一 )

https://www.youtube.com/watch?v=hE0L_ERVq4E


El Rolo Entusao "Los Carrangomelos"(from 山口元一 )

https://www.youtube.com/watch?v=Q_QvQUCS2Zg


De Mar y Río "Bailen y Gocen"(from 山口元一 )

https://www.youtube.com/watch?v=n6929zqtAhc


Martina Camargo ”La pollera”(from 山口元一 )

https://www.youtube.com/watch?v=Bo-Re2RtRCM


Adriana Lucía "Te Lo Digo En Cumbia"(from 山口元一 )

https://www.youtube.com/watch?v=WI2YtrDg7kY


Grupo Niche "Cali Pachanguero 40 Años"(from 山口元一 )

https://www.youtube.com/watch?v=EhBwGUityKo


Katie James y Victoria Sur "Como el río - Katie James y Victoria Sur"(from 山口元一 )

https://www.youtube.com/watch?v=GwptGHvLBgo


Goyo, Luister La Voz " Saltas Por Mi"(from 山口元一 )

https://www.youtube.com/watch?v=iIn20hv7zVU

Thee Marloes - Mungkin Saja(from 宮田信)

https://youtu.be/LC1kBZFRsJc

「La Banda El Recodo」(from 高橋政資)

https://youtu.be/3zOz8A0sst0?si=hFP958YWqdE0kdVH

「日本人の婿」クマイルス(from 岡本郁生)

https://www.youtube.com/watch?v=vQSA02hy678

「恋の行方はあなた次第」クマイルス(from 岡本郁生)

https://www.youtube.com/watch?v=JDsG5TG33i8

Marc Anthony - Muevense(from 岡本郁生)

https://youtu.be/gruomptSqq0?si=ceIJ02WQKekGlL_e

El Laberinto del Coco: Tiny Desk(from 伊藤嘉章)

https://youtu.be/R2_7ADO2Hlo?si=ZMoWsEh4E__J_rqL

Music Network presents Linda May Han Oh & Fabian Almazan(from 伊藤嘉章)

https://youtu.be/cMsgB2Wyld4?si=7Kjh7pRqnzOR0T0B

liana flores - Nightvisions(from 伊藤嘉章)

https://youtu.be/fj7BDOmcILo?si=VqSHSONNHQYlFjNJ

Mei Semones - Wakare No Kotoba(from 伊藤嘉章)

https://youtu.be/4AxId-yl2_Q?si=R-FfvkrqL8DarkQh


【映画/TV】
ペドロ・パラモ(高橋めぐみ)
トレンケ・ラウケン(水口良樹)

【本】
『戦争は、』ジョゼ・ジョルジェ・レトリア 文/アンドレ・レトリア 絵(岩波書店)(from 長嶺修)

【舞台/舞踊】
小島章司(高橋めぐみ)


【レストラン】
La Casa de Jimmy (from 長嶺修)
Restaurant Tiki (from 長嶺修)

では皆さまの2025年の毎日が充実しますよう!

エルポップ(eLPop)一同

eLPopメンバーズ(記事等着順)
石橋純(熱帯秘法館/CASA CACHIBACHI担当/ベネズエラ& more)
高橋めぐみ(SOY PECADORA担当/スペイン語圏の本・映画)
水口良樹(ペルー四方山語り担当/ペルー)
山口元一("Ay hombe"担当/コロンビア)
宮田信(DANCE TO MY MAMBO担当/USA+MEXICO)
高橋政資(ハッピー通信担当/キューバ、ペルー、スペイン)
長嶺修(猫の目雑記帳担当/スペイン & MORE)
岡本郁生(ラテン横丁・USA LATIN & MORE)
佐藤由美(GO! アデントロ!/南米、ブラジル & more)
伊藤嘉章(カリブ熱中症担当/カリブ諸島&沿岸+US)

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
posted by eLPop at 13:08 | Calle eLPop