キューバのハバナの中心部、セントロ・ハバナの下町 Cayo Hueso(Callejón de Hamelもここですね)生まれの少年ペドリートが、どんな音の中で、誰を聴いて一緒に演って育ち、1998年、NYへ移住して、ウィントン・マルサリスなどジャズ側、エディ・パルミエリやパキート・デ・リベラらのラテン側、エリック・クラプトンやエルトン・ジョンやらのロック/ポップ側、キップ・ハンラハンからロマン・ディアスなどアフロ・キューバンなどを垣根なくクロスしてどうやって自分の音楽を作って来たか、などを聴きました。聞き手は岡本郁生と伊藤嘉章。
アルフレッド・ロドリゲス・バンド featuring ペドリート・マルティネス
10/12(月)13(火)14(水)@ブルーノート東京
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――日本は初めてじゃないですよね?
綾戸千恵さんと共演したことがある。ずいぶん前だけど、オラシオ・エル・ネグロ、ロビー・アミーン、そしてジョン・ビーズリーがピアノで。20年ぐらい前かな。来日は18年ぶりぐらいだと思う。
――今回のトリオはすごく新しいですよね? どれくらい一緒に演奏してるんですか?
ミシェル(・カミロ)とリッキー(・ロドリゲス)と初めて演奏したのはニューヨークのブルーノートで、12公演やった。2週間前だよ。本当に新しいグループなんだ。すごくいい。信じられないくらい。
――ブルーノート東京は満員でしたね。私の友だちやミュージシャンたちもたくさん見に来てましたよ。
オルケスタ・デ・ラ・ルスのメンバーも来てくれたよ。本当にすごいね。
――あるインタビューで、ロックの影響を強く受けていると言ってましたね?
そう。キューバではロックやジャズ、ブルース、ファンキーなもの、R&Bまで、たくさん聴いていた。当時、キューバとアメリカの関係は最悪で、キューバ国内でアメリカの音楽を聴くのは違法だったから、ラジオでアメリカの音楽を聴くときは、音量をすごく小さくして聴いていた。そう、僕にとって、すごく興味深かった。それで、1998年にニューヨークに来て、2000年にセロニアス・モンク・コンペティションで優勝した。それからスティングと演奏し始めた。エルトン・ジョンともね。僕にとって彼らの音楽は馴染み深かった。だって、ずっと聴き続けていたから。ブルース・スプリングスティーンとも共演したよ。
――エリック・クラプトンとも……。
エリック・クラプトンともね。音楽を聴いてたから、僕にとってはすごく馴染み深かった。自分の音楽の知識を彼らと融合させたり、結びつけたりするのも、僕にとってはとても簡単だった。それは僕にとって、すごく良い経験だったよ。ロンドンに飛んで、アルバム『Acertijos』のために3曲をレコーディングした。エリック・クラプトンもいたし、ジョン・ファディスもいた。たくさんのアーティストがいたよ。
――昨晩の演奏を聴いていて、ロック音楽の影響を強く受けていると感じたんですよ。というのは……8ビートを叩いてたでしょ?
ああ、もっとファンキーな感じ。僕はファンキーな音楽の影響を強く受けてきた。ファンキーな音楽だ。クール・アンド・ザ・ギャング、ライオネル・リッチー、それからザ・ミーターズ。あと……
――マイケル・ジャクソン?
もちろん、マイケル・ジャクソン。アース・ウィンド&ファイア。だから、僕らはアフリカ系、アメリカのブラック・ミュージックを多く聴いてるんだ。もちろん、ロックンロールもたくさん。レッド・ツェッペリン、クイーン、KISS、ローリング・ストーンズも聴く。これが最高の組み合わせなんだ。
――じゃあ、ジャズよりも、ファンクやロック音楽の影響を強く受けたということでしょうか?
いや、何よりもジャズを演奏してる。ニューヨークで28年間演奏してきたんだ。ウィントン・マルサリスとはよく共演している。私のアルバム2枚にもウィントン・マルサリスが参加しているし、多くのジャズ・アーティストと共演している。ロック・アーティストよりもジャズ・アーティストと共演する方がはるかに多い。ラテン音楽における私の最大の影響はジャズだ。それが最大の影響なんだ。
――キューバでもジャズを聴いていたんですね。
キューバでも、そうだね。
――キューバではジャズは違法じゃなかったんですか?
アメリカからの音楽はすべて、どんなジャンルの音楽であれ、キューバで聴くのは違法だった。でも、それが逆に私の興味をそそったんだ。
――なるほど。
音楽は政治とは何の関係もない。結びつけることはできない。だから、世界で最も国際的な都市であるニューヨークに来た時、私は本当に魅了された。憧れのミュージシャンたちに会えて、本当に嬉しかった。エルヴィン・ジョーンズにも会ったし、他にもたくさんの素晴らしいドラマーたちに会った。
――キューバで育った頃、どんなジャズを聴いていましたか?
キューバでは、もちろんディジー・ガレスピー。ディジーは、ご存知の通り、多くのキューバ人がキューバを脱出するのを助けてくれた。アルトゥロ・サンドバルやチャノ・ポソもそう。ディジー・ガレスピーはもちろん、本当に多くのジャズ・アーティストがいた。デューク・エリントンも大好きだ。素晴らしいジャズのピアニスト、ベーシスト、ホーン奏者たちがたくさんいて、本当に感動した。
――ドラマーはどうですか?
もちろんドラマーについてもそうだ。
――アート・ブレイキーですか?
アート・ブレイキーは、いわばパイオニアの一人だ。バディ・リッチも。そう、たくさんいるよ。現代のドラマーも、昔のドラマーも。
――キューバではどんな教育を受けたんですか?
ストリートだ。音楽学校には一度も行ったことがない。
――そうなんですか?
そう。独学で学んだ。
――キューバでは子供たちは音楽学校に通っていると聞いたんですが……
キューバのミュージシャンのほとんどは学校に通ってる。でも、私にはその機会がなかった。だから、ストリートで独学で学んだ。そうそう、初めてコンガを、自分のパーカッションを手に入れたのは、ニューヨークに行ってからだよ。
――え、本当に?
そう。それまでコンガは持ってたことはない。
――キューバでは持ってなかった?
買うおカネがなかった。カネがなかったんだ。
――そうなんですね……。キューバでは、何の楽器を演奏してたんですか?
練習台を自作したんだ。木の板に車のホイールを取り付けて、釘を打ち付けた。ニューヨークに行くまで、何年もそれを練習台として使ってたよ。
――キューバでの先生は誰でした?
先生はいなかった。とても有名なコンガ奏者のタタ・グィネスと一緒に演奏した。そこでヨルバの宗教に触れた。私は司祭で、生まれてからずっと民俗音楽を演奏している。バタ、ルンバなどの民俗音楽です。私が学んだのは、まさにそれなんだ。
――バタを始めたのはいつですか?
そうだな……すごく幼い頃、11歳くらいからかな。家ではよくダンスとかを習っていた。母は歌手なんだ。キューバにはパーカッション奏者の兄(弟)が2人いた。だから、うちではスポーツと音楽が融合した生活だった。柔道が得意で、何年も柔道をやっていた。本当に上手だったんだよ。何年も柔道をやっていて、ボクシングも少し、あと、ランニングもたくさんやっていた。ボクシングは得意じゃなくて、ごく短期間しかやってない。でも、柔道とランニングは長年やっていた。素晴らしい経験だった。
――ハバナ生まれですよね?……カジョ・ウエソ出身でしたっけ?
カジョ・ウエソだ。カジョ・ウエソはハバナの中心部、まさにど真ん中にある地区で、その地域には、たくさんのストリート・ミュージシャンが住んでいる。
――カジョ・ウエソには、たくさんのミュージシャンがいたんですか?
そう、本当にたくさんいた。素晴らしいバンドもたくさん。私の家の向かいには劇場があって、オルケスタ・リトモ・オリエンタルやネノ・ゴンサレスなど、多くの有名バンドがそこでリハーサルをしていた。たくさんのバンドがリハーサルをしていたんだ。私はよく道を渡って、美しい音楽を聴きながら眠りについたものだった。だから、私の近所には有名な民族音楽家がたくさんいた。ヘスス・ペレスはキューバを代表する、まさに象徴的な存在だった。
――ほかに、ムニェキトス・デ・マタンサスのようなバンドと演奏したり、彼らの演奏を聴きに行ったりすることもあったんですか?
ムニェキトス・デ・マタンサスはマタンサス出身で、ハバナから3時間くらいのところだ。でも、彼らがハバナに来るたびに、私が近くにいると、コルンビアの歌を一緒に歌おうと誘ってくれた。ムニェキトとはとても仲が良い。本当に幸せだ、良い友達なんだ。
――歌は、いつから始めたんですか?
いつから歌い始めたかって? 最初はオリキというグループで歌い始めた。そのグループのリーダーは、演奏者と歌手に、演奏しながら歌って踊ってほしいと言っていた。それで、演奏しながら歌って踊る方法を覚えた。それが私の人生のすべてだ。歌って、踊って、演奏して、いつもそうしてきた。
――オリキは、あなたが最初に組んだバンドですか?
正式にはそうだね。初めて音楽を演奏したのは、ガルシア・ロルカ劇場だった。ガルシア・ロルカ劇場。ハバナでとても有名な劇場だよ。フアン・ベンコモがいた。フアン・ベンコモはコンガとバタを演奏していた人で、そのジャンルの創始者だ。それが、私が初めて一緒に演奏したグループだった。
Juan Bencomo
――当時何歳でした?
18歳。
――当時、一番印象に残ったバンドやグループは覚えてますか?
ああ、たくさんあったね。リトモ・オリエンタルはその一つ。リトモ・オリエンタル、ルンババナ、ロス・バン・バンはもちろん。チャンギート、レレ、オルケスタ・アラゴン。素晴らしいオーケストラだった。これは昔のバンドだけど、もっと新しい世代のバンドも…
――新しい世代のバンドも…
そうですね。チャランガ・ハバネラのアレクサンダー・アブレウも大好きだ。メディコ・デ・ラ・サルサも。本当にたくさんいるよ。パウリート・FG、イラケレ。彼らはオールド・スクールの王様だ。キューバ音楽の王様だよ。彼らはどちらかというとフュージョンバンドのような感じだったけどね。
――あなたがキューバにいた頃、ティンバは……?
ティンバはすごく人気だった。本当に人気だった。特に90年代から98年頃まで。98年……そうだね。
――当時、ティンバについてどう思っていましたか? 好きでした?
素晴らしかった。本当に素晴らしかった。大好きだった。特にNG(エネヘ)ラ・バンダ。NGラ・バンダはキューバで最も人気のあるティンバ・グループだった。彼らは最も創造的で、最も多才なバンドの一つだったと思う。まるで巨匠のようだった。メンバーの多くはイラケレ出身で、ホセ・ルイス・コルテスもいた。NGラ・バンダはキューバで私のお気に入りのバンドの一つだった。
――そういうティンバ・バンドでは演奏しました?
キューバでティンバ・バンドで演奏したことは一度もない。一度も。
――ないんですか? なぜです?
学校に行っていなかったから。誰も私のことを知らなかった。彼らはペドリートを知らなかったんだ。それで……ティンバのグループと演奏しようと必死に試みたんだが、機会がなかった。
――つまり、彼らがあなたのことを知らなかったということですね。
今はみんな、私のことを知っている。よく知っているよ。でも、以前キューバに住んでいた頃は、宗教音楽を演奏して路上で生き延びようとしていたので、あまり知られていなかったんだ。
――宗教音楽を演奏していたんですね、サンテリアを……
そう、宗教音楽だ。そして…それが私の最大の影響だ。それが私の最大の……最大のインスピレーションであり、モチベーションでもある。なぜなら、私は自分で曲を作っているからだ。自分で曲を作っている。私の曲はヨルバのメロディーを基盤としている。そして、その力強いエネルギーこそが、私がアフリカ音楽全般に惹かれる理由なんだ。
――歌手として、キューバの歌手で一番好きな人は誰ですか?
キューバの歌手だと……ロランド・ラセリエ。ベニー・モレ。たくさんいるね。でも、昔はたくさんのアマチュアのミュージシャンが歌っていた。ロランド・エル・ゴルド、ペドロ・サーベドラ、メルセディタ・バルデス、アメリア・ペドロソ、ラサロ・ロス、フェリペ・アルフォンソ。ああ、素晴らしい歌手がたくさんいるよ……すごい。素晴らしいミュージシャン、歌手が。
――アメリカの歌手はどうですか? つまりサルサの……
パブロ・フェレ。トニー・カラもそうだし……ロス・バン・バンのペドリート・カルボも。私が大好きな素晴らしい歌手はたくさんいる。
――ところで、あなたの音楽は何と呼べばいいんでしょう? サルサとは全く違いますよね。ラテン・ジャズでもないし。
私の音楽はアフロ・キューバン音楽をベースに、ジャズ、フュージョン、ファンクをミックスしたものだ。最近は、あらゆるものがミックスされているので、多くの人の音楽を説明するのは難しいね。たくさんのアーティストとコラボレーションして、彼らから多くのことを学び、自分の音楽にたくさんのアイデアを取り入れている。今の音楽はワールドミュージックだ。正統派のジャズでも、ティンバでも、サルサでも、ジャズでもない。巨大なコンビネーションといったらいいかな……。
(つづく)


