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 決起文<はじめに>

<エル・ポップ>トークライブ〜キューバ、プエルトリコ、ニューヨーク 黄金の三角関係〜 Vol.6(後半)

2018.05.11

「三角関係〜Vol4」での「マンボ」の考察を受けて、2018年1月27日(土)に開催した「三角関係〜Vol.6」。その後半です。

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<エル・ポップ>トークライブ〜キューバ、プエルトリコ、ニューヨーク 黄金の三角関係〜 Vol.6(前半)

2018.05.04

「三角関係〜Vol4」での「マンボ」の考察を受けて、2018年1月27日(土)に開催した「三角関係〜Vol.6」。
「その後のマンボ」というテーマでいろいろと妄想を膨らませてみました。
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2/10 eLPop 金沢編 資料D「高橋政資のかけた曲」

2018.03.05

◆Son para un Sonero / Conjunto son 14
LP:"Son Como Son" (1981)



 「サルサはキューバ発祥」という言説が、いつの間にか語られるようになっています。確かに、音楽的ルーツの一部分はキューバ音楽に見ることが出来るでしょう。しかし、サルサは、やはりプエルトリコ系を中心としたニューヨークの様々なラティーノたちが創り上げた音楽文化なのです。

 音楽スタイルのネーミングがうまく、ビジネス的にその重要さを知っているキューバのミュージシャンたちも、最近では自分たちのこの種を音楽を「サルサ」と呼び始めています。しかし、心の中では、「コンテンポラリー・ソン」=ソンの発展系だと思っている人が多いと思います。特にベテランの人たちはよく「サルサとは違うんだ」と頑なに主張します。

 ソンというと、クラベス、ボンゴ、マラカス、ギター、トレス・ギター、ベースに、何人かが歌も兼任するセステートという編成や、そこにトランペットが加わったセプテートの編成で奏でられる音楽だと、我々は思い込みがちです。しかし、そこに複数のトランペットやブラス、ピアノなどが加わったコンフントやオルケスタ、ビッグ・バンドの編成でも、ある形式の範囲で演奏されれば、キューバ人たちは「ソン」だと感じるようです。彼らの重要な音楽的アイデンティティが、「ソン」なのかも知れません。

 そんなソンですが、キューバも1960〜70年代は他の国と同様、ポップスやロックが流行して、ソンは古い音楽、過去のものとして、あまり顧みられなくなっていました。そんな中、ソンに再度スポットを当てたのが、アダルベルト・アルバレスです。そして、アダルベルトがサンティアーゴ・デ・クーバで結成したのが、ソン14(カトルセ)です。編成は、複数のブラスとコンガ、ティンバレスも入ったコンフント。この曲は、1981年発表のグループのセカンド・アルバム『Son Como Son(ソン・コモ・ソン)』収録の曲です。曲タイトル「Son para un Sonero(ソン・パラ・ウン・ソネーロ)」とは、ソネーロへのソンということです。ソネーロといわれるのは、ソンの味わいを歌や演奏で出せる人のことを特別にそう呼ぶのですが、曲始めの語りで歴代のソネーロたちの名前が列挙され、彼らを湛えています。まさに、ソンの復権を歌い上げた曲というわけです。

Son para in Soneroson14.jpg

 金沢のイベントの当日、eLPopの伊藤さんがステージ横で、こんなことをつぶやかれました。「曲前半は、キューバ人にしか出せない味わいを聞かせているが、後半はサルサ的な展開で、このぐらいのことは出来るんだぜ、といっているようだ」と。まさしく、曲始まりは、キューバ独特なハモっているのかどうか分からないような2声で味わいを出しているかと思えば、中盤以降、ストリングスも飛び出すドラマチックな展開で盛り上げていく、そんな、ソンの伝統と革新を同時に聞かせてくれる名曲です。


◆Esas no son Cubanas / Septeto Nacional de Ignacio Piñeiro
LP: "Sones Cubanos" (1962)



 最近、キューバ音楽ファンで「ソンが一番好き」と公言する方が増えています。その中には、キューバ第2の都市で古都、サンティアーゴ・デ・クーバのソンこそがソンだと思われている方が多々いらっしゃいます。確かにサンティアーゴ・デ・クーバは、「ソンの故郷」「ソンの街」を標榜し、多くの素晴らしいソンのバンドが今も活動していますし、ソンの揺籃の地であることも確かです。ただ、ソンはサンティアーゴ・デ・クーバなどの東部からハバナに伝えられ、スタイルとしてハバナで完成したと言われています。ハチロク系のリズムを導入、そして歌を聞かせるメロディ・ラインが主役の前半とモントゥーノというコール・アンド・リスポンスよるダンス・パートの後半という形式が完成され、このコントラストにより、幅広く聞かれるようになったと言うわけです。

 セプテート・ナシオナルは、そのソンの完成型を創り上げた最重要グループの1つです。1920年代後半に結成され、1930年代頃まで多くの名曲を世に出しましたが、ソンのブームの終わりと共に、ほとんど表舞台からは姿を消していました。しかし、1950年代終わり頃から始まった、古のキューバ音楽の見直し機運にのって、1962年に、音楽学者でもあったオディリオ・ウルフェの要請により録音されたのが、この『Sones Cubanos』というアルバムです。

SonesCubanos_septeto-nacional.jpg
オリジナルのSIERRA MAESTRA盤

 結成当時からのリーダー、イグナシオ・ピニェイロを中心に、リード・ヴォーカルは、まだ若かったカルロス・エンバーレが抜擢されました。「キューバの声」とも称される彼の歌声は、ソンのソンたる味わいを十二分に伝えてくれます。

Septeto Nacional_2.jpg
その後発売されたSEECO盤

 このアルバムの収録曲は、「エチャレ・サルシータ」「スワベシート」など彼らの十八番ばかり。そして金沢で掛けた「Esas no son Cubanas そんなのキューバ女じゃない」も代表曲で、アルバムに記された形式は、SON HABANERO(ハバナのソン)となっています。「ソンを踊れないなんて、そんなのキューバ女じゃない」と歌われています。まさに、ソン讃歌ですね。


◆Chirrin Chirrán / Los Van Van
LP: "Los Van Van" (1973)

 

ニューヨークでサルサが誕生し盛り上げっていた頃、キューバではどんな音楽が作られていたでしょう?

 1950年代終わりから1960年代に掛け、キューバではチャ・チャ・チャやモサンビーケに代表される新リズムが次々と現れヒットしました。一方、世界では、なんと言ってもロックン・ロールやロックが、若者を熱狂させていました。キューバにもその波は押し寄せ、1959年のキューバ革命以降社会主義国家になっても、これらの音楽を演奏するミュージシャンが多く現れました。

 ロス・バン・バンの設立者でリーダーのフアン・フォルメルも、生前インタビューなどで「ロックは好きで良く聞いていた」と話しています。そんなフォルメルは、レベ・イ・ス・チャランゴンなどのバンドを経て、1969年にロス・バン・バンを結成。サイケなロック系のサウンドを前面に押し出したファースト・アルバムを同年発売しますが、まだそこでは後年の特徴的なロス・バン・バン・サウンドを聞くことは出来ません。その後すぐに、ドラマーがチャンギートに替わると、サウンドは一変しました。チャンギートは天才的なパーカッショニストで、8歳頃からハバナの有名なキャバレー、トロピカーナに出演してしまうほどでした。フアン・フォルメルは、チャンギートとソンゴ(SONGO)という新しいリズムを考案し、キューバ的なジャストで鋭角的なリズムでロック的なメロディーを演奏。一気に人気を掴みました。

Loa Van Van.jpg

 この曲、「チリン・チラン」は、彼らのセカンド・アルバムに収録された大ヒット曲です。オープニング部分は、ロック好きなら何処かで聞き覚えがあるようなメロディだと思いますが、チャンギートの裏拍をバシバシ決めるドラミングが入ってくると、全くキューバ的になってしまう、不思議な曲です。キューバの若者も、サルサが創世されていた同じ時期に、こんな斬新な音楽を創り出していたのです。

 なお、ロス・バン・バンとフアン・フォルメルについては、以前eLPopに記事をアップしましたので、よりお知りになりたい方は、下記をご覧下さい。

http://elpop.jp/article/97096178.html
posted by eLPop at 09:39 | Calle eLPop

2/10 eLPop 金沢編 資料C「伊藤嘉章のかけた曲」

2018.02.27

プエルトリコはコロンブスに「発見」されて以来約400年の間キューバと共にスペイン領でした。それゆえ、音楽のルーツもキューバと共通なものがあると同時に長い歴史の中で違った個性も持っています。

カリブの音楽のルーツは大きく分けて3つとよく言われ、プエルトリコも同様です。
@ 元々そこに住んでいた人たち(アラワク、タイノ、カリベなどと呼ばれる人たち)
A 欧州から移住してきた人たち(スペイン、フランス、イギリスなど)
B アフリカから奴隷として連れてこられた人たち

そんなプエルトリコの音楽の流れに沿って3曲をご紹介します。


◆Rafael Hernandez作 ”Preciosa(プレシオサ)” 歌:マーク・アンソニー
CD “Romance del Cumbanchero”

プエルトリコの特徴を考えるとき、キューバにもし「リズム」指向があるとすれば、プエルトリコは「歌」への指向があると言えるかもしれません。その歌の一つとしてラテンには「ボレロ」というジャンルがあります。

ボレロは人々の心や日常、愛情を美しいメロディーで歌うものですが、一曲目は、そのボレロを含む様々な素晴らしい曲を生涯に3,000曲以上作曲した、ラテン音楽を代表する音楽家、ラファエル・エルナンデスの曲をご紹介します。

ラファエル・エルナンデスは1892年にプエルトリコに生まれ、音楽学校で学び、市立オーケストラに参加。第一次世界大戦に米国兵士として(プエルトリコは米国領)従軍後、1920年代にニューヨークに移住し、トリオ・ボリンカーノ、カルテート・ビクトリアを結成し、演奏と作曲活動を行います。ニューヨークやプエルトリコのみならず、中南米で大きな人気を得た中1932年にメキシコに移住。映画やオーケストラの音楽監督として活躍後、1947年に故郷プエルト・リコに戻りプエルト・リコ交響楽団のディレクターに着任という経歴。1965年にプエルトリコで逝去。73歳でした。彼の作品は本当に中南米で愛されてきた大ヒット/有名な素晴らしい曲が多いです。

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世界で、そして日本でも一番有名な代表曲は「エル・クンバンチェロ」でしょう。高校野球の応援で良く演奏されます。その他、上げればきりがないのですが「ラメント・ボリンカーノ」「Perfume de gardenias」「Capullito de Aleli」「Campanitas de Cristal」「Cachita」などがあります。

エルナンデスの曲は中南米・カリブ全域で人気でしたが、エピソードをご紹介しましょう。キューバでも人気のエルナンデスですが、キューバのソンを代表するグループの一つ、トリオ・マタモロスが1928年にNYに行った時、人気作曲家だったエルナンデスに出会い、その後1930年キューバでエルナンデスの"Buche y Pluma Na'ma"を録音して大ヒットさせます。

そしてその約10年後の1939年、NYで万博が開かれキューバも出展します。その時のキューバの公式本「キューバ・ポピュラー音楽」というパンフの中の「キューバを代表する80曲」としてこの曲を含む2曲が入りました。キューバの人の勘違いですが、彼の事をキューバ人と思ってしまう程、彼の曲がキューバの人々に愛され影響を与えたかがわかります。

さて、用意していたのはカルテート・ビクトリアの「Campanitas de Cristal」でしたが、「水口さんがマーク・アンソニーに似ている」という話がちょうど出たので急遽マーク・アンソニーが歌った「Preciosa」に切り替えました。この曲のタイトル「プレシオサ」は「美しい」という意味ですが、女性の事を歌ったのではなく、エルナンデスが生まれたプエルトリコの事がテーマです。

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1898年の米西戦争でプエルトリコはキューバやフィリピン、グアムなどと共に米国領となった後、キューバは実質的に米国支配であるとはいえ1902年に独立します。一方、プエルトリコはその時以来、アメリカの「準州」的な中途半端な状態で現在に至ります。米国領となっても島は貧しく、またハリケーンの被害にも合う事もあり、NYを中心に米本土各地に移住して働くプエルトリカンも多く、それが後年のサルサの誕生のベースにもなりました。一方でそんな厳しい生活の中で、故郷の美しい自然を歌ったこの歌は、プエルトリコの人々の心に大きく響いた曲でもありました。




◆Rafael Cortijo y su Combo “Oriza”(1958)
LP “Fiesta Boricua”

プエルトリコのアフリカ・ルーツの音楽に「ボンバ」や「プレーナ」と呼ばれるものがあります。強いリズムが特徴の打楽器を中心とした音楽ですが、マンボが成熟してゆく時代に、このボンバやプレーナにベースやピアノ、管楽器を取り入れ新しい音で大きな人気を博したのがラファエル・コルティーホです。ご紹介するこの曲はプレーナをベースにした大きなノリの曲で、このように踊りたくなるようなリズムがコルティーホの特徴の一つと言えます。

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マンボのビックバンド編成に対して、小さな編成のグループが若い世代の心をつかんできていた時代の中、そのバンドの強いリズムと疾走感、またノベルティー感やユーモアの要素もあるエンタテイメント性とかっこよさでプエルトリコだけではなくNYや中南米でも大きな人気を獲得しました。

ボーカルのイスマエル・リベラのボーカルも今までのマンボ時代の瀟洒な歌い方に対して、庶民感たっぷりの歌いぶりと、スピ−ド感抜群の即興で色々な事を歌い込むライブ感が大きな支持を得ました。即興で様々に歌詞を変化させたり、作って行ったりする事の出来る歌手は敬意を以って「ソネーロ」と呼ばれますが、イスマエル・リベラは「ソネロ・マジョール(最高のソネーロ)」の愛称で後の歌い手の多くに影響を与えています。

来日中のエディ・パルミエリに岡本郁生さんが行ったインタビューの中で50年代後半のNYのマンボの殿堂「パレイディアム」の当時の様子を尋ねた事がありました。彼の話によれば、パレイディアムは曜日によってユダヤ系が多かったり、白人やセレブが多かったりと特徴があった中、土曜日はコルティーホのバンドがプエルトリコ系で満員となったフロアの客を楽しませていたとの事です。

このようにバンドの即興性とスピード感、イスマエル・リベラのボーカルのスタイルはその後のプエルトリコのサルサに大きな影響を与え続け、またその後にコルティーホのバンドを母体にして誕生した、プエルトリコを代表するサルサ・バンド、エル・グラン・コンボにもそのノベルティー性やおおらかなノリが受け継がれています。




◆Marvin Santiago “Fuego a la Jicotea” (1979)
LP “Fuego a la Jicotea”

プエルトリコのサルサの魅力は前項のコルティーホのバンドが持っていた2つの側面、つまり疾走感と即興性の部分と、おおらかなカリブ海ならではのノリや歌の部分と言えます。

後者はエル・グラン・コンボや後のサルサ・ロマンチカの一部にまで引き継がれていますが、前者の疾走性はファニアの一部だったり、「ソネーロ」と呼ばれるインプロビゼーションの能力の高いボーカルを擁したグループや歌い手に引継がれていると言えます。

この前者を引き継ぐ一人がマルビン・サンティアゴです。1947年にサンファンの下町で生まれ、若くして地域のサルサ・バンドで歌う中、評判を呼び、ボーカルを探していたコルティーホのオーディションに呼ばれ、一発で受かって早速プエルトリコのみならずNYやシカゴなども含めた公演をこなします。1968年にはコルティーホのバンドメンバーとして初録音。その後1970年にファニア・オールスターズの主要メンバーであるボビー・バレンティンに抜擢され、多くのヒットを飛ばしました。

そんな中、マンボ時代から活躍する編曲家でプロデューサーであるホルヘ・ミジェはマルビンが若いころからその才能に注目していて、ソロ・デビューに際して全面的にバックアップします。こうして1979年にアルバム”Fuego a la Jicotea”はリリースされました。

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アルバム・タイトルのこの曲はプエルトリコ、NYのみならずベネズエラなど中南米で大ヒットとなります。コルティーホの作曲、ミジェの編曲によるこの曲は、息もつかせないスピード感のアレンジのと、それを加速するようなマルビンの歌の疾走感と、ちょっとした隙間に畳み込んでくる即興の言葉、歌詞が大きな魅力です。

マルビンの即興は、たびたびダブル・ミーニング(一つの言葉、センテンスに二重の意味を持たせる事)を伴い、庶民感覚溢れるユーモアやギリギリのエロチックなフレーズを短い音符の隙間に入れ込んでくるのでそれがスピード感を増強させる事となり、他の歌い手を寄せ付けない威力を発揮するのです。

素晴らしいサルサの歌い手の一人であるルベン・ブラデスはマルビンの即興の事を「マルビン(の即興)はフォルクス・ワーゲンのビートル(小型車)でも停められない小さな場所にマック・トラック(のような大型のトラック)を停められちゃうんだよ」と評したほどです。

2曲目でも書いたように、そんな即興のできる歌手を「ソネーロ」と呼びますが、マルビンは「ソネーロ・デ・プエブロ(庶民のソネーロ)」の愛称を得て、ファンから愛されてきました。前述のイスマエル・リベラにしろ、このマルビンにしろ、またチェオ・フェリシアーノにしろ、エクトル・ラボーにしろ、次の世代のフランキー・ルイスにしろ、即興で言葉を紡ぎメロディーを作って、聴衆とつながって行くスタイルを大事にするプエルトリコには、やはり言葉と歌を大事にする特徴があるのかもしれません。




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2/10 eLPop 金沢編 資料B「岡本郁生のかけた曲」

◆El Rey Del Mambo / José Curbelo
Los Reyes Del Mambo (1946)

1940年代半ばのニューヨーク。チャーリー・パーカーやディジー・ガレスピーが先頭に立ってビバップ革命が進行していたこの時代はまた、ラテン音楽とジャズが盛んに交流していたときでもありました。

 そんな中で活躍していたラテン楽団のひとつが、キューバ出身のピアニスト、ホセ・クルベーロの楽団です。紹介したのは46年11月29日の録音ですが、ここでの注目はなんといっても、のちにそれぞれが自己の楽団を率い、ライバルとして熾烈な人気争いを演ずることになるティト・プエンテ(ティンバレス)とティト・ロドリゲス(歌)が共演している、というところでしょう。

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 40年代初頭、マチート楽団にティンバレス奏者として加入したプエンテは、海軍に召集され、終戦までの3年間、護衛空母に乗っていました。除隊後、GIビルを利用してクラシックの名門ジュリアード音楽院に入学。音楽理論やオーケストレーション、指揮などを学びます。その間、いくつかの楽団で働いていたのですが、その中のひとつがクルベーロ楽団だったのです。

 ロドリゲスがクルベーロ楽団に加入したのはおそらくこの46年だと思われますが、同年、新しくできた「チャイナ・ドール」というナイト・クラブに出演したときに中国人ダンサーとして働いていた日系2世のトービ・ケイ(本名:タケコ・クニマツ)に出会い、翌47年に結婚しています。しかしその年、トービ夫人の体調が悪いという理由で仕事を休んだはずのティトがバーで飲んだくれていた・・・と誰かがクルベーロに告げ口したため楽団をクビになってしまいます。

 そんなわけで、両ティトが同楽団内に在籍していた時期は短く、その意味でも貴重ですが、さらにいえば、「マンボの王様」というタイトルも気になるところ。

 ぺレス・プラドが「エル・マンボ」などを大ヒットさせて世界で“マンボの王様”となるのはもう少しあとのことです。46年にこのタイトルの楽曲をやっているということは、マンボの成立過程を知る上でも意味があることではないでしょうか。




◆Subway Joe / Joe Bataan
Subway Joe (1967)

 ジョー・バターンは、1942年、ニューヨークでフィリピン人の父とアフリカ系の母のもとに生まれた“アフロフィリピ―ノ”です。少年時代は悪の道に走り、刑務所暮らしも経験したあと、60年代の半ばから音楽活動に入りました。とはいえ、子供のころからドゥーワップが大好きで、仲間と歌っていたころにはよく「耳が良い」と言われていたそうですから、音楽の道に入ったのは必然だったのでしょう。

 67年、ファニア・レコードから『ジプシー・ウーマン』でデビュー。トロンボーン2本の“トロンバンガ編成”によるゴツゴツと荒々しいサウンドと、彼のいなせな歌いっぷりでいきなり人気を獲得することになります。このデビュー作は全9曲をなんと4時間余りで録音したというほどで、溜まりに溜まっていたエネルギーが一気に爆発した傑作です。67年はウィリー・コロンがデビューした年でもあり、ブーガルー・ブームの中、ファニア・レコードはますます勢いを拡大していくことになります。

 それから1年も経たず、同じく67年にリリースされたのが2作目の『サブウェイ・ジョー』。タイトル曲は、まさにブーガルー・アンセムともいうべきナンバーで、彼のカッコよさが集約された永遠の名曲といえるでしょう。

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 当時のブーガルー・ブームについて、ジョー・バターンは昨年12月に来日した折のトーク・ショウで「ブームはすぐに終わるとわかっていた。だから俺は、“ブーガルー”ではなくあえて“ラテン・ソウル”という言葉を使った。なぜなら、ブーガルーがなくなっても、ラテンはなくならない。そしてソウルもなくならない。だから“ラテン・ソウル”なんだ」と語っていました。

 実際、このブーガルー・ブームは、68年ごろにはすっかり収束してしまい(日本のグループサウンズ・ブームとそっくり)、サルサの時代へと突入します。

 ブーガルーは時代のあだ花、単なる一過性のものと見る人もいます。しかしそれは、ニューヨークに住む若きラティーノ(ニューヨリカン)たちの地元意識の目覚めといえるのではないでしょうか。それまで、世界中のラテン音楽界は、ほぼキューバ音楽の影響のもとにありました。それが、キューバ革命をきっかけとして少しずつ変化が訪れ、如実な形として現れたのが、ラテン音楽にR&Bやロックの感覚を付加したブーガルーだったのです。この時点でニューヨリカンたちはようやく、借り物ではない、自分たちのラテン音楽を見つけたといえましょう。ニューヨークのラテン音楽=サルサが誕生するためには、この、地元民としての意識の形成が不可欠だったのです。




◆Caminos / Luis“Perico”Ortiz
Sabroso! (1982)

 トランペット奏者/アレンジャー/プロデューサーのルイス“ペリーコ”オルティスは1949年、プエルトリコのサンフアン生まれ。音楽高校を卒業後にプエルトリコ大学でも音楽を専攻しますが、67年、18歳のときには、晩年をプエルトリコで過ごした著名なチェロ奏者パブロ・カザルスが指揮するプエルトリコ交響楽団のゲストとしてソロを吹いたほど、才能あふれる音楽家なのです。

Luis Perico Ortiz.jpg

 70年にニューヨークへ移ると、ティト・プエンテ、モンゴ・サンタマリア、ファニア・オール・スターズといったラテン音楽だけでなく、ディオンヌ・ワーウィック、サミー・デイヴィス・ジュニア、トニー・ベネット、デヴィッド・ボウィなどポップス〜ジャズの世界でも活躍しました。その後78年からは自己の楽団でアルバムをリリース。ストリングスなども多用した、これぞニューヨーク・サルサ!という洗練された音作りで、一躍人気楽団となったのです。

 ファニア・オール・スターズがニューヨークのクラブ「ザ・チーター」で行った歴史的なライヴとそれを記録したアルバム『ライヴ・アット・ザ・チーター』(72年リリース)、さらにドキュメンタリー映画『アワ・ラテン・シング』によって世界に知られるようになったサルサ(=ニューヨーク・ラテン)は、70年代を通じて大いに盛り上がり、音楽的にもぐんぐんと成熟していきます。しかし80年代に入ると、ニューヨークに住むラテン系の若い世代の志向はヒップホップやダンス・ミュージックへと向かい、サルサは大きな曲がり角に立っていました。

 ちょうどそんなとき、82年に発表されたアルバム『サブロソ!』は、ある意味で、ニューヨーク・サルサの頂点ともいえそうな、これ以上ないほどの美しさを感じさせる作品です。流麗なストリングス、ステディにリズムを刻みながらじわじわと盛り上げていくリズム・セクション、クールかつエモーショナルに場面を作り上げるホーン・セクション、ロベルト・ルゴのジェントルでシャープな歌声……。さまざまなパーツが一体となってペリーコの美しき世界を形成しているのです。

 マンハッタンの夜景にいちばん似合うのは、こんな曲だと思うんですよね


posted by eLPop at 10:10 | Calle eLPop