Top > Calle eLPop
INDEX - 目次
目次
【11/3 eLPop Party vol.5 ラテン最新情報/選曲リスト】(出演順)
【3/10 eLPop Party メンバー選曲リスト】(出演順)
【ラリー・ハーロウ来日特集1:来日記念プレ・イベント、cafe104.5で開催!
【ラリー・ハーロウ来日特集2:ファニア・私の3曲】
【ラリー・ハーロウ来日特集3:ラリー・ハーロウ・インタビュー by 岡本郁生】


【追悼特集】
【特集:私はいかにしてラテンにハマったのか?】
【eLPopへのメッセージいただいています】
 決起文<はじめに>

ラテンミュージシャン・インタビューシリーズ:カルロス菅野 PART6

2026.05.03

(PART5より続く)

1995年にオルケスタ・デ・ラ・ルスを脱退したカルロスさん。
いよいよ新たなステップを踏み出します。

IMG_2929.jpg

//////////////////////////////////////////

その前の年に、「高崎音楽祭」っていう音楽イベントが……今も熱帯(JAZZ楽団)で出てるんですけど……そこで<デラルス・2デイズ>っていうのがあったんですよ、1994年に。

1日目はデラルスとSING LIKE TALKINGのジョイント・イベントで、2日目は何しよう?って言った時に、じゃあ、デラルスにサックス隊入れて、ゲストに神保彰のドラム入れて、ちょっとラテンジャズ系のコンサートをやろう、ってことになって、その時に作ったのが、トロピカル・ジャズ・オールスターズだったかな?……っていうタイトルで、2日目はやったんですね。

その時の体験があって、95年にデラルスを9月のツアーで辞めて、終わって。
で、もう辞めるって決定してた頃に、デラルスがいた事務所の社長とかが、「菅野さん、次、何やるの?」って話になって。しばらくはもう、何もやるつもりなくて休憩しようと思ってたんですね。なので、事務所で働くってことで、宛名張りとか電話番とかやって、しばらくそれをやりながら……(笑)


――え? マジでやったんですか!?

マジでやったんですよ(笑)。マジで事務仕事とか手伝って、ゲンプラ(ゲンプランニング)で。ゲンプラの加藤(元)さんとはデラルス時代から、ビジネス面で二人三脚だったんですよね、ずっと。それも含めて、このままいてほしいから、在籍はこのままにしといて、っていうことで。そこでちょっと手伝いながら、「バックアップするから、何かやりたい事があったらやれば?」って言ってくれて。それで、じゃあ、ってことで、あの時のビッグ・バンドをもう一回やってみようかなと思って。でも、あんまりコンスタントに活動できるとは思ってなかったんで、六本木ピットインで始めたんですよね。

最初、95年の秋かな?……にやって、で、次の年の年明けくらいにもやったのかな。でももう、1回目から超満員で、息もできないくらいパンパンになっちゃって、2回やったら、もうこのハコでは無理だなぁ……くらいになってたんですよね。

で、どうしようかって言ってた時に、当時ね、ハイビジョンの試験放送っていうのが始まるわけですよ。ハイビジョンの試験放送なんだけど、ハイビジョンの受像器を持っている家庭はほとんどないんですよ。今の4Kじゃなくて、その前のハイビジョンね。それを放送のシステムとして広めるために、試験番組を作ってくださいという予算が各放送局に降りたらしいんですよね。

その時に……フジテレビだったんだけど……担当の人が僕らのライブを見に来てて。何を作ってもいいわけですよ。つまり、世間に見る人いないから、プロモーションの場所でしか見られないプログラムなんで、そこで、「じゃあライブ撮らせてください」って話になって。で、横浜のランドマークホールっていうところを押さえて、カメラ7台とか入れて、クレーンも入れて、90分のドキュメンタリーライブ番組「イントゥー・ザ・グルーブ」っていうのが出来たわけですよ。メンバーのインタビューもあり、すごい重厚な番組が出来て。

で、その時の音源を、出演料はないので音源だけお渡しします、ってことで、音源だけマルチでいただいて、それをニューヨークに持って行って。その時、予算を確保するために電通の方の企画で、「マンボdeカネゴン」とか出光関係のコマーシャル制作みたいなことをやって予算引き出して、ニューヨークにそれを持って行って、ジョン・ファウスティで……エンジニアのね、RMMもみんなやってたジョン・ファウスティに頼んで……ミックスしてもらって、『LIVE IN YOKOHAMA』って1枚目が出ることになったわけですよ。


417CAM5Y5TL._AC_.jpg

――なるほど、そういう経緯だったんですか。

そうだったんですよ。いろいろバックアップしてもらって。で、当時、“インディーズ”なんて言ってなくて自主制作アルバムで。音源は出来たから出しちゃおうって言って、ジャケットも、凝ったもの作れないから、当時、エンジニアがね、「『勘亭流』っていうソフトをコンピューターに入れたんだよ」っていうんで、それで「熱帯ジャズ楽団」っていう名前の(ロゴを作った。)……その、トロピカル・ジャズ・オールスターズじゃ普通だから、バンド名どうしようかって言った時に、事務所のスタッフとかいろいろ話してて、日本語にしたら面白いんじゃない?とか誰かが言って、それで、“トロピカル”だから“熱帯”で、“ジャズ”で、オールスターズはあれだけど、まあ、“楽団”にしようかって言って、熱帯ジャズ楽団って名前になったんですね。

スクリーンショット 2026-05-03 174956.png

――アルバムを出すときに名前が決まった、ということですか?

いや、そうじゃなくて、最初にピットインでやった時からその名前で。その前の段階でそれが決まってて、ちょうど「勘亭流」のフォントが入ったから、それを「勘亭流」でやってみたら、「あ、面白いじゃない」って話になって。

で、アルバム・ジャケットを作る時に、いろんな凝ったデザインのジャケットで、バンド名が英字で表記されたりすると、逆に目立たないと思って、真っ白いジャケットに字だけっていうのにしてみようと。それが(店頭の)CD棚とかに並ぶとめちゃくちゃ目立つわけですよ。


――ある意味シンプル極まりない・・・

そう。もう、名刺代わりみたいな。で、それが結構目立って。あと、山野楽器さんの協力を得て……ビッグ・バンドをずっとバックアップしてくれてるから……ある程度の枚数を買い取ってくれて。それを山野さんでプロモーションしてくれたので、1枚目が結構うまく動いたんですよね。

――ピットインの時のメンバーは、ほぼ一緒ですか?

えーとね、全然違う。林(文夫)さんてサックスの人がいたり・・・とにかくメンバーも、固定って考えてなかったんですよ。出入り自由でやれる人が来てやる、みたいな形で維持していこうと思ってたんで。サックスも、コンちゃん(近藤和彦)もいなかったし、竹上(良成)がいたり、トランペットも平田(直樹)くんていう、違うメンバーがいたり……なかなか固定ではできないと思ってたんで。

310.jpg
近藤和彦(as)

――譜面はどなたが書いてたんですか?

譜面は、その当時、中路(英明)が書いてくれたものとか、前年にデラルスのイベントの時に使ったやつとかがあって、最後は売譜の「闘牛士のマンボ」とかで(笑)。みんなで「これを初見でやってみよう!」みたいなことをやったり、で、神保くんが、♪タカタカドコドコドコ……ってやったりね。そういう面白いことをやったりしながら……

487213161_1004374201157186_8482972606723613374_n.jpg
中路英明(tb)

――神保さんとやろうっていうのは、どこから来たアイディアなんですか?

e01f8-akira-jimbo7.jpg
神保彰(ds)

えーとね、松岡さん時代から、ジャズ・フェスでカシオペアとか、ずっと一緒に遊んでた仲間だったんで、つながりあったし、JIMSAKUになった時に、ラテンに傾倒したじゃないですか、2人で。そこで、レコーディングで僕と大儀見が入ったり、(森村)献ちゃんアレンジだったりしてたから、その当時からラテン的交流があって。それで、神保くん頼んでみようかなと思ったんですね。そしたら、「面白いから、好きだし、やるよ」って言って参加してくれて。もともと大学時代にビッグ・バンドやってたじゃないですか。

で、ピットインやって、ライブ・アルバムが出て、そこから今度、デラルス時代にお世話になった人がビクターにいて……BMGだったんだけど、ビクターの本社に移動したのかな? なんだっけ? ビクターの駿河さんの上の……そう、田渕さんっていう人なんだけど、その人が、僕と加藤さんとも親しくて、活動ずっと見ててくれてて、で、現場担当の駿河さんに「お前見に行け」と。「面白いバンドだから見に行け」って言ってたんだけど、駿河さん、酒飲んじゃって、全然来なくて(笑)。

なかなか来なくて、でも遂に、フジテレビの屋上かなんかで(渡辺)真知子さんをゲストでやるって時に見に来てくれて。真知子さんが最初のゲストだったんですよね。アルバム『LIVE IN YOKOHAMA』が出た後だったかな。

490423553_1809349739638202_121578933662070059_n.jpg
渡辺真知子(vo)

熱帯JAZZ楽団 1996のレア映像 Tune Up



ボーカル・ゲストが欲しいねって時に、たまたま、ゲンプラで僕らを担当してくれたのが、高橋達也と東京ユニオンの元マネージャーって人で、その人が達也さんに相談したんですよね。「誰かいい人いないかな」って言ったら「今、真知子、面白いんじゃないの?」って、「ラテンっぽいことやるんだったら」って紹介してくれて、一緒に初めてのゲストで大阪のイベントでやったんですよ。それを東京でやった時に見に来てくれて。


――それがフジテレビの……

フジテレビの球体の下ですよ、お台場の。その前後にブリッツと、何だっけ、大阪のイベントとかやって……。この辺の前後関係は記憶の彼方になってるんですけど、ブリッツで最初のデカいコンサートやったんですよね。

で、ビクターから出せることになって、アルバムの選曲に入ったわけですけど、ちょうどその直前、レコーディングの前に、伊東たけしさんがゲストで、新宿のルミネホールでやったんですよ。その前に、たけしさんが自分のアルバムで「セプテンバー」(アース・ウインド&ファイアーのカバー)をやってたのを聞いてたので、「その日のために熱帯のアレンジでちょっとアレンジし直しますから、一緒にやりませんか?」って「セプテンバー」を作ったんですよね。最初のメロディーとかソロは伊東たけしさんがライブで吹いてたわけです。それが最初の(スタジオ録音)アルバム『熱帯JAZZ楽団II 〜September〜』のタイトル・チューンになって、1曲目が「ミッション・インポッシブル」でね。

81d239-jEAL._AC_SL1083_.jpg

それもね、事務所で話してて、「なんか面白い曲ないかな」って言った時に、「スパイ大作戦」ってどう?っていうことになって、5拍子で♪ダンツダンツダンダン、なんだけど、4拍子にしちゃおうか!って、4拍子でアレンジして。そしたらその直後に、トム・クルーズの(「ミッション:インポッシブル」の)新しいシリーズ(のテーマ曲)が4拍子で、「テーマが4拍子になってるわ!」みたいな(笑)


――あれをやったのはU2のリズム隊でしたよね?

4拍子にアレンジされてて、僕らの方が先だったんだけど、かぶっちゃった〜(笑)みたいな話でね。

――当時、熱帯を始めるにあたって参考にしたものは何かあったんですか? なんかこういう感じで……みたいな?

最初はもう暗中模索で、それこそ「マンボ・イン」とかそういう、普通のラテン・ジャズ・ビッグ・バンドのものをやってて、別に、このバンドを目指した、とかいうこともなくて。ただ、メンバーのオリジナルも、最初から「オバタラ」とかいろいろ入ってるし、取り上げたいものはいっぱいあったんだけど、なんかその、1枚目のライブは、もちろんそういう曲もやってるんですけど、何でもいいや……みたいな選曲だったわけですよね。でも(スタジオ録音)1枚目の『熱帯JAZZ楽団II 〜September〜』を出すにあたって、やっぱり訴求する楽曲っていうのが欲しいっていう話になるじゃないですか、レコード会社的にはね。そこで、いろんなミーティングが始まって。

そこで僕自身(のことを考えると)、サルサとか松岡(直也)さんから始まってデラルスへ行って、どっちかっていうと、世間的にはもう「ラテンのコンガ叩く人」みたいなイメージがやっぱり大きかったじゃないですか。僕自身は、それだけじゃなんか大変だな、と思ってて……つまり、ラテン・パーカッショニストとして、「ラテンをやる人だ」っていう形が出来上がっちゃうと、ザックバランに言えば仕事にならないわけですよね。サルサだけやってても仕事にならない、っていうのを、デラルスの時に最初は散々味わって、それが、アメリカでブレイクして仕事になることになったと。だから、やっとこれで、ラテンをベースに仕事ができるっていうことに持っていけるんじゃないかと思って、それをやっぱり続けなきゃいけないと思ってた部分もあって。


僕自身は、他のこともやりたい人だったんですよ。だから、いろんなバンドやるし、それこそValisっていう超絶ハード・フュージョン・バンドもやってたし(註:Valisはギターの布川俊樹とピアノの古川初穂が中心となり、木村万作、納浩一、藤陵雅裕、小池修などが参加)、日野(皓正)さんのバンドもやってたし、ジャズもやれば、あとは歌も歌う女優さんのアルバムのプロデュースとかいろんなことをやってたんで、幅広くラテンをバックボーンにしたパーカッションニストになりたかったんですよね。

valis.jpg
VALIS

それこそサミー・フィゲロアとかレニー・カストロとかルイス・コンテみたいな、スタジオとかもちゃんとやるし、みたいな形で仕事をしながら、自分がコアになるのが、ラテン(音楽)をコアにする(ことにつながる)……みたいな考え方だったんで。

Sammy-Figueroa-excelente-percusionista-que-se-ha-destacado-por-su-versatilidad-tocando-en-una-multitud-de-estilos-musicales.jpg
Sammy Figueroa

で、熱帯になって、『熱帯JAZZ楽団II 〜September〜』の選曲作業のところから、レコード会社のディレクターと膝つき合わせて、なんか面白いもの作りましょうってなった時に、やっぱりこう、聞きなじみのある曲を……「セプテンバー」をライブでやった時、めちゃくちゃウケたわけですよね、みんな知ってるから。知ってる曲があるとみんなボーン!って入ってくるから、そこを入り口にしてラテンの世界に皆さん入ってきてください、と。その中に「オバタラ」とかゴリゴリのオリジナル楽曲がぶっこまれてたり、ものすごく超絶技巧なものも入ってたり、っていうライブを作り上げようということで始まったんですよね。だから、「セプテンバー」が大きなきっかけになったかな、と思ってるんだけど・・・

――あの頃を思い返してみると、アメリカっていうか向こうでもね、TH(Top Hitsレーベル)のオールスターズとか、割と、カバーとインストのビッグ・バンド・ラテンみたいなのが出て、他にもなんかあったような気がするんですけど、どっちが真似したとかという意味じゃなくて、そういう流れですよね。そういう時代的な流れがあったのかな、と。

多分、(ティト・)プエンテが「オン・ブロードウェイ」とかやってたりとかね、ヒスパニックの中でも、「僕らの音楽をちょっと外の人にも聞いてもらいたい」みたいな空気が出てきた時期だと思うんですよ。サルサも割と盛り上がってたしね。その次の段階として、グローバルにちょっと出ていこうかな、みたいな。それでちょっとカバー楽曲とかそういうのをやるみたいなね。

僕らもそういう感じではありましたね、すそ野を広げたいなと思って。そこで、そういう楽曲(のカバー)が始まって。始まっちゃうと、毎年アルバムをレコーディングして、みたいな話になってったんですよね。

えーと、ちょうど『熱帯JAZZ楽団II 〜September〜』が出た年に、ニューヨークのJVCジャズ・フェスティバルに、電通のバックアップとかいろいろあって出れるって話になって。で、9月だったかな?……JVCジャズ・フェスのニューヨークのフリー・コンサートを、ブライアント・パークっていうニューヨークの、ライブラリー(ニューヨーク公共図書館)の前の緑の広場でやって。ギャラも出ないし、でも、いろいろスポンサー募ってもらってみんなで行って、そこでフリー・ライブをやって。

熱帯JAZZ 楽団 1998New York JVC Jazz Festival at Bryant Park Live



で、それだけだと大変だからって、そこいる間に、コパカバーナとS.O.B.sをやったんですね。その日の夜か……大問題のコパ(カバーナ)がね。


――例の大問題の(笑)……

大問題のコパが、面白かったんだこれ(笑)。オーナーのおばちゃんが怒り狂っちゃったコパカバーナ事件があってね。

――それ、やめさせろって言われても、当然やったんですよね?

やったんですけど、リッチー(・ボニージャ)っていうエージェントが「マンボ・バンドだから」ってブッキングしたんだけど、やり始めたら「何なのこのバンドは? 歌がないじゃないの」って。インストだからね、基本的に(笑)。で、踊りはするんだけど……急に怒り狂ったんだよね。ソロがあるし……楽器のソロが延々と長いし。で、お客さんはびっくり仰天……ま、ダンスに来てるから。でも別に「なんだこいつだ」とは思ってなくて、みんなじっと聴いてるわけですよ、で、盛り上がってるし。でも、オーナーは気に食わないわけ、それが。
「こんなのはサルサじゃない。ここはダンス・クラブなんだから歌のないのは、もうやめー!」みたいな、大騒ぎになって、「このバンド、ステージから下ろしなさい」みたいになっちゃって、あれれれ……みたいな(笑)。


Salsa dancing in the 1990s at the Copacabana
(Willie Rosario Orchestra: canta Rico Walker, Henry Santiago)


だから……その時にやっぱり痛感しましたね。ニューヨークのサルサ・クラブのあるべき姿みたいなものを。
それまでデラルスは、コパとか、ラテン・クォーターとか、クラブ・ブロードウェイだったり、そういうクラブは散々やってるじゃないですか。まあもちろん、サルサ・バンドだから歌もあるしOKなんだけど、例えば昔ね、コンフト・リブレがそういう店に出られなくなっちゃったみたいな話があったんですよね、なんか干されてるみたいな。それはラルフ・メルカドの差し金だみたいなね。これがまあ……オフレコでもいいか、そう言われてたからね。そういうの時代もあったんだけど。でも、実はそうじゃなくて、そのクラブ・オーナーがやっぱり、「ダンス・クラブだから、ダンス・オリエンテッドのバンドじゃなきゃダメだ」って話で。で、そこでいくらカッコいいことやっても、ダメなんですよね。


――そういうのはジャズ・クラブでやればいい、みたいな感じですか?

そうそうそう。ヴィレッジ・ゲートの「マンデー・ナイト」(註:サルサ・バンドにジャズ・プレイヤーがゲスト参加する<サルサ・ミーツ・ジャズ>という月曜日の名物イベント)でやればいいじゃない?って話で。で、そこはOKなんだけど、クラブではダメみたいな。「これがサルサなんだ」ってやっぱり痛感させられたっていう……。

だから、S.O.B.sでやった時は、もうめちゃくちゃ盛り上がってるわけですよ、お客さん。S.O.B.sはその「マンデー・ナイト」・・・元々のヴィレッジ・ゲートがなくなっちゃったんでS.O.B.sに移ったんですよね、「マンデー・ナイト」が。だから、ジャズとコラボレートしたサルサ・バンドがライブやってる会場だったから、いくらインストでも何でも盛り上がってくれるんですよね。ラティーノだけじゃなくて会場も白人もいっぱいいるし。そこはバッチリだったんだけど、コパはもう大変なことになっちゃった。ありゃりゃりゃ・・・みたいな。


Palladium Show at S.O.B.s in NYC in the 90's


――コパってそんなにラティーノの・・・

もう、バリバリ、ダンス・クラブですよ。で、そのコパのオーナーっていうのがイタリア人女性で。映画「グリーンブック」の舞台になった、あのオーナー、イタリア人だったじゃないですか、まさにあそこなんですよね。

――カルロスさんはそのときはステージで・・・

やってるから、その後ろのドタドタ知らないんですよ。リッチーは、「黙ってやらせちゃえばいいから、構わないからやっちゃえ」みたいな(笑)。「お客は喜んでるからいいだろう」って。お客さんはドーン!と盛り上がってるから。

――客は盛り上がってても・・・

やっぱりオーナーは気に食わない。「これじゃダメ」、みたいな話になって。後で聞いて、「まあそうか、そういうことだよな」みたいな。

で、昔ね、デラルスの時に実は一回……話は戻っちゃうんだけど、「パレイディアム」で、まだ大儀見がいた頃ですよ……地元のサックス隊を呼んで、ラティーノのサックス隊を最前列に置いて、「マンボ・ナイト」つって昔のマンボの楽曲ばっかりをね、やったことあるんですよ。そしたらね、客が怒りだしちゃったわけ。しかも、サックス隊の人たちが……デラルスは当時もう、すごい人気で……デラルスのコンサートの最前列で吹いてるもんだから、盛り上がっちゃって、ソロとか回ってきたら終わんないわけですよ。延々ソロしちゃうわけ。そしたら、お客が怒りだしちゃって「デラルス見に来たのに」みたいになって。で、後ろの方のお客さんが……それこそパレディアムだから3000人くらい入るところじゃないですか、急に後ろの方がガ〜って帰り始めちゃって。それも大問題。大失敗。客、帰っちゃったんですよ。そんな大失敗したことが1回あって。それがまた蘇ってきて、「あ、そういうことだよね、やっぱりね」と。


――大儀見さんがいたってことは、かなり最初のほうの・・・

(デラルスの)最初の1枚目が出た直後。次のツアーで「なんか面白いことやってみようよ」と思ってやったら、大失敗しちゃったんですよ(笑)。

――その企画は、リッチーとかが組んでたんですか?

いや、なんかね、大儀見が当時から向こうの連中と知り合いだったから、何人か声かけたらサックス隊集まるからみたいな話で、「やってみようよ」って。その頃まだ、バリバリ・イケイケだったから……でもやったらウケなくて(笑)。なんか面白い世界ですよ。ビジネスの世界というか、お客の反応がそうだから、「なるほどね、こういうことなんだ」と。

(PART7に続く)
posted by eLPop at 18:27 | Calle eLPop

ラテンミュージシャン・インタビューシリーズ:カルロス菅野 PART5

2026.05.01

(PART4より続く)

IMG_7758.JPG

1995年、オルケスタ・デ・ラ・ルスに大問題が降りかかります……

//////////////////////////////////////////


大問題! BMGビクター問題っていうのが起きてね。
(デラルスは)BMGビクターと本契約で、(サブ・ライセンスが)RMMだったじゃないですか。で、売れたら、1993年に国連平和賞を取ったりして。その直前かな……BMGのドイツの本社が、日本にそういうアーティストがいるって気がついちゃったんですね。どうも世界的に売れてるアーティストがいると。だから、日本のBMGビクターに対して、それは誰だ?と。「お前のところにワールドワイドで売れてるアーティストが一人いるだろう。そのインフォメーションをください」って話になって。

『Sabor de la LUz』(1995)(BMG)
スクリーンショット 2026-05-01 114611.png


実は、最初のスタートの時に、ドイツの本社に対して、「日本でこういうことをやるんだけど、ラテン・バンドなんだけど興味あるか?」っていう、一応打診はしてあって。でも、ナシのつぶてで何にも興味を示さなかったんで、「じゃあ(サブ・ライセンスは)RMMでやろう。これ、OKだ」って始めたんだけど、売れ出したら「売れてるだろう」って話になったわけ。で、ドイツの本社が、「そのアーティストはうちのアーティストだからRMMを切れ」って。BMGでディストリビューションするから、って話になって。そこからもう、仕事できなくなっちゃったんですよ。

RMMは、すべてのクラブとかローカルのイベンターとか、全部を牛耳ってるわけですよ、各国のメイン・イベンターたちを。それが途切れちゃって、もう、デラルスはどこ行ってもコンサートできなくなっちゃったんですよ。また、場末のクラブだけの仕事になって……。


――そういう仕事もやったんですか?

やりましたよ。ニューヨークでもできないから、ニュージャージの奥の奥の韓国人がやってるクラブとか、そういうとこ行って。でもギャラが出ません、みたいな話とかね。ギャラが出ない話はヨーロッパツアーのときもあったし、いろんなとこであって。すったもんだがあって。


Nora y Orquesta de la Luz en Orchard beach - New York - 1995




――難しい……

ホントのエンターテインメントの世界とか厳しさとかね、そういうのを散々味わって。

――ギャラが出ないんじゃ、できないですもんね。

ギャラが出ないのはね、中南米のイベントではしょっちゅうだから。ギャラ出るまでステージ上がりません、っていうシステムなんだね。

――難しいですね。

BMG本社がそういうこと言うわけですから。日本のBMGも責任を感じて、電通の人とかいろいろ協力を得て、アメリカのビッグ・エージェンシーのウィリアム・モリス・エージェンシーに話を持ちかけたから、って言って、ロサンゼルスでミーティングまで行ったんですよ。まずロイヤーに会いに行こうって言って。

スクリーンショット 2026-05-01 120031.png

エンターテインメント・ロイヤーに会って、ライダー(rider:追加条項のこと)とか整えなきゃいけないからって言って、世間話から仕事の話になったら、時計でカウントするような、1時間いくらの本格的なエンターテインメント・ロイヤーと話をして、ウィリアム・モリス・エージェンシーの人とも食事したんだけど、「半年くらい連続でアメリカ・ツアーをする、それも、グレーハウンド・バスで」っていう条件を出されて。当時、うちのメンバーも、他のバンドの仕事もいっぱいしてたんで、とてもじゃない、受けられないってことで、これ以上の活動は難しいよね、って感じ。


――そんなことも含めて、カルロスさんは、“燃え尽き”じゃないですけれども・・・

さすがに疲れちゃって。その交渉を全部やったし、結局、日本のレコード会社も、それまでどこもそういう経験がないから、海外の会社とはタメで仕事することができないんですよね。

――そうですよね。

日本から売り出す!って売り出して、ホール借りてそこでコンサートやりました……みたいなことはできるけど、向こうのシステムの中で仕事してないじゃないですか。今はだいぶ増えたけどね。他に前例なしですね。難しい話ですけどね、これね。

――いや〜、ホントに先駆者ですよね。

やらざるを得なかった。

――でも、それがラテン・ミュージックの世界だったわけですね。カルロスさんもホントに、まあ、通訳の方がいるにせよ、英語もスペイン語も話して……

いや、スペイン語はもうホント、片言しかできないから。英語もね、最初行った時はろくにできなかったですよ。ヤバいと思って、そこから必死で勉強して、一応まあ、なんでも……シビアな会話はちょっと難しくて通訳が必要だけど……普段の会話ぐらいはできる。

――やっぱりすごいですよね〜。

だからいろいろ、サルサのビジネスの世界っていうのかな、その、やっぱりクラブありきで、そこで受けるか受けないか、みたいな(ことを実感しました)。

スクリーンショット 2026-05-01 113458.png
Orquesta de la Luz 1998


「客の拍手はカネだ」って、(RMMの)ラルフ・メルカドがずっと言ってたという話があって。「まず、クラブで受けなきゃダメだ」と。クラブの人たちの感覚っていうのが大前提としてあって。映画「グリーンブック」に、クラブのイタリア人オーナーの話が出てくるじゃないですか。あれがコバカバーナなんですよね、イタリア人の女性オーナーで。

スクリーンショット 2026-05-01 120749.png

熱帯(JAZZ楽団)で行った時も、コバカバーナで1日ギグが入ってたんだけど、僕らがやり始めたら、その女性オーナーが烈火のごとく怒り出して、「あのバンド早くおろしてちょうだい!」って大騒ぎになって。「歌がないじゃないの? 客は踊ってないし、こんなバンドはダメだ」って大騒ぎになって。「即刻おろしなさい!」みたいな話になって。客は喜んで聴いてるんだけど、踊ってないとダメなんですよ。ダンス・バンドじゃなきゃダメだし、しかもその、ちゃんとコロ・カンタがあって、ソネオがあって、歌で持っていけないとダメ、みたいな。

そういう場所だから、ラルフとかはやっぱりそこを分かってて、そういうもので受け入れられるものっていうのを中心に考えたんだけど、でもだんだん……デラルスもきっかけになってると思うけど……マーク・アンソニーとかDLGとか、そういうことじゃないコンサート系アーティストとかを、ソーホー(SOHO)レーベルって作ってね、そっちでそういうことをやり始めて、それが今のトニー・スッカルとかのコンサートアーティストに繋がっていく動きになっていく。その後、フアン・ルイス・ゲーラとかが現れたり、コンサートでラテンを聴かせるみたいなことが始まっていくんですよ。


スクリーンショット 2026-05-01 121608.png

――確かにそういう意味でも・・・

過渡期ですね。

――ちょうどそっちに移っていく分かれ目なんですね。

(PART6に続く)
posted by eLPop at 12:27 | Calle eLPop

イベント『バッド・バニーの真実』文字起こし Part2

2026.01.24

=2025/11/6に行われたイベント『バッド・バニーの真実』の文字起こしです。=
(Part 1より続く)

◆◆◆◆◆◆◆◆


【2】アルバム『DeBÍ TiRAR MáS FOToS』の衝撃とプエルトリコの歴史

――プロレスやってるのもあってというのも変ですけど、結構ガタイもいいし、かっこいいからね。そんな中で、今年のはじめに出た、『デビ・ティラル・マス・フォトス』っていう作品がまた一気に、全米ナンバーワンになって。もう本当に世界のスターですよね。

スクリーンショット 2025-11-03 205127.png

伊藤: 2025年のSpotifyのアクセス回数っていうのはもうぶっちぎりトップですし、それから累計も、テイラー・スイフトとか、ビリー・アイリッシュとか他の大スターをぶっちぎって聴かれている。

スクリーンショット 2026-01-24 145722.png

スクリーンショット 2026-01-24 145124.png

スクリーンショット 2026-01-24 145156.png

ちょうど明日(2025/11/7)がグラミー賞のノミネートですが、ケンドリック・ラマーとマドンナとバッド・バニーは決まりっていう前記事が出てました。そんな感じですよね。

スクリーンショット 2026-01-24 150952.png


(*註:2025/11/7に発表となったグラミー・ノミネートの概要は下記)

■メイン3タイトル【年間レコード】【年間アルバム】【年間曲】で行くと、バッド・バニーサブリナ・カーペンターレディ・ガガケンドリック・ラマーの4人が共に3部門に入ってって4者互角。(但しラマーはSZAとのコラボが2つ)

■数で行くとケンドリック・ラマーが9部門、レディ・ガガは7部門、バッド・バニーはサブリナ・カーペンターやレオン・トーマスと並んで6部門ノミネート。

メイン3タイトルの他は、バッド・バニーはウルバナとグローバルとカバーのノミネート。ガガやカーペンターはポップ4タイトル/MVに登場。ラマーはラップ4タイトルに登場(コラボ多し))


――なんで日本では(騒がれないんだろう)・・・?という感じがあるんですけど、

伊藤:なぜですかね。 他の国ではすごいのに。
このアルバムが1月5日に出た時に、6日の全世界Spotifyのチャートは26カ国トップだったんですよ。でも日本はとても静か。

――来年3月来るっていう噂があって、来て欲しいとは思うんですけど・・・本当に心からね。だけど、問題はどこでやるかっていうことで。
さっきアヤコさんもおっしゃってましたけど、プエルトリコで7月から9月半ばぐらいに、全部で31回の連続公演がありまして、計60万人以上動員。会場が2万人ぐらいのところで超パンパンで満員に入ってて、単純計算で62万人ってことですか? でも日本で2万人のところでやって、来ますかね?っていう。


伊藤:プロモーターの名前も出てるんですけど、アメリカが本社かな。
それで日本社が一応受けることになってると思うんですけど、どこの会場でどれくらい入れられてやれるだろうか、って迷ってて日にちが出てないんだと思うんですよ。

(*註:2026/1/20現在、日本公演の正式アナウンスはなし。このタイミングでアナウンスがないので3-4月の大型公演は事実上ないものと思われる)

――ちょっと悲しい感じですよね。

伊藤:それもあって、岡本さんとこのイベントをやろうって(笑)。

――そうそうそうそう(笑)伊藤さんといろんな話をする中で、どうなってんのよコレ?って、よく言ってんですけどね。
『DeBÍ TiRAR MáS FOToS』、高際さんから話出ましたけども、プエルトリコ文化っていうところも全面に押し出してますね。

◆◆◆◆◆◆

では伊藤さん、ここで、プエルトリコとはという話を・・・


スクリーンショット 2026-01-24 151600.png

伊藤: 会場にはプエルトリコのこと、よくご存知の方もいっぱいですけど、一応おさらいを。プエルトリコってどこにあるか、アメリカ国民でもよく知らないのがいっぱいいるっていう事なんですけど。南北アメリカの地図があって、米国からフロリダ半島が南南東に伸びててて、その伸びた先はキューバですね、カリブで一番大きな島。
そこから二つ東に行ったこの島がプエルトリコ。四国の半分っていうか、鹿児島県とか広島県とかぐらいの大きさです。

ここに今300万人ぐらい住んでます。一時は350万-60万人いたんですけど、2017年のハリケーン・マリアの大被害の後、不景気もあり、インフラも復旧遅く、どんどん島を離れて今300万人ぐらい。でもその分だけ本土の方が増えてる。本土ってその倍の600万人ぐらいいます。統計上、何をもってプエルトリカンとするかっていうのは、アメリカの国勢調査であるセンサスでは、自己申告なんです。自分は何だっていうね。それだと600万人いて島の倍ぐらい。

こういう島なんですけど、次に歴史を。

コロンブスが15世紀、1493年の2回目の航海で到達。そこから数世紀の間スペインの領土です。その間、欧州でイギリスとかフランスがのしてくると、カリブ海を狙ってイギリスとかフランスは海賊を雇ってですね、スペイン領を襲わせました。いわゆるカリブの海賊ですね。

Pirates_of_the_Caribbean_-_On_Stranger_Tides.png

プエルトリコには何度も押し寄せて一時イギリスにやられちゃったこともあるんですけども、最終的にはずっとスペインが統治してました。

18世紀おわりに、ヨーロッパではフランス革命がおきました。その影響で、カリブ海ではフランス領だったハイチで革命が2年後に起こりまして、カリブで初めての独立国ができました。

その辺りからスペインも力が弱くなってきて19世紀に中南米の植民地がどんどん独立していった。プエルトリコも19世紀に独立運動が起こります。これはキューバも同じ。キューバとプエトリコはその頃一つのかたまりなんで、キューバ独立の組織とプエトリコ独立の組織がニューヨークで一つの塊になって、動いてました。なので旗のデザインも同じで。

スクリーンショット 2026-01-24 152230.png

プエルトリコでは1868年にラレスという山の町で蜂起した独立運動(Grito de Lares)がスペイン軍に抑えられちゃって多くの人が死んだりしました。

そういう風にスペイン領の中で独立しようという機運が高まりかなりそれが進んでた。ところが、その19世紀の終わりに、なんとアメリカがスペイン相手に戦争を起こしたんですね。米西戦争です。アメリカの拡張の始まりみたいなもの。

71FyIPo-GlL._AC_UF1000,1000_QL80_.jpg

勝ったアメリカがスペインから奪ったのはカリブ海だとキューバとかプエルトリコ、カリブの外ではハワイ、グアム、それからフィリピンとかね。アメリカはそこからどうするかなっていうと、フィリピンは直接統治は大変だから、独立させる。キューバも色々使い手があるから傀儡政府で独立させたわけです。プエルトリコやグアムとかは植民地として放置。

ちなみにハワイなんですが、ハワイは元々王国があって平和に暮らしてたんですが、じわじわとアメリカ人が入ってきて、米西戦争の時、ハワイに拠点を置きたいと思ったアメリカが王国をひっくり返して1900年に併合して自治領にしちゃいました。その後1959年に州にします。

そんな風にアメリカが米西戦争を機会に、拡張に動いてキューバ・プエルトリコ・ハワイ・フィリピンの運命を変えたわけです。

で、プエルトリコはどうなったかというと、1898年にアメリカ領になり、1900年にとりあえず、植民地として一つの役所を置いて治めることにした。

その後、1917年のちょうど第一次世界大戦が始まる頃でアメリカは兵隊が欲しかったんですね。なので、「あ、プエルトリコを市民にしちゃえば兵隊に使える」と思って市民権を1917年に与えたんです。これがプエルトリコの大きな変化でした。

多くのプエルトリコ人がアメリカ市民として従軍してきた。
PR51_infographic_MilitaryService_2023_0314.jpg

一方、その15年前、キューバは独立させ傀儡政府を置いて、コントロールする。禁酒法の時代もキューバにいけばリゾートを楽しんで飲めるようにした訳です。

で、プエルトリコの方は市民権を得た。市民権を得たということは、先ほど岡本さんが言いましたけども、プエルトリコからアメリカ本土へ行く人は「移民」じゃなくて国内引越しなんですね。引越しで自由に行けるようになった。キューバはそうではない。

なので、その後、いろんなハリケーンの被害もあったりなんかして、随分多くの人が出稼ぎに行くんですけど、最初は船で3−4日かけて、1940年代後半からは飛行機で4-5時間。やはり一番近い大都市てで仕事の多いのはニューヨーク。

(下記)映画『Gua Gua Aeria』(空飛ぶバス):1960年代のプエルトリコからNYにバス感覚で飛行機で働きに出る小型飛行機でのバタバタを描いた映画(1993年作品)
MV5BMWJiZTQ4MjctYWFmYi00NWJmLTg5N2MtNDE1YTgyMzZmM2M2XkEyXkFqcGc@._V1_.jpg



まだマイアミなんか小さかったので、とにかくニューヨークだった。

で、その後、米国はプエルトリコをどうしようか第二次世界大戦後の1948年ぐらいに、民選の知事を置くようにした。それまではずっとスペイン語もできない知事をアメリカが送り込んでたんですね、でもその間に、島から搾取する構造を作り上げていた。

例えば米国資本が銀行を作っていってどんどん貸し付けてみたいなことですね。
あと地元の砂糖産業はどんどん買っていって、農地も買っていって単一農業にしてそこから吸い上げるとか。アメリカはこの1900年の頭から民選知事に移すまでたっぷりそこに仕込んだわけです。

スクリーンショット 2026-01-24 121310.png

50年植民地化するとさすがに地元民におさめさせないと、っていう事で初めて1948年に民選で知事ができ1952年に「自由連合州/ELA」という自治の地位を得る。しかしそ50年代っていうのはハリケーン大被害とかいろいろあってですね、移住がぐっと増えた時期なんです40年代か後半から50年代っていうのは、プエルトリコから大量の本土移住者が動いた時代。やはりNYが多い。で、ニューヨークの音楽に大きく影響します。

音楽好きな人はご存知だと思いますが、40年代から後っていうのは、ニューヨーク・マンボが始まる時代ですよね。
ニューヨーク・マンボっていうのは、キューバでカチャオとかが生んだマンボが源流なんですが、キューバでは実はマンボは流行らなかった。

それで、メキシコに移ったペレス・プラードが流行らせ、ニューヨークに持ってきて大きく広がったってことなんですが、40年代50年代のその音楽を聴いたのはNYにいたプエルトリカン中心なんですね、キューバ人ではなくて。NYのプエルトリコ人人口は1940年の6万人から50年の19万人、60年に60万人と爆増です。ウエストサイド物語(1957年)の時代です。それだけ増えてもう2世代目みたいになってきた時に若いあんちゃんたちが、っていう話なんですね。

352.jpg

そこでニューヨークのラテンの世界が始まるわけです。つまり音楽はプレイヤーだけの話じゃないのて、リスナーとして急激に増えたプエルトリカンがいたことが重要。

◆◆◆◆

一方、先ほどもお話した通り、プエルトリコの中では暮らしが難しかった。米領になってからの砂糖産業やコーヒー産業、銀行を押さえたり、それから公安、法律もがっちり固めていったんですね。

これがまた巧妙で。例えば僕はプエルトリコで働いてたんですけど、その時に日本から車を輸入するんですね。

日本から車ってどうやって来るかというと、例えば横浜港で日本車を積んで、パナマ運河通ってフロリダ半島の、例えばジャクソンビルとか、あの辺の港に下ろして、それからプエルトリコにディストリビューションされます。カリブ海にはいろんな国の安い船が行き来している。でもアメリカからプエルトリコに輸入するものっていうのは、必ずアメリカの船でじゃなくちゃいけなくて、安くても他は使えない。

アメリカの法律が1920年以来存続しています。(Merchant Marine Act of 1920。いわゆるジョーンズ法。現在は形を変えて、46 U.S.C. §55101 などとして現在のアメリカ法典に組み込まれている)

他のカリブの国はそういうのがない。プエルトリコは一旦アメリカに入って、そこの倉庫、倉庫代も使って、そこのトレーダーのコミッションも乗っけてアメリカ船でプエルトリコに入るっていう。

なおかつですね、エクサイズ・タックス(Excise Tax)っていう税金があってもう関税みたいに輸入の時に払う一種の物品税。ガソリンとか自動車とかにかかります。それがまた何パーセントか乗るんですね。だから高い。

でそれは一応国内税でプエルトリコの政府が使えるのですが、一方で関税もフルであるから物価は高くなる。関税は連邦税なので米国政府が徴収した後、一般予算の財源となって、各州に連邦財政支援として配られる。特に教育支援、医療補助、インフラ助成とかです。
プエルトリコも 連邦歳出による支援を受けています。 しかし多くの制度で 州より低い待遇・制限された支援しか受けられていない。

20110806_WOM959_0-1200x932.gif

っていう風にアメリカは、お見事にいろんなシステムを組み込んでるわけです。

人間的に支配したっていうことだけじゃなくて、法的に経済的にっていうのが出来上がってるのが、その1900年代から今まで。最低賃金も本土並みに上がらす。自然災害後の復旧サポートも手薄で産業も育たない。
そうするとみんなやっぱり外に働きに行かざるを得ないっていうことになって、それがニューヨーク・マンボを生んみ、サルサも生んだっていうことで。

MinWageMap.png

――今の、差別っていう話ですが、もう、巧妙にやるっていうのは本当にそうで。
アメリカ国内の方の、移民、あ、移民じゃない移住者の話ですが、国内の話で言うと・・・ちょっと文献見ると、ニューヨークの会社とか雇う方が「ラテン系はダメ」って言ったら絶対アウトなんで、例えば「身長170センチ以上じゃなきゃダメ」とか(という言い方をする)。そういうふうな条件をつけると、ラテン系の人はそんなに背が高くない人が多いので、必然的にラテン系はハネられる、みたいなね。
そういう巧妙な手も使って(差別をしている)・・・というのはあったっていうふうには聞いてますね。


伊藤:見事にずっと食いもんにされてきてサポートも少ない。

――そんな中から出てきたサルサ、そしてレゲトン、で、バッドバニーということなんですけど、ちょっと休憩をとって、『デビ・ティラル・マス・フォトス』の話をしたいと思うんですけど、ご質問があれば。

質問:本でチラッと読んで、「どこまでどうなんだろう」とずっと思っていたことが、60年代くらいまで、プエルトリコの女性に対して国がこの避妊手術を勝手にする権利があったみたいな。そういうのは、どれくらいどういう感じでやられていたのかって、ずっと気になっています。

579225153_10239345889935242_6607988628745299383_n.jpg

アヤコ:治験をやっていたのはありますよね。
避妊手術じゃなくて、わからないですけど、治験をすごくやるのに、ピルの治験とか、そういうのを最初にエルトリコでやるんですよね。

製薬会社とか未だに結構多いんですけど、水も綺麗だし、たぶんもともとそういう地盤もあるかもしれないですけど、そういうのを見て、プエルトリコでまだ開発中の薬とかの治験をする。

――製薬会社とかが多いんですよね。

伊藤:製薬会社が来るのは、1976年に936条項っていう企業が海外領土で上げた利益への連邦税を免除する優遇税制が出来た。産業誘致ですね。最終的には1996年から2006年の間に廃止になったんですけど、それの優遇措置や低賃金があるので製薬会社もたくさん進出しました。カグアスとかね。

それより前の50-60年代にピルの大規模実験を最初にやったのがプエルトリコ。被験者は結果的に主に低所得層の女性ですが、十分なリスク説明もせず。

スクリーンショット 2026-01-24 161840.png

そういうことを製薬会社はやっぱり国内の州の地域じゃやれないことだよね。
実験ね。薬量(*エストロゲン・プロゲスチン)が現在の臨床試験よりずっと高いもので治験していた。副作用がでた事例も報告されているようです。しかしこの辺が強く追及されなかったのは準州(Commonwealth)なので、米国連邦議会で代表権を持っていない政治的弱さも影響していると思います。現在はそのあたりの医療の歴史研究では倫理問題として批判されていて、この事例が知られるようになっています。

――じゃあ、すみません、ちょっと休憩をいただいて、アルバム『デビ・ティラル・マス・フォトス』の話をしたいと思います。

(PART 3に続く)

posted by eLPop at 17:07 | Calle eLPop

イベント『バッド・バニーの真実』文字起こし Part1

2026.01.22

昨年11月に行われたイベント『プエルトリコのお騒がせ男、バッド・バニーの真実』の文字起こしを関連のYouTube映像や、パワポ画面と共にアップします。

スクリーンショット 2026-01-22 200804.png

2月1日のグラミーの発表、2月8日のNFL・ハーフタイム・ショウをご覧になって「バッドバニーって何?」と思われた方、「グラミー対象のアルバム『DeBÍ TiRAR MáS FOToS』は何を歌っているの?」と思われた方も含め、ぜひお楽しみ下さい。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

イベント『プエルトリコのお騒がせ男、バッド・バニーの真実』
@Con Ton Ton Vivo (2025/11/6)


出演:
岡本郁生(司会):音楽ライター/番組制作者/プロデューサー/DJ
伊藤嘉章:音楽ライター/DJ(プエルトリコ在住5年)
高際裕哉 :スペイン語圏文学・文化研究
Ayako :Mucho Mucho Mambo主催/Diablo Marino(プエルトリコ音楽”Bomba”のグループのメンバー

579225153_10239345889935242_6607988628745299383_n.jpg

【1.バッド・バニーとは?】


――じゃあ、ぼちぼち「緊急開催」ということで始めたいと思います。

ここに集まっていらっしゃる皆さんには、改めて言う必要もないかと思うんですが、Bad Bunnyがあれだけヒットして話題になっているのに、日本じゃほとんど知られないところがあります。私も音楽ライターやFM番組制作もやってて、そういう中で、2026年2月に行われるアメフトNFLの決勝戦のハーフタイムショーに出るってことで話題になり、関心を少しずつ持つような人も出てきた。

とはいえ、話題にするときに、「プエルトリコ移民」とかっていう言葉を普通に使っちゃう人がいるんですよね。「移民」っていうのは基本的には別の国に移住するということなんで、プエルトリコの方々は移民ではないわけです。「移住」とか「引っ越し」になるわけですよね。

今のトランプ大統領になるときの選挙のイベントでも、あるコメディアンが「プエルトリコというゴミの島がある」みたいなことを言って大ヒンシュクを買いましたが、あれも、プエルトリカンは移民だろう、みたいな。

要はアメリカ人もそうだし、特に日本人も分かってないっていうか、理解しようともしてない、知らない人もいっぱいいるということもあり、これだけ話題になっていることを改めて考えてみようということです。

そんなわけで、どんな人なのか、改めて見て考えてみようということで。
今日の話者をご紹介したいと思います。

まず司会の岡本郁生です。音楽ライター/番組制作者/プロデューサー/DJをやっています。そして、音楽ライター/DJの伊藤嘉章さん。プエルトリコに5年在住経験があります。ちなみに、伊藤さんと私は、『ゼロからわかるラテ音楽』(世界文化社)という本を先日出しまして、バッド・バニーの紹介も書いています。


556555205_3648878315420447_6039459761585219377_n.jpg

伊藤:あと、もう一冊、『都市のリズム』(鹿島出版会)という本を出しました。いろんな都市とその街で生まれた音楽のことを18人の筆者が書いたものです。

553700316_1866061367677260_2976861062896331412_n.jpg

どちらの本も、エルポップという、岡本さんや自分も含め10人のラテン音楽の文章を書く人が集まったグループのメンバーにも寄稿してもらっています。本屋さんで見かけたら眺めていただけたら嬉しいです。

――で、隣はスペイン語圏文学・文化研究の高際裕哉先生です。今日は早稲田の授業から自転車で駆けつけていただきました。よろしくお願いします。

高際:よろしくお願いします。

――そのお隣は、DJイベント「Mucho Mucho Mambo」を主催し、またプエルトリコ音楽の「ボンバ(Bomba)」を演奏・ダンスする日本唯一のグループ、「ディアブロ・マリノ」のメンバーのAyakoさんです。プエルトリコには何度も行かれています。

Ayako:よろしくお願いします。


――まず、皆さんがバッド・バニーを、どの辺から最初に知ったか、入ったかってことから。
あ、ちなみに、バッド・バニー、英語的に言うと「バッド・バニー」で、スペイン語だと同じ「悪いうさぎちゃん」の意味の「エル・コネホ・マロ」っていいます。バッド・バニーの発音は、本人も地元の方も「バッド・ボニー」って言ってますね。
バッド・ボニー、スペイン語関係の方は「u(ユー)」の「ア」が「ボ」になるんで、映画の「ワイルドバンチ」っていうのもありまして、あれも「ワイルドボンチ」みたいね・・・おさむちゃんが、みたいな感じですけど。
すいません、全然受けてないですが(笑)、じゃあ、伊藤さんから


伊藤:僕プエルトリコには95年から2000年の5年ほど住んでいて、その後も毎年1回は行ったんです。ちょうどレゲトンが盛り上がってくる頃で、日本でも2003年4年に「ガソリナ」っていうことで行きついたわけですけど、バッド・バニーはその頃のオールドレゲトンの初期のあたりで育ってるんですね。1994年生まれなので、ダディ・ヤンキーの「ガソリーナ」が10歳。その前後から彼は音楽にはまっていく訳ですが、
自分は向こう行くごとにCDとか・・・だんだん配信になってきましたけど、買ってるときに、新しいアーティストの中で、2012年だったか2013年だったか忘れたんですけど、まだ本当に若いバッド・バニーが出てきた。そこからです。そして2015年16年くらいから変わってきて表に出てきて、シングル出してきた頃なんですね。

レゲトンというよりは、トラップやヒップホップに側に寄った音だったです。そして2017年とか8年の音が最高にチェンジした感じで良かったですね。そこから注目し始めて、その時、一番最初に買ったの彼の一枚目のアルバム『X 100pre』(2018)、でしたが、これすごい良かったんですね。

81NaDe6XDGL._AC_SL1500_.jpg

――『ポル・シエンプレ』っていうやつ。

伊藤:これから注目しだした感じですね。

――なるほど、では高際さん

高際:2年くらい前に、カリフォルニアのコーチェラ・フェスがあったので、その時のショーの様子を、多分伊藤さんがSNSに流してくれて、それを見たんですよ。

Bad Bunny - Neverita (Live from Coachella)


それがちゃんとプエルトリコの歴史を追っている構成になっていて、ニューヨーク・サルサの話もそうだし、確かボンバとかプレーナの話もちゃんとやっていて、それを流した後に本人がバーンと出てきて、すごいなと思って見てたんですけど、ほぼここ2年くらいですね。

――バッド・バニーの最新作だと思うんですけど、授業でいろいろ使われていると聞きましたが、どういう感じでやってるんですか?

高際:まず、歌の歌詞を。

――皆さんには資料をお配りしてますが、2枚目、3枚目、4枚目とか高際さんの資料を付けているので、後で見ていただければと思います。

高際:新しいアルバム『Debi Tirar Mas Fotos』のアルバム、これまだCD流通してないですよね。配信でみんな聴いてるんだと思うんだけど、YouTubeにバージョンがツーパターンあって・・・1つが、今ミュージックビデオで本人が出ている。

もう一つは映像の代わりにコラムがついてる。それが全曲用意されているんですね。そのコラムのタイトルを、1枚目裏のレジュメに書いてあります。レジュメの3ページ目に、「絶滅の危機にあるプエルトリコの固有生物」というコラムをスペイン語と日本語の両方のせたんですけど、これは学生たちが授業で訳したんですよ。教材として。

スクリーンショット 2026-01-22 211248.png

その各曲についてのコラムはちゃんとプエルトリコ出身の歴史学者の人が書いているやつで、長さもちょうど読解にすごく良いんですよね。出てくる語彙も、社会科学とか歴史の用語があるから、僕みたいな、人文畑の人間のスペイン語は、これ読むとかなり伸びるんですよね。すごく面白いです、特にこのアルバムは、その楽曲のコラムが熱いんですよ。それに夢中になっていたんで、今日呼んでもらえたんだと思うんですけど(笑)

――アヤコさんは、さっき「ムチョ・ムチョ・マンボ」というイベントの主催・・・というふうにご紹介したんですけど、その一方で、ディアブロ・マリーノっていうボンバ・バンドのリーダーということで・・・リーダー、実質リーダーですよね? やられてて、何度もプエルトリコに行かれているんですけど、Bad Bunnyとの出会いと、その思いを語ってください。

Diablo Marino
618366850_2350916462020297_7979852509106382014_n.jpg

アヤコ:にわかファン代表みたいな感じで今日は来てまして(笑)、本当にBad Bunnyで意識したのは、このアルバムからなんですよね。もともとサルサをやっていて、六本木にもすごく通っていたので、レゲトンを聴くことはありましたが、一所懸命聴こうと思ったことは過去なかった。なので、今日はすごくお勉強をと。あと、このアルバムがプエルトリコで今すごく流行って、プエルトリコでのバッド・バニーの1ヶ月間連続したコンサートに、私が知っているボンバ・ファミリーの方々がものすごくたくさん出演していて。なので、世界配信されたのは、涙が出る思いで見た、みたいな感じですね。

Carry Martinez Cepeda
518331103_1494466831711351_1677991602679683120_n.jpg

伊藤:アヤコさんは向こうで、いろんなボンバのユニットで習ったり、お友達も持っていて、その中で、セペーダ・ファミリーという重要なファミリーと一番親しい。そこのセペーダ・ファミリーの、すでに亡くなってしまいましたが一番の偉人、元祖の大親分みたいな人から今3代目の世代が活躍している。キャリー・セペーダとか、ラファエル・セペーダJr.とかが、ガンガン踊ってましたよね。

アヤコ:あと、ボンバとの関わりっていうことで言ったら、一番最初にプエルトリコに行ったのは、たぶん2000年か2001年だと思うんですけど、その時に、サルサのレッスンの一環でボンバを習ったんですよね。
私の先生はボンバが好きだったんで、それで習った授業がありまして、その先生の息子が今回のライブにも出てて、一番最初にソロを取っているんですよ。そういうのも、すごいいいなって思って。

伊藤:そうですよね。やっぱり、現世代のボンバの人たちが踊っていたっていうのが。やっぱりBad Bunnyとの同じ世代っていうところも感じますよね。


――ということで、お三方、語っていただきましたけど、私もレゲトンを聴いている中で、2017年に、ビクトル・マヌエルっていうプエルトリコのサルサ・シンガーのアルバムにBad Bunnyが入っていて、サルサを歌っているんですよね。

Víctor Manuelle - Mala y Peligrosa ft. Bad Bunny


それを聴いて・・・別にサルサを歌えばいいっていうわけでもないんだけど・・・みんな結構若い子がレゲトンに行っている中で、なんか若いやつでもサルサを歌えるやつがいるんだなっていうのをね、ちょっとそれ、伊藤さんと語ったような覚えがあるんですけど、でもこんなにすごいスターになるとは・・・という言い方も変ですけど、レゲトン・トラップ・シンガーとは、ちょっと彼の場合、別の道を歩んでいるような気がしてね。
それも面白いなと思うんですが、改めてですが、Bad Bunnyどういう人かっていうと、1994年生まれなので、例の大谷翔平と同じ年でございまして・・・

2016年に<ディレス>、これで。


Diles - Bad Bunny, Ozuna, Farruko, Arcangel, Ñengo Flow

伊藤:いわゆるレゲトンっていうよりは、やっぱりトラップっぽいって言うか。

――そうですね、トラップっぽいですね。
この年ぐらいに、「アオラ・メ・ジャマ」って確か、カロル・Gと共演のビデオも結構再生されたと思うんですが。


Karol G, Bad Bunny - Ahora Me Llama


2018年に、「I Like It」ですね。カーディ・ビー、J・バルビンと。この時はですね、まだ坊主で、チンピラっぽい感じのね。

Cardi B, Bad Bunny & J Balvin - I Like It


伊藤:これが流行ったおかげで、アメリカ・マーケットのリスナーが理解しやすくなった

――カーディ・ビーはニューヨークのドミニカンでしたね、この方ね。
J・バルビン、コロンビアの大スター。なので、そこにいきなり新人で抜擢されるっていうのね。これもなんかすごいなと思ったんですけど。


伊藤:18年って彼にとってはすごいエポックメイキングで、プエルトリコって、「バンコ・ポプラール」っていう銀行が毎年12月に年末用の音楽CD/DVD出すんですけど、やっぱり2018年のバージョンにバド・バニーが登場してるんです。

Bad Bunny - Desde El Corazón (Especial Banco Popular 2018)


なので、やっぱり17年から18年って、彼、やるじゃんって思われた年で、まだアルバムは1枚目を出す前に自分でいっぱい出してるシングル、コラボ作品が、良かったんですよね。

――さっき、伊藤さんの話もあった、これ(「I Like It」)が全米No.1ですね。まだまだチンピラっぽいのがいいなって思って。

伊藤:チンピラっぽいですよね(笑)。

――で、あと僕、思ったのはなんかいい意味でデレっとしてるじゃないですか。
1994年生まれで、さっき言ってたダディ・ヤンキーとかの「ガソリナ」は2004年なので、ちょうど10歳くらいの時のレゲトンのブーム。で、いろいろ読むと、ダディ・ヤンキーとやっぱりエクトル・ラボーが大好きだったって書いてある。
このデレっとした感じって、エクトル・ラボーに似てるなって僕はすごい思ってるところと、あとやっぱりその辺がヒバロっていうところに繋がりもすごい感じるところがあるんですけど、どうですか?


伊藤:そうですね、やっぱりプレ・レゲトン最初期って、いわゆるダンスホールから出てるわけなんですけど、プエルトリコに渡ったら、すごくそれがハードエッジな音になった。イビー・クイーンとか、ベイビー・ラスタ&グリンゴとか。いわゆる「アンダーグラウンド」の時代。だけど、ダディ・ヤンキー以降はすごい歌謡性がすごく増してきた。

Baby Rasta y Gringo "Punto 40"


そこの中で育ったから、一番ゴリゴリのハードなところっていうのは彼、直接通ってない。お父さんはやっぱりサルサみたいのが大好きだったので、やっぱりその中で彼の個性っていうのは出てきた。

あと歌い方ですね。どう見ても鼻が詰まってんじゃないか(笑)みたいな、これがダラッとした感じを出しますよね。

――これが癖になる感じがあると思うんですよ。

伊藤:そうですね、最初はなんだ?といううちに、癖になってきますよね。

――さっき言ったね、ビクトル・マヌエルとのサルサも、サルサのマナーにちゃんとのっとってやってるのがすごいなと思って。ちょっと簡単に経歴を。

2019年にJ・バルビンと一緒に『オアシス』(下記A)っていうのを出して、その後に、『YHLQMDLG/ジョ・アゴ・ロ・ケ・メ・ダ・ラ・ガナ』(2020)(下記B)、
で、『エル・ウルティモ・ツアー・デル・ムンド』(2021)(下記C)、『ウン・ベラノ・シン・ティ』(2022)(下記D)、『ナディエ・サベ・ロ・ケ・バ・ア・パガール・マニャナ』(2023)(下記E)。
この辺でもう全米一位になってるのはね、すごいですよね。


discs.jpg

伊藤:全然日本では伝わってなかったと思うんですけど、日本で雑誌で取り上げたとこほとんど、ゼロだったと思います。でも向こうじゃもうどんどんチャートに入ってきてるっていう。

――「スペイン語であるにも関わらず」って言い方もあれですけども、全米チャート。ラテン・チャートではなく全米チャートのナンバーワンと。

伊藤:はい。で、今、スクリーンに出してますけど()、ドレイクってカナダのラッパーなんですけど、彼と一緒にスペイン語で歌っているんですね。

BAD BUNNY x DRAKE - MÍA


この曲もハードエッジな曲じゃなくて、こういう歌がアメリカのチャートに入って。
それからプロモーションビデオはプエルトリコのホーム・パーティーのシーンで。
2010年代の音楽って、すごく思うんですけど、やはりネット経由のプロモーションビデオの力すごく大きくて、皆さんご存知の通り、TikTokなんかでも、ダンスコンペティションみたいなのがあるじゃないですか。一つの音楽が出た時に踊り方を決めて、アーティストが出すとそれを全世界が真似して、各国で地元を背景に踊ってアップするみたいな。

そういうことって、2010年代以降のSNSをうまく使った手法の中で広がっていくわけですが、
同時に例えばスペイン圏のミュージシャンとかが、どういう背景のところで歌って踊っているのか、すごくダイレクトに掴めるようになっている。それが2010年代以降だった。
「都市とリズム」って本でも書いたんですが、プエルトリコじゃこういうところでパーティーやっている。いいんじゃね?って思った奴、結構いると思うんですよね。

――伊藤さんから見ても現地の雰囲気っていう・・・

伊藤:このまんまですね。現地はこの後ろの方に、若者の親父達も飲んでいるっていう、ソファでグタグタやっていて、若者が表でガンガン踊っているっていう、こういう感じですよね。

――高際さんとかアヤコさんはどうですか?この辺は。

高際:僕はもう全然知らなくて。印象としては、この時期日本でヒップホップとかがアベマとかで流れ始めて、ヒップホップ甲子園みたいなのやってて、僕、地元が北関東なんですけど、群馬の大泉のラッパーとかブラジル系の方が出てきて、こんな感じの作りでやってたかなっていう印象はあります。
これ2018年くらいだったら、なんかその北関東が転化してみたいな感じの、元がこれなのかなって気もしないでもないですね。地元の印象ですけど。

――アヤコさんは?

アヤコ:パーティーの感じは本当にこういう感じで、ドミノもやってるし、ライブとかがあると近所の人が椅子持って、周りに座って飲んでるんですよね。お酒代払ってるかどうかちょっと分かんないですけど(笑)、勝手に来て飲んでて。盛り上がってるし屋外もやっぱり多い。・・・・・みたいな感じの店が多いんですよね。
すごいこういう雰囲気があります。

――ドレイクとコラボするとか、組む相手が大物なんですよね。

伊藤:そうなんですよね。これやっぱり、彼の才能っていうか。いいなっていうのを取りこんだのもあるし、本人の戦略っていうのもなかなか鋭いですね。

――ですよね。
まだこの頃は坊主頭で剃りが入ったりしてるんですけど、この後ちょっと髪伸びてくる。あと、歌手活動の他にも、ご存知の方も多いと思うんですけど、プロレスやってるんですよ。昔、子供の頃からプロレス大好きだったということで


伊藤:プロレスの映像出しましょうか



――これまた笑えるっていうかね。
自分の曲で登場するっていうね。そりゃそうだろうって感じです。


伊藤:彼ちっちゃい頃から好きなんですよね、プロレスね。

これ何年くらいですか?

――これは2、3年前じゃないですか。2023年とか、

パンツでやってるからカルバン・クラインのCMもオッケー(笑)。パンツ似合いそうですよね。本当あの、「バッド・バニー、プロレス」で検索すると、いくらでも出てくるんで


伊藤:みんな笑って見てますね(笑)。

――あとですね、ジェームス・コーデン(俳優、コメディアン、歌手、作家、プロデューサー、テレビ番組司会者。CBSの番組『レイト×2ショー』の司会)の「カープール・カラオケ」ってご存知ですかね。



いろんな大物歌手と車の中でカラオケやるってあれにも出てて、その中で、なんでバッド・バニーって名前かっていうこととか、あとどういうアーティストなりたかったかっていうこと言ってるんですけど、なんか、「昔はその着ぐるみ着て、あんまり僕、顔を出したくないなかったんだよね」みたいなこと言ってるのも面白いと思ったんですよ。

伊藤:インスタにちっちゃい頃、そういうのをかぶらされて嫌な顔してるの出てましたね。

――それを無理やり着せられて激怒したのが、バッド・バニーの芸名のきっかけだとかっていうね。ちなみにベニートっていう本名ですけどね。

伊藤:はい。

――あと、俳優でも結構活躍してて、ブラピの映画『新幹線/ブレット・トレイン』、これ殺し屋役で。この時って品川に来てるんですかね〜?

伊藤:いやいや、絶対来てないと思う。
シーンの看板とか変だし、どう見てもニューヨークの地下鉄(笑)

――これ結構ね、いい感じでやってる。



――わお! 結構やるもんですよね。
あとなんか変なゴルフ映画とか、ゴルフ映画のキャディー役とかね。
あとね、ドラッグクイーンの役とか、結構俳優としても活躍してて、


伊藤:「かっこいい男」だけにしてないですよね。前にテゴ・カルデロン出てた「ファスト&フュリアス/ワイルド・スピード」、そういうやつはちょっとかっこいいとか悪いだけなんですけど、バッド・バニーっておかしな役も結構やりますね。

――コメディータッチもね、『俺は飛ばし屋/プロゴルファー・ギル』(原題:ハッピー・ギルモア)ていう変なゴルフ映画があるんですけど、それも最初、レストランの全然使えないウェイター役で。それって結構、プエルトリコ人を象徴するみたいなラティーノがバカにされてるみたいな。そこからキャディになって、ゴルファーになるっていう。
映画自体がめちゃくちゃな映画なんですけど、そういうのもやってたりとかね。




伊藤:そうですよね。一方でこの頃、ファッション雑誌、VogueとかGQとかいうところにガンガン出ている。

スクリーンショット 2026-01-22 220727.png

この人、いろんなファッション、ユニセックス、トランスセックスな服と組み合わせを全然違和感なく着こなしてて、ファッション雑誌としてもファッションアイコンとして、どんどん前に出ていく。

(PART 2に続く)

posted by eLPop at 22:20 | Calle eLPop

『eLPopの2025年はこれだった!』

2026.01.01

FELIZ AÑO NUEVO 2026! あけましておめでとうございます!

ラテン音楽Web マガジン『eLPop』も14年目となりました。昨年も記事読んで頂いたり、関連イベントに参加頂いたりありがとうございました!2026年も一層濃厚に発信していきますのでよろしくお願い申し上げます!

eLPopAll.jpg

毎年1年を振り返る特集を今年も用意しました。メンバーが音楽、映画、本などから『2025はこれだった!』。
下記の目次をクリックすると各メンバーの『これだった!』のページに飛んでいきます。
リラックス・タイムに楽しんで頂けたら!

■筆者別(記事等着順)
山口元一:コロンビアの10曲はこれ
宮田信:LA、ICE、クンビア
岡本郁生:カロルG
水口良樹:ペルーの旅と印象に残った曲たち
長嶺修:おすすめペルー料理&インド料理店
高橋政資:2025 ライブとアルバム
佐藤由美:2025年 映画、ライヴ
高橋めぐみ:映画『フランケンシュタイン』
伊藤嘉章:バッド・バニーから生まれるなにか
石橋純:エルネスト・レクオーナ「Para Vigo me voy」

では皆さまの2026年の毎日が充実しますよう!
エルポップ(eLPop)一同
山口元一("Ay hombe"担当/コロンビア)
宮田信(DANCE TO MY MAMBO担当/USA+MEXICO)
岡本郁生(ラテン横丁・USA LATIN & MORE)
水口良樹(ペルー四方山語り担当/ペルー)
長嶺修(猫の目雑記帳担当/スペイン & MORE)
高橋政資(ハッピー通信担当/キューバ、ペルー、スペイン)
佐藤由美(GO! アデントロ!/南米、ブラジル & more)
高橋めぐみ(SOY PECADORA担当/スペイン語圏の本・映画)
伊藤嘉章(カリブ熱中症担当/カリブ諸島&沿岸+US)
石橋純(熱帯秘法館/CASA CACHIBACHI担当/ベネズエラ& more)

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
posted by eLPop at 12:54 | Calle eLPop