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【11/3 eLPop Party vol.5 ラテン最新情報/選曲リスト】(出演順)
【3/10 eLPop Party メンバー選曲リスト】(出演順)
【ラリー・ハーロウ来日特集1:来日記念プレ・イベント、cafe104.5で開催!
【ラリー・ハーロウ来日特集2:ファニア・私の3曲】
【ラリー・ハーロウ来日特集3:ラリー・ハーロウ・インタビュー by 岡本郁生】


【追悼特集】
【特集:私はいかにしてラテンにハマったのか?】
【eLPopへのメッセージいただいています】
 決起文<はじめに>

ペドリート・マルティネス インタビュー(その1)

2026.09.10

10月にアルフレド・ロドリゲスのユニットで来日予定の人気パーカッショニスト、ペドリート・マルティネスが先般ミシェル・カミロ(p)との来日時にインタビューを決行。

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キューバのハバナの中心部、セントロ・ハバナの下町 Cayo Hueso(Callejón de Hamelもここですね)生まれの少年ペドリートが、どんな音の中で、誰を聴いて一緒に演って育ち、1998年、NYへ移住して、ウィントン・マルサリスなどジャズ側、エディ・パルミエリやパキート・デ・リベラらのラテン側、エリック・クラプトンやエルトン・ジョンやらのロック/ポップ側、キップ・ハンラハンからロマン・ディアスなどアフロ・キューバンなどを垣根なくクロスしてどうやって自分の音楽を作って来たか、などを聴きました。聞き手は岡本郁生と伊藤嘉章。

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アルフレッド・ロドリゲス・バンド featuring ペドリート・マルティネス
10/12(月)13(火)14(水)@ブルーノート東京


◆◆◆◆◆◆◆◆

――日本は初めてじゃないですよね?

綾戸千恵さんと共演したことがある。ずいぶん前だけど、オラシオ・エル・ネグロ、ロビー・アミーン、そしてジョン・ビーズリーがピアノで。20年ぐらい前かな。来日は18年ぶりぐらいだと思う。

――今回のトリオはすごく新しいですよね? どれくらい一緒に演奏してるんですか?

ミシェル(・カミロ)とリッキー(・ロドリゲス)と初めて演奏したのはニューヨークのブルーノートで、12公演やった。2週間前だよ。本当に新しいグループなんだ。すごくいい。信じられないくらい。

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――ブルーノート東京は満員でしたね。私の友だちやミュージシャンたちもたくさん見に来てましたよ。

オルケスタ・デ・ラ・ルスのメンバーも来てくれたよ。本当にすごいね。

――あるインタビューで、ロックの影響を強く受けていると言ってましたね?

そう。キューバではロックやジャズ、ブルース、ファンキーなもの、R&Bまで、たくさん聴いていた。当時、キューバとアメリカの関係は最悪で、キューバ国内でアメリカの音楽を聴くのは違法だったから、ラジオでアメリカの音楽を聴くときは、音量をすごく小さくして聴いていた。そう、僕にとって、すごく興味深かった。それで、1998年にニューヨークに来て、2000年にセロニアス・モンク・コンペティションで優勝した。それからスティングと演奏し始めた。エルトン・ジョンともね。僕にとって彼らの音楽は馴染み深かった。だって、ずっと聴き続けていたから。ブルース・スプリングスティーンとも共演したよ。

――エリック・クラプトンとも……。

エリック・クラプトンともね。音楽を聴いてたから、僕にとってはすごく馴染み深かった。自分の音楽の知識を彼らと融合させたり、結びつけたりするのも、僕にとってはとても簡単だった。それは僕にとって、すごく良い経験だったよ。ロンドンに飛んで、アルバム『Acertijos』のために3曲をレコーディングした。エリック・クラプトンもいたし、ジョン・ファディスもいた。たくさんのアーティストがいたよ。

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――昨晩の演奏を聴いていて、ロック音楽の影響を強く受けていると感じたんですよ。というのは……8ビートを叩いてたでしょ?

ああ、もっとファンキーな感じ。僕はファンキーな音楽の影響を強く受けてきた。ファンキーな音楽だ。クール・アンド・ザ・ギャング、ライオネル・リッチー、それからザ・ミーターズ。あと……

――マイケル・ジャクソン?

もちろん、マイケル・ジャクソン。アース・ウィンド&ファイア。だから、僕らはアフリカ系、アメリカのブラック・ミュージックを多く聴いてるんだ。もちろん、ロックンロールもたくさん。レッド・ツェッペリン、クイーン、KISS、ローリング・ストーンズも聴く。これが最高の組み合わせなんだ。

――じゃあ、ジャズよりも、ファンクやロック音楽の影響を強く受けたということでしょうか?

いや、何よりもジャズを演奏してる。ニューヨークで28年間演奏してきたんだ。ウィントン・マルサリスとはよく共演している。私のアルバム2枚にもウィントン・マルサリスが参加しているし、多くのジャズ・アーティストと共演している。ロック・アーティストよりもジャズ・アーティストと共演する方がはるかに多い。ラテン音楽における私の最大の影響はジャズだ。それが最大の影響なんだ。

――キューバでもジャズを聴いていたんですね。

キューバでも、そうだね。

――キューバではジャズは違法じゃなかったんですか?

アメリカからの音楽はすべて、どんなジャンルの音楽であれ、キューバで聴くのは違法だった。でも、それが逆に私の興味をそそったんだ。

――なるほど。

音楽は政治とは何の関係もない。結びつけることはできない。だから、世界で最も国際的な都市であるニューヨークに来た時、私は本当に魅了された。憧れのミュージシャンたちに会えて、本当に嬉しかった。エルヴィン・ジョーンズにも会ったし、他にもたくさんの素晴らしいドラマーたちに会った

――キューバで育った頃、どんなジャズを聴いていましたか?

キューバでは、もちろんディジー・ガレスピー。ディジーは、ご存知の通り、多くのキューバ人がキューバを脱出するのを助けてくれた。アルトゥロ・サンドバルやチャノ・ポソもそう。ディジー・ガレスピーはもちろん、本当に多くのジャズ・アーティストがいた。デューク・エリントンも大好きだ。素晴らしいジャズのピアニスト、ベーシスト、ホーン奏者たちがたくさんいて、本当に感動した。

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――ドラマーはどうですか? 

もちろんドラマーについてもそうだ。

――アート・ブレイキーですか?

アート・ブレイキーは、いわばパイオニアの一人だ。バディ・リッチも。そう、たくさんいるよ。現代のドラマーも、昔のドラマーも

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――キューバではどんな教育を受けたんですか?

ストリートだ。音楽学校には一度も行ったことがない。

――そうなんですか?

そう。独学で学んだ。

――キューバでは子供たちは音楽学校に通っていると聞いたんですが……

キューバのミュージシャンのほとんどは学校に通ってる。でも、私にはその機会がなかった。だから、ストリートで独学で学んだ。そうそう、初めてコンガを、自分のパーカッションを手に入れたのは、ニューヨークに行ってからだよ。

――え、本当に?

そう。それまでコンガは持ってたことはない。

――キューバでは持ってなかった?

買うおカネがなかった。カネがなかったんだ。

――そうなんですね……。キューバでは、何の楽器を演奏してたんですか?

練習台を自作したんだ。木の板に車のホイールを取り付けて、釘を打ち付けた。ニューヨークに行くまで、何年もそれを練習台として使ってたよ。

――キューバでの先生は誰でした?

先生はいなかった。とても有名なコンガ奏者のタタ・グィネスと一緒に演奏した。そこでヨルバの宗教に触れた。私は司祭で、生まれてからずっと民俗音楽を演奏している。バタ、ルンバなどの民俗音楽です。私が学んだのは、まさにそれなんだ。

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――バタを始めたのはいつですか?

そうだな……すごく幼い頃、11歳くらいからかな。家ではよくダンスとかを習っていた。母は歌手なんだ。キューバにはパーカッション奏者の兄(弟)が2人いた。だから、うちではスポーツと音楽が融合した生活だった。柔道が得意で、何年も柔道をやっていた。本当に上手だったんだよ。何年も柔道をやっていて、ボクシングも少し、あと、ランニングもたくさんやっていた。ボクシングは得意じゃなくて、ごく短期間しかやってない。でも、柔道とランニングは長年やっていた。素晴らしい経験だった。

――ハバナ生まれですよね?……カジョ・ウエソ出身でしたっけ?

カジョ・ウエソだ。カジョ・ウエソはハバナの中心部、まさにど真ん中にある地区で、その地域には、たくさんのストリート・ミュージシャンが住んでいる。

――カジョ・ウエソには、たくさんのミュージシャンがいたんですか?

そう、本当にたくさんいた。素晴らしいバンドもたくさん。私の家の向かいには劇場があって、オルケスタ・リトモ・オリエンタルやネノ・ゴンサレスなど、多くの有名バンドがそこでリハーサルをしていた。たくさんのバンドがリハーサルをしていたんだ。私はよく道を渡って、美しい音楽を聴きながら眠りについたものだった。だから、私の近所には有名な民族音楽家がたくさんいた。ヘスス・ペレスはキューバを代表する、まさに象徴的な存在だった。

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――ほかに、ムニェキトス・デ・マタンサスのようなバンドと演奏したり、彼らの演奏を聴きに行ったりすることもあったんですか?

ムニェキトス・デ・マタンサスはマタンサス出身で、ハバナから3時間くらいのところだ。でも、彼らがハバナに来るたびに、私が近くにいると、コルンビアの歌を一緒に歌おうと誘ってくれた。ムニェキトとはとても仲が良い。本当に幸せだ、良い友達なんだ。

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――歌は、いつから始めたんですか?

いつから歌い始めたかって? 最初はオリキというグループで歌い始めた。そのグループのリーダーは、演奏者と歌手に、演奏しながら歌って踊ってほしいと言っていた。それで、演奏しながら歌って踊る方法を覚えた。それが私の人生のすべてだ。歌って、踊って、演奏して、いつもそうしてきた。

――オリキは、あなたが最初に組んだバンドですか?

正式にはそうだね。初めて音楽を演奏したのは、ガルシア・ロルカ劇場だった。ガルシア・ロルカ劇場。ハバナでとても有名な劇場だよ。フアン・ベンコモがいた。フアン・ベンコモはコンガとバタを演奏していた人で、そのジャンルの創始者だ。それが、私が初めて一緒に演奏したグループだった。

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Juan Bencomo

――当時何歳でした?

18歳。

――当時、一番印象に残ったバンドやグループは覚えてますか?

ああ、たくさんあったね。リトモ・オリエンタルはその一つ。リトモ・オリエンタル、ルンババナ、ロス・バン・バンはもちろん。チャンギート、レレ、オルケスタ・アラゴン。素晴らしいオーケストラだった。これは昔のバンドだけど、もっと新しい世代のバンドも…

――新しい世代のバンドも…

そうですね。チャランガ・ハバネラのアレクサンダー・アブレウも大好きだ。メディコ・デ・ラ・サルサも。本当にたくさんいるよ。パウリート・FG、イラケレ。彼らはオールド・スクールの王様だ。キューバ音楽の王様だよ。彼らはどちらかというとフュージョンバンドのような感じだったけどね。

――あなたがキューバにいた頃、ティンバは……?

ティンバはすごく人気だった。本当に人気だった。特に90年代から98年頃まで。98年……そうだね。

――当時、ティンバについてどう思っていましたか? 好きでした?

素晴らしかった。本当に素晴らしかった。大好きだった。特にNG(エネヘ)ラ・バンダ。NGラ・バンダはキューバで最も人気のあるティンバ・グループだった。彼らは最も創造的で、最も多才なバンドの一つだったと思う。まるで巨匠のようだった。メンバーの多くはイラケレ出身で、ホセ・ルイス・コルテスもいた。NGラ・バンダはキューバで私のお気に入りのバンドの一つだった。

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――そういうティンバ・バンドでは演奏しました?

キューバでティンバ・バンドで演奏したことは一度もない。一度も。

――ないんですか? なぜです?

学校に行っていなかったから。誰も私のことを知らなかった。彼らはペドリートを知らなかったんだ。それで……ティンバのグループと演奏しようと必死に試みたんだが、機会がなかった。

――つまり、彼らがあなたのことを知らなかったということですね。

今はみんな、私のことを知っている。よく知っているよ。でも、以前キューバに住んでいた頃は、宗教音楽を演奏して路上で生き延びようとしていたので、あまり知られていなかったんだ。

――宗教音楽を演奏していたんですね、サンテリアを……

そう、宗教音楽だ。そして…それが私の最大の影響だ。それが私の最大の……最大のインスピレーションであり、モチベーションでもある。なぜなら、私は自分で曲を作っているからだ。自分で曲を作っている。私の曲はヨルバのメロディーを基盤としている。そして、その力強いエネルギーこそが、私がアフリカ音楽全般に惹かれる理由なんだ。

――歌手として、キューバの歌手で一番好きな人は誰ですか?

キューバの歌手だと……ロランド・ラセリエ。ベニー・モレ。たくさんいるね。でも、昔はたくさんのアマチュアのミュージシャンが歌っていた。ロランド・エル・ゴルド、ペドロ・サーベドラ、メルセディタ・バルデス、アメリア・ペドロソ、ラサロ・ロス、フェリペ・アルフォンソ。ああ、素晴らしい歌手がたくさんいるよ……すごい。素晴らしいミュージシャン、歌手が。

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――アメリカの歌手はどうですか? つまりサルサの……

パブロ・フェレ。トニー・カラもそうだし……ロス・バン・バンのペドリート・カルボも。私が大好きな素晴らしい歌手はたくさんいる。

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――ところで、あなたの音楽は何と呼べばいいんでしょう? サルサとは全く違いますよね。ラテン・ジャズでもないし。

私の音楽はアフロ・キューバン音楽をベースに、ジャズ、フュージョン、ファンクをミックスしたものだ。最近は、あらゆるものがミックスされているので、多くの人の音楽を説明するのは難しいね。たくさんのアーティストとコラボレーションして、彼らから多くのことを学び、自分の音楽にたくさんのアイデアを取り入れている。今の音楽はワールドミュージックだ。正統派のジャズでも、ティンバでも、サルサでも、ジャズでもない。巨大なコンビネーションといったらいいかな……。

(つづく)
posted by eLPop at 19:09 | Calle eLPop

2026年前半はこれだ!

2026.07.15

2026年も半年過ぎたところで、前半はどうだったか?後半面白そうなことはあるか?
一同メモ書きのように書いてみました。『2026年前半はこれだ!』です。

下記の目次をクリックすると各メンバーの『これだった!』のページに飛んでいきます。
リラックス・タイムに楽しんで頂けたら!

■筆者別(記事等着順)
高橋めぐみ:映画『今日からぼくが村の映画館』『雲と大地のはざまで』
岡本郁生:戦後日本のラテン史
水口良樹:アンデス性の表現への挑戦-最近の3曲から
山口元一:ガルシア=マルケス-「共同体」と「異物」
長嶺修:日本人画家、石垣栄太郎
高橋政資:ソンの2グループ、今秋キューバより来日
宮田信:インドネシアから登場したジ・マーローズ!再来日公演迫る
佐藤由美:木津かおりとthe民謡Vol.32 10周年記念
石橋純:『ベネズエラを知るための60章』
伊藤嘉章:バッドバニーが動かすもの


では皆さまの2026年後半も充実しますよう!

エルポップ(eLPop)メンバー
高橋めぐみ(SOY PECADORA担当/スペイン語圏の本・映画)
岡本郁生(ラテン横丁・USA LATIN & MORE)
水口良樹(ペルー四方山語り担当/ペルー)
山口元一("Ay hombe"担当/コロンビア)
長嶺修(猫の目雑記帳担当/スペイン & MORE)
高橋政資(ハッピー通信担当/キューバ、ペルー、スペイン)
宮田信(DANCE TO MY MAMBO担当/USA+MEXICO)
佐藤由美(GO! アデントロ!/南米、ブラジル & more)
石橋純(熱帯秘法館/CASA CACHIBACHI担当/ベネズエラ& more)
伊藤嘉章(カリブ熱中症担当/カリブ諸島&沿岸+US)
posted by eLPop at 09:54 | Calle eLPop

ラテンミュージシャン・インタビューシリーズ:カルロス菅野 PART6

2026.05.03

(PART5より続く)

1995年にオルケスタ・デ・ラ・ルスを脱退したカルロスさん。
いよいよ新たなステップを踏み出します。

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その前の年に、「高崎音楽祭」っていう音楽イベントが……今も熱帯(JAZZ楽団)で出てるんですけど……そこで<デラルス・2デイズ>っていうのがあったんですよ、1994年に。

1日目はデラルスとSING LIKE TALKINGのジョイント・イベントで、2日目は何しよう?って言った時に、じゃあ、デラルスにサックス隊入れて、ゲストに神保彰のドラム入れて、ちょっとラテンジャズ系のコンサートをやろう、ってことになって、その時に作ったのが、トロピカル・ジャズ・オールスターズだったかな?……っていうタイトルで、2日目はやったんですね。

その時の体験があって、95年にデラルスを9月のツアーで辞めて、終わって。
で、もう辞めるって決定してた頃に、デラルスがいた事務所の社長とかが、「菅野さん、次、何やるの?」って話になって。しばらくはもう、何もやるつもりなくて休憩しようと思ってたんですね。なので、事務所で働くってことで、宛名張りとか電話番とかやって、しばらくそれをやりながら……(笑)


――え? マジでやったんですか!?

マジでやったんですよ(笑)。マジで事務仕事とか手伝って、ゲンプラ(ゲンプランニング)で。ゲンプラの加藤(元)さんとはデラルス時代から、ビジネス面で二人三脚だったんですよね、ずっと。それも含めて、このままいてほしいから、在籍はこのままにしといて、っていうことで。そこでちょっと手伝いながら、「バックアップするから、何かやりたい事があったらやれば?」って言ってくれて。それで、じゃあ、ってことで、あの時のビッグ・バンドをもう一回やってみようかなと思って。でも、あんまりコンスタントに活動できるとは思ってなかったんで、六本木ピットインで始めたんですよね。

最初、95年の秋かな?……にやって、で、次の年の年明けくらいにもやったのかな。でももう、1回目から超満員で、息もできないくらいパンパンになっちゃって、2回やったら、もうこのハコでは無理だなぁ……くらいになってたんですよね。

で、どうしようかって言ってた時に、当時ね、ハイビジョンの試験放送っていうのが始まるわけですよ。ハイビジョンの試験放送なんだけど、ハイビジョンの受像器を持っている家庭はほとんどないんですよ。今の4Kじゃなくて、その前のハイビジョンね。それを放送のシステムとして広めるために、試験番組を作ってくださいという予算が各放送局に降りたらしいんですよね。

その時に……フジテレビだったんだけど……担当の人が僕らのライブを見に来てて。何を作ってもいいわけですよ。つまり、世間に見る人いないから、プロモーションの場所でしか見られないプログラムなんで、そこで、「じゃあライブ撮らせてください」って話になって。で、横浜のランドマークホールっていうところを押さえて、カメラ7台とか入れて、クレーンも入れて、90分のドキュメンタリーライブ番組「イントゥー・ザ・グルーブ」っていうのが出来たわけですよ。メンバーのインタビューもあり、すごい重厚な番組が出来て。

で、その時の音源を、出演料はないので音源だけお渡しします、ってことで、音源だけマルチでいただいて、それをニューヨークに持って行って。その時、予算を確保するために電通の方の企画で、「マンボdeカネゴン」とか出光関係のコマーシャル制作みたいなことをやって予算引き出して、ニューヨークにそれを持って行って、ジョン・ファウスティで……エンジニアのね、RMMもみんなやってたジョン・ファウスティに頼んで……ミックスしてもらって、『LIVE IN YOKOHAMA』って1枚目が出ることになったわけですよ。


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――なるほど、そういう経緯だったんですか。

そうだったんですよ。いろいろバックアップしてもらって。で、当時、“インディーズ”なんて言ってなくて自主制作アルバムで。音源は出来たから出しちゃおうって言って、ジャケットも、凝ったもの作れないから、当時、エンジニアがね、「『勘亭流』っていうソフトをコンピューターに入れたんだよ」っていうんで、それで「熱帯ジャズ楽団」っていう名前の(ロゴを作った。)……その、トロピカル・ジャズ・オールスターズじゃ普通だから、バンド名どうしようかって言った時に、事務所のスタッフとかいろいろ話してて、日本語にしたら面白いんじゃない?とか誰かが言って、それで、“トロピカル”だから“熱帯”で、“ジャズ”で、オールスターズはあれだけど、まあ、“楽団”にしようかって言って、熱帯ジャズ楽団って名前になったんですね。

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――アルバムを出すときに名前が決まった、ということですか?

いや、そうじゃなくて、最初にピットインでやった時からその名前で。その前の段階でそれが決まってて、ちょうど「勘亭流」のフォントが入ったから、それを「勘亭流」でやってみたら、「あ、面白いじゃない」って話になって。

で、アルバム・ジャケットを作る時に、いろんな凝ったデザインのジャケットで、バンド名が英字で表記されたりすると、逆に目立たないと思って、真っ白いジャケットに字だけっていうのにしてみようと。それが(店頭の)CD棚とかに並ぶとめちゃくちゃ目立つわけですよ。


――ある意味シンプル極まりない・・・

そう。もう、名刺代わりみたいな。で、それが結構目立って。あと、山野楽器さんの協力を得て……ビッグ・バンドをずっとバックアップしてくれてるから……ある程度の枚数を買い取ってくれて。それを山野さんでプロモーションしてくれたので、1枚目が結構うまく動いたんですよね。

――ピットインの時のメンバーは、ほぼ一緒ですか?

えーとね、全然違う。林(文夫)さんてサックスの人がいたり・・・とにかくメンバーも、固定って考えてなかったんですよ。出入り自由でやれる人が来てやる、みたいな形で維持していこうと思ってたんで。サックスも、コンちゃん(近藤和彦)もいなかったし、竹上(良成)がいたり、トランペットも平田(直樹)くんていう、違うメンバーがいたり……なかなか固定ではできないと思ってたんで。

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近藤和彦(as)

――譜面はどなたが書いてたんですか?

譜面は、その当時、中路(英明)が書いてくれたものとか、前年にデラルスのイベントの時に使ったやつとかがあって、最後は売譜の「闘牛士のマンボ」とかで(笑)。みんなで「これを初見でやってみよう!」みたいなことをやったり、で、神保くんが、♪タカタカドコドコドコ……ってやったりね。そういう面白いことをやったりしながら……

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中路英明(tb)

――神保さんとやろうっていうのは、どこから来たアイディアなんですか?

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神保彰(ds)

えーとね、松岡さん時代から、ジャズ・フェスでカシオペアとか、ずっと一緒に遊んでた仲間だったんで、つながりあったし、JIMSAKUになった時に、ラテンに傾倒したじゃないですか、2人で。そこで、レコーディングで僕と大儀見が入ったり、(森村)献ちゃんアレンジだったりしてたから、その当時からラテン的交流があって。それで、神保くん頼んでみようかなと思ったんですね。そしたら、「面白いから、好きだし、やるよ」って言って参加してくれて。もともと大学時代にビッグ・バンドやってたじゃないですか。

で、ピットインやって、ライブ・アルバムが出て、そこから今度、デラルス時代にお世話になった人がビクターにいて……BMGだったんだけど、ビクターの本社に移動したのかな? なんだっけ? ビクターの駿河さんの上の……そう、田渕さんっていう人なんだけど、その人が、僕と加藤さんとも親しくて、活動ずっと見ててくれてて、で、現場担当の駿河さんに「お前見に行け」と。「面白いバンドだから見に行け」って言ってたんだけど、駿河さん、酒飲んじゃって、全然来なくて(笑)。

なかなか来なくて、でも遂に、フジテレビの屋上かなんかで(渡辺)真知子さんをゲストでやるって時に見に来てくれて。真知子さんが最初のゲストだったんですよね。アルバム『LIVE IN YOKOHAMA』が出た後だったかな。

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渡辺真知子(vo)

熱帯JAZZ楽団 1996のレア映像 Tune Up



ボーカル・ゲストが欲しいねって時に、たまたま、ゲンプラで僕らを担当してくれたのが、高橋達也と東京ユニオンの元マネージャーって人で、その人が達也さんに相談したんですよね。「誰かいい人いないかな」って言ったら「今、真知子、面白いんじゃないの?」って、「ラテンっぽいことやるんだったら」って紹介してくれて、一緒に初めてのゲストで大阪のイベントでやったんですよ。それを東京でやった時に見に来てくれて。


――それがフジテレビの……

フジテレビの球体の下ですよ、お台場の。その前後にブリッツと、何だっけ、大阪のイベントとかやって……。この辺の前後関係は記憶の彼方になってるんですけど、ブリッツで最初のデカいコンサートやったんですよね。

で、ビクターから出せることになって、アルバムの選曲に入ったわけですけど、ちょうどその直前、レコーディングの前に、伊東たけしさんがゲストで、新宿のルミネホールでやったんですよ。その前に、たけしさんが自分のアルバムで「セプテンバー」(アース・ウインド&ファイアーのカバー)をやってたのを聞いてたので、「その日のために熱帯のアレンジでちょっとアレンジし直しますから、一緒にやりませんか?」って「セプテンバー」を作ったんですよね。最初のメロディーとかソロは伊東たけしさんがライブで吹いてたわけです。それが最初の(スタジオ録音)アルバム『熱帯JAZZ楽団II 〜September〜』のタイトル・チューンになって、1曲目が「ミッション・インポッシブル」でね。

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それもね、事務所で話してて、「なんか面白い曲ないかな」って言った時に、「スパイ大作戦」ってどう?っていうことになって、5拍子で♪ダンツダンツダンダン、なんだけど、4拍子にしちゃおうか!って、4拍子でアレンジして。そしたらその直後に、トム・クルーズの(「ミッション:インポッシブル」の)新しいシリーズ(のテーマ曲)が4拍子で、「テーマが4拍子になってるわ!」みたいな(笑)


――あれをやったのはU2のリズム隊でしたよね?

4拍子にアレンジされてて、僕らの方が先だったんだけど、かぶっちゃった〜(笑)みたいな話でね。

――当時、熱帯を始めるにあたって参考にしたものは何かあったんですか? なんかこういう感じで……みたいな?

最初はもう暗中模索で、それこそ「マンボ・イン」とかそういう、普通のラテン・ジャズ・ビッグ・バンドのものをやってて、別に、このバンドを目指した、とかいうこともなくて。ただ、メンバーのオリジナルも、最初から「オバタラ」とかいろいろ入ってるし、取り上げたいものはいっぱいあったんだけど、なんかその、1枚目のライブは、もちろんそういう曲もやってるんですけど、何でもいいや……みたいな選曲だったわけですよね。でも(スタジオ録音)1枚目の『熱帯JAZZ楽団II 〜September〜』を出すにあたって、やっぱり訴求する楽曲っていうのが欲しいっていう話になるじゃないですか、レコード会社的にはね。そこで、いろんなミーティングが始まって。

そこで僕自身(のことを考えると)、サルサとか松岡(直也)さんから始まってデラルスへ行って、どっちかっていうと、世間的にはもう「ラテンのコンガ叩く人」みたいなイメージがやっぱり大きかったじゃないですか。僕自身は、それだけじゃなんか大変だな、と思ってて……つまり、ラテン・パーカッショニストとして、「ラテンをやる人だ」っていう形が出来上がっちゃうと、ザックバランに言えば仕事にならないわけですよね。サルサだけやってても仕事にならない、っていうのを、デラルスの時に最初は散々味わって、それが、アメリカでブレイクして仕事になることになったと。だから、やっとこれで、ラテンをベースに仕事ができるっていうことに持っていけるんじゃないかと思って、それをやっぱり続けなきゃいけないと思ってた部分もあって。


僕自身は、他のこともやりたい人だったんですよ。だから、いろんなバンドやるし、それこそValisっていう超絶ハード・フュージョン・バンドもやってたし(註:Valisはギターの布川俊樹とピアノの古川初穂が中心となり、木村万作、納浩一、藤陵雅裕、小池修などが参加)、日野(皓正)さんのバンドもやってたし、ジャズもやれば、あとは歌も歌う女優さんのアルバムのプロデュースとかいろんなことをやってたんで、幅広くラテンをバックボーンにしたパーカッションニストになりたかったんですよね。

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VALIS

それこそサミー・フィゲロアとかレニー・カストロとかルイス・コンテみたいな、スタジオとかもちゃんとやるし、みたいな形で仕事をしながら、自分がコアになるのが、ラテン(音楽)をコアにする(ことにつながる)……みたいな考え方だったんで。

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Sammy Figueroa

で、熱帯になって、『熱帯JAZZ楽団II 〜September〜』の選曲作業のところから、レコード会社のディレクターと膝つき合わせて、なんか面白いもの作りましょうってなった時に、やっぱりこう、聞きなじみのある曲を……「セプテンバー」をライブでやった時、めちゃくちゃウケたわけですよね、みんな知ってるから。知ってる曲があるとみんなボーン!って入ってくるから、そこを入り口にしてラテンの世界に皆さん入ってきてください、と。その中に「オバタラ」とかゴリゴリのオリジナル楽曲がぶっこまれてたり、ものすごく超絶技巧なものも入ってたり、っていうライブを作り上げようということで始まったんですよね。だから、「セプテンバー」が大きなきっかけになったかな、と思ってるんだけど・・・

――あの頃を思い返してみると、アメリカっていうか向こうでもね、TH(Top Hitsレーベル)のオールスターズとか、割と、カバーとインストのビッグ・バンド・ラテンみたいなのが出て、他にもなんかあったような気がするんですけど、どっちが真似したとかという意味じゃなくて、そういう流れですよね。そういう時代的な流れがあったのかな、と。

多分、(ティト・)プエンテが「オン・ブロードウェイ」とかやってたりとかね、ヒスパニックの中でも、「僕らの音楽をちょっと外の人にも聞いてもらいたい」みたいな空気が出てきた時期だと思うんですよ。サルサも割と盛り上がってたしね。その次の段階として、グローバルにちょっと出ていこうかな、みたいな。それでちょっとカバー楽曲とかそういうのをやるみたいなね。

僕らもそういう感じではありましたね、すそ野を広げたいなと思って。そこで、そういう楽曲(のカバー)が始まって。始まっちゃうと、毎年アルバムをレコーディングして、みたいな話になってったんですよね。

えーと、ちょうど『熱帯JAZZ楽団II 〜September〜』が出た年に、ニューヨークのJVCジャズ・フェスティバルに、電通のバックアップとかいろいろあって出れるって話になって。で、9月だったかな?……JVCジャズ・フェスのニューヨークのフリー・コンサートを、ブライアント・パークっていうニューヨークの、ライブラリー(ニューヨーク公共図書館)の前の緑の広場でやって。ギャラも出ないし、でも、いろいろスポンサー募ってもらってみんなで行って、そこでフリー・ライブをやって。

熱帯JAZZ 楽団 1998New York JVC Jazz Festival at Bryant Park Live



で、それだけだと大変だからって、そこいる間に、コパカバーナとS.O.B.sをやったんですね。その日の夜か……大問題のコパ(カバーナ)がね。


――例の大問題の(笑)……

大問題のコパが、面白かったんだこれ(笑)。オーナーのおばちゃんが怒り狂っちゃったコパカバーナ事件があってね。

――それ、やめさせろって言われても、当然やったんですよね?

やったんですけど、リッチー(・ボニージャ)っていうエージェントが「マンボ・バンドだから」ってブッキングしたんだけど、やり始めたら「何なのこのバンドは? 歌がないじゃないの」って。インストだからね、基本的に(笑)。で、踊りはするんだけど……急に怒り狂ったんだよね。ソロがあるし……楽器のソロが延々と長いし。で、お客さんはびっくり仰天……ま、ダンスに来てるから。でも別に「なんだこいつだ」とは思ってなくて、みんなじっと聴いてるわけですよ、で、盛り上がってるし。でも、オーナーは気に食わないわけ、それが。
「こんなのはサルサじゃない。ここはダンス・クラブなんだから歌のないのは、もうやめー!」みたいな、大騒ぎになって、「このバンド、ステージから下ろしなさい」みたいになっちゃって、あれれれ……みたいな(笑)。


Salsa dancing in the 1990s at the Copacabana
(Willie Rosario Orchestra: canta Rico Walker, Henry Santiago)


だから……その時にやっぱり痛感しましたね。ニューヨークのサルサ・クラブのあるべき姿みたいなものを。
それまでデラルスは、コパとか、ラテン・クォーターとか、クラブ・ブロードウェイだったり、そういうクラブは散々やってるじゃないですか。まあもちろん、サルサ・バンドだから歌もあるしOKなんだけど、例えば昔ね、コンフト・リブレがそういう店に出られなくなっちゃったみたいな話があったんですよね、なんか干されてるみたいな。それはラルフ・メルカドの差し金だみたいなね。これがまあ……オフレコでもいいか、そう言われてたからね。そういうの時代もあったんだけど。でも、実はそうじゃなくて、そのクラブ・オーナーがやっぱり、「ダンス・クラブだから、ダンス・オリエンテッドのバンドじゃなきゃダメだ」って話で。で、そこでいくらカッコいいことやっても、ダメなんですよね。


――そういうのはジャズ・クラブでやればいい、みたいな感じですか?

そうそうそう。ヴィレッジ・ゲートの「マンデー・ナイト」(註:サルサ・バンドにジャズ・プレイヤーがゲスト参加する<サルサ・ミーツ・ジャズ>という月曜日の名物イベント)でやればいいじゃない?って話で。で、そこはOKなんだけど、クラブではダメみたいな。「これがサルサなんだ」ってやっぱり痛感させられたっていう……。

だから、S.O.B.sでやった時は、もうめちゃくちゃ盛り上がってるわけですよ、お客さん。S.O.B.sはその「マンデー・ナイト」・・・元々のヴィレッジ・ゲートがなくなっちゃったんでS.O.B.sに移ったんですよね、「マンデー・ナイト」が。だから、ジャズとコラボレートしたサルサ・バンドがライブやってる会場だったから、いくらインストでも何でも盛り上がってくれるんですよね。ラティーノだけじゃなくて会場も白人もいっぱいいるし。そこはバッチリだったんだけど、コパはもう大変なことになっちゃった。ありゃりゃりゃ・・・みたいな。


Palladium Show at S.O.B.s in NYC in the 90's


――コパってそんなにラティーノの・・・

もう、バリバリ、ダンス・クラブですよ。で、そのコパのオーナーっていうのがイタリア人女性で。映画「グリーンブック」の舞台になった、あのオーナー、イタリア人だったじゃないですか、まさにあそこなんですよね。

――カルロスさんはそのときはステージで・・・

やってるから、その後ろのドタドタ知らないんですよ。リッチーは、「黙ってやらせちゃえばいいから、構わないからやっちゃえ」みたいな(笑)。「お客は喜んでるからいいだろう」って。お客さんはドーン!と盛り上がってるから。

――客は盛り上がってても・・・

やっぱりオーナーは気に食わない。「これじゃダメ」、みたいな話になって。後で聞いて、「まあそうか、そういうことだよな」みたいな。

で、昔ね、デラルスの時に実は一回……話は戻っちゃうんだけど、「パレイディアム」で、まだ大儀見がいた頃ですよ……地元のサックス隊を呼んで、ラティーノのサックス隊を最前列に置いて、「マンボ・ナイト」つって昔のマンボの楽曲ばっかりをね、やったことあるんですよ。そしたらね、客が怒りだしちゃったわけ。しかも、サックス隊の人たちが……デラルスは当時もう、すごい人気で……デラルスのコンサートの最前列で吹いてるもんだから、盛り上がっちゃって、ソロとか回ってきたら終わんないわけですよ。延々ソロしちゃうわけ。そしたら、お客が怒りだしちゃって「デラルス見に来たのに」みたいになって。で、後ろの方のお客さんが……それこそパレディアムだから3000人くらい入るところじゃないですか、急に後ろの方がガ〜って帰り始めちゃって。それも大問題。大失敗。客、帰っちゃったんですよ。そんな大失敗したことが1回あって。それがまた蘇ってきて、「あ、そういうことだよね、やっぱりね」と。


――大儀見さんがいたってことは、かなり最初のほうの・・・

(デラルスの)最初の1枚目が出た直後。次のツアーで「なんか面白いことやってみようよ」と思ってやったら、大失敗しちゃったんですよ(笑)。

――その企画は、リッチーとかが組んでたんですか?

いや、なんかね、大儀見が当時から向こうの連中と知り合いだったから、何人か声かけたらサックス隊集まるからみたいな話で、「やってみようよ」って。その頃まだ、バリバリ・イケイケだったから……でもやったらウケなくて(笑)。なんか面白い世界ですよ。ビジネスの世界というか、お客の反応がそうだから、「なるほどね、こういうことなんだ」と。

(PART7に続く)
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ラテンミュージシャン・インタビューシリーズ:カルロス菅野 PART5

2026.05.01

(PART4より続く)

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1995年、オルケスタ・デ・ラ・ルスに大問題が降りかかります……

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大問題! BMGビクター問題っていうのが起きてね。
(デラルスは)BMGビクターと本契約で、(サブ・ライセンスが)RMMだったじゃないですか。で、売れたら、1993年に国連平和賞を取ったりして。その直前かな……BMGのドイツの本社が、日本にそういうアーティストがいるって気がついちゃったんですね。どうも世界的に売れてるアーティストがいると。だから、日本のBMGビクターに対して、それは誰だ?と。「お前のところにワールドワイドで売れてるアーティストが一人いるだろう。そのインフォメーションをください」って話になって。

『Sabor de la LUz』(1995)(BMG)
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実は、最初のスタートの時に、ドイツの本社に対して、「日本でこういうことをやるんだけど、ラテン・バンドなんだけど興味あるか?」っていう、一応打診はしてあって。でも、ナシのつぶてで何にも興味を示さなかったんで、「じゃあ(サブ・ライセンスは)RMMでやろう。これ、OKだ」って始めたんだけど、売れ出したら「売れてるだろう」って話になったわけ。で、ドイツの本社が、「そのアーティストはうちのアーティストだからRMMを切れ」って。BMGでディストリビューションするから、って話になって。そこからもう、仕事できなくなっちゃったんですよ。

RMMは、すべてのクラブとかローカルのイベンターとか、全部を牛耳ってるわけですよ、各国のメイン・イベンターたちを。それが途切れちゃって、もう、デラルスはどこ行ってもコンサートできなくなっちゃったんですよ。また、場末のクラブだけの仕事になって……。


――そういう仕事もやったんですか?

やりましたよ。ニューヨークでもできないから、ニュージャージの奥の奥の韓国人がやってるクラブとか、そういうとこ行って。でもギャラが出ません、みたいな話とかね。ギャラが出ない話はヨーロッパツアーのときもあったし、いろんなとこであって。すったもんだがあって。


Nora y Orquesta de la Luz en Orchard beach - New York - 1995




――難しい……

ホントのエンターテインメントの世界とか厳しさとかね、そういうのを散々味わって。

――ギャラが出ないんじゃ、できないですもんね。

ギャラが出ないのはね、中南米のイベントではしょっちゅうだから。ギャラ出るまでステージ上がりません、っていうシステムなんだね。

――難しいですね。

BMG本社がそういうこと言うわけですから。日本のBMGも責任を感じて、電通の人とかいろいろ協力を得て、アメリカのビッグ・エージェンシーのウィリアム・モリス・エージェンシーに話を持ちかけたから、って言って、ロサンゼルスでミーティングまで行ったんですよ。まずロイヤーに会いに行こうって言って。

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エンターテインメント・ロイヤーに会って、ライダー(rider:追加条項のこと)とか整えなきゃいけないからって言って、世間話から仕事の話になったら、時計でカウントするような、1時間いくらの本格的なエンターテインメント・ロイヤーと話をして、ウィリアム・モリス・エージェンシーの人とも食事したんだけど、「半年くらい連続でアメリカ・ツアーをする、それも、グレーハウンド・バスで」っていう条件を出されて。当時、うちのメンバーも、他のバンドの仕事もいっぱいしてたんで、とてもじゃない、受けられないってことで、これ以上の活動は難しいよね、って感じ。


――そんなことも含めて、カルロスさんは、“燃え尽き”じゃないですけれども・・・

さすがに疲れちゃって。その交渉を全部やったし、結局、日本のレコード会社も、それまでどこもそういう経験がないから、海外の会社とはタメで仕事することができないんですよね。

――そうですよね。

日本から売り出す!って売り出して、ホール借りてそこでコンサートやりました……みたいなことはできるけど、向こうのシステムの中で仕事してないじゃないですか。今はだいぶ増えたけどね。他に前例なしですね。難しい話ですけどね、これね。

――いや〜、ホントに先駆者ですよね。

やらざるを得なかった。

――でも、それがラテン・ミュージックの世界だったわけですね。カルロスさんもホントに、まあ、通訳の方がいるにせよ、英語もスペイン語も話して……

いや、スペイン語はもうホント、片言しかできないから。英語もね、最初行った時はろくにできなかったですよ。ヤバいと思って、そこから必死で勉強して、一応まあ、なんでも……シビアな会話はちょっと難しくて通訳が必要だけど……普段の会話ぐらいはできる。

――やっぱりすごいですよね〜。

だからいろいろ、サルサのビジネスの世界っていうのかな、その、やっぱりクラブありきで、そこで受けるか受けないか、みたいな(ことを実感しました)。

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Orquesta de la Luz 1998


「客の拍手はカネだ」って、(RMMの)ラルフ・メルカドがずっと言ってたという話があって。「まず、クラブで受けなきゃダメだ」と。クラブの人たちの感覚っていうのが大前提としてあって。映画「グリーンブック」に、クラブのイタリア人オーナーの話が出てくるじゃないですか。あれがコバカバーナなんですよね、イタリア人の女性オーナーで。

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熱帯(JAZZ楽団)で行った時も、コバカバーナで1日ギグが入ってたんだけど、僕らがやり始めたら、その女性オーナーが烈火のごとく怒り出して、「あのバンド早くおろしてちょうだい!」って大騒ぎになって。「歌がないじゃないの? 客は踊ってないし、こんなバンドはダメだ」って大騒ぎになって。「即刻おろしなさい!」みたいな話になって。客は喜んで聴いてるんだけど、踊ってないとダメなんですよ。ダンス・バンドじゃなきゃダメだし、しかもその、ちゃんとコロ・カンタがあって、ソネオがあって、歌で持っていけないとダメ、みたいな。

そういう場所だから、ラルフとかはやっぱりそこを分かってて、そういうもので受け入れられるものっていうのを中心に考えたんだけど、でもだんだん……デラルスもきっかけになってると思うけど……マーク・アンソニーとかDLGとか、そういうことじゃないコンサート系アーティストとかを、ソーホー(SOHO)レーベルって作ってね、そっちでそういうことをやり始めて、それが今のトニー・スッカルとかのコンサートアーティストに繋がっていく動きになっていく。その後、フアン・ルイス・ゲーラとかが現れたり、コンサートでラテンを聴かせるみたいなことが始まっていくんですよ。


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――確かにそういう意味でも・・・

過渡期ですね。

――ちょうどそっちに移っていく分かれ目なんですね。

(PART6に続く)
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イベント『バッド・バニーの真実』文字起こし Part2

2026.01.24

=2025/11/6に行われたイベント『バッド・バニーの真実』の文字起こしです。=
(Part 1より続く)

◆◆◆◆◆◆◆◆


【2】アルバム『DeBÍ TiRAR MáS FOToS』の衝撃とプエルトリコの歴史

――プロレスやってるのもあってというのも変ですけど、結構ガタイもいいし、かっこいいからね。そんな中で、今年のはじめに出た、『デビ・ティラル・マス・フォトス』っていう作品がまた一気に、全米ナンバーワンになって。もう本当に世界のスターですよね。

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伊藤: 2025年のSpotifyのアクセス回数っていうのはもうぶっちぎりトップですし、それから累計も、テイラー・スイフトとか、ビリー・アイリッシュとか他の大スターをぶっちぎって聴かれている。

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ちょうど明日(2025/11/7)がグラミー賞のノミネートですが、ケンドリック・ラマーとマドンナとバッド・バニーは決まりっていう前記事が出てました。そんな感じですよね。

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(*註:2025/11/7に発表となったグラミー・ノミネートの概要は下記)

■メイン3タイトル【年間レコード】【年間アルバム】【年間曲】で行くと、バッド・バニーサブリナ・カーペンターレディ・ガガケンドリック・ラマーの4人が共に3部門に入ってって4者互角。(但しラマーはSZAとのコラボが2つ)

■数で行くとケンドリック・ラマーが9部門、レディ・ガガは7部門、バッド・バニーはサブリナ・カーペンターやレオン・トーマスと並んで6部門ノミネート。

メイン3タイトルの他は、バッド・バニーはウルバナとグローバルとカバーのノミネート。ガガやカーペンターはポップ4タイトル/MVに登場。ラマーはラップ4タイトルに登場(コラボ多し))


――なんで日本では(騒がれないんだろう)・・・?という感じがあるんですけど、

伊藤:なぜですかね。 他の国ではすごいのに。
このアルバムが1月5日に出た時に、6日の全世界Spotifyのチャートは26カ国トップだったんですよ。でも日本はとても静か。

――来年3月来るっていう噂があって、来て欲しいとは思うんですけど・・・本当に心からね。だけど、問題はどこでやるかっていうことで。
さっきアヤコさんもおっしゃってましたけど、プエルトリコで7月から9月半ばぐらいに、全部で31回の連続公演がありまして、計60万人以上動員。会場が2万人ぐらいのところで超パンパンで満員に入ってて、単純計算で62万人ってことですか? でも日本で2万人のところでやって、来ますかね?っていう。


伊藤:プロモーターの名前も出てるんですけど、アメリカが本社かな。
それで日本社が一応受けることになってると思うんですけど、どこの会場でどれくらい入れられてやれるだろうか、って迷ってて日にちが出てないんだと思うんですよ。

(*註:2026/1/20現在、日本公演の正式アナウンスはなし。このタイミングでアナウンスがないので3-4月の大型公演は事実上ないものと思われる)

――ちょっと悲しい感じですよね。

伊藤:それもあって、岡本さんとこのイベントをやろうって(笑)。

――そうそうそうそう(笑)伊藤さんといろんな話をする中で、どうなってんのよコレ?って、よく言ってんですけどね。
『DeBÍ TiRAR MáS FOToS』、高際さんから話出ましたけども、プエルトリコ文化っていうところも全面に押し出してますね。

◆◆◆◆◆◆

では伊藤さん、ここで、プエルトリコとはという話を・・・


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伊藤: 会場にはプエルトリコのこと、よくご存知の方もいっぱいですけど、一応おさらいを。プエルトリコってどこにあるか、アメリカ国民でもよく知らないのがいっぱいいるっていう事なんですけど。南北アメリカの地図があって、米国からフロリダ半島が南南東に伸びててて、その伸びた先はキューバですね、カリブで一番大きな島。
そこから二つ東に行ったこの島がプエルトリコ。四国の半分っていうか、鹿児島県とか広島県とかぐらいの大きさです。

ここに今300万人ぐらい住んでます。一時は350万-60万人いたんですけど、2017年のハリケーン・マリアの大被害の後、不景気もあり、インフラも復旧遅く、どんどん島を離れて今300万人ぐらい。でもその分だけ本土の方が増えてる。本土ってその倍の600万人ぐらいいます。統計上、何をもってプエルトリカンとするかっていうのは、アメリカの国勢調査であるセンサスでは、自己申告なんです。自分は何だっていうね。それだと600万人いて島の倍ぐらい。

こういう島なんですけど、次に歴史を。

コロンブスが15世紀、1493年の2回目の航海で到達。そこから数世紀の間スペインの領土です。その間、欧州でイギリスとかフランスがのしてくると、カリブ海を狙ってイギリスとかフランスは海賊を雇ってですね、スペイン領を襲わせました。いわゆるカリブの海賊ですね。

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プエルトリコには何度も押し寄せて一時イギリスにやられちゃったこともあるんですけども、最終的にはずっとスペインが統治してました。

18世紀おわりに、ヨーロッパではフランス革命がおきました。その影響で、カリブ海ではフランス領だったハイチで革命が2年後に起こりまして、カリブで初めての独立国ができました。

その辺りからスペインも力が弱くなってきて19世紀に中南米の植民地がどんどん独立していった。プエルトリコも19世紀に独立運動が起こります。これはキューバも同じ。キューバとプエトリコはその頃一つのかたまりなんで、キューバ独立の組織とプエトリコ独立の組織がニューヨークで一つの塊になって、動いてました。なので旗のデザインも同じで。

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プエルトリコでは1868年にラレスという山の町で蜂起した独立運動(Grito de Lares)がスペイン軍に抑えられちゃって多くの人が死んだりしました。

そういう風にスペイン領の中で独立しようという機運が高まりかなりそれが進んでた。ところが、その19世紀の終わりに、なんとアメリカがスペイン相手に戦争を起こしたんですね。米西戦争です。アメリカの拡張の始まりみたいなもの。

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勝ったアメリカがスペインから奪ったのはカリブ海だとキューバとかプエルトリコ、カリブの外ではハワイ、グアム、それからフィリピンとかね。アメリカはそこからどうするかなっていうと、フィリピンは直接統治は大変だから、独立させる。キューバも色々使い手があるから傀儡政府で独立させたわけです。プエルトリコやグアムとかは植民地として放置。

ちなみにハワイなんですが、ハワイは元々王国があって平和に暮らしてたんですが、じわじわとアメリカ人が入ってきて、米西戦争の時、ハワイに拠点を置きたいと思ったアメリカが王国をひっくり返して1900年に併合して自治領にしちゃいました。その後1959年に州にします。

そんな風にアメリカが米西戦争を機会に、拡張に動いてキューバ・プエルトリコ・ハワイ・フィリピンの運命を変えたわけです。

で、プエルトリコはどうなったかというと、1898年にアメリカ領になり、1900年にとりあえず、植民地として一つの役所を置いて治めることにした。

その後、1917年のちょうど第一次世界大戦が始まる頃でアメリカは兵隊が欲しかったんですね。なので、「あ、プエルトリコを市民にしちゃえば兵隊に使える」と思って市民権を1917年に与えたんです。これがプエルトリコの大きな変化でした。

多くのプエルトリコ人がアメリカ市民として従軍してきた。
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一方、その15年前、キューバは独立させ傀儡政府を置いて、コントロールする。禁酒法の時代もキューバにいけばリゾートを楽しんで飲めるようにした訳です。

で、プエルトリコの方は市民権を得た。市民権を得たということは、先ほど岡本さんが言いましたけども、プエルトリコからアメリカ本土へ行く人は「移民」じゃなくて国内引越しなんですね。引越しで自由に行けるようになった。キューバはそうではない。

なので、その後、いろんなハリケーンの被害もあったりなんかして、随分多くの人が出稼ぎに行くんですけど、最初は船で3−4日かけて、1940年代後半からは飛行機で4-5時間。やはり一番近い大都市てで仕事の多いのはニューヨーク。

(下記)映画『Gua Gua Aeria』(空飛ぶバス):1960年代のプエルトリコからNYにバス感覚で飛行機で働きに出る小型飛行機でのバタバタを描いた映画(1993年作品)
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まだマイアミなんか小さかったので、とにかくニューヨークだった。

で、その後、米国はプエルトリコをどうしようか第二次世界大戦後の1948年ぐらいに、民選の知事を置くようにした。それまではずっとスペイン語もできない知事をアメリカが送り込んでたんですね、でもその間に、島から搾取する構造を作り上げていた。

例えば米国資本が銀行を作っていってどんどん貸し付けてみたいなことですね。
あと地元の砂糖産業はどんどん買っていって、農地も買っていって単一農業にしてそこから吸い上げるとか。アメリカはこの1900年の頭から民選知事に移すまでたっぷりそこに仕込んだわけです。

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50年植民地化するとさすがに地元民におさめさせないと、っていう事で初めて1948年に民選で知事ができ1952年に「自由連合州/ELA」という自治の地位を得る。しかしそ50年代っていうのはハリケーン大被害とかいろいろあってですね、移住がぐっと増えた時期なんです40年代か後半から50年代っていうのは、プエルトリコから大量の本土移住者が動いた時代。やはりNYが多い。で、ニューヨークの音楽に大きく影響します。

音楽好きな人はご存知だと思いますが、40年代から後っていうのは、ニューヨーク・マンボが始まる時代ですよね。
ニューヨーク・マンボっていうのは、キューバでカチャオとかが生んだマンボが源流なんですが、キューバでは実はマンボは流行らなかった。

それで、メキシコに移ったペレス・プラードが流行らせ、ニューヨークに持ってきて大きく広がったってことなんですが、40年代50年代のその音楽を聴いたのはNYにいたプエルトリカン中心なんですね、キューバ人ではなくて。NYのプエルトリコ人人口は1940年の6万人から50年の19万人、60年に60万人と爆増です。ウエストサイド物語(1957年)の時代です。それだけ増えてもう2世代目みたいになってきた時に若いあんちゃんたちが、っていう話なんですね。

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そこでニューヨークのラテンの世界が始まるわけです。つまり音楽はプレイヤーだけの話じゃないのて、リスナーとして急激に増えたプエルトリカンがいたことが重要。

◆◆◆◆

一方、先ほどもお話した通り、プエルトリコの中では暮らしが難しかった。米領になってからの砂糖産業やコーヒー産業、銀行を押さえたり、それから公安、法律もがっちり固めていったんですね。

これがまた巧妙で。例えば僕はプエルトリコで働いてたんですけど、その時に日本から車を輸入するんですね。

日本から車ってどうやって来るかというと、例えば横浜港で日本車を積んで、パナマ運河通ってフロリダ半島の、例えばジャクソンビルとか、あの辺の港に下ろして、それからプエルトリコにディストリビューションされます。カリブ海にはいろんな国の安い船が行き来している。でもアメリカからプエルトリコに輸入するものっていうのは、必ずアメリカの船でじゃなくちゃいけなくて、安くても他は使えない。

アメリカの法律が1920年以来存続しています。(Merchant Marine Act of 1920。いわゆるジョーンズ法。現在は形を変えて、46 U.S.C. §55101 などとして現在のアメリカ法典に組み込まれている)

他のカリブの国はそういうのがない。プエルトリコは一旦アメリカに入って、そこの倉庫、倉庫代も使って、そこのトレーダーのコミッションも乗っけてアメリカ船でプエルトリコに入るっていう。

なおかつですね、エクサイズ・タックス(Excise Tax)っていう税金があってもう関税みたいに輸入の時に払う一種の物品税。ガソリンとか自動車とかにかかります。それがまた何パーセントか乗るんですね。だから高い。

でそれは一応国内税でプエルトリコの政府が使えるのですが、一方で関税もフルであるから物価は高くなる。関税は連邦税なので米国政府が徴収した後、一般予算の財源となって、各州に連邦財政支援として配られる。特に教育支援、医療補助、インフラ助成とかです。
プエルトリコも 連邦歳出による支援を受けています。 しかし多くの制度で 州より低い待遇・制限された支援しか受けられていない。

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っていう風にアメリカは、お見事にいろんなシステムを組み込んでるわけです。

人間的に支配したっていうことだけじゃなくて、法的に経済的にっていうのが出来上がってるのが、その1900年代から今まで。最低賃金も本土並みに上がらす。自然災害後の復旧サポートも手薄で産業も育たない。
そうするとみんなやっぱり外に働きに行かざるを得ないっていうことになって、それがニューヨーク・マンボを生んみ、サルサも生んだっていうことで。

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――今の、差別っていう話ですが、もう、巧妙にやるっていうのは本当にそうで。
アメリカ国内の方の、移民、あ、移民じゃない移住者の話ですが、国内の話で言うと・・・ちょっと文献見ると、ニューヨークの会社とか雇う方が「ラテン系はダメ」って言ったら絶対アウトなんで、例えば「身長170センチ以上じゃなきゃダメ」とか(という言い方をする)。そういうふうな条件をつけると、ラテン系の人はそんなに背が高くない人が多いので、必然的にラテン系はハネられる、みたいなね。
そういう巧妙な手も使って(差別をしている)・・・というのはあったっていうふうには聞いてますね。


伊藤:見事にずっと食いもんにされてきてサポートも少ない。

――そんな中から出てきたサルサ、そしてレゲトン、で、バッドバニーということなんですけど、ちょっと休憩をとって、『デビ・ティラル・マス・フォトス』の話をしたいと思うんですけど、ご質問があれば。

質問:本でチラッと読んで、「どこまでどうなんだろう」とずっと思っていたことが、60年代くらいまで、プエルトリコの女性に対して国がこの避妊手術を勝手にする権利があったみたいな。そういうのは、どれくらいどういう感じでやられていたのかって、ずっと気になっています。

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アヤコ:治験をやっていたのはありますよね。
避妊手術じゃなくて、わからないですけど、治験をすごくやるのに、ピルの治験とか、そういうのを最初にエルトリコでやるんですよね。

製薬会社とか未だに結構多いんですけど、水も綺麗だし、たぶんもともとそういう地盤もあるかもしれないですけど、そういうのを見て、プエルトリコでまだ開発中の薬とかの治験をする。

――製薬会社とかが多いんですよね。

伊藤:製薬会社が来るのは、1976年に936条項っていう企業が海外領土で上げた利益への連邦税を免除する優遇税制が出来た。産業誘致ですね。最終的には1996年から2006年の間に廃止になったんですけど、それの優遇措置や低賃金があるので製薬会社もたくさん進出しました。カグアスとかね。

それより前の50-60年代にピルの大規模実験を最初にやったのがプエルトリコ。被験者は結果的に主に低所得層の女性ですが、十分なリスク説明もせず。

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そういうことを製薬会社はやっぱり国内の州の地域じゃやれないことだよね。
実験ね。薬量(*エストロゲン・プロゲスチン)が現在の臨床試験よりずっと高いもので治験していた。副作用がでた事例も報告されているようです。しかしこの辺が強く追及されなかったのは準州(Commonwealth)なので、米国連邦議会で代表権を持っていない政治的弱さも影響していると思います。現在はそのあたりの医療の歴史研究では倫理問題として批判されていて、この事例が知られるようになっています。

――じゃあ、すみません、ちょっと休憩をいただいて、アルバム『デビ・ティラル・マス・フォトス』の話をしたいと思います。

(PART 3に続く)

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