1995年にオルケスタ・デ・ラ・ルスを脱退したカルロスさん。
いよいよ新たなステップを踏み出します。
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その前の年に、「高崎音楽祭」っていう音楽イベントが……今も熱帯(JAZZ楽団)で出てるんですけど……そこで<デラルス・2デイズ>っていうのがあったんですよ、1994年に。
1日目はデラルスとSING LIKE TALKINGのジョイント・イベントで、2日目は何しよう?って言った時に、じゃあ、デラルスにサックス隊入れて、ゲストに神保彰のドラム入れて、ちょっとラテンジャズ系のコンサートをやろう、ってことになって、その時に作ったのが、トロピカル・ジャズ・オールスターズだったかな?……っていうタイトルで、2日目はやったんですね。
その時の体験があって、95年にデラルスを9月のツアーで辞めて、終わって。
で、もう辞めるって決定してた頃に、デラルスがいた事務所の社長とかが、「菅野さん、次、何やるの?」って話になって。しばらくはもう、何もやるつもりなくて休憩しようと思ってたんですね。なので、事務所で働くってことで、宛名張りとか電話番とかやって、しばらくそれをやりながら……(笑)
――え? マジでやったんですか!?
マジでやったんですよ(笑)。マジで事務仕事とか手伝って、ゲンプラ(ゲンプランニング)で。ゲンプラの加藤(元)さんとはデラルス時代から、ビジネス面で二人三脚だったんですよね、ずっと。それも含めて、このままいてほしいから、在籍はこのままにしといて、っていうことで。そこでちょっと手伝いながら、「バックアップするから、何かやりたい事があったらやれば?」って言ってくれて。それで、じゃあ、ってことで、あの時のビッグ・バンドをもう一回やってみようかなと思って。でも、あんまりコンスタントに活動できるとは思ってなかったんで、六本木ピットインで始めたんですよね。
最初、95年の秋かな?……にやって、で、次の年の年明けくらいにもやったのかな。でももう、1回目から超満員で、息もできないくらいパンパンになっちゃって、2回やったら、もうこのハコでは無理だなぁ……くらいになってたんですよね。
で、どうしようかって言ってた時に、当時ね、ハイビジョンの試験放送っていうのが始まるわけですよ。ハイビジョンの試験放送なんだけど、ハイビジョンの受像器を持っている家庭はほとんどないんですよ。今の4Kじゃなくて、その前のハイビジョンね。それを放送のシステムとして広めるために、試験番組を作ってくださいという予算が各放送局に降りたらしいんですよね。
その時に……フジテレビだったんだけど……担当の人が僕らのライブを見に来てて。何を作ってもいいわけですよ。つまり、世間に見る人いないから、プロモーションの場所でしか見られないプログラムなんで、そこで、「じゃあライブ撮らせてください」って話になって。で、横浜のランドマークホールっていうところを押さえて、カメラ7台とか入れて、クレーンも入れて、90分のドキュメンタリーライブ番組「イントゥー・ザ・グルーブ」っていうのが出来たわけですよ。メンバーのインタビューもあり、すごい重厚な番組が出来て。
で、その時の音源を、出演料はないので音源だけお渡しします、ってことで、音源だけマルチでいただいて、それをニューヨークに持って行って。その時、予算を確保するために電通の方の企画で、「マンボdeカネゴン」とか出光関係のコマーシャル制作みたいなことをやって予算引き出して、ニューヨークにそれを持って行って、ジョン・ファウスティで……エンジニアのね、RMMもみんなやってたジョン・ファウスティに頼んで……ミックスしてもらって、『LIVE IN YOKOHAMA』って1枚目が出ることになったわけですよ。
――なるほど、そういう経緯だったんですか。
そうだったんですよ。いろいろバックアップしてもらって。で、当時、“インディーズ”なんて言ってなくて自主制作アルバムで。音源は出来たから出しちゃおうって言って、ジャケットも、凝ったもの作れないから、当時、エンジニアがね、「『勘亭流』っていうソフトをコンピューターに入れたんだよ」っていうんで、それで「熱帯ジャズ楽団」っていう名前の(ロゴを作った。)……その、トロピカル・ジャズ・オールスターズじゃ普通だから、バンド名どうしようかって言った時に、事務所のスタッフとかいろいろ話してて、日本語にしたら面白いんじゃない?とか誰かが言って、それで、“トロピカル”だから“熱帯”で、“ジャズ”で、オールスターズはあれだけど、まあ、“楽団”にしようかって言って、熱帯ジャズ楽団って名前になったんですね。
――アルバムを出すときに名前が決まった、ということですか?
いや、そうじゃなくて、最初にピットインでやった時からその名前で。その前の段階でそれが決まってて、ちょうど「勘亭流」のフォントが入ったから、それを「勘亭流」でやってみたら、「あ、面白いじゃない」って話になって。
で、アルバム・ジャケットを作る時に、いろんな凝ったデザインのジャケットで、バンド名が英字で表記されたりすると、逆に目立たないと思って、真っ白いジャケットに字だけっていうのにしてみようと。それが(店頭の)CD棚とかに並ぶとめちゃくちゃ目立つわけですよ。
――ある意味シンプル極まりない・・・
そう。もう、名刺代わりみたいな。で、それが結構目立って。あと、山野楽器さんの協力を得て……ビッグ・バンドをずっとバックアップしてくれてるから……ある程度の枚数を買い取ってくれて。それを山野さんでプロモーションしてくれたので、1枚目が結構うまく動いたんですよね。
――ピットインの時のメンバーは、ほぼ一緒ですか?
えーとね、全然違う。林(文夫)さんてサックスの人がいたり・・・とにかくメンバーも、固定って考えてなかったんですよ。出入り自由でやれる人が来てやる、みたいな形で維持していこうと思ってたんで。サックスも、コンちゃん(近藤和彦)もいなかったし、竹上(良成)がいたり、トランペットも平田(直樹)くんていう、違うメンバーがいたり……なかなか固定ではできないと思ってたんで。
近藤和彦(as)
――譜面はどなたが書いてたんですか?
譜面は、その当時、中路(英明)が書いてくれたものとか、前年にデラルスのイベントの時に使ったやつとかがあって、最後は売譜の「闘牛士のマンボ」とかで(笑)。みんなで「これを初見でやってみよう!」みたいなことをやったり、で、神保くんが、♪タカタカドコドコドコ……ってやったりね。そういう面白いことをやったりしながら……
中路英明(tb)
――神保さんとやろうっていうのは、どこから来たアイディアなんですか?
神保彰(ds)
えーとね、松岡さん時代から、ジャズ・フェスでカシオペアとか、ずっと一緒に遊んでた仲間だったんで、つながりあったし、JIMSAKUになった時に、ラテンに傾倒したじゃないですか、2人で。そこで、レコーディングで僕と大儀見が入ったり、(森村)献ちゃんアレンジだったりしてたから、その当時からラテン的交流があって。それで、神保くん頼んでみようかなと思ったんですね。そしたら、「面白いから、好きだし、やるよ」って言って参加してくれて。もともと大学時代にビッグ・バンドやってたじゃないですか。
で、ピットインやって、ライブ・アルバムが出て、そこから今度、デラルス時代にお世話になった人がビクターにいて……BMGだったんだけど、ビクターの本社に移動したのかな? なんだっけ? ビクターの駿河さんの上の……そう、田渕さんっていう人なんだけど、その人が、僕と加藤さんとも親しくて、活動ずっと見ててくれてて、で、現場担当の駿河さんに「お前見に行け」と。「面白いバンドだから見に行け」って言ってたんだけど、駿河さん、酒飲んじゃって、全然来なくて(笑)。
なかなか来なくて、でも遂に、フジテレビの屋上かなんかで(渡辺)真知子さんをゲストでやるって時に見に来てくれて。真知子さんが最初のゲストだったんですよね。アルバム『LIVE IN YOKOHAMA』が出た後だったかな。
渡辺真知子(vo)
熱帯JAZZ楽団 1996のレア映像 Tune Up
ボーカル・ゲストが欲しいねって時に、たまたま、ゲンプラで僕らを担当してくれたのが、高橋達也と東京ユニオンの元マネージャーって人で、その人が達也さんに相談したんですよね。「誰かいい人いないかな」って言ったら「今、真知子、面白いんじゃないの?」って、「ラテンっぽいことやるんだったら」って紹介してくれて、一緒に初めてのゲストで大阪のイベントでやったんですよ。それを東京でやった時に見に来てくれて。
――それがフジテレビの……
フジテレビの球体の下ですよ、お台場の。その前後にブリッツと、何だっけ、大阪のイベントとかやって……。この辺の前後関係は記憶の彼方になってるんですけど、ブリッツで最初のデカいコンサートやったんですよね。
で、ビクターから出せることになって、アルバムの選曲に入ったわけですけど、ちょうどその直前、レコーディングの前に、伊東たけしさんがゲストで、新宿のルミネホールでやったんですよ。その前に、たけしさんが自分のアルバムで「セプテンバー」(アース・ウインド&ファイアーのカバー)をやってたのを聞いてたので、「その日のために熱帯のアレンジでちょっとアレンジし直しますから、一緒にやりませんか?」って「セプテンバー」を作ったんですよね。最初のメロディーとかソロは伊東たけしさんがライブで吹いてたわけです。それが最初の(スタジオ録音)アルバム『熱帯JAZZ楽団II 〜September〜』のタイトル・チューンになって、1曲目が「ミッション・インポッシブル」でね。
それもね、事務所で話してて、「なんか面白い曲ないかな」って言った時に、「スパイ大作戦」ってどう?っていうことになって、5拍子で♪ダンツダンツダンダン、なんだけど、4拍子にしちゃおうか!って、4拍子でアレンジして。そしたらその直後に、トム・クルーズの(「ミッション:インポッシブル」の)新しいシリーズ(のテーマ曲)が4拍子で、「テーマが4拍子になってるわ!」みたいな(笑)
――あれをやったのはU2のリズム隊でしたよね?
4拍子にアレンジされてて、僕らの方が先だったんだけど、かぶっちゃった〜(笑)みたいな話でね。
――当時、熱帯を始めるにあたって参考にしたものは何かあったんですか? なんかこういう感じで……みたいな?
最初はもう暗中模索で、それこそ「マンボ・イン」とかそういう、普通のラテン・ジャズ・ビッグ・バンドのものをやってて、別に、このバンドを目指した、とかいうこともなくて。ただ、メンバーのオリジナルも、最初から「オバタラ」とかいろいろ入ってるし、取り上げたいものはいっぱいあったんだけど、なんかその、1枚目のライブは、もちろんそういう曲もやってるんですけど、何でもいいや……みたいな選曲だったわけですよね。でも(スタジオ録音)1枚目の『熱帯JAZZ楽団II 〜September〜』を出すにあたって、やっぱり訴求する楽曲っていうのが欲しいっていう話になるじゃないですか、レコード会社的にはね。そこで、いろんなミーティングが始まって。
そこで僕自身(のことを考えると)、サルサとか松岡(直也)さんから始まってデラルスへ行って、どっちかっていうと、世間的にはもう「ラテンのコンガ叩く人」みたいなイメージがやっぱり大きかったじゃないですか。僕自身は、それだけじゃなんか大変だな、と思ってて……つまり、ラテン・パーカッショニストとして、「ラテンをやる人だ」っていう形が出来上がっちゃうと、ザックバランに言えば仕事にならないわけですよね。サルサだけやってても仕事にならない、っていうのを、デラルスの時に最初は散々味わって、それが、アメリカでブレイクして仕事になることになったと。だから、やっとこれで、ラテンをベースに仕事ができるっていうことに持っていけるんじゃないかと思って、それをやっぱり続けなきゃいけないと思ってた部分もあって。
僕自身は、他のこともやりたい人だったんですよ。だから、いろんなバンドやるし、それこそValisっていう超絶ハード・フュージョン・バンドもやってたし(註:Valisはギターの布川俊樹とピアノの古川初穂が中心となり、木村万作、納浩一、藤陵雅裕、小池修などが参加)、日野(皓正)さんのバンドもやってたし、ジャズもやれば、あとは歌も歌う女優さんのアルバムのプロデュースとかいろんなことをやってたんで、幅広くラテンをバックボーンにしたパーカッションニストになりたかったんですよね。
VALIS
それこそサミー・フィゲロアとかレニー・カストロとかルイス・コンテみたいな、スタジオとかもちゃんとやるし、みたいな形で仕事をしながら、自分がコアになるのが、ラテン(音楽)をコアにする(ことにつながる)……みたいな考え方だったんで。
Sammy Figueroa
で、熱帯になって、『熱帯JAZZ楽団II 〜September〜』の選曲作業のところから、レコード会社のディレクターと膝つき合わせて、なんか面白いもの作りましょうってなった時に、やっぱりこう、聞きなじみのある曲を……「セプテンバー」をライブでやった時、めちゃくちゃウケたわけですよね、みんな知ってるから。知ってる曲があるとみんなボーン!って入ってくるから、そこを入り口にしてラテンの世界に皆さん入ってきてください、と。その中に「オバタラ」とかゴリゴリのオリジナル楽曲がぶっこまれてたり、ものすごく超絶技巧なものも入ってたり、っていうライブを作り上げようということで始まったんですよね。だから、「セプテンバー」が大きなきっかけになったかな、と思ってるんだけど・・・
――あの頃を思い返してみると、アメリカっていうか向こうでもね、TH(Top Hitsレーベル)のオールスターズとか、割と、カバーとインストのビッグ・バンド・ラテンみたいなのが出て、他にもなんかあったような気がするんですけど、どっちが真似したとかという意味じゃなくて、そういう流れですよね。そういう時代的な流れがあったのかな、と。
多分、(ティト・)プエンテが「オン・ブロードウェイ」とかやってたりとかね、ヒスパニックの中でも、「僕らの音楽をちょっと外の人にも聞いてもらいたい」みたいな空気が出てきた時期だと思うんですよ。サルサも割と盛り上がってたしね。その次の段階として、グローバルにちょっと出ていこうかな、みたいな。それでちょっとカバー楽曲とかそういうのをやるみたいなね。
僕らもそういう感じではありましたね、すそ野を広げたいなと思って。そこで、そういう楽曲(のカバー)が始まって。始まっちゃうと、毎年アルバムをレコーディングして、みたいな話になってったんですよね。
えーと、ちょうど『熱帯JAZZ楽団II 〜September〜』が出た年に、ニューヨークのJVCジャズ・フェスティバルに、電通のバックアップとかいろいろあって出れるって話になって。で、9月だったかな?……JVCジャズ・フェスのニューヨークのフリー・コンサートを、ブライアント・パークっていうニューヨークの、ライブラリー(ニューヨーク公共図書館)の前の緑の広場でやって。ギャラも出ないし、でも、いろいろスポンサー募ってもらってみんなで行って、そこでフリー・ライブをやって。
熱帯JAZZ 楽団 1998New York JVC Jazz Festival at Bryant Park Live
で、それだけだと大変だからって、そこいる間に、コパカバーナとS.O.B.sをやったんですね。その日の夜か……大問題のコパ(カバーナ)がね。
――例の大問題の(笑)……
大問題のコパが、面白かったんだこれ(笑)。オーナーのおばちゃんが怒り狂っちゃったコパカバーナ事件があってね。
――それ、やめさせろって言われても、当然やったんですよね?
やったんですけど、リッチー(・ボニージャ)っていうエージェントが「マンボ・バンドだから」ってブッキングしたんだけど、やり始めたら「何なのこのバンドは? 歌がないじゃないの」って。インストだからね、基本的に(笑)。で、踊りはするんだけど……急に怒り狂ったんだよね。ソロがあるし……楽器のソロが延々と長いし。で、お客さんはびっくり仰天……ま、ダンスに来てるから。でも別に「なんだこいつだ」とは思ってなくて、みんなじっと聴いてるわけですよ、で、盛り上がってるし。でも、オーナーは気に食わないわけ、それが。
「こんなのはサルサじゃない。ここはダンス・クラブなんだから歌のないのは、もうやめー!」みたいな、大騒ぎになって、「このバンド、ステージから下ろしなさい」みたいになっちゃって、あれれれ……みたいな(笑)。
Salsa dancing in the 1990s at the Copacabana
(Willie Rosario Orchestra: canta Rico Walker, Henry Santiago)
だから……その時にやっぱり痛感しましたね。ニューヨークのサルサ・クラブのあるべき姿みたいなものを。
それまでデラルスは、コパとか、ラテン・クォーターとか、クラブ・ブロードウェイだったり、そういうクラブは散々やってるじゃないですか。まあもちろん、サルサ・バンドだから歌もあるしOKなんだけど、例えば昔ね、コンフト・リブレがそういう店に出られなくなっちゃったみたいな話があったんですよね、なんか干されてるみたいな。それはラルフ・メルカドの差し金だみたいなね。これがまあ……オフレコでもいいか、そう言われてたからね。そういうの時代もあったんだけど。でも、実はそうじゃなくて、そのクラブ・オーナーがやっぱり、「ダンス・クラブだから、ダンス・オリエンテッドのバンドじゃなきゃダメだ」って話で。で、そこでいくらカッコいいことやっても、ダメなんですよね。
――そういうのはジャズ・クラブでやればいい、みたいな感じですか?
そうそうそう。ヴィレッジ・ゲートの「マンデー・ナイト」(註:サルサ・バンドにジャズ・プレイヤーがゲスト参加する<サルサ・ミーツ・ジャズ>という月曜日の名物イベント)でやればいいじゃない?って話で。で、そこはOKなんだけど、クラブではダメみたいな。「これがサルサなんだ」ってやっぱり痛感させられたっていう……。
だから、S.O.B.sでやった時は、もうめちゃくちゃ盛り上がってるわけですよ、お客さん。S.O.B.sはその「マンデー・ナイト」・・・元々のヴィレッジ・ゲートがなくなっちゃったんでS.O.B.sに移ったんですよね、「マンデー・ナイト」が。だから、ジャズとコラボレートしたサルサ・バンドがライブやってる会場だったから、いくらインストでも何でも盛り上がってくれるんですよね。ラティーノだけじゃなくて会場も白人もいっぱいいるし。そこはバッチリだったんだけど、コパはもう大変なことになっちゃった。ありゃりゃりゃ・・・みたいな。
Palladium Show at S.O.B.s in NYC in the 90's
――コパってそんなにラティーノの・・・
もう、バリバリ、ダンス・クラブですよ。で、そのコパのオーナーっていうのがイタリア人女性で。映画「グリーンブック」の舞台になった、あのオーナー、イタリア人だったじゃないですか、まさにあそこなんですよね。
――カルロスさんはそのときはステージで・・・
やってるから、その後ろのドタドタ知らないんですよ。リッチーは、「黙ってやらせちゃえばいいから、構わないからやっちゃえ」みたいな(笑)。「お客は喜んでるからいいだろう」って。お客さんはドーン!と盛り上がってるから。
――客は盛り上がってても・・・
やっぱりオーナーは気に食わない。「これじゃダメ」、みたいな話になって。後で聞いて、「まあそうか、そういうことだよな」みたいな。
で、昔ね、デラルスの時に実は一回……話は戻っちゃうんだけど、「パレイディアム」で、まだ大儀見がいた頃ですよ……地元のサックス隊を呼んで、ラティーノのサックス隊を最前列に置いて、「マンボ・ナイト」つって昔のマンボの楽曲ばっかりをね、やったことあるんですよ。そしたらね、客が怒りだしちゃったわけ。しかも、サックス隊の人たちが……デラルスは当時もう、すごい人気で……デラルスのコンサートの最前列で吹いてるもんだから、盛り上がっちゃって、ソロとか回ってきたら終わんないわけですよ。延々ソロしちゃうわけ。そしたら、お客が怒りだしちゃって「デラルス見に来たのに」みたいになって。で、後ろの方のお客さんが……それこそパレディアムだから3000人くらい入るところじゃないですか、急に後ろの方がガ〜って帰り始めちゃって。それも大問題。大失敗。客、帰っちゃったんですよ。そんな大失敗したことが1回あって。それがまた蘇ってきて、「あ、そういうことだよね、やっぱりね」と。
――大儀見さんがいたってことは、かなり最初のほうの・・・
(デラルスの)最初の1枚目が出た直後。次のツアーで「なんか面白いことやってみようよ」と思ってやったら、大失敗しちゃったんですよ(笑)。
――その企画は、リッチーとかが組んでたんですか?
いや、なんかね、大儀見が当時から向こうの連中と知り合いだったから、何人か声かけたらサックス隊集まるからみたいな話で、「やってみようよ」って。その頃まだ、バリバリ・イケイケだったから……でもやったらウケなくて(笑)。なんか面白い世界ですよ。ビジネスの世界というか、お客の反応がそうだから、「なるほどね、こういうことなんだ」と。
(PART7に続く)


