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こういう人が日本にもいるんです(1) スペイン語と映画に生きるLa Doña Setsu 前編

2014.06.06

「なんだか、ボラーニョからどんどん離れている」とお思いの方、それは少し違います。いえ、半分は合っています。しかし、この方がいなければ、私とボラーニョの出会いはずっと遅くなっていたのです。おもろい姉さんの半生記にチャレンジさせてくださいませ。

 La Doña Setsuとは、私がかってに付けた呼び名なのであるが、彼女を前にすると思わず「ドニャ」と言いたくなるのである。一般的な通り名(?)は比嘉セツさんだ。
 その昔、あるスペイン人ミュージシャンのコンサートで、私はボランティアでアテンドをしていた。その時にやはりボランティアで通訳をしていたのが比嘉さんで、それまでは全く知らない人だったのだが、その豪快な飲みっぷりと素晴らしいスペイン語の通訳ぶりに平伏したのである。それで、なんとなく知り合いになって10年以上が経ったが、今も相変わらず平伏したままであることに変わりはない。後から知ったのだが、NHK BSのTVEのニュースの同時通訳や様々なスペイン語の語学学校でプロを相手に講座を持つぐらいなので、その力量は推して知るべし。
 よく、着物が似合って方言をしゃべったりする外国人を「生まれた国を間違えた」と言ったりするけれど、まさにこの人は日本に生まれつつも生粋の「latina(ラテン女)」。ただ単に陽気でノリが良くてとかそういう表面的なことではなく、ガツ〜ンと来るのに涙もろかったりと、芯からそうなのだ。
 こういう人が日本にもいるんです。
 
 神戸生まれの比嘉さんは、高校時代に米国にホームステイした。その時のホスト・ファミリーのイケメン男子がスペイン語を勉強していたのに影響されたのが、スペイン語との出会い。きわめて単純だ。関西外語大学に入学時に、ラテン・アメリカ諸国の資源の豊かさ、スペイン語の多様性と話者の多さ等々から「これからはラテン・アメリカだ!」と思い、卒業までの4年間は猛勉強。4年生の時に奨学金を受けてメキシコのケレタロの自治大学に留学。ケレタロはメキシコ・シティから200キロあまりの内陸部の古都で、先住民オトミー族の地である。
 その留学中に、なんと彼女は由緒あるケレタロ自治大学の「エストゥディアンティーナ」のメンバーになったのだ。「エストゥディアンティーナ」は男子学生を中心に独特な演奏と合唱を行う集団で、女子は入れなかった。何と言われようともそういう決まりだったのだが、そこはLa Doña Setsu、ゴリ押しに押して潜り込み、多くの歌を学び、ギターを弾いた。彼女いわく、「エストゥデアンティーナのレパートリーは、その頃流行っていたメキシコの甘ったるい歌謡曲とは違っていて新鮮だった」とのこと。なので、頼めば今でも歌ってくれる。元々、ジャクソン・ブラウンが好きで、その後にはキューバのヌエバ・カンシオンの両巨頭のひとり、シルビオ・ロドリゲスの歌詞を書き起こしたりするような人なのだから、まあ、想像に難くない。(余談だが、女人禁制だったケレタロ自治大学の「エストゥディアンティーナ」に25年前に遂に女子部が出来たということをネットで発見。写真を載せておきます。左が男子、右が女子)
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 そして、帰国して優秀な成績で大学を卒業を予定するも、一流企業の最終面接で不合格に。なぜなら「お茶くみも出来ますか」という偉い人の質問に「将来の見えないお茶くみは出来ません」と答えたらしいので(多分)。「言いたいことを黙っていると死にそうになる」というラテン気質(?)のせいか、その後も、神戸製鋼や日産に就職するも長続きせず、遂にJAICAの青年海外協力隊として、ケニアに行くことになったのでした。その時、なんとまだ20代半ば。
 《後半に続く。》
 
 さて、そんな比嘉さんは、2000年代に入り「映画の配給」を始めた。キューバ映画を皮切りに、アルゼンチン、スペイン、ブラジル、メキシコ、イタリアと隠れた名作を紹介してきたのだ。
 そして、もうすぐ公開されるのが、イタリア映画の「幸せのバランス」だ。ささやかな過ちから、安定していたはずの人生が壊れていく物語。今の日本社会にも充分に起こりうる切なく現実的な映画だ。
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posted by eLPop at 12:24 | 高橋めぐみのSOY PECADORA