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バリチャによせて

2014.06.02

 それぞれの地方や町を代表するような曲というものがある。時代時代でそれらは移り変わるものでもあるけれど、故郷の郷愁などと共に長く人々の心に生き続ける曲には確かにいい曲が多いように思う。
 ペルーのアンデス地方でそういった曲を考えると、アヤクーチョならワイノの名曲「さらば、アヤクーチョの町(Adiós pueblo de Ayacucho)」、ティティカカ湖畔の町プーノならば、マリネラ・プネーニャの名曲「湖の町(Ciudad de lago)」だろうか。そしてインカの都であったクスコから選ぶならやっぱり「バリチャ(Valicha)」ではないかと思う。
 アヤクーチョやプーノを代表する曲として挙げたものは、ともにいわば故郷讃歌に分類できる曲である。これにたいして、クスコは実在の女性、バリチャに捧げられた恋の歌である。この非常に個人的なはずの恋の歌はクスコの人々に愛され、クスコを代表する曲として愛されるようになった。そればかりか、その女性、バリチャことバレリアナ・ウィルカ・コンドリさんの誕生日はクスコの町の人々の知るところとなり、毎年盛大に祝われ続けた。そんなバリチャが今年5月18日についに亡くなったということをペルーのネットニュースで知った。亡くなったのか、という思いと、まだ生きていたのか!という驚きが交錯した。彼女は享年103歳であった。



 「バリチャ」は、クスコを代表するワイノだ。そしてクスコだけでなく、ペルーを代表するワイノの一曲でもある。
 元来、この曲はもともと別のタイトルで、スペイン語の歌詞を伴って発表されたものであった。1942年、クスコ県アコマヨ郡アコピア出身のミゲル・アンヘル・ウルタード・デルガード(1922-1951)は、一曲のワイノを作曲した。「トゥスイ(Tusuy:ケチュア語で踊りの意味)」と名付けられたその曲は、故郷アコピアの女性や風景を賛美した牧歌的なスペイン語で歌われたワイノであった。この曲が、そのまま「トゥスイ」として終わっていれば、おそらくその後これほど有名になることはなかっただろう。
 クスコ県の田舎町アコピアのミスティ(町の旦那衆)だったミゲル・アンヘルは、勉学に励んでクスコの高校、そしてその後はリマのカトリカ大学に入学し、のちにアコマヨを代表する文筆家として活躍した。さらにはその音楽的知見を買われて、ペルーにおけるインディヘニスモ文学の旗手であり、アンデス文化やワイノにも造詣の深かったホセ・マリア・アルゲーダスのもと教育省所管の民俗芸術楽団の顧問としても活動したりもしていた。このような活躍の最中、なんと彼は51年に29歳で亡くなっている。
 そんな彼の作曲した「トゥスイ」が「バリチャ」へと生まれ変わって有名になるには、もう一人の立役者が必要となる。その立役者とは彼の弟エベンシオ・ウルタードだ。エベンシオは、兄ミゲル・アンヘルの「トゥスイ」に兄自身の悲恋の物語をケチュア語で新たな歌詞として書きおろし、45年に開催されたフォルクローレのコンテストで発表し、見事に優勝を果たしたのだった。その悲恋の物語こそが、兄ミゲル・アンヘルと同郷アコピアの農民の娘、バレリアナとの恋であった。
 ちなみにバリチャのチャ、つまりケチュア語で名前の後に付けられる「〜チャ」とは親しい人への愛称であり、マヌエル→マヌエルチャ、マリア→マリアチャのようにつかわれる。そのため、バレリアナはバリチャとなったようだ(ちなみに私水口良樹は、一部友人からヨシクチャと呼ばれたりもしていた)。
 そんな彼が故郷のアコピアで出会って恋破れたのがバリチャことバレリアナだ。2人の出会いと別れについては諸説あるが、ともかくアコピアでのミゲル・アンヘルとバレリアナの密会は人の知るところとなり、2人は引き離されてしまった。身分差のある恋は娘のために良くないと考えた父の命令でバレリアナはクスコへと働きに出されることとなったようだ。残念ながら若いころの写真はないようだが、当時、バレリアナはコケティッシュな魅力にあふれた美しい女性として有名だったという。
 しかしこのような美しいお話もよく考えてみると矛盾点がいろいろと出てくる。そもそも今年103歳で亡くなったということは、彼女はおそらく1911年生まれであり、1922年生まれのミゲル・アンヘルよりも10歳以上も歳上であったということだ。2人のロマンスが実際にあったとしても、一般的に流布しているような若さあふれる甘美な悲恋の物語であったのかどうか、実際のところは霧の中、である。
 まあ、人の恋話をあれこれ言うのは馬に蹴られる無粋者のやることなので、そんな話はこれぐらいにして「バリチャ」に関するもう一つの変わった点についても紹介したい。それは踊りに関してである。
 面白いことに、ペルーのアンデス地域の中心的民衆音楽として愛されているワイノは、あまりに民衆の中にあるため、踊りのプログラムとして普段舞台にあげられることがほとんどない。祭りやパーティの音楽として、まさにその「現場」にのみ存在している、そんな踊りの一つである。しかし、この「バリチャ」は、ワイノではなく「バリチャ」という舞曲として好んでステージに上げられるレパートリーになっている。なぜ「ワイノ」ではなく「バリチャ」という踊りとして数えられるのか。言ってみれば、タンゴという踊りではなく、「ラ・クンパルシータ」という踊りとして、個別の踊りがあるかのようにデモンストレーションされているということである。といえばその奇妙さが少しは伝わるであろうか。いつかこのような提示法がいつ頃から一般化していったのか、きちんと調べてみたいと思っている次第。



 さて、そんなバリチャをめぐる枠組みについてお話してきたが、私自身のバリチャとの出会いはペルー音楽との実際の出会いの中でもかなり早い方だった。初めて自分がそれと意識してバリチャを聴いて好きになったのは、ソニア・ヤスミナというクスコ地方(キヤバンバ出身)の女性歌手のアルバムに収録されていたものだ。もちろんそれ以前にもなんとなく聴いて知っていはいたが、それまではクスコのワイノでも「サクサイワマンピ」や「カプリの瞳(カプリニャウィ)」などの方により惹かれていた。それが、ソニアの甘く伸びやかな歌声とオーソドックスながらしなやかで素晴らしい楽団の演奏に一気に「バリチャ」の魅力にとりこになった。ところでなぜだか知らないが、彼女の歌う「バリチャ」は、一般的なバリチャと微妙に節回しが違う独自のメロディに編曲(?)されている。そのためこのバリチャから入った私は、後々他の人と節回しが一人だけ違ってしまい、一緒に歌うときにいちいち意識して補正する必要に迫られることになってしまった。そんなちょっと特殊な思い出もある、愛着のある歌手がソニア・ヤスミナだった。80年代ペルーが直面していたセンデロ・ルミノソのテロの時代、ノンポリのクスコの人たちがこぞってお酒を飲みながら聴いた、ソニアの歌うワイノはそういうワイノだったとクスコの友人に教えてもらった。酒で身を持ち崩して長らく歌手活動を休止していたが、最近再び歌い始めているのがとても嬉しい。私がペルー音楽にはまっていく大きなきっかけとなった歌手の一人だ。残念ながらYouTube上に音源がないので当時のカセットのジャケットを紹介しておこう。
sonia-vuelve.JPG 

 さて、もう一人、忘れられない「バリチャ」の歌手を上げるとすればカランドリア・デル・スールが歌うクスコ・メドレーだ。コンデマイタ・デ・アコマヨという、ミゲル・アンヘル出身のアコマヨ郡を代表する超有名老舗バンドのボーカリストが彼女だ。「バリチャ」から「カプリの瞳」、そして「サクサイワマンピ」と私の好きなクスコのワイノが集められたこのメドレーは、アルパとマンドリン、そしてハーモニカというクスコ近郊の田舎スタイルのバックに乗せて歌われる素晴らしいものだ。こちらはYouTubeに動画があるので、紹介しておきたい。

 その他、ソニア・ヤスミナと同時期に活躍したパブルッチャ・ベネーロのバリチャでは、「トゥスイ」の歌詞も一部歌われていたりと、他にもさまざまな魅力をもった「バリチャ」が数多く録音されている。ぜひ皆さんも、自分が一番好きな「バリチャ」を探してみて欲しい。

 「バリチャ」が余に出て70年近く。クスコを代表するワイノとして愛され続けたこの曲とともに生きた彼女の冥福をお祈りしたい。
 
posted by eLPop at 20:33 | 水口良樹のペルー四方山がたり