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チェオ・フェリシアーノ追悼:熱狂のジョー・クーバ・セクステット

2014.05.19

 チェオ・フェリシアーノが亡くなり、彼のキャリアを辿って行くうちに、改めてその偉大さを実感したのがジョー・クーバ楽団である。
ジョー・クーバといえば、1960年代半ばに「エル・ピト」や「バン・バン」を大ヒットさせブーガルー・ブームの先駆けとなった人、というイメージが強い。しかし実はそれ以前、50年代後半〜60年代前半にかけて、ニューヨークで物凄い人気を誇っていたバンドなのだ。

 1931年、ニュー・ヨークのエル・バリオで生まれたジョー・クーバ(本名:ヒルベルト・カルデロン)は、高校卒業後にティト・プエンテに弟子入り。やがて、ホーン・セクションの代わりにヴィブラフォンを入れたセクステットを結成する。彼のセクステットは、そのクールなサウンドと粋なファッション、ユニークなステージ・アクションでアッという間に話題を集めることになった。当時コンガは座って叩くのが普通だったが、ジョーはそれを椅子の上に置いて(のちにはスタンドを使って)立って叩き、ティンバレスのジミー・サバテール、歌のウィリー・トーレスと3人でダンス・ステップを踏むのである。レパートリーはマンボやチャチャチャ、ボレロなどラテン・ナンバーとジャズやR&Bのカヴァーであった。このあとトーレスがバンドを離れたところに加入したのがチェオ・フェリシアーノである。

 当時、50年代半ばはまだマンボの全盛期、マチート、プエンテ、ロドリゲスがパレイディアムを毎夜湧かせていた時代。しかし一方でジョー・クーバ・セクステットは、一味違う超ファンキーなサウンドで人気を博していたのだった。



 そのへんの話を、ここでは、descarga.comに掲載された2000年2月23日の記事(アベル・デルガドによるチェオへのインタビューの一部)からご紹介したい。                                                     ◆
「1957年10月5日。この日がジョー・クーバ楽団でのデビューの日。2〜3週間リハをやったあと初めてコンサートで正式に歌った。で、その同じ日に妻のココと結婚した。今でも結婚してるんだけどね」

――つまり、日中に結婚して夜は歌ったと?
「そのとおり。だから、ライヴが終わってからハネムーンに行ったんだ。彼女はショウが終わるまで待ってなきゃならなかった。当時のライヴは長くて、6時間ぐらいやってたんだよ」

――ジョー・クーバには何年いたんでしたっけ?60年代半ばまでですか?
「だいたい、9〜10年」

――ジョー・クーバ楽団での経験はあなたにとってどんなものでした?
「ジョー・クーバ楽団はニューヨークでもっとも重要な楽団のひとつだった。みんな、ビートルズに対するような反応をしたもんだよ。マチート、ティト・ロドリゲス、ティト・プエンテ、モンチョ・レーニャ、コルティーホとイスマエル・リベラといった大物たちの中で、ジョー・クーバ・セクステットがトリをつとめることがよくあった。
ある冬の日、ニューヨークのマンハッタン・センターでもの凄く大きなダンス・パーティがあったときのことを覚えている。そのときは大物たち勢ぞろいだ。マチート、プエンテ、ロドリゲス、コルティーホ、マリオ・オルティス、そして40人のミュージシャンと大勢のチワワ(笑)を従えたザビア・クガート。そういった人たちのあとが、ジョー・クーバ楽団の出番だ。これは私たちを潰そう(kill us)としてるんだ、と思ったよ。だが逆に、我々は客をメチャクチャ盛り上げた(kill them)! 演奏を始めたとたん、会場が熱狂した。素晴らしかったよ。『もっとも偉大な楽団のひとつに所属してるんだ!』と実感した」

――誰があなたたちを潰そうとしたんですか? 超大物のあとに無理やり出演させようとした嫉妬深いプロモーターがいた、ということですか。
「我々の成功を望んでなかったというより、若すぎて巨匠たちに対抗できない、ということを証明したかったんだと思う。ちょっと脅したわけ。『いい気になるなよ、謙虚になれよ』と。が、教訓を得たのは彼らの方だった。『我々は謙虚でしかもパワフルだ』と。それがわかった途端、潰そうとするのではなく、価値と魅力を認めるようになった。前座的な扱いはなくなったよ。なんてったって、大きな呼びものだったから。いろんなパーティーで私たちはトリをつとめた。トリに来るのがスター…というわけで我々はスターになった。信じられなかったよ」

――それはいつごろですか?
「59年、60年、61年ぐらいだね。素晴らしい時代だった。大人気だったから、コカコーラのコマーシャルもやってその曲が大ヒットした。<エル・ピト(ホイッスル)>だ。“Oye,ese pito!”というやつ。<エル・ピト>のメロディで♪Drik Coca Cola〜と歌ったんだ。パリセーズ・パークで大きなヴィデオのコマーシャルも撮って全国放送された。どれだけビッグだったかという証拠だね。そうして全米を回るようになった。ロサンゼルス、クリーヴランド、シカゴ、コネティカット…」

――<エル・ピト>はホントに変わった曲ですね。♪I’ll never go back to Georgia〜とコーラスが入って。
「そう、あれはハイブリッドだ。誰が最初に口笛をやったのかは覚えてない。それをピアノが追っかけて、みんなそれに乗って、面白いリフになったんだ」

――リハでいろいろ考えてそれが曲になったんですか?
「いや、あれはダンスから来たんだ。ブレークがあって、誰かが口笛を初めた。で、何人かが一緒に口笛を始めて…という感じ。そのあとで♪I’ll never go banck to Georgia〜と加えた。ディジー・ガレスピーが何かのレコーディングで使ったフレーズだ。たしかジミー・サバテールが始めて、それをコーラスにしたんじゃなかったかな。あれはほんとにジャム・セッションみたいだった。正式な形みたいなものはなくて、その場で作って行ってそれが大ヒットになった」



――あなたがたは当時、意図的に英語マーケットへ進出したんですか?
「あのバンドのプエルトリカンは、僕以外はみんな、ニューヨーク生まれか幼いころにニューヨークへ移住した人ばかり。だからみんな英語の中で育ち、僕より英語が上手かった」

――つまり、彼らはネイティヴのニューヨーカーで、だからこそあのスタイルをやってみた、と?
「そうだ。僕が加入したとき、すでに英語の曲が何曲もあった。最初のクロスオーヴァーはジョー・クーバ・セクステットだと思うよ。ユダヤ人の客もいたし、イタリア系、ブラック、もちろんラティーノもいた。ジョー・クーバがクロスオーヴァーを始めた楽団だと思う」

――60年代半ばまで在籍してあなたのプロとしてのキャリアに多大な影響を与えたジョー・クーバ・セクステットをやめようと思ったのはなぜですか?
「そうだな…音楽で何をしようか、と真剣に考え始めたんだ。残りの人生、セクステットの歌手で終わりたくはなかった。“チェオ・フェリシアーノ”になりたかったんだ」
posted by eLPop at 22:48 | 岡本郁生のラテン横丁