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Sentimiento Tú..チェオ・フェリシアーノ追悼

2014.05.16

4月17日、チェオ・フェリシアーノ逝去の報が飛び込んできた。自動車事故とは・・。
元気でコンサートもこなしていた中での突然の悲報に言葉を失った。

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FBやTwitterのラインに彼の死を悼む書き込みが次々と流れる中、初めて彼と話した時のことが蘇ってきた。

1997年のDia Nacional de laSalsa (サルサ国民の日)のコンサートの時。友人のアンディ・モンタニェスがステージ裏で、次々とアーティストに紹介してくれた。チェオは素朴でエレガントでとても気さくだった。


何年か後、ロベルト・ロエナのベジャス・アルテスでのコンサートの時、ロビーでこちらを見つけて大きなハグであいさつしてくれた。よく覚えててくれましたね、と言うと、「日本の家族"Familia"だよ」と言って笑った。暖かい包容力あふるれる笑顔で、幸せな気持ちになった。


 

チェオの歌の魅力は、一つは甘く暖かくもべとつかず、言葉ひとつひとつに想いを置いてゆくようなボレロ。もうひとつはアップテンポの曲での時に凶暴ですらある抜群のスィング。強力なリズム感が体にあり、それが歌詞の奥に潜む気持ちの流れや揺れを打ち寄せる波のようにメロディーに乗せる。


彼のこれまでの軌跡の中に、その秘密が隠されているように思う。

ジョー・クーバ楽団で歌う前までのエピソードを追ってみよう。

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ホセ・"チェオ"・フェリシアーノ・ベガは1935年プエルトリコのカリブ海に面した第二の都市、ポンセの下町、バリオ・セグンドのグアダルーペ通りで生まれた。中心部に近いが、ちょっと東の川向うに足を延ばせば、ポンセの中でもアフロ系庶民の集まるプレーナが生まれた場所と言われている、バリオ・サン・アントンまでも遊びに行ける場所。


父親は大工でとにかく働きづめだったという。母親は家を守ったが、週末の日曜は母を休ませるために父親が料理を作ったという、貧しいが暖かい家庭だったとチェオは語る。父親は料理を作りながら台所で当時の流行りのボレロを歌い、母親がそれに合わせて歌っていたと。小さな頃から、両親のボレロを聴き、歌って育ったのだ。


子供の頃のチェオはバリオの西にある市営の墓地で友達と駆け回ったり、空き缶を太鼓代わりにした「空き缶バンド(ElCombo de las latas)」で遊んだりしていた。そのバンドではクリスマスには家を回り小銭を稼いだりしたという。


そしてポンセの音楽学校、エスクエラ・ファン・モレル・カンポスに入学。音楽学校と言っても当時は、ポンセの誇る劇場のテアトロ・ペルラの各楽屋を教室として使うような状況。ギターをやりたかったが十分な楽器がなく、数年間は歌やソルフェージュを学ぶ毎日を過ごした。

16歳の時、島での生活の苦しかったチェオ一家はニューヨークに引っ越す。最初は30丁目とレキシントン/3番街にアパートを借りるが、当時アイルランド系の多かったこの地区では、アフロ系の色濃い、スペイン語を話す一家は、近隣住民より差別的扱いを受ける。そして1年後プエルトリカンを中心とするラティーノの多く住む111丁目のアパートへ移った。いわゆる「エル・バリオ/スパニッシュ・ハーレム」地区である。


チェオが17歳の時、近くに住んでいたパーカッション奏者のカコ(FransiscoKako Buster)にコンガを習い始める。現在のエル・グラン・コンボのボンゴ奏者リッチー・バスターの父親だ。

カコは1936年、プエルトリコのサン・ファンの生まれで同世代だが、既にティト・ロドリゲスやアルセニオ・ロドリゲスなどのバンドで叩く機会をもっていた。そしてチェオは彼のバンドに加わりカナダに巡業に出ている。パーカッショニストとしてデビューしたのだった。


またパタート・バルデスやモンゴ・サンタマリアなどと知り合ったのもこの時期。チェオの歌の独特のリズム感は、ポンセの空き缶オーケストラから始まり、カコとのバンド、そしてニューヨークの音の中で成長してきたとも言えるだろう。

1950年代前半はとにかくパレイディアムを中心にティト・プエンテ、ティト・ロドリゲス、マチートが各々のオルケスタを率いて、競っていた時代だ。


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パレイディアムの入場料は当時75セント。ビールが15セントの時代。スター・バンドを聴きたいが財布もさびしいチェオはティト・ロドリゲスの荷物運びをして中に潜り込んでいた。ティト・ロドリゲスの大ファンだったのだ。彼の曲はほぼすべて歌えるようになっていたという。そして時にはティトの楽団で歌う事もあった。チェオのスタイルはティトからも大きな影響を受けている。

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そのティト・ロドリゲスの紹介でチェオはジョー・クーバのセステートに参加し、「エル・ピト」「ア・ラス・セイス」と言ったヒットでスターへと昇ってゆく。そして一方ドラッグにはまり、プエルトリコでの療養を経て、「アナカオーナ」や「ミ・トリステ・プロブレマ」などを含む名盤『Cheo』で復活へとつながる。「エル・ラトン」「キタテ・トゥ」などファニアでの活躍、そして『エスタンパス』などのソロの名作へと続いてゆく。

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そんな事を思い出しながら、彼のボレロの集大成のような素晴らしい曲「Amada Mia」で一旦筆をおきたいと思う。この曲は名盤『Sentimiento y tú..』(1980)に収録されているが、カコからのワイルドで大きなスィング感の伝統とティト・ロドリゲスからのNYの洗練されたボレロの王道の歴史の道の上にチェオが立っているのが良く分かる。

この両方を兼ね備えたチェオは唯一無二の存在だった。ルベン・ブラデスからヒルベルト・サンタロサまで、彼から大きな影響を受けた歌手も多い。その逝去を惜しみつつ、心から冥福を祈りたい。



 


posted by eLPop at 02:02 | 伊藤嘉章のカリブ熱中症