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知られざる「コンドルは飛んでいく」

2014.05.06

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 ペルーの音楽でどの曲が一番有名か、という問いは、もはや問題とも言えないほど答えが明らかである。世界的にもっとも知られたペルーの曲といえば、間違いなく「コンドルは飛んでいく」一択である。
 1970年にサイモン&ガーファンクルが英語の歌詞を書き下ろしてカバーして大ヒットとなって以降、ペルーのみならずアンデス地域を象徴する曲として「コンドル〜」は人々に愛され続けてきた。サイモン&ガーファンクル以降も、さまざまな音楽家たちによって世界各国で演奏され続けてきた「コンドル〜」であるが、その背景については全くと言ってよいほど知られていない。ちょうど昨年2013年は、「コンドルは飛んでいく」誕生100周年の節目となった年であり、ペルーでも「コンドル〜」関連イベントなどが開かれた。というわけで、今回はこの「コンドルは飛んでいく」にまつわる四方山話をしてみたいと思う。



 「エル・コンドル・パサ」、日本語では「コンドルは飛んでいく」の名前で親しまれているこの曲が誕生したのは1913年だ。当時のペルーは、1879年より始まったチリとの戦争にボリビアと連合軍を組んで戦って手酷く負けた「太平洋戦争」からようやく復活しつつあった頃であった。この「太平洋戦争」は、首都リマを蹂躙されるほどの激しい負けっぷりであったが、それに追い打ちをかけたのが、それを絶好の機会とばかりに各地で反乱を起こした先住民たちの存在であった。そのため、戦後になるとアンデス先住民たちを今後どう統治していくかが大きな社会問題となった。クリオーヨのインテリ層からも、それまでの先住民政策を改めて彼らをペルー人として国民化していかねばならないという議論が巻き起こり、それが先住民文化の再評価を含むインディヘニスモ(先住民擁護運動)として徐々に形となりつつあった。その中で大きな影響力を発揮した事件の一つがこの「コンドルは飛んでいく」の発表だったといえる。

 「コンドルは飛んでいく」は、1913年12月19日にリマのマシ劇場で封切られたサルスエラである。サルスエラとはスペイン生まれの軽歌劇で、当時ラテンアメリカ世界では新旧大陸の最新文化をやりとりする手段として非常に重要な位置を占めていた舞台芸術だ。リマを代表する音楽であるバルスやポルカもサルスエラを通じて19世紀半ばにペルーに持ち込まれるなど、最新の音楽文化もサルスエラを通じて入ってきたし、ペルー発の舞踊サマクエカもサルスエラの劇を通してスペインに伝わったとされている。このように時代の最先端を走るメディアであったサルスエラやイタリアオペラなどの歌劇で、1900年よりインカをテーマにした作品が作られるようになってきた。その中でもっとも大成功したのが、このフリオ・デ・ラ・パス脚本、ダニエル・アロミーア・ロブレス作曲の「コンドル〜」だった。しかし「コンドル〜」の公演は、リマのマシ劇場で封切られて大ヒットした後市立劇場に進出するも、翌1914年にオスカル・ベナビーデス大佐による軍事クーデターで打ち切りとなってしまい、以後長らく公式公演は行われなかった。こうした時代の逆境にもかかわらず、この作品の評判はとどまることを知らず、1916年にはクスコで初演されるなど、各地の劇団と音楽家たちがこの舞台をそれぞれに上演し始め、結果的にペルー全土で5年間で合計3000公演といわれる歴史的な大ヒット作となった。そんな、いわくつきの歌劇であったのだ。
 では、それほどペルー国民を魅了したサルスエラ「コンドルは飛んでいく」とはどのような歌劇であったのか。意外にもその内容は非常に時事的・政治的で、実際のペルーの社会状況を受けて作られたもので、1911年に実際に起こった深刻な鉱山事故とその後の社会の反発に発想を得た作品であった。ペルーの中部アンデスに位置するセロ・デ・パスコ県が作品の舞台となっており、そこに住むアンデス先住民たちと、アメリカ人鉱山主との社会闘争がテーマとなっている。当時のペルーは、19世紀初めにスペインの経済統制を嫌って独立したにも関わらず、再び英国や米国などによる経済支配が徐々に強化されつつあった。ペルー経済が欧米列強の新たな帝国主義に飲み込まれる危機感から、一部でアンチ米国、アンチ英国的な国民感情も芽生えてきつつあった。それが先住民の国民化とインカの子孫たる彼らの文化の再評価という新たな潮流と重ね合わされたことで、大きなヒットへとつながったのかも知れない。

 「コンドル〜」の脚本を書いたフリオ・デ・ラ・パスは、本名をフリオ・ボゥウィンというリマ出身の文筆家であった。彼は若くしてブエノスアイレスへと渡ってジャーナリストとして活動し、フリオ・デ・ラ・パスのペンネームで先住民の権利に関するエッセイを書いたりもしていたようで、当時まだ萌芽の端緒であったインディヘニスモに早くから薫陶された青年であった。リマに戻った後「コンドルは飛んでいく」で成功するも、わずか35歳で夭逝している。
 また我々にとってより馴染みが深い、音楽を作ったダニエル・アロミーア・ロブレスは、ペルーアンデスの東側、アマゾンへと下ったワヌコ県に1871年に生まれ、12歳の時単身リマへと勉強のために出てきた。リマでは医学を学びながら音楽にも傾倒し、アマゾンやアンデスに入って薬草の研究をする中、次第に先住民音楽などの採集に力を注ぐようになっていった。また当時はアンデス音楽研究が徐々に始まりつつあった時代でもあり、アンデス先住民音楽が五音音階で構成されているなどの研究成果が世に出始めた時代でもあった。このような最新の研究と自らの収集したコレクションをもとに、彼は1913年に「コンドルは飛んでいく」の大ヒットを生み出すことになるのである。その後の彼はニューヨークに移住し、晩年は再びペルーに戻って1942年に71歳で亡くなっている。サルスエラ「コンドルは飛んでいく」の他にも多数のオペラや交響詩、ピアノ曲などを作曲している。

 「コンドル〜」が生み出された20世紀初頭は、インカをテーマにした楽曲が数多くインテリ音楽家たちによって生み出された「インカ音楽」の時代だった。1900年にはオペラ「オリャンタ」、1906年には「アタワルパ」が封切られている。また、日本でも「フォルクローレ」は流行し始めた頃に愛された「太陽の乙女たち」や「平原と高地」「インディオが泣く時」「ハチドリ」などもこの時代を代表する作品だ。ロブレス以降も、プーノ出身の作曲家テオドロ・バルカルセルが、ペルーを代表するインカ音楽作曲家として高い評価を受けて活躍した。こうした「インカ音楽」の流れは、やがて「インカ音楽コンテスト」の流行へ、そして各地のフォルクローレ風音楽の流行と新たなアンデス音楽スタイルの確立へと大きく舵を切っていくことになる。

 さて、冒頭にも記したように「コンドルは飛んでいく」が再び世界的に知られるようになったのが、1970年のサイモン&ガーファンクルの新しい英語の歌詞によるカバーである。これは、彼らがフランスで出会ったロス・インカスの演奏する「コンドル〜」に魅せられ、彼らの演奏をバックに自作の歌詞を付けて歌ったものが世界的にヒットしたものだ。結果的にヤンキー・ゴーホーム的軽歌劇のテーマ曲を、ヤンキー自身がカバーして世に知らしめるという皮肉なことになってしまったが、この時代になると曲自体は残っていても物語まで認知はされていなかったようだ。

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 そして繰り返しになるが、2013年は「コンドルは飛んでいく」が生まれてちょうど100年目にあたる年だった。リマでは、この100周年を記念して、サルスエラ「コンドルは飛んでいく」が再演された。マルティナ・ポルトカレーロとレイナルド・アレーナスという二人の著名な歌手の共演で、11月14日から16日の3日間、国立工科大学(UNI)劇場での再演であった。これまで脚本でしか読めなかった「コンドル〜」が、今回の再演により実際に役者たちの迫真の演技や音楽とともについに見ることが出来るようになったのである。
 こうして実際に作品を見て(聴いて)みると、不思議なことに、一番「コンドル〜」で有名なメロディが見当たらない。通常、日本はともかく、ペルーなどアンデス諸国で愛されている「コンドル〜」の構成は、@ヤラビー(サイモン&ガーファンクルが取り上げた一番有名なメロディ)AパサカジェBカシュア(ワイノとも)の三部構成になっている。それを2013年に再演されたサルスエラ「コンドルは飛んでいく」の上演内容と照らしあわせてみると、それぞれのメロディはそもそも舞台の別々の部分で演奏されていたものを寄せ集めて再構築したものであったことがわかる。このサルスエラは2幕構成で、1幕目は8場、2幕目は5場からなっており、楽曲は1幕に4曲(前奏曲と歌曲3曲)と2幕に3曲(インスト2曲に歌曲1曲)が入っている。ちなみにAのパサカジェはこのサルスエラ自体の終曲であり、Bは第2幕のオープニングシーンで使われている(ちなみにこの曲のみ、ロブレスの作曲ではないそうだ)。それではどこにも見当たらない有名な「コンドル〜」のメロディはどこから来たのだろうか。
 「コンドルは飛んでいく」再演の立役者の一人であるペルー音楽の研究者でありギタリスト兼プロデューサーのマリオ・セロン氏によれば、どうやら第1幕前奏曲であるプレリュードが元曲であり、それをよりアンデス風に後年アレンジされたものが一般化した、ということになる。しかし、このプレリュードと世界的に有名になった「コンドル〜」のメロディの間にはかなりの違いがあり、編曲のヒトコトでは超えられない距離がある。
追記:この件に関して、先述のマリオ・セロン氏より改めて興味深いコメントを頂いた。それによれば、前の仮説とは異なる話になるが、元曲はプレリュードというよりも、ロス・インカスが録音の際にパサカジェの箇所をリズムを改変してその前に置いたことで、有名なヤラビーのパートが誕生したのではないか、ということでした。確かにメロディラインはほぼ同一のものであることを考えると、その可能性は極めて高いと思われる。


(1917年録音の「コンドルは飛んでいく」の三部作。この時点ではヤラビー部分がほぼなかったことがわかる)

 ちなみに演奏は基本的に全てクラシックの管弦楽編成だ。基本的にケーナはもとよりギターもアルパも登場しない。その意味でも純粋にサルスエラのアンデスを舞台にした演目であったということがよく分かる。とは言え、ロブレスの代表作であるこのサルスエラ版「コンドル〜」、なかなかよい曲がたくさん収録されているので、ぜひ聴いてみて欲しい。


(サルスエラ版「コンドルは飛んでいく」の全7曲)

 ちなみに、「コンドルは飛んでいく」がアンデス音楽イメージを象徴する存在となったことにより、その「元曲」の起源論争がペルー、ボリビア、チリ間で幾度となく行われている。それぞれの国がおらが国の曲が元曲だと言い、「コンドル〜」を自国の音楽だと主張しようとしたりしているのは面白い。
 ちなみに、ペルーで元曲とされている代表的な例は、1925年にフランス人の音楽学者夫妻が発表した『インカ音楽とその生き残り』に収録されているフニン県ハウハの歌曲だ。楽譜の形で残っているものだが、実際に演奏してみるとこれまた非常に味のあるいい曲である。こうした元曲探しもいろんな想像力が掻き立てられて面白い。ちょっとマニアックに楽しみたい方はそういう楽しみ方もあるので、ぜひ挑戦してみて欲しい。
posted by eLPop at 09:41 | 水口良樹のペルー四方山がたり