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さよなら、ペペ・バスケス

2014.03.30

 また一人、ペルーを代表する素晴らしい音楽家が亡くなった。
 ペペ・バスケス。アフロペルー音楽再興の緒となった偉大な詩人ポルフィリオ・バスケスを父に持ち、枠組みにとらわれない自由な感性でアフロペルー音楽を代表する名曲を多く作曲し、自身も歌手として絶大なる影響力を持っていた音楽家だ。その張りのある伸びやかな歌声、感情溢れる表情や動作が魅力たっぷりに皆を引き込むその表現力、そしてその歌が生み出すリズムとパッションに、いつも心揺り動かされてきた。

 ホセ・ポルフィリオ・バスケス・モンテーロ、通称ペペ・バスケスは、2014年3月25日にリマの救急病院で亡くなった。10年の長きにわたって糖尿病の闘病生活にあり、足の切断までしていた彼は、この日敗血症で帰らぬ人となった。まだ52歳だった。数日前の3月18日には彼の5番目の息子が生まれたところで、新聞の紙面はそんな彼を祝福していた。本当に早すぎる!と思わず呻かずにいられなかった、それほどショックな急逝だった。

 ペペ・バスケスは、1961年にアフロペルー音楽を受け継ぐまさに名門中の名門と言える重要なファミリーの一員として生まれた。中でも父のポルフィリオ・バスケス・アパリシオは、ペルーのアフロ音楽復興の端緒となった人物だ。この父は、1920年にリマに移住したアフロ系住民の長老的存在であり、古いクリオーヨやアフロ音楽や踊り、詩などに非常に精通した人物であった。彼のもっとも重要な功績は、当時すでに忘れられていたフェステホなどを復興させたことだ。今やアフロペルー音楽になくてはならない、ペルーを代表する音楽の一つであるフェステホは、このポルフィリオによって復活させられた音楽であった。またアフロペルー音楽復興運動が大きなムーブメントへと発展していくきっかけを作ったホセ・ドゥラン教授の相談役として伝説の一座「パンチョ・フィエロ」設立に協力した。さらにその後の運動の中心的人物となったニコメデス・サンタ・クルスに伝統的な12行詩デシマやアフロペルー音楽について教えるなど、彼の師といってもいい存在であった。
 母のエリア・モンテーロ・デ・ラ・コリーナは、「トロ・マタ」で知られるカルロス・"カイトロ"・ソトの姉妹であり、スサナ・バカやペルー・ネグロのロナルド・カンポスの従兄弟でもあった。それを聞くだけでも、ペペ・バスケスがいかにアフロペルー音楽の重要なファミリーの出であったのかということが実感できる。また兄には同じくカホン奏者としても非常に有名なアベラルド・バスケスや、ビセンテ・バスケスなどがいる。

 その影響もあり、ペペは幼い頃から音楽に傾倒し、5歳の時には歌がうまくギターも弾ける子供として知られていた。さらに10代なかばにはすでに作曲を初めていたという。そんな彼の代表的な作品を挙げるなら「ヒピ・ハイ」「リトモ・デ・ネグロ(レ・ディヘ・ア・パパ)」などであろうか。その多くは80年代に作曲されたフェステホだ。サルサなどのカリブの要素を大胆に取り込んだフェステホやランドーを歌い人気を博したが、中でも「ヒピ・ハイ」は彼の名を広くしらしめる決定打となった作品でもある。また彼の歌うランドーやバルス、マリネラ・リメーニャなどの歌も人気があった。以下、これらの曲を紹介することで彼の魅力を語ってみたい。


 とは言え、いきなり「ヒピ・ハイ」を聴いていただくよりも、まずは他の作品を聴いていただいた後の方がその良さがわかる気もするので、まずは彼のベースとなっている正統派のムシカ・クリオーヤを歌っているものから紹介したい。この曲を聴いていただくだけでも、彼が非常に豊かなアフロペルーの伝統を受け継いでいることがよくよくわかる。彼の歌うバルスも素晴らしいものがたくさんあるが、個人的には彼の真骨頂はマリネラ・リメーニャにあると思っている。中でもこの「パルメーロ」は特に素晴らしい。マリネラ・リメーニャは、もともとフィエスタで即興で歌われる歌曲でもあったため、同じタイトルで曲も歌詞も違う作品、というのが意外とたくさんある。この「パルメーロ」もさまざまなバージョンがあるが、ペペ・バスケスが歌った「パルメーロ」はその中でも随一といってもいいぐらい本当に素晴らしい。ライブの映像でご紹介しよう。

 実は、もう一つ忘れられない彼の歌うマリネラ・リメーニャがある。それは彼が兄の故アベラルド・バスケスとテレビで共演したものだ。マリネラ・リメーニャを初めはペペが歌い、途中からアベラルドに歌うように水を向けると、アベラルドも歌い始める。この二人の激しい歌の掛け合いとその迫力にまさに打ちのめされた。一時期YouTubeでも視聴できたが、今は削除されたのか残念ながら見ることは出来ない。

 彼が作った現代フェステホの名曲は多くの歌手によって愛され、歌われてきた。特に彼自身の出自と父のことを歌った一連のフェステホ群は、その中でも特に愛されている作品だ。ここでは、ムシカ・クリオーヤの女王エバ・アイジョンの代表曲ともなっている「リトモ・デ・ネグロ〜ライセス・デル・フェステホ」を彼女のライブ映像でご紹介しよう。

 ペペ・バスケスを有名にしたのは、このエバのカバーによるものも非常に大きかったと言われる。エバがこの曲をカバーし、好んで歌ったことによって、その作曲者であるぺぺ・バスケスの名はさらに知られることとなった。フェステホを再創造した偉大な父ポルフィリオ・バスケスに向けて「俺はそのフェステホを歌うんだ」と高らかに歌い上げ、「小さい時に父に言ったんだ。僕も歌いたい。お父さんみたいになりたいってね」という歌詞を持つ父に捧げられたフェステホである。

 そして満を持して彼の作品でもっともペルー人に馴染みのある曲「ヒピ・ハイ」を聴いていただこう。この曲は意外にも日本人にも馴染みの深い「蛍の光」をフェステホにアレンジした曲だ。

 初期の録音ではこの冒頭のソロはなかったが、個人的にはこれが付いた後の録音の方が好きなのでこちらを紹介する。初めて聴いた時にはあまりの衝撃に微妙だなぁと思ったりもしたけど(元曲のイメージに引きずられすぎていた)、気がつけばいつの間にかすっかり好きになっていた。アフロペルー文化原理主義に陥らず、自由な発想で曲を作ることで、新たなアフロペルー音楽の地平を切り開いた曲とも言える。伝統を受け継ぐだけでなく、今を生きる感性を大切に、その時その時の最良のエッセンスを付け加えながら音楽を革新していくことに非常に前向きな人であった。
 彼の死を悼む記事の多くには、この「ヒピ・ハイ」の歌詞が添えられていた。それは、「ヒピ・ハイ」が別れの曲であったからであるが、それも単なる別れの曲ではなく、再会を約束し、暗闇の中にも希望と未来を感じさせる、そういう非常に前向きな別れの曲であったからだとも言えるのだろう。今は、彼を偲んで私も一人ヒピ・ハイを歌おう。
posted by eLPop at 16:55 | 水口良樹のペルー四方山がたり