2005年の年末に、愛知県小牧で一人の偉大なペルーの作曲家が亡くなった。癌だった。彼の名はルイス・アベラルド・タカハシ・ヌニェス。日系ペルー人だ。ペルーの北部海岸地方で音楽に囲まれて生まれ育ち、首都のリマに出て時計職人として働きながら作曲や音楽活動で頭角を表し、やがてペルーのムシカ・クリオーヤを代表する作曲家として多くの名曲を遺した。彼の曲はペルーのみならず、ラテンアメリカ各地で今でもことあるごとに演奏され、大合唱され、愛され続けている。晩年に至るまで、まさに70歳を過ぎても作曲の熱意は衰えず、始終日本とペルーを行き来しながら新作を発表し続けていた。そんな作曲家が日本でひっそりと人生に幕を降ろしたのである(ペルーでは大事件だったが)。今日はそんな(日本では)知られざる日系ペルー人作曲家を少し紹介したい。
アベラルド・ヌニェスの父サクゾウ・タカハシは福島県出身で、日露戦争従軍後、1916年にペルーの北部沿岸地方の町フェレニャフェの農場で働くために移住した。そして1922年にはタルシラ・ヌニェス・デルガードと出会い結婚している。非常に多才な人だったようで、フェレニャフェにレストランや仕立屋を開業し、また花火職人としても名を挙げた。未来の大作曲家は、1926年にそのフェレニャフェでサクゾウ氏の五人兄弟の長男として生まれた。音楽的な才能に恵まれた彼は、幼い頃から親戚からギターの手ほどきを受け、近隣の音楽家たちからさまざまな音楽を吸収しながら成長した。ギターだけでなく、ペルーの北部で使われる民俗ギターのティプレを愛用していた。1943年には県都のチクラヨに引っ越して楽団に所属、北部を巡業したりした。
1946年、19歳の時にリマに時計技師の修行に出た。しかし彼は、リマで仕事以上に音楽活動に熱中し、1948年には彼の最初の作品であるマリネラ・ノルテーニャの名曲「チクラヨ万歳!」を、そして翌年には「エンガニャーダ(バルス)」などを発表して頭角を現し、その名を知られるようになっていった。そんなふうにして、彼はいつしかリマのバリオで音楽三昧で生活しながらラジオなどを通じて次々とヒット曲を生み出す作曲家となっていった。彼の代表曲であるバルスの「マル・パソ」やマリネラ・ノルテーニャの「サカチスパス」などの名曲も数多くの音楽家たちに演奏されるようになり、数々の賞を受賞した。その評価の高さは、かのチャブーカ・グランダをして「最高のバルス作曲家を挙げるならそれはアベラルド・ヌニェス」と言わしめるほどであった。
余談であるが、彼は作曲家としてはアベラルド・ヌニェスの名前で活動していたが、それ以外の場所ではタカハシの姓を名乗っていた。その理由について、ペルー人の魂とも言えるムシカ・クリオーヤの作曲家としては、日系人の名前よりはペルー人の名前の方がいいと思ったからだ、日系人であることを故意に隠そうとしたわけではない、と語っていたと、親しい友人が述懐している。
70年代、結婚も果たし油の乗った彼の黄金時代に、アベラルドはリマで友人たちとペーニャ・トリコロールをはじめた。本当に音楽を愛する人たちのための場を作りたいという彼の商売抜きの場であり、飲み食いまで含めてお金を取らなかったというから驚きだ。アベラルドはここで制作途中の曲をよく歌ったといい、彼の最新の作品を聴きたい人々で常にあふれていたという。また、音楽家たちの間ではこのペーニャで演奏できること自体がステータスになっていた。また、彼の作品にも表れているが、彼は常に貧しい人々に寄り添うことを大切に生きていた。そのため、超売れっ子の作曲家となって以後も、音楽でお金を稼いで一財産つくろうとかを考えるようなことはなかった。さまざまな良い条件の契約にも乗らず、バリオで生きる一人の音楽を愛する人間として生きることにこだわりぬいた人であった。
80年代に入り、ガルシア政権のもとでハイパーインフレが進むと、彼の子どもたちが働いていた会社の多くが立ち行かなくなり、失業してしまった。結局子どもたちは90年代に入って次々と仕事を求めて日本へと移住していき、96年にはアベラルド自身も日本へと家族を追って移住することを決意した。しかし結局生涯日本語は喋れないまま、日系ペルー人社会の中で生活しながら、ペルーと日本を往復する生活を続けた。ペルーでペーニャ・トリコロールを続けながら、彼が住んだ愛知県の小牧にも日本版トリコロールを作り、在日ペルー人社会の中でムシカ・クリオーヤのハラナな音楽を演奏し続けた。
(中部大学でイベントを行ったアベラルド・ヌニェス氏。ティプレの演奏を聴くことができる)
彼が亡くなる年の春に、一度彼に会いに行ったことがある。春先、まだ少し肌寒い頃、一緒に行こうと誘ってくれた彼をよく知っている友人にドタキャンされ、一人でお宅に伺った。アベラルドさんは風邪気味でジャージ姿であったが、アパートから外に出迎えに来てくれた。とても数多くのヒット曲を作曲した大作曲家とは思えない質素な生活ではあったが、アベラルドさんのご夫人もエンパナーダを焼いてくださったりして、家族ぐるみで温かく迎えてくださった。晩年に彼が気に入っていたバルス「アルコ・イリス」やトンデーロ「デ・ラ・ミスマ・サングレ」など、彼のおすすめの作品が入った録音をわざわざテープにダビングしてくださった。そうして一緒に過ごした束の間の時間を私は忘れることができない。そこで彼がティプレをかき鳴らしながら歌ってくれたたくさんの曲の中の一つに、激しく私の胸を打ち、忘れられない一曲となった曲があった。それは、未発表のバルス、日系ペルー人の日本への明るい希望と、故郷ペルーへの愛を歌った「二つの幻想」である。まだ誰も録音してない曲なんだ、と語りながら弾いてくださったその曲は、日本とペルーの2つの祖国を持つ日本に暮らす日系ペルー人の心を歌ったバルスだった。ところどころに「桜」や「祭り」、「花火」など印象的な日本語を配置しながら作られたそのバルスは、切なさと誇りが同居する美しい歌だった。やがて楽しい時間が終わりいよいよ家を辞する時には、またいつでもおいでと言って下さり、また絶対伺いますと約束したが、その約束が果たされる前に、8月ごろ癌が再発して入院したという知らせを受け取った。結局多くの人から回復を祈られつつ、年末に帰らぬ人となった。
死後遺体はペルーに送られ、彼の故郷フェレニャフェにお墓が作られた。そしてペルー各地で盛大な追悼のコンサートが行われた。日本でも翌年の2006年5月、彼の住んでいた愛知県内の豊田市で追悼コンサートが行われた。私も縁あってそこで演奏させていただいたが、日本各地からムシカ・クリオーヤの演奏家が集まり、会場は当日ペルー人で大入り満員となったコンサートだった。特に彼のお膝元であった愛知県のミュージシャンたちからは、アベラルド・ヌニェスという存在の大きさがひしひしと伝わり、改めて大きな人を失ったことを思い知らされた。ペルーで知らぬ人のいない偉大な民衆作曲家は、愛されつつも父の祖国日本、彼にとっては異国であったこの遠い国で静かに亡くなったのである。今も彼の家族たちは愛知県を中心に音楽活動を展開している。ルイス・アベラルド・タカハシ・ヌニェスの功績を少しでも日本人や日系ペルー人の若い人たちにも知ってもらえるように活動を続けているのだ。
最後に、彼の遺作である在日ペルー人に捧げられたバルスの歌詞を紹介して終わりたい。
二つの幻想(Dos ilusiones)
ルイス・アベラルド・タカハシ・ヌニェス(訳:水口良樹)
故郷を捨てて
首都へと出てきた田舎者のように
生まれ育った祖国を離れた
我が家から、家族から、仲間たちから離れて
ああ、なんと切ない思い
二つの幻想が、私を日本へと連れてきた
この見も知らぬ遥か遠い島々
海や山、太陽の生まれ出づる国
魚や花々、果物に恵まれた
輝く太陽の光と、鳩の甘い鳴き声の島
夜、月光の下ひとり、月に告白する
私は誇りを持って労働者たろうと
この仕事とともに
自らの運命を切り開いて行こうと
ああ、なんと切ない思い
二つの幻想が、私を日本へと連れてきた
日本人の胸を熱く焦がす
神の化身たる山、富士よ
雪よ、海よ、"桜"よ
寺社よ、"祭り"よ、そして米を愛する心よ
そして私の心はこの場所で
二つの幻想に打ち震えるのだ
私は幸せだ
美しき我が祖国へと
高らかに歌う
あなたを思うとき
それは満点の星空に満たされた私の心が
"花火"のように燃え上がるときなのだ
ああ、なんと切ない思い
二つの幻想が、私を日本へと連れてきた


