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ペルーで活躍する日系人音楽家たちの肖像(1)   序章:遥かペルーの大地に生きた日本人たち

2014.03.15

 ペルーはラテンアメリカ第二の日系人居住国であり、ラテンアメリカで最も早く国策として日本人移民が行われた国でもある。そのため、南米大陸で最初に作られた仏教寺院は、移民たちが多く住み、そして亡くなることとなったカニェテに建てられた慈恩寺だ。かのフジモリ大統領が出た国であり、その他にも様々な分野で日系人が活躍した国でもある。中でもペルーの弱小女子バレーを世界トップクラスのチームにまで育て上げた加藤明などは、ペルーではまさに英雄であった。彼の葬儀には5万人のペルー人が弔問に訪れたという。
 1899年、日本を出発した最初の移民船佐倉丸が、約800人の日本人を乗せてペルーはリマのカヤオ港に到着した。その多くはペルー各地の農園で働く労働者としての入植だった。しかし、ペルーでの労働は過酷を極め、結果的に数多くの死者が出、耐え切れず逃亡する者も多く出た。着の身着のまま、追跡者から隠れながらという砂漠の逃避行は、残るも地獄、逃げるも地獄だった彼らの極限状態を象徴しているように思う。中には砂漠だけでなく、アンデスやアマゾンを越えてボリビア、アルゼンチン、ブラジルへと渡っていった強者もいたという。
 こうしてペルーに渡った彼らは、次第に首都のリマへと移住するものが増えていった。多くが路上の散髪屋などから身を起こし、その中からやがて成功者が出始めた。呼び寄せなども増え、1920年代までに2万人以上の移民がペルーへと渡った。一時、リマ市の北に位置する港町カヤオでは、50人に1人は日本人というほどの状況であった。それほどの状況であったにもかかわらず、ペルーで生活していた入植者たちは、一時的な出稼ぎの気持ちでいずれ日本に帰るつもりだった。そのためペルー社会と溶け込もうとせず、彼ら独自の社会を作って生活する傾向が強かった。そのためペルー社会とは多くの摩擦を起こしてしまうことになった。そしてそれは、ペルー国民の政治不満へのスケープゴートとして排日運動が利用されることにつながった。さらに次第にその排日排斥運動は年々加熱していった。日本人である、というだけで店が襲われたり、実力があるスポーツ選手でも試合に出してもらえなかったりと日本人に対する差別は非常に苛烈であったという。
 第二次世界大戦が始まると、連合国側であるペルーは日本人の財産を没収し、移民の多くはアメリカの収容所へと強制的に送られた。賄賂を贈ったり名前を変えるなどさまざまな方法でなんとかペルーに残った者に加えて、戦後、幾多の苦労を経て再びペルーに戻ってきた移民たちも、ペルーの大地で生きていくために、敗戦後はペルーへと歩み寄る生活へと徐々にスタイルを変えていったとも言われる。

 こんな波乱万丈の日本人移民たちの中からも多くの有名音楽家が生まれている。日本では殆ど知られていないことだが、中にはペルー人なら知らぬ人はいない、というほどのスターも何人も登場している。その中には、日系であることを長らく隠していた者もいれば、公にしたまま人気を獲得したものもいる。ジャンルもアンデス音楽やムシカ・クリオーヤだけでなく、ロックやボレロなど、さまざまな分野にわたっている。前置きが長くなったが、このようなペルーで活躍した日系人音楽家たちをこれから何回かに分けて紹介していきたいと思う。

参考文献
太田宏人『110年のアルバム:日本人ペルー移住110周年記念誌』現代資料出版(2009)
太田宏人『知られざる日本人:南北アメリカ大陸編(世界を舞台に活躍した日本人列伝)』オークラ出版(2007)
タグ:ペルー 日系
posted by eLPop at 08:58 | 水口良樹のペルー四方山がたり