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ペルー・アンデス・フュージョンの可能性(1)

2014.03.02

 最近、ペルーのアンデス音楽は徐々に新たなステージを切り開きつつあるように感じられる。ボリビアなどのいわゆる「ネオ・フォルクローレ」とは違う路線でペルー的アンデス音楽、というものがいよいよ離陸しようとしているのではあるまいか。まあ、私の勘違いである可能性も多分にあるのであるが・・・。そもそも、それではアンデス的音楽文化が、ペルーの都市化に伴いどのように現代を生きる音楽として革新していったのか、そのフュージョン化の歴史を駆け足ではあるが、3回ほどに分けてご紹介したいと思う。
  ペルーは、アンデス諸国の中でもっとも知名度が高く、インカ帝国の首都を要する中心地として、インカ・イメージを担う存在である。20世紀前半期までのペルーは、アンデス音楽の分野においてもその存在感をしっかりと示していた。しかし1960年代以降、その影響力は下降線を辿っており、対外的にはアンデス音楽のイメージをボリビアの「ネオ・フォルクローレ」に独占されてしまった。また国内においては、アンデス音楽市場は盛り上がりながらも、閉鎖的で内旋的な傾向をなかなか脱することができなかった。それでも、ペルーで花開いた多様なアンデス民衆音楽は多くのファンを獲得し、ネオ・フォルクローレのような華やかさや知名度はなくとも、その黄金時代であった50年代から80年代の都市において洗練された音楽文化を生み出し、「故郷の歌」として多くの人びとの心を映してきた。

 しかし、このようなワイノに代表されるアンデス民衆音楽にも、都市化や近代化が進行する中で次第に若者離れが進んでいることは否めない。そしてその間隙を埋めるかのように人気を集めた新たなアンデス都市音楽の一つが、ボリビア・スタイルのいわゆる「ネオ・フォルクローレ」であった。またそこで使われているボリビア・スタイルのチャランゴやサンポーニャ、ボンボなどの楽器は、ペルーのアンデス民衆音楽世界に大きなインパクトをもたらした(ペルーではこの音楽は「ラテンアメリカ音楽」と呼ばれた)。特にペルー・スタイルのチャランゴはそのあおりをくらってかなり奏者が減ってしまい、都市の若者たちの多くがネオ・フォルクローレの楽器編成でペルーの曲を演奏することが流行した。

 そうした若者の「伝統的な」ペルー・アンデス音楽離れは、同時に若者たちによる、若者たちのためのペルー的アンデス音楽の新たな形を模索させることとなった。ペルーにおいては、それはクンビアやロック、レゲエなどとの融合から始まったと言ってもいいだろう。
 
 そのもっとも代表格はなんといっても「チチャ」と呼ばれるクンビア・アンディーナだ。この音楽は、70年代末に社会現象となってペルー社会にクンビア旋風を巻き起こす先陣となった。チチャとは、ロックとクンビアを中心とするカリブ音楽に、彼ら自身のルーツ・ミュージックであるワイノを融合させた音楽だ。そしてチチャは、アンデスを飛び出し、沿岸部に位置する首都リマで生きていくことを決めたアンデス移民の若者たちの心を掴み、路上を占拠して自分たちの未来を模索していた彼ら自身の音楽として熱狂的に支持された。

 その先駆けとなった歌手がチャカロンであり、ロス・シャピスであった。78年にチャカロンが結成したラ・ヌエバ・クレマは、ペルーのクンビアをアンデスの息吹きに満ちたチチャへと転換した、まさにそのもっとも重要なバンドであり、「チャカロンが歌うと山が降りてくる」と言わしめるほど、アンデス住民から圧倒的な人気を誇ったバンドであった。

 また、81年にはチャカロンとともにチチャの黄金期を築いたロス・シャピスが結成され、いよいよチチャ熱はフィーバーしていった。ちなみにシャピスは結成当初からこの異色のコスチュームで活動しており、今なおそのスタイルが変わっていないのがすごい。


 ちなみにペルー・クンビアの父と言われるロス・デステージョスのエンリケ・デルガードは、そのもっとも初期の60年代から70年代にかけての段階で、アンデスからアマゾンまでの音楽要素をロックやクンビアと融合させたフュージョン音楽に発展させていたことは特筆に値する。これは、彼がワイノやクリオーヤ音楽のプロ・ギタリストとして活動してきた音楽的背景が可能ならしめたものであるとは思うが、彼のその大きな一歩が、その後のチチャの飛躍、そしてクンビア・セルバティカやテクノクンビア、クンビア・ノルテーニャなどへの展開を後押ししたのは間違いないだろう。
posted by eLPop at 02:22 | 水口良樹のペルー四方山がたり