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『特集:私はいかにしてラテンにハマったのか?高橋政資の場合』

2014.02.14

「ピアノでこんな弾き方って?!」ラテン認知度がまだ低かった私にとって、とにかく衝撃的だったのを今でもはっきり覚えている。1972年公開、サルサ揺籃期を捉えた名作映画『アワ・ラテン・シング』のなかの、アルバムにもなっているニューヨークのクラブ、チーターでのライヴのなかの1シーン、チェオ・フェリシアーノの大ヒット曲「アナカオーナ」のピアノ・ソロ。そのラリー・ハーロウによるソロ演奏に衝撃を受けたのだった。しかもその映像を見たのは、なんと当時(1974~75年?)の自宅のテレビの画面でだった。

 同世代の男子なら『11PM』と聞いて、胸をキュンとさせない方はおられないのではないだろうか。大橋巨泉、キンキン(愛川欽也)、藤本義一らが司会を務めた、月曜日から金曜日の深夜11頃からはじまる“大人のためのエンターテイメント”番組。当時の大人が、“子供に見せたくない番組”の筆頭だったが、「ダバダバダバダバ〜」というオープニングのスキャットが始まると、子供心にワクワクしたものだった。お色気もふんだんに盛り込まれていたが、映画や音楽などの文化もしっかり紹介されていた。
その番組の中で、たぶん「今ニューヨークでは、ラテン系が無視できない存在になりつつある」というような情報を象徴するものとして『アワ・ラテン・シング』が紹介されていたように思う。


 当時の私は、とにかく人と違うものを聞きたいと思っていた“イヤミ”な中学生で、周りがビートルズ、ディープ・パープル、レッド・ツェッペリンと騒いでいたときに、兄やその友人の影響もあり、サザン・ロックだの、ザ・バンドだの、ライ・クーダーだの、ブルースだの、S.S.W.だの、レゲエだのを聞いていた。普通の中学生から見ればいわゆる“変わった音楽”は聞き慣れていたつもりだったのだが、そのラリー・ハーロウのピアノ・ソロは、それまでに聞いたことのない形態での演奏であり、その音楽もこれまでの音楽体験では味わったことのない不思議なものに感じられたのだった。ピアノの演奏といえば、リズムはせいぜいベースとなるものを弾くぐらいでやはりメロディ楽器というイメージだったが、その演奏では完全にリズム楽器としてピアノが弾かれていたのが衝撃的だった。その上でハーモニーやメロディを変化させていく。そして、この“サルサ”というラテン音楽のリズムとメロディの絡み方が、それまで聞いてきた音楽のどれにも当てはまらず、とにかく新鮮に感じられたのだった

 
この未知の音楽との出会いから、この音楽を深く聞いてみたいと思ったものの、当時住んでいた地元名古屋では、容易にレコードを入手することもが出来ないのと、やはり、ロックやブルース、ソウルなどのレコードを優先してしまい、なかなかサルサのレコードを購入するには至らなかった。そして、1〜2年後の夏休みで上京した折りに、やっとファニア・オール・スターズのアルバムを入手する機会に恵まれたのだった。ただ、その時に購入したアルバムがいけなかった! 
1977年に発売された『Rhythm Machine(リズム・マシーン)』だったのだが、このアルバムは当時のクロス・オーヴァー(フュージョンを当時こう呼んでいた)・ブームを反映して、エグゼクティヴ・プロデューサーにボブ・ジェームスを迎え、彼自身やエリック・ゲールのプレイもフィーチャーされた、ファニア・オール・スターズとしては、異色の作品だったのだ。当時の評価も賛否両論入り乱れていたように思う。今聞くと新鮮に感じられるが、チーターでの「アナカオーナ」をイメージしていた若造にとっては、やはりミス・チョイスだったのだ。その後、しばらくサルサのレコード入手は見送ってしまった。トリオやキングといった国内のレコード会社から、河村要助さんや中村とうようさんの尽力によりサルサのアルバムが国内盤発売されるようになり、名古屋の駅ビルのレコード屋でも入手が出来るような状況になっていたのに! しかし、しばらくして『Live at the Cheetah, Vol. 1(ライヴ・アット・ザ・チーター、Vol.1)』を無事入手、その世界をたっぷり味わうことが出来た。

 

 高校〜大学時代は、未知の音楽への興味=>欲求がますます増していき、ミュージック・マガジンや中南米音楽(のちに、現ラティーナ)といった雑誌の影響もあり、アフリカ音楽やハワイアン、ブラジル音楽やアジアの音楽、U.S.A.のルーツ・ミュージックと、広範囲に音楽を聞くようになっていた。そのため、サルサをはじめとした中南米〜カリブ音楽もそれらの中のワン・オブ・ゼンで、それらの深層へ向かうような聞き方はしていなかった。ただ幸運なことに、大学で上京した直後に、ブラジルやキューバン系のパーカッションの演奏を指導してくれる方と知り合い、演奏面からもリズムの面白さを体感〜実感することは出来ていたように思う。


 
1982年には初めてのワールド・ミュージックの音楽とダンスのフェスティヴァルであるWOMAD(ウォーマッド)が開催され、時代はワールド・ミュージック・ブームへと進んでいき、ますます世界中の音楽を気楽に聞ける環境が整っていった。そのため、私の音楽の興味はより拡散していってしまったのだった。そんな中、ワールド・ミュージック・ブームに乗って、1985年キューバの“今の音”を紹介するシリーズ《モダン・キューバン・ミュージック・コレクション》がビクター音楽産業から発売されたのである。竹村淳さんと中村とうようさんが監修し、シエラ・マエストラ、ロス・バン・バン、アダルベルト・アルバレス・イ・ソン・カトルセ、イラケレ、そしてコンフント・ルンババーナといったキューバのイキの良いバンドばかりがラインナップだった。中でも、コンフント・ルンババーナのアルバム『黒い涙』は、その多彩であるが男気のあるグルーヴ感にヤラレてしまい、一気にキューバ音楽への興味が増大していったのだった。

 1987年には待望のカリブへ旅行をすることができ、キューバ、プエルトリコ、トリニダード・トバゴ、マイアミを回ったのであるが、現地、特にキューバでの音楽体験は決定的で、その後キューバを中心としたラテン音楽にめり込んでいくことになっていったのだった。そのあたりの経緯は、今後追々お話ししていけたらと思う。


タグ:キューバ
posted by eLPop at 01:26 | Calle eLPop