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『特集:私はいかにしてラテンにハマったのか?石橋純の場合』

2014.02.14

私の父(1930年生まれ)は、ギターを弾く人で、時の流行歌やUSカレッジ・フォークなどを弾き語り、たまにクラシックも爪弾いていたが、十八番は古賀メロディだった。

 思えば古賀政男は日本におけるラテン系音楽の創始者みたいな人だ。南欧起源の文化である大学マンドリン・オーケストラ(スペイン語でいうとestudiantina)に身を置き、民謡・都市大衆音楽・クラシック音楽の境界領域にある西欧近代音楽のスタイルを吸収し、ギターとマンドリンが奏でるラテン趣味を日本的叙情歌謡と融合させた――それが古賀の仕事の一側面といえる。

「影を慕いて」「悲しい酒」などは日本流バルス・クリオージョと呼べなくもない。弟子筋には、アントニオ古賀や鶴岡雅義など、「ラテン畑」の音楽家として日本ポピュラー音楽史に貢献した人びともいる。

 父の愛聴したアルゼンチン・タンゴとボレロ・ランチェロが、洋楽レコードに触れた私が最初の記憶だ。東芝エンジェルOW-1052『ピリンチョ対フィルポ競演集』というタンゴの10吋盤が、私が最初にハマッたラテンの音源。高山正彦氏の美文調ライナーが「音楽評論」との出会いということになる。ヘンな小学生だ。

 父の趣味を離れてラテン音楽にふたたび出会ったのは1974年、小学6年のときだ。創業まもないこの頃のFM放送には、高音質ステレオ放送を訴求する意図で、ライブ・コンサートを1時間くらいの枠で流す企画が頻繁に組まれえていた。FM東京だったろうか、偶然ダイヤルを合わせたその手の番組に出演していたのが、アンデス・フォルクローレの楽団《ロス・チャコス》。その熱気あふれる演奏に衝撃を受けた(いま思えば演者は全員フランス人!)。すでに心惹かれていたサイモンとガーファンクルの「コンドルは飛んで行く」と、おなじ種類の音楽だと直感。この年、加藤登紀子と長谷川きよしが「灰色の瞳」をヒットさせ、その作曲者でケーナ奏者のアルゼンチン人、ウニャ・ラモスも来日。訛りのある日本語で哀愁のバラードを歌っていたお姉さん、グラシエラ・スサーナもアルゼンチン出身と知り、私の南米熱は高まっていった。近所のレコード屋の店先で目に留まった月刊誌『中南米音楽』を(小学生の小遣いでは買えないので)立ち読みしはじめた。

 中学に入ると、音楽教科書のリコーダー練習曲に「コンドルは飛んで行く」を発見。これを友人と合奏したくてギターを始める。すぐにスペイン音楽にも目覚め、英語もおぼつかないのにテレビ講座でスペイン語をかじった(マリキータ&ジローが毎回演奏していた。NHK教育テレビはまだモノクロ放送)。当時もっとも影響を受けた文筆家は濱田滋郎・高場将美の両巨頭。愛聴ラジオ番組は谷川越二「ラテンタイム」、小泉文夫「世界の民族音楽」、皆川達男「バロック音楽の楽しみ」。好きな作家はヘミングウェイ。高校に入学するまでには、大学受験は東京外大スペイン語学科を第一志望と決めていた。

 バイト代を得て、来日音楽家のコンサートにはじめて足を運ぶのは1978年、高校2年の夏、中野サンプラザホール。キャストはセステート・マジョール。のちにバンドネオンの大巨匠と呼ばれるホセ・リベルテーラが、創立5年目の楽団を率いて気鋭の演奏を披露したはずなのだが1950年代のタンゴばかり聴いていた私は、いきなり最先端の自由でアグレッシヴなリズムとジャジーな和声のタンゴに直面し、正直まったく楽しめなかった。なんとも、もったいないはなしだ。

 大学は志望校に合格、本格的にスペイン語を学びはじめたが、ここで突如ナショナリズムに目覚める。杵屋流長唄三味線と宝生流謡曲に入門、以来20代をつうじて日本伝統音楽にどっぷりと漬かる。リスナーとしては、サルサ(ウィリー・ロサリオ)、現代キューバ(アダベルト・アルバレスとソン14)、MPB(ガル・コスタ)、現代フラメンコ(カマロン&パコ・デ・ルシア)、リンガラ(ヴィヴァラムジカ)などに聴野を拡げる。『ミュージック・マガジン』も欠かさず読み、中村とうようのレコード寄席にも足を運んだ。大学4年でスペイン・ポルトガル、卒業旅行では南米南部6ヵ国を初訪問。

 1985年「メイド・イン・ジャパン」全盛時代の家電メーカーに就職。コロンビア・ペルーの担当者として24歳で初出張。ボゴタではエレショーのコンパニオンたちと朝までフィエスタを初体験。バジェナートに目覚める。ペルーでは、胎動期のチチャ (テクノクンビア)
とアフロペルー音楽に出会う。当時日本ではほとんど聴く人のいなかったこれらの音楽の現場に触れ、ぜひその体験を多くの人に伝えたいと思ったことが、私の文筆活動の端緒だ。

 翌1987年、念願かなって南米に駐在。担当地域のコロンビア・ペルーではなく、出世コースのパナマでもなく、音楽情報の「白地図国」ベネズエラだった。が、住んでみると、ベネズエラ音楽は、ラウロ、ホローポ、オスカル・デ・レオンにとどまらず、ガイタあり、アフロベネズエラ音楽あり、都市弦楽あり、アーバンポップありで、休日のほとんどを音楽体験に費やすことになる。その現地報告を月刊『ラティーナ』に寄稿しはじめ、日本・ラ米で音楽仲間たち(eLPop連中も含む)と出会い……1996年に帰任するも、翌年会社を辞め……。

 いつのまにやら18年が経ち、気がつけば、こんな怪しげなサイトに投稿している自分がいた。


posted by eLPop at 01:19 | Calle eLPop