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『特集:私はいかにしてラテンにハマったのか?岡本郁生の場合』

2014.02.14

いちばん最初にハマったのは舟木一夫の「高校三年生」。それとも「スーダラ節」だったろうか。


 いずれにしても幼稚園のころである。

 幼稚園のスクールバスではみんなを先導して「高校三年生」を歌っていたらしい。自分では覚えがない。母親が先生から、やめさせるように言われたとか。



 年末に祖父の家に行ったとき、伯父が餅つきをしている周りをスースースダララッタ〜と歌い踊り、伯父が笑い転げて餅つきにならなかったことは覚えている。


 小学生時代も引き続き、歌謡曲にどっぷり。岩手の小学生にとって洋楽なんてものは、まさに海の向こうの想像もつかないモノだった。兄や姉がいたならまた違っていたのかもしれないが。ときは、橋幸夫・舟木一夫・西郷輝彦の御三家や小川知子、伊藤ゆかり、ピーナッツなんかの全盛期である。


 やがてグループサウンズの大ブーム。クラスの女子がキャーキャーいってたタイガースではなく、ショーケンのテンプターズに惹かれたのは、その後のひねくれ者人生を象徴しているのかもしれない。


 中1のときレコード大賞をとった尾崎紀世彦にはほんとうにシビレたが、その直後、たしか中13学期、1月ごろ寒い時期だったのだが、学校から帰ったら、テレビで吉田拓郎が「結婚しようよ」を歌っていたのだ。これを見て、まさに雷に打たれ、金縛りにあったように物凄い衝撃を受けた。そこから一気にフォークへ走った。


 
だが考えてみれば、その前から、森山良子、加藤登紀子、マイク真木などがヒットを飛ばしていた。それとは知らずにフォークを聞いていたのである。フォークルの曲もヒットしたし、ジローズの「戦争を知らない子供たち」を聞いて、なんだか知らないけど胸が熱くなったりもしていた。70年安保、全学連、連合赤軍の時代だ。ちなみに、デモの写真を見るといつも、完璧な装備に身を固めた機動隊が、粗末な角材や火炎ビンを手にした学生たちをやっつけていた。警官嫌いはこのときから始まったのかもしれない。


 雑誌「GUTS」や「ヤング・フォーク」を買ってさまざまな記事をむさぼるように読み、ギター譜を見ては必死で練習していた。泉谷しげる、六文銭、かぐや姫、あがた森魚、古井戸など、いろんなフォーク歌手が出てきて注目を集めるようになっていた。それと同時にビートルズを聞くようになり、それをきっかけとして、ローリング・ストーンズ、シカゴ、BS&T、サイモン&ガーファンクル、イエス、クリーム、ニール・ヤングなどなど、イギリスやアメリカの音楽への興味もどんどん広がっていたのだ。


 あ、そういえば当時NHKでは「ステージ101」という、若者たちが中心となったスタジオ・ショウ(?)番組があって、そこではいろんな洋楽のカバーを歌い踊っていたし、AMの番組でもオールマン・ブラザーズなんかがガンガンかかっていた。考えてみればミッシェル・ポルナレフ、ジリオラ・チンクエッティとか、フランスやイタリアの音楽もたくさんかかっていたっけ。


 そんなこんなで高校へ行くと千葉県の進学校だったこれがまた、ひねくれ者の巣窟のような学校でと思っていたのは自分だけかもしれないが、当時まだ植草甚一が編集に関わっていた「宝島」とか「ニュー・ミュージック・マガジン」とか、そういったコムズカしい雑誌をみんな読んでいた。それにモロに影響されて、私もその世界へ入っていったのである。世間的にはイーグルスやドゥービー・ブラザーズ、ウエスト・コースト・ロックが大ブームで、もちろんそれも大好きだったのだが。


 そんな中で出逢ったのが、サルサという音楽だった。「ニュー・ミュージック・マガジン」が積極的にプッシュし、中村とうようさん、藤田正さんの記事も良かったのだが、中でもイラストレーターの河村要助さんの記事にグイグイと引き込まれた。彼はちょうどニッカの「黒の50」のカッコいいコマーシャルで売り出し中で、その、どこか無国籍でドライな作風とそれに通ずる文章の魅力。河村さんの記事には、聞いたことがなくても聞いた気になるというか、絶対に聞いてみたい!と思わせるような不思議な力がこもっていたのだ。

そして1976年、ファニア・オール・スターズが来日。この年、たしか、イーグルスとニール・ヤングも来日公演を行ったのだが、悲しいかな、高校三年生(舟木一夫ではない!)、ちょうど大学受験勉強中だった私は、どれにも行くことができなかった。その後、一浪して大学に入学すると、そのときの恨みを晴らすべく(ウソ)、モダンジャズ研究会に入ってウッドベースを始めるのだが、やがてラテンの世界へとズリズリと引き込まれていくのである。


 なぜラテンの世界なのか? 屁理屈をいえばいろんな言葉は出てくるのだが、やはり究極的にはどこかにグッときた、というしかないだろう。


 実は、ギターを始めてすぐの中学2年ぐらいのとき、ものすごく印象的なことがあった。


 おそらく1972年の夏休み、母の実家に帰っていたとき読んだ、たしか雑誌「ヤング・フォーク」だったと思うが、河村要助さんの記事が掲載されていたのだ(そのときには当然、河村さんという認識はない)。内容は、ウィリー・コローンとエクトル・ラボーのニュー・アルバムについてのことで、そのイラストまでハッキリと覚えている。だが、そのとき私はコローンエクトルという名前に拒否反応を示し、なぜだか、こういう人たちとは絶対に一生お付き合いしたくない!と強く思ったのだ。ロックを聞くようになり、ジョンとかジョージとかジミーとかに少し親近感を抱くようになっていただけに、ラテンの名前に違和感を覚えたのかもしれない。さらにどういうわけか、スペイン的なものには、血の匂いを感じていたのだ。その直前に何かの本でも読んだのだろうか? 思い出せない。


 しかし、イヤだイヤだも好きのうちというわけではないが、それほどクッキリと覚えているということは、そのとき、自分の中にある何かラテン的なものが目覚めさせられたのかもしれない、といまになって思う。

河村さんの文章とイラストが、中学生の私の中の何かをいたく刺激した。そのことだけは間違いなさそうだ。

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