レジーナ・カーターに続いて、アルトゥーロ・オファリル(Arturo O’Farrill)のインタビューをお送りします。
アルトゥーロ・オファリルは、1960年、メキシコ生まれのピアニスト/コンポーザー/アレンジャー/バンド・リーダー。
父親はアイルランド系キューバ人で1940年代後半からニューヨークを拠点にアレンジャー/バンド・リーダーとして活躍したチコ・オファリル、母親はメキシコ人歌手のルぺ・バレロで、5歳の時にニューヨークへ移住。19歳の時にカーラ・ブレイのバンドに参加し、その後、ディジー・ガレスピー、ハリー・ベラフォンテ、スティーヴ・トゥーレ、レスター・ボウィといったジャズ・アーティストたちと共演したあと、90年代以降、徐々にラテン・フィールドに足を踏み入れ、2002年以降、アフロ・ラテン・ジャズ・オール・スターズを率いて活躍。これまでにグラミー賞を6度、ラテン・グラミー賞を2度、受賞している。
グラミー賞<Best Latin Jazz Album>受賞作『Song For Chico』(2008年)
今回は、初日の南青山MANDALAと2日目の赤坂・B-flatのみの出演となった。
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――日本に来たのは何回目ですか?
もう、何度も何度も。1980年代にカーラ・ブレイと来て、それからハリー・ベラフォンテとも何度か。その後、自分のバンド、アフロ・ラテン・ジャズ・オーケストラで来て、東京、大阪、京都、広島で演奏した。日本は本当に素晴らしい国。ここにいるのが大好きだよ。
――最後に来たのはいつでしょう?
最後に来たのは……少なくとも10年前かな。
――10年前ですか。もっと頻繁に来てくださいよ。
そうだね、来なくちゃね。一番素敵な思い出の一つは、前回、来た時のこと。明治神宮にお参りに行って、そこにいることでとても心が満たされた。今、アメリカは大変な時期を迎えている。本当に、本当に厳しい状況だ。昨日も、明治神宮に行って、涙が止まらなかったよ。
――そうなんですね。
でも、息子(トランぺッターのアダム・オファリル)は(日本に)よく来てるよ。(上原)ひろみと一緒にやってるから。彼は2週間後にも来る予定だ(笑)。
――じゃ、息子さんの方があなたより日本をよく知っているかな。
私より彼らの方がよく知ってるだろうね。ラーメン屋を教えてくれるんだ(笑)。美味しいラーメンが食べられる場所を教えてくれる。でも、まずいラーメンなんてないでしょ?
――それはどうかな〜。ところで、あなた自身は日本についてどんな印象をお持ちですか? 初めて来た時と比べて大きく変わりました?
日本については……日本が以前と変わったのかどうか、私にはよく分からないな。世界は劇的に変わったように感じるけど、日本は平和の精神を保ち続けていると思うね。つまり、坂本龍一の音楽やアニメ、そして、それが日本の文化だとは知らずに日本の文化の中で育った、という美しい現実が、私の人生の一部として永遠に刻まれている。だから私にとって、日本は宝物なんだ。そして……もしかしたら間違っているかもしれないが……世界は混沌として炎に包まれているけど、日本には安定と平和の精神がある。ここに来て、ようやく息ができるようになった気がするんだ。
――なるほど。
きっと変わったんだろうね。あなたの視点から見れば、きっと大きく変わったんでしょう。でも、私はいつも、地下鉄に乗って街を探索するのが大好きなんだ。日本で迷子になるのが、東京で迷子になるのが大好きだ。
――え、迷子になるのが?
だって、私は日本語が話せないから、姿を消すことができる。誰でもなく、匿名でいられて、それが大好きだ。それが私の心を満たしてくれる。ただ「人間」という存在に属しているだけで、心が満たされるんだ。
――今回のバンドについて教えていただけますか? どういう経緯でこのバンドに入ったんでしょう?
私はUCLAで5年間教授をしていた。とても貴重な経験だった。でも、20年近く前に(自分で)アフロ・ラテン・ジャズ・オーケストラという楽団を創設したので、UCLAを辞めざるを得なかった。
それから私たちは、世界中で教育活動や公演、レコーディングを行ってきた。そして、活動はどんどん拡大して、ついにはハーレムに文化スペースを建設するよう依頼されるまでになったんだ。
――そうなんですね。
それで、この神聖な場所のために資金を集めなければならなかったので、UCLAを辞めざるを得なかった。ハーレムとはいえ、ここはハーレムの中でも華やかな場所ではないし、成功を夢見る人たちの集まる場所でもない。ここは、本当に勤勉な家族が暮らすハーレムの一角だ。イースト・ハーレムの真ん中に文化センターを建設することができた。「カサ・ビロンゴ(Casa Belongó)」という名前だ。
――「カサ・ビロンゴ」ですか。
そう。「カサ・ビロンゴ」。ザンバリ・テラスという、とても手頃な価格の住宅の建物の中にある。私にとって、「コミュニティこそが私たちにとって最も大切なもの」という、私の社会的・政治的な信念をすべて満たしてくれる場所なんだ。コンサートや教室、コミュニティ活動の場となる場があるだけでなく、「チコズ・コーナー」という小さなジャズ・クラブも作る予定だ。
それで、UCLAを辞めざるを得なかったのだが、スティーブ(・ロサ)はUCLAで私の学科長を務めていて、私が大好きなUCLAのアンサンブルに誘ってくれたんだ。このアンサンブルのメンバー全員が大好きだ。(サックスの)サリム(・ワシントン)とは長年の付き合いだし、レジーナ(・カーター)とも知り合いで、メキシコで一緒にドキュメンタリーを制作したこともある。まるで昔からの家族みたいだ。それで(今回)招待されたんだ。
――「カサ・ビロンゴ」での(会見の)映像を見ましたよ。
ああ、見たんだね!
――マムダニ市長が出席していて……
マンボを書いたんだ…「マムダニ市長のビロンゴ・マンボ」という曲を。
――それ、最高ですね!
本当に面白い。彼は本当にいい人なんだ。
――もうリリースされたんですか?
いや、次のレコーディングで録音する予定で……彼に演奏してもらおうと画策中なんだ。彼の事務所に手紙を書いて、「クラベスを演奏していただけませんか?」って頼んだんだ。マムダニ市長が「マムダニ・マンボ」でクラベスを演奏してくれたら、最高だよね。
――「ビロンゴ」ってどういう意味なんですか?
ビロンゴはアフロ・ヨルバ語由来の言葉だ。呪文という意味で、キューバではとてもよく知られた言葉なんだ。ビロンゴは、誰かにかける、あるいは誰かからかけられる愛の呪文だ。でも私にとって、ビロンゴという言葉で重要なのは「属する(belong)」という部分なんだ。
――「属する」なんですね。
なぜなら、私は芸術が「上」にあるものだとは思っていないから。そう、芸術はすでに人々のものだと信じている。芸術はすでに……そして、人々は互いに結びついている。だから、「結びつき」という概念は私にとってとても重要なんだ。音楽を、コミュニティの誰もが使える言語にすべきだと感じている。つまり、私にとって、誰もがその一部なんだ。だからこそ、それがとても重要だったんだ。
――「ビロンゴ(Bilongo)」という有名な歌がありますよね?
そのとおり。キューバに歌がある。「ビロンゴ」っていう、僕たちが何年も何年も演奏してきたキューバの曲がある。ギジェルモ・ファイフのとても有名な曲で、歌詞は♪キキリブ・マンディンガ(Kikiribú, mandinga)、キキリブ・マンディンガ……。ある女性が男性に魔法をかけ、彼に恋をして、二人は恋に落ちるという内容だ。でも私にとって、「属する(belong)」というのが美しい考え方なんだ。
――ところで、あなたはメキシコ生まれですよね?
メキシコシティで生まれた。1960年。
――そして5歳の時にニューヨークに戻ったんですね?
私が5歳の時、両親はニューヨークに引っ越した。そして私はニューヨークのマンハッタンで育った。
ここで、筆者は思わず「5歳の時にニューヨークに戻ったんですね?」と質問したのだが、考えてみれば彼自身はメキシコ生まれであり、オフィシャルサイトのバイオにも、まずは「メキシコ系アメリカ人のコンポーザー/ピアニスト/バンド・リーダー」とある。「ニューヨークに戻った」というのは、彼にとっては適切ではなかっただろう。
さらに、メキシコ系という意識が強くあることが、あとで出てくる「ファンダンゴ・アット・ザ・ウォール」に強く影響しているようにも思われる。
――あなたのお父様はとても有名な編曲家であり、バンド・リーダーでしたよね。
チコ・オファリルの代表作、アレンジを手がけたマチート『アフロ・キューバン・ジャズ・スイート』
チコ・オファリル『セカンド・アフロ・キューバン・ジャズ』
父はとても有名な作曲家、編曲家、バンド・リーダーだった。そして、私も父のような存在になることが期待されて、幼い頃から音楽学校に通わされた。そして、残念ながら少し才能があったので、バッハやベートーヴェン、モーツァルトを学んだ。でも、正直言って、それが嫌だった。だってそれは父の領域だったし、そうするべきだと言われていたから。でも、12歳の時にマイルス・デイヴィスに出会った。そして何より、ハービー・ハンコックに出会ったんだ。ハービー・ハンコックを聴いた時、脳内で光が炸裂したような感覚だった。「これこそが、私が幸せになるためにやるべきことだ」と思った。こうして、12歳の時に、ジャズ・ミュージシャンになることを決意したんだ。
――ピアノを始めたのはいつですか?
6歳の時に始めた。そう、6歳だったな。
――お父様はマチートはもちろん、ティト・プエンテなどとも親交があったんですよね。
そう、父はね。
――あなた自身は?
私は、彼らが有名なミュージシャンだとは知らなかったんだ。ただ、とても面白い人たちだと思ってただけ。夜遅くまでお酒を飲んだり、ジャズ・シガレット(大麻?)を吸ったりしていた。自分の子供時代がどれほど素晴らしいものだったか、当時は気づいていなかった。ただ、それが本当に特別なものだということは分かっていたけどね。母も父も、普通の人たちじゃなかった。彼らは、美しくもクレイジーな人生を送っていて、それが今となってはすごく懐かしいんだ。だって、育っている当時は、それがどれほど特別なことか分からなかったから。でも今はその価値が分かる。
ディジー・ガレスピーに会ったことも覚えているし、あ、そうそう、カウント・ベイシーにも会ったんだ。カウント・ベイシーはよく僕を笑わせてくれた。妹と僕を見て、変な顔をしてくるんだ。妹と私は「えっ? なんで変な顔してるの?」って顔を見合わせたんだけど。彼は本当に素敵な人だった。父はカウント・ベイシーと10枚のレコードを一緒に作った。だから、二人にはとても特別な関係があったんだ。
――「12歳の時にジャズ・ミュージシャンになりたかった」とおっしゃっていましたが、どんな勉強をしたんですか?
私が子供の頃は、ジャズの専門学校なんてなかったから、ジャズを習いたければ、ジャズ・クラブに行くしかなかった。そして、ベテランのジャズ・ミュージシャンたちと交流し、教えてほしいと頼み込むしかなかった。だから、高校の卒業証書は持ってない。私の高校卒業証書は、“スタジオ・ウィー”でジャズを学んだことなんだ。ベテランのジャズ・ミュージシャンたちから学んだよ。最終的には卒業証書も手に入れたけど、本当に特別な時代だった。
今ではもちろん、バークリー音楽大学やUCLAなどの大学に行けば誰でもジャズの学位が取れる。でも当時は、この音楽を学びたければ、巨匠たちのところへ行って、「お願い、お願いだから、そのコードを教えて。あなたがやったことを教えて」とお願いするしかなかった。彼らは「ダメだ」と言う。私は「お願い、お願い、教えてください」と懇願する。それでも彼らはまた「ダメだ」と言う。私は「お願い、お願い、教えてください」と繰り返す。すると彼らは「ダメだ、ビールを持ってこい」と言うんだ。そして、十分なビールを差し出せば、彼らは「よし、こっちへ来い、坊主」と言って、自分たちがどうやったかを教えてくれた。
それは本当に特別なことだった。なぜなら、それを強く望まなければならなかったからだ。そして、本当に、本当にそれを手に入れるために戦わなければならなかった。そうして初めて、それは自分のものになるんだ。今は違う。今の学生たちは、情報を手に入れるのが以前より簡単かもしれない。それでも、彼らにはそれを「欲しい」という気持ちがなければならない。やはり、それを自分のものにするためには、心からそれを欲しがらなければならないんだ。
――ジャズ・クラブでの先生……というか、“先生のような存在”って、誰だったんですか?
セニリア・スミスという素晴らしいピアニストがいて、ジミー・ヴァス(Jimmy Vass)も、クラレンス・シャープも、そしてもちろん、トランペットのジェームズ・デュボワもいたね。
そして、私には仲間もいた。とても幸運だったのは、一緒に遊んでいた仲間がいて、19歳の時、ニューヨークの田舎で演奏していたら、カーラ・ブレイが私の演奏を聴いてくれたんだ。私は幸運にも……当時はカーラ・ブレイが誰なのか知らなかったんだけど……その数日後に電話がかかってきて、彼女のパートナーであるマイケル・マントラーから、カーラ・ブレイのバンドに入らないかと誘われたんだ。そうして、田舎でビール代を稼ぐために演奏していた私が、ベルリン・ジャズ・フェスティバルで、チック・コリアやスティーヴ・スワロウといった巨匠たちと並んで演奏するようになったというわけだ。本当に、あれは私の人生の中で最も素晴らしい学びだった。
彼女は、勇気を持って恐れずに、自分の耳と心に従い、最善を尽くすことを教えてくれた。なぜなら、カーラは本当に恐れを知らなかったから。私は、カーラのおかげで、人生で素晴らしい瞬間を経験した。私は彼女をインスピレーションの源だと思っているよ。彼女は私に作曲の翼を与えてくれた。そして彼女の人生の最期に、私は彼女に最後の作品を依頼したんだ。まさに巡り合わせだった。それは言葉では言い表せない、神聖な出来事だった。
――では、子供の頃はジャズから最も影響を受けて、ラテン音楽からはそうでもなかった、ということですか?
そう。ラテン音楽は大嫌いだった。あれは父の音楽だったから。30代になって初めて、偉大なベーシスト、アンディ・ゴンサレスに「僕は君の大ファンだけど、君も自分のルーツを探ってみるべきだよ」と言われた。私は「何のこと?」と聞き返した。「いや、君は自分のルーツを探ってみるべきなんだ」と言って、私を座らせて、ラテン・ジャズの歴史とラテン・ジャズのピアノ演奏について教えてくれた。彼は、エディ・パルミエリ、チャーリー・パルミエリ、リノ・フリアス(ソノラ・マタンセラのピアニスト)、ボラ・デ・ニエベといった偉大なミュージシャンたちを教えてくれた。アンディには本当に感謝している。なぜなら、私のルーツにある人々が、他の誰にも引けを取らないほどジャズの歴史に深く関わっていたことを、彼のおかげで知ることができたからだ。
ジャズはアフロ・ラティーノなんだ。それは、先住民の土地に連れてこられた奴隷たちから生まれた音楽だ。バッド・バニーが(スーパーボウルのハーフタイムショウで)示したように、それは南北アメリカ大陸全体に及ぶ。つまり、同じ人々が、同じ恐ろしい犯罪である奴隷制を押し付けられ、ボリビア、プエルトリコ、ベラクルス、キューバ、ジャマイカ、ニューオーリンズ、セントルイスに連れてこられたということだ。
30代になって初めて、私の祖先がジャズという美しいもの、この素晴らしい世界的な文化の共同創造者だったことを知ったんだ。今でも、キューバ、アフリカ、そして私の音楽に大きな影響を与えたものに対して、大きな誇りを持っている。そう、まさにそれが私そのものだと心から信じているよ。
――なるほど。ジャズ・ピアノとラテン・ピアノは大きく異なるんでしょうか?
そうだね。確かに大きな違いがある。キューバやプエルトリコの山間部や田舎にはピアノがなかったと言えるだろう。だから、多くの音楽で、ピアニストの演奏方法は、ギタリストの演奏方法に似ているんだ。彼らの演奏を聴くと、ギターのようにアルペジオを弾いているように聞こえる。
一方、伝統的なピアノ演奏を聴くと、それはコード中心だ。そしてまた、ラテン音楽のソロのスタイルも非常に異なっていると思うね。よりボーカル的なんだ。山間部や田舎での演奏の伝統に由来しているから、ビバップのような要素はあまりない。人々は叫んだり、大声で歌ったりするんだ。伝統的なジャズにあるようなビバップ風のソロスタイルではない。
しかし、ジャズ、つまり私たちがスウィングと呼ぶものには、緊張と解放があると思う。上がったり下がったりする瞬間がある。考えてみれば、それはまさにクラーベそのものだ。緊張、解放。緊張、解放。つまり、スウィングとなるその要素は、アフリカのリズムをラテン・アメリカ流に解釈した音楽の中に見出される。だから私にとって、ラテン・ジャズはジャズにおける他のどんなジャンルと同じくらい重要なものなんだ。
(後半に続く)


