(さてRMMに見込まれ、デラルスの世界への飛躍が始まります)
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もう、やり取りが・・・それまでのやり取りがもう大変で。
――それまでというのは、ラルフ(・メルカド)と、っていうことですか?
立ち消えにならないように一応リッチー(・ボニージャ)含めてね。・・・リッチー経由なんだけど。
――あー、そうかそうか。ずっとリッチーがマネジメントですか?
エージェントとしてはずっとリッチー。最初にリッチーが「やるなら助けてあげるよ」って言ってくれたから、そっからずっと。信頼できる人だと思う。
前列右から2人目がリッチー・ボニージャ
――リッチーは今でも現役なんですね?
今でもそう、動けないけど今でも。NORAもね。
――セルジオ(・ジョージ)はどうでした? 最初の印象は悪かったと・・・
最初の印象は悪かったです。めちゃくちゃ印象悪かった。
それで、年明け2月ぐらいかな、レコーディングするって言うんで、日本に来たわけですよね、彼が。カート・アッパー(Kurt Upper)っていうエンジニアと2人で来て、譜面を持ってくるわけですよ。「こんな曲やる」って言って。
面白かったのは、譜面を持ってきて、セルジオも僕らの実力がよく分かってないわけ。だから、最初持ってきた譜面がめちゃくちゃ簡単だった。
「そんなん?え?」と思って、ホーンの連中とか「え?こんだけしかないの?」みたいなアレンジで。SALTとかもね。でも、先に自分たちの「(サルサ・)カリエンテ(・デル・ハポン)」とか、自分たちの楽曲のアレンジをレコーディングし始めてたわけです。そういうのを聞いて、だんだんセルジオは「あ、こいつら、こういうレベルじゃないや」って分かって、そっからスタジオとかホテルでどんどん書き直すわけですよ。クオリティがどんどん上がっていって、「これ、違う違う違う・・・」って全部書き直して、どんどん完成形に、一歩ずつ近づいていった。
――それもすごいですね。
安全パイで「このくらいだったらできるだろう」みたいなアレンジを持ってきたんだけど、それが、レコーディングの間にだんだん熟成されていって。
でも、やっぱり向こうの、例えば特にリズムに関しては、向こうの連中がやることとちょっと差異があって。左手の音をもっと聞きたいとか・・・コンガのね、いろんなアンサンブル上の、ここはこうじゃなきゃダメだとかいうことがあったりして、それをいっぱい注入されて、それで、どんどんクオリティが上がっていって、1枚目が完成したわけですね。その間にセルジオとのコンビも良くなってるんで、向こうもこちらの力を認めるようになって。
――日数的にはどのくらいですか?
レコーディング自体は2週間、もうちょっとかかったかな。
――ミックスは向こう?
ミックスもこっちでやった。それを含めると1ヶ月弱くらいかかったんじゃないかな。
――カート・アッパーがやったんですね? やっぱりスタジオでは、まずはリズムのことを言ったり・・・あと何ですか?
あと苦労してたのは・・・NORAが一番苦労してたのはやっぱり歌ですよね。
――そりゃそうですよね・・・
当時はまだ「ソネオ」ができないじゃないですか。ソネオっていうのは、コロカンタのカンタの部分。それを(セルジオが)全部作んなきゃいけない。でもそれがね、後のマーク・アンソニーとかに反映されるんですよ。
つまり、セルジオが最初にNORAとやり始めた時は、NORAがソネオの自由にメロディを作れないから、自分がソネオ作ってそこに歌詞をはめ込んで「こうやって歌いなさい、こうやって歌いなさい」っていうことをやってたじゃないですか。そこでそのノウハウが出来上がっていって、後にマーク・アンソニーとかやる時・・・マーク・アンソニーもソネオできないから・・・その部分を作っちゃうっていうサルサの形態みたいなのを(その時に作り上げた)。
セルジオにとっては、デラルスはセルジオの実験場みたいなところ。次々新しいアイデアをここで試す、という。
マーク・アンソニーとセルジオ・ジョージ
ローカルのニューヨークのサルサバンドだともう決まっちゃってて、こうやる、ってなるから。
デラルスだと、なんかいろんな違うトライアルできるから・・・曲の構成とかも「“ど”サルサ構成」じゃない構成にしちゃうとかね。そういうことをどんどんどんどん、お互いこう、アイディア出し合ってやるようになって。
――そういう意味で、いい関係ができるんですね。すごい面白いですよね、それは。なんか、セルジオにインタビューしてみたいですね〜。
いや、多分そう言ってくれると思うんだ。
――なんか違うものを感じてたはずですよね。NORAさんは「ソロになった時の方が厳しかった」って言ってましたね。「デラルスの時は、バンドがサウンドしてればOKかなみたいな感じだったんじゃないかな」と言ってたんですけど。歌よりもリズムにすごい厳しかった、と。
そう。厳しかった。だからやっぱり、僕らが考えてたサルサのリズムっていうもの、形として考えてたものと、本来あるべきものがちょっと違ったんですよね。
スアベ・・・よく言われました、向こうに行った時も、「ポキト・マス・スアベだ」って。Necesito poquito mas suave・・・ってよく言われましたよ、他の人にも。
我々はこう、エネジェティックにサルサをやっちゃうじゃないですか。わ〜〜〜!って。だけど向こうのバンド・・・ウィリー・ロサリオとかが代表だけど・・・リズムはね、カーペットのように滑らかなんですよ。それが“スアベ”なんですね。“アフェンケ”っていうのを的確にやるっていうことと、そこがドガチャカドガチャカなっちゃダメだ、と。スムースにリズムが進行しなきゃいけない。
ウイリー・ロサリオ
デラルスは、そこをだんだん掴んできて、最終的には非常にスムースなところまで行ったんだけど、やっぱりどうしても、日本でやってるとみんな、ラテン音楽に対するイメージで、エネジェティックなものを追求するんですよね。
でもそれは、ニューヨーク・スタイルとかプエルトリカンとかが作り出したサルサのエレガンスとかというものとはちょっと違うんですね。よく“クラッシー”って言うんだけど、クラッシーな音を要求されるわけですよ。
――“スアベ”と“クラッシー”のところはやっぱりこう・・・もちろん感覚だったり、慣れとかそういうのだと思うんですけど・・・リズム的なところでコンガをこうしろとかっていうところではないんですね?
いや、それもだから、アクセントの方だけ強くなっちゃダメだ、と。つまりこう、(右手の)スラップを一所懸命やろうとするんだけど、そうじゃなくて、こっち側(左手)の音がそれに見合うだけの音量が・・・左手の音量がないと、パー!ドドン!ってなるじゃない。「タタタタ・タタタタ・タタタタ・タタタタ・タタタタ」って、8分音符がイーヴンに。そこにボンゴも「タカタカ・タカタカ」と、(ティンバレスの)パイラもすごいイーヴンにリズムが進行してるんだ・・・ということなんですね。
――ウィリー・ロサリオとおっしゃいましたけど、まさにそういう感じですね。
8分音符がピタッと合ってて、イーヴンにシュ〜って進行する。その中で自動的にクラーベのアクセントが聞こえてくるっていうのが理想。
――なんか、分かるような気がします。
「1・2・3・4、2・2・3・4、ン、カッカッ、カッカッカッ」ってなっちゃいけないんですよ。
クラーベも滑らかに進行しなきゃいけないし、そこを掴むまでは相当時間がかかりましたよね。
――確かにニューヨーク、プエルトリコって・・・
キューバとは大きく違いますよね。キューバは未だにエネジェティックなものだから、プリミティブなところが強いじゃないですか。それがだんだん変化していって、ニューヨークのジャズとかいろんなものとミックスしていく中で、エレガンスを求めるようになるんですよね。
ダンスもそうだし、プリミティブなルンバとかは全部ON1でア〜って踊るけど、それがパラディアム・スタイルになっていくに従って、その、エレガントなダンスに変わっていくんですよね。そのどこを求めているバンドなのか?っていうことを明確にしなきゃいけない。
――面白いですね。めちゃ面白いですね、
・・・っていうのがなんとなく僕が見えた部分でね。
――それ、やっぱりカロスさんだけじゃなくて、全員が共有してみたいな。
そう、それがだんだん体現できるようになってたから。
最終的にだから、アンサンブル的にライブの映像を見ても、もう、なんていうか、「ここまでパキってできるのか!」ぐらいのとこまで行った気はするんですよね。向こうの、よくYouTubeに出てる、オーチャード、ロングアイランドのビーチでやってる映像とか出てくるたけど。あの時の、ただ客が撮ってる映像とか上がってるけど、そういうのを見てもやっぱり寸分たがわぬ演奏ができるようになってるから。
「あ、ここまで来てたんだなぁ」って、今聞いても思いますよね。
――ところで、最初に行って契約して、カルロスさんはいつまで(ニューヨークに)いたんですか?
95年いっぱい・・・
――じゃあ結構その間に・・・最初に誰がやめたんでしたっけ? 大儀見さんと・・・?
そう、最初に大儀見が辞めた。
ゲンタはね、最初現地で行った時にいたんだけど、その後日本に帰ってきて。当時ゲンタは、カジーバというバンドでソニーと契約があって、メインでできないってことになった。スケジュールを割くことが向こう優先になるって話になって、じゃあどうする?ってそっちも忙しくなっちゃうようだし・・・ってことになって、どっちか選ばなきゃ行けなくなっちゃったんですね。
カジーバ『Mangan-Zenseki』
大儀見はまあいろいろあってね、そこはよくわかんないです。いろいろあったんだけど、そこは彼の判断だから、俺がどういうことでもないし。
――メンバーが変わりましたよね。それでもやっぱりその辺の、スアベに、みたいなのは・・・
いろいろ変わるけど・・・沢田君もいなくなったしね。伊藤ブー(伊藤寛康)になったり、都筑(章浩)がコンガやったり、コスマス(・カピッツァ)がやってるとか、いろいろ変わるんだけど・・・でもやっぱり根本、理解しているメンバーが何人かいれば、そこが自然に拡散していくじゃないですか。だからまあ、いろいろありつつ、クオリティは保てていたと思うんですけど、まあ大変でしたよね。
大儀見が辞めて(僕が)リーダーになっちゃったんで・・・ま、僕が一番年上だったから。しかもレコード会社のこととか、そういうことが分かる人がいないじゃないですか、メンバーの中には。それで、やってよ、って話になって、ビジネス面は全部引き受けましょうってことになって、そこをやることになったんですけど。当時、日本の事務所とか行っても、そんな仕事した事務所どこもないので・・・どっかに行ってても。
――事務所は?
最初は事務所なかったんですよ。最初の、(アルバムを)発売したすぐのツアーの時は、僕は個人的な事務所に預けてたんですね。個人の所属している事務所があって、そこのスタッフに手伝ってよ、っていって(ツアーに)来たんだけど、全然使いものにならなくて(笑)。もう、右も左も分からない、みたいな。通訳の人も来たんだけど、もう、全然仕事が上手くいかなくて。
それでその後、レコード会社のディレクターだった寺西潔という・・・彼の紹介で、ゲン・プランニングっていうところにやりたいっていう人がいるんだけど、っていう話があって。じゃあ会ってみましょうって言ったら、面白そうだったんで、一緒にやりましょうかっていうことになって。
でも、お互いノウハウがないんで、結局まあ、ラルフとの交渉とかリッチーとの話は、一応僕がやらなきゃいけないから。ただ、たまたまゲン・プランニングは海外のゴルフ関係のイベントとかで通訳やってる人とかのつながりがあって、そこの会社の人も入ってくれたり、専属の通訳になってくる人がいたりして。で、円滑に進むようになったんですけど。
――あ、そうなんですね。
(ゲンプラは)いろんなイベントの企画会社だったんですよ。アーティストのマネジメントはやったことはなくて。でもなんか面白そうだし、じゃあ、お互いわかんないスタートだけど、お互いのアイディアを持ち寄ってやりましょうよって話になって、そこから始まったんですよね。
僕はだから、本体のツアーの前、1週間2週間とか、終わり1週間2週間とかニューヨークに残ったりして、次のツアーの話とか全部ビジネス整えて・・・で、やったんですよね。
――中南米もいろいろ・・・中南米は大変そうですよね。
その話は、すごいのいっぱいあります。(笑)
(オスカル・)デレオンの最初のツアー・・・ベネズエラ行った時の話、大変でしたよ。だって最初のだから。90年にアルバムが出てバカ売れして、で、次は91年の・・・
――『サルサに国境は無い』ですよね?
冬でした。「2月ぐらいにベネズエラ行くぞ」って話になって。ベネズエラ・ツアー。でも、それしか来ないんですよ、インフォメーションが。ベネズエラ・ツアーで、会場は1200人、1200人、800人とか。何箇所かあるんですよ。インフォメーションがリッチーから来て、「あ、じゃあ、ベネズエラ行くんだ」と思って。
20何時間かかるわけですよ、そこまでね。ヘトヘトになって、グダグダで、ジャージ着てこんななって。飛行機がベネズエラ着いた、って、飛行機バーって出たら、レッド・カーペットがダーって敷いてあって、テレビカメラがドア〜って並んでて。
えー!って、NORAもこんなですよ(笑)。そのまま記者会見場にダーって連れて行かれて、拉致されて(笑)、記者会見、3時間(笑)。何なんだこれは?みたいな。言葉もわかんないし、何が起きてるのかさっぱりわかんないみたいな。NORAは孤軍奮闘して。一応通訳の人いたんだけど、頼りにならないような人で。
で、その後食事が出るって言ってるんだけど、3時間食事が出なくてみんな腹減って、「お願いだからご飯を、メシをくわせてくれ〜!」みたいになってて。で、そこに「コンスル」ってタバコ会社のキャンペーンガールがね、もう見目麗しきキャンペーンガールが僕らの後ろにざーっと並んでるわけですよ(笑)。
コンスル
そこに、スペシャル・ゲストでオスカル・デレオンが登場して、「わー! オスカル・デレオンとツアーするの!」みたいな初めて知った(爆笑)。えー!みたいな・・・。それからもう、1200人って書いてあった会場が12,000人、8,000人・・・ゼロ一個足らないわけですよ。ゼロ多くすると金チャージされるだろうと思って少なめに言うんですよね。
――なるほど、お見事・・・。
で、ツアー始まって・・・
――いろんなテクニックがあるわけですね〜。
テレビとかすごいですよ。
――じゃあ、カラカスだけじゃなくて・・・
何箇所もあったんですね。4箇所くらいかな。
最初はでっかいアリーナ、スポーツアリーナで、そこはもう、入れない人がそのアリーナの周りにドワ〜っていっぱいいて、チケット買えないような人が。僕らがバス乗ってガーってでかいシャッターがあって、バスが入っていくとその横からチケットない人がドアーってなだれ込んできちゃって(笑)。そしたら警備員がドワーって銃を撃って(笑)、こうやって銃を構えている間をメンバーが逆転でダーって走って行け!と、飛び込んだりして。で、ツアーの間中、オスカル・デレオンはね、機嫌悪いんですよ。
オスカル・デレオン『アウテンティコ』1991
――やっぱり、(デラルスが)受けてるからですか。
そう! だからもう、駆け出しのね、なんだかわかんない東洋人のバンドなんで。で、オスカル・デレオンが前座なわけですよ。オスカル・デレオンとオスルケスタ・デラルスなの・・・。
――それはちょっと・・・
俺たちもうビビっちゃって、えー〜〜〜みたいになって。で、オスカル・デレオン機嫌悪いから1時間とか2時間とか遅刻して来るんですよ、全会場。
――なるほど〜
客が、始まらないから暴動が起こりそうになるし、全部後ろ倒しですよね。で、僕らも最初全然通用しなくて、デレオンが盛り上げるだけ盛り上げて引っ込んで僕ら出ていくから、もう全然、もう立ち打ちできないんですよ。
そこで毎晩、どうしようか?ってみんなでミーティングして、方法を考えようと。オープニングの曲作ったり、いろいろショーの形を作るわけ・・・MCもこうやってやろうとか。で、だんだんだんだん改善するようになって、そこで、そのツアー1本で随分鍛えられましたよね。
――それもまあ、なんか、経験というかすごいですね。(デレオンが前座という)そのセットもどうかと思いますけどね・・・
どうかと思うよね。向こうはすごい分かりやすくて、売れてるもんが勝ちなんですよね。その時、売れてるもんが勝ちなんだから、と言って。誰を見に来るんだ、って話で。
で、客も分かりやすいから、例えば、デラルスやってデレオンやるでしょ。すると、デラルスが終わったら客帰るんですよ。もう、ニューヨークのビレッジゲートとかでも何度もあったもん。僕らが先やっちゃうと最後のセットで客いなくなっちゃうから。
あと、プエルトリコでプロモーションに行った時は、ポンセ行ってアリーナでやるって言ったんだけど、地元のアーティストがね、出たいわけですよ。いっぱい出てくるんだけど・・・メキシコだっけ? メキシコだ。ソニーのアーティストが何人かプロモーションで来てて、とにかくデラルスの前にやりたいわけですよ。じゃないと客いなくなっちゃうから。
でも、何時からだって言われてたのが、一向に僕らの出番が来ないわけ。で、次から次へ違うアーティストが前に入っちゃう(笑)。次、あと何人いるんだって? そう、ネジ込んじゃうわけです。前のアーティストが終わると先にステージ上がっていっちゃうわけですよ。(笑)
――すごいですね!
俺たち楽屋で待ってんだけど、全然始まんない。最後、俺らもステージ上がっていって、いい加減にしろ!ってそこら辺のもの、もう薙ぎ倒して。それやんないとね、言うこと聞かないから。譜面台とか何か蹴っ倒して、いい加減にしろって大暴れして。そしたら、じゃあどうぞどうぞ、みたいな(笑)。
――黙ってるとダメなんですね。
修羅場ですよ。
――いやー、いい話。めっちゃいい話だけど・・・
もう、すごいよね。
――熱帯(JAZZ楽団の)話に全然行かないじゃないですか。
全然行かないね・・・いやー、面白い話。デラルス時代のスッタモンダはもう、すごいこといっぱいありましたよ。
――やっぱり90年からこの辺りって、急にいろんなものが詰まってる。
ぎゅーぎゅーに、もう人生の中でこれ以上の・・・。
もう終わった時、思いました、もういいなと思ったの。普通のミュージシャンが体験できることはもう十分体験したみたいな。もういいやって思って。ぐらい濃厚でしたね。
――なるほど。
危ないこともいっぱいあったし。
――それで95年・・・1995年で一旦解散みたいな。
いや、本当は、SALTもその前に辞めるって話になってたんですよ。SALTが辞めるって話をしてて、僕もちょっとさすがにもうバーンアウトしてて。燃え尽き症候群に襲われてて、僕もちょっともう一旦身を引くわって言って。でも、その前に、レコード会社の契約のこととかで大問題が起きて。
――大問題???
(PART5に続く)


