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ラテンミュージシャン・インタビューシリーズ:カルロス菅野 PART3

2025.09.16

(PART 2から続く)
(さていよいよさまざまな活動が本格化します。)

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――ところで、カルロスさんは、いつから「カルロス」なんですか?

あ、それね。それはね、松岡バンドに入った時は本名で書いてあるんですよ。「菅野真吾」って書いてある。

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で、ライブやってたりで、なんかね、(村上)ポンタ(秀一)さんと一緒だったことがあるんですよ。当時、別なレコーディングとかでもポンタさんとよくやらせてもらったんだけど、その時ウィリーと僕じゃないですか。ポンタさんが「お前、名前が堅苦しいんだよ」って、「ラテンなんだから何か名前ないのか」って言われて。

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村上ポンタ秀一

「片っぽウィリーなんだから、お前なんかないの」って言われて、「じゃあパタートからもらおうか」って。「じゃ、カルロスにしますよ」「それがいいよ」って。それで決まっちゃったんですよね。「もうこれでいきます」って。


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カルロス・"パタート"・バルデス

――ちょうどそれってあれですよね、デラルスでニューヨーク行くぐらいのタイミング?

それよりずっと前です。84、85年ぐらいだった。

――あと、そのころカルロスさんって、なんだっけ・・・トニーショー?

トニーズ・ショウね。

――トニーズ・ショウっていうのをやられたって聞いたんですけど、

なんでそんなこと知ってるんですか? 

――どんなバンドだったのかなと・・・

あー、それはね、話せば長いんですが・・・。松岡バンドをやってましたが、僕は大阪で、J-POP系のバンドをやってたじゃないですか。だから、“ど”ラテンだけで行こうと思ってなかったんですよ。なんかもうちょっとこう、ポップス系のこともやりたい、と。で、あるギタリストと僕組んで「Y's」っていう、ちょっとなんていうか、J-popじゃない、フュージョン・ボーカル・バンドみたいなバンドを作ったんですよ。当時、外山(明)がドラムで、沢田くんとかも入ってもらってて、そのバンドはラテンじゃないんですよね。シティーポップみたいなもので、ちょっとラテンかかってるみたいな。ラテン・フレーバーかかってたり、ちょっとロックだったりみたいなもので、ボーカルも入っている。で、ライブをピットインとかでやってたんです。

で、松岡さんが「ハートカクテル」やってたじゃないですか。それをシリーズずっとやってて、何枚かやって、松岡さんはそろそろ他のこともあるし、この辺でこれで最後にしますって言って、「ハートカクテル」を一旦降りたんですね。

その時に、そのディレクターの瀬戸(由紀男)さんっていう人が、「次のアルバム、お前らでやんねえか?」って言って、ピアノ前島康明って、デラルスの最初の・・・彼とアレンジとかやってたんで、そのバンドで「ハートカクテル」を請け負ったんですよ。それで1枚アルバム作って、その時のバンド名・・・「Y's」はもう、自分たちのバンドだから、これちょっと特別企画なんで別の名前でってなって、トニーズ・ショウっていう名前にしようと。わたせ(せいぞう)さんのアニメに出てきた名前なんですよ。


――そういうことなんですね。

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で、その中に1曲オリジナル楽曲でボーカル楽曲入ってたんですよ。そしたら、それを瀬戸さんが「これ売り出す」と。「お前シンガーで、これで売り出すからプロモーションしろ」って言われて、で、そっちにシフトするみたいになったんですよね。

それがきっかけで、当時デラルスやってたんだけど、そっちの動きが始まるってなって、一旦、じゃあ、そこに専念しなきゃいけないんでデラルスを1回身を引きますってことになって、(コンガに)伊達弦が入ってきたんです。なので、僕は1回デラルスをそこで辞めてるわけです。


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伊達弦

――そうなんですか。

辞めたんだけど、結局その企画自体が立ち消えになっちゃったんですよ。そのトニーズ・ショウの話が。で、半年くらいして、やっぱりやるわ・・・って(デラルスに)戻ったんだけど、もうコンガはいるから、じゃあ、前でコーラスとダンスとマラカス、ギロやるよ、って戻ったんですよね。

――ニューヨークへ行く前ですよね・・・?

そう。87,88年とか。

――それで伊達弦さんが・・・?

そうなんですよ。なんか、契約のことがあって、ちょっとそっちに専念しろみたいな話になっちゃって。当時、瀬戸さんに買ってもらって、いろいろそういうチャンスをいただいて、森高千里の楽曲制作とか、前島とそのギターの相棒と僕は歌詞書いたりして、そういう活動も始めてたんですよ。

――松岡さんのとこはいつまで?

松岡さんとこは、89年にデラルスでニューヨークに行く直前までいたんですけど、ちょっと僕はいろいろしくじっちゃって、行く直前にクビになっちゃったんですけどね(笑)。

というか、なんか、そういういろんな外の活動が増えてきちゃって、デラルス以外にそのトニーズ(・ショウ)やったり、女優さんのアルバムのプロデュースとか制作も、前島と二人でいっぱい請け負ってたんですよ。

松岡さんは、僕のことも買ってくれてて、松岡事務所で何とかバックアップしようと思ってたんだけど、僕はいろいろ外で仕事しちゃってるから、「それはそれでいいね」って話になっちゃったみたいで、松岡バンド終わり、みたいな。レコーディング決まってたんだけど終わっちゃった・・・みたいなことがあったんですけどね。まあ、確かに、人生いろいろ・・・。


――やっぱりいろいろ、外へ出て行く時だから、そういう風になったんですね。
カルロスさんが歌を始めたっていうのは・・・その前はあれでしょ、ディスコ・バンドのボーカルで、デラルスで・・・。歌い始めたのは、トニーズ・ショウですか?

松岡さんのアルバムでも2曲ぐらい歌ってたりしたんですけど、正直、パーカッションを始めてた時に、歌はもうちょっといいなと思って、一旦、歌はちょっとギブアップしたんですよね。

楽器のほうがいいやと思って、もう歌はやめますみたいな話になって、そっちに専念しようと思ってたんだけど、ゲタ夫さんとか、僕がポップ・バンドやって歌ってた時のこと知ってるから、松岡さんのアルバムでも、「歌、誰かいないかな」って松岡さんがなると、「カルロス歌えるから」「じゃあ歌ってよ」ってなって、何曲か歌ったりして。

デラルスも、コーラスは歌ってたけど、当時、僕はリードボーカルで歌ってる曲はなかったんですよ。大儀見は歌ってた。「(サルサ・エス・ミ・)エネルヒア」とか持ってきて。僕はスペイン語がよくわかんないし、あんまりメインボーカルでやるっていう感じでもなくて。


――ご自分でもまだそんなに歌うということは・・・

歌うっていう気ではなかったですね。
トニーズ・ショウもアルバムの企画で1曲ボーカルも欲しいからって言うんで、相棒と一緒に1曲作って、誰もいないし歌おうかって録ったんですけどね、そこに賭けるっていう気がないんですよ。「ボーカリストとして行く!」みたいな気持ちは全然ないままにいて、申し訳ないなって思いながら。


――申し訳ない(笑)。なるほど。で、ちょっとデラルスの話を聞かないと・・・。NORAさんにも聞いて、それぞれの方の感想はあるかもしれないですけど、カルロスさんはどうでしたか?最初のニューヨーク。

最初のニューヨークね・・・いや〜波乱万丈だった。
僕もニューヨーク初めてだったし、空港からマンハッタンに向かう摩天楼がガーって見えた瞬間に、ウォーってなって。空港でも一問着あったんですけど、迎えが来ないとかね、ドタバタで、どうしようみたいな感じだったんだけど、興奮しながら行って。いろいろありました。

最初、マンハッタンの真ん中のホテルに泊まるっていう予定で、ラマダインっていうところに行ったら、(エージェントの)リッチー(・ボニージャ)と先行で2手に分かれて前日に来たやつらがロビーで待てるんだけど・・・次の日が僕らだったんだよね・・・で、リッチーとそこで合流したんだけど、ここに泊まるんだなと思ったら、ここには泊まれないと。

前日来た組は、ここじゃなくて、クイーンズの墓場の、巨大なセメトリーの目の前のモーテルに泊められたと。泊まらされたと。なんか分かんないとこ行ったんだけど、目の前は墓場だったんだよと(笑)。ゲンタとか、そこのモーテルみたいなとこ泊まったんだと。

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「ベストウェスタン・シティビュー」

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ホテルの裏は墓地


で、お前らもらうギャラではマンハッタのホテルは高すぎて、とてもじゃないけどカバーできなくて足が出ちゃうから、そこは、クイーンズは、よくサルサ・バンドが来たらそこ泊まるモーテルだから、そんなひどいとこじゃないからそこにしろって言われたんですよね。

でも、その前の日に着いた組のゲンタとか沢田くんとか、絶対嫌だって言うわけですよ。絶対あそこには絶対泊まらない・・・と。

なんでだよって聞いたら、「朝飯食いに行ったらさ、近くのサンドウィッチみたいなの食いに行ったら、途中にハーレーみたいなバイクが泊まっててさ、その前を、こんな長いショットガンを毛布にくるんだ奴が、やばい奴がウロウロしてんだよ。あんなとこ絶対泊まらない」ってもうビビりまくってるわけ(笑)。
・・・まあ、いまはもう言ってもいいと思うから・・・。

で、「絶対あそこには戻りたくない」と言ってそこで1時間くらい、みんなでどうするこうするってなって、えーと、でもここで、そんな金払えないしな、って。
NORAとかも「いいじゃんそっち行こうよ」って話になって、そっちへ・・・その墓場の目の前の「ベストウェスタン・シティビュー」っていうモーテルですよ。


――ベストウェスタンですか。

シティビューってのは遥か彼方の墓場越しのシティビュー。

――見えるは見えるっていう。

で、そこに泊まって。でもトミー・オリベンシアとかね、同じモーテルに泊まってて。
で、そこから毎夜のようにバスに楽器を積み込んで、ホセっていうドライバーのね、香水ブンマイター(笑)のグレイハンドバスみたいなやつで、楽器積み込んでクラブ行って演奏した。始まったんですけどね。
いや、もうすごかったなぁ、あれ。もう、仰天しましたね。


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Tommy Olivencia

――どんな感じですか?

最初はクイーンズのコロンビアン・クラブだったんですよね。もう全然場末ですよ。マンハッタンからはるかに離れてる。

そこで、着いて、楽器を下ろしてセッティングし始めたんだけど、レンタルの楽器が来てないと。キーボードとね、ベースアンプがないと。

で、リッチーが近所のミュージシャンに電話をかけて、何とかならないか?つって持ってきてもらって、そしたらアンプが1個しかなくて、そこにキーボードとベース両方差し込んで(笑)。

で、鍵盤にはテープが貼ってあって、こうやって、SALTがあれ?ってすると、テープをペロッと剥がしたら鍵盤がペヨーンって飛び上がってきちゃうようなピアノで(笑)、電子ピアノみたいなやつだよね。それでフロアにマイクがピョンと3本立ってるだけで、モニターはないし、これなんだ〜?つって。

でも、やるしかないや、ってやって、そしたらなんかね、最後の方はもう、みんな大盛り上がりになって。
最初はすごい怪訝な顔してましたけどね。何だこのバンドは?みたいな。地域の人が週末になると集まるような店だから、誰が出てるのかなんか気にせずに来るんですよ。ローカルバンドしか出ないから、今日は何?みたいなんですよ。なんかアジア人がセッティングしてるけど・・・みたいな。

やばいクラブなんですよ。もう、コロンビア人しか来ないんだから(笑)。明らかにやばいクラブなんですよ。

でも、やるに従って、なんかお客さんが踊り始めて、最後はもう「バンザーイ」「ボンサーイ」と、こうやってもう、バンザイだかボンサイだかわかんないような人たちが(笑)、火がついたように盛り上がって。


――いいですね〜!

そっから始まって、その、2週間で6本かな・・・あったんですけど、その間になんかすごいなと思ったのは、そのヒスパニック系の口コミっていうの? あれがなんか、日に日に広がっていくんですよね。
なんで知ってるんだろうと思うぐらいガーって広がっていって、最後の方のパレイディアムとかビレッジ・ゲートとか、もちろん対バンもすごい良いバンドだったんですけど・・・ビレッジ・ゲートだったらモンゴ(・サンタマリア)と一緒だったからね。なんか、長蛇の列ができちゃうくらいになってて。

いやー、その後がもう大変だったんですけどね。大変というか、そこの話しをし出したら長いですよ(笑)。


―――ぜひ!

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NY ヴィレッジ・ゲート「Salsa Meets Jazz」

いいですか。
いやまあ、そういう場末のクラブから始まって、なぜか・・・今思うと、リッチーがどうやって努力したか全くわからないんですけど、そのビレッジ・ゲートがブッキングされてたんですよ。マンデーナイトで、ご存知の通り、「サルサ・ミーツ・ジャズ」ですよね。普通のローカルバンドも出らんないんですよ。つまり、ジャズ・インプロヴィゼーションできないバンドは出らんないんですよね。そういう能力がないと出られないという場所らしいんですけど、そこになぜか僕らがブッキングされていて。で、ジョン・ファディス(tp)ですよ、ゲストがね。

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で、もちろん僕らがオープニングで、モンゴがあって、僕らがあって、最後モンゴがあって終わるんですけど、最初、向こうも何にもわかんないから、どんなバンドかと思ってやり始めるんですけど、そしたら、僕らは日常的にこの、ジャズ・クラブで演奏しているメンバーじゃないですか、日本でね。サルサやってるけど、サルサだけやってる人間じゃないじゃないですか。だから何でもできるんですね。

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デラルス最初のヴィレッジ・ゲイト

で、自分たちが演奏して、ジョン・ファディスが入ってきて、そこでトレードがいろいろ始まったんですよ。
で、SALTがピアノだし。そしたら、ファディスもすぐわかるんですね。演奏し始めた途端に、こいつらただ者じゃないなっていう空気になって、そこからファディスはもうやたら盛り上がっちゃうわけですよ。ソロやめない、みたいな。で、もう丁々発止がグワーってなって。そこに、うちのトランペットの(佐々木)史郎くんとかも食い込んでくるし。普通、真ん中で2曲ゲストが乗ったら、あとは降りてってなるんだけど、ファディスは最後まで降りない。最後の最後まで行って、トランペット隊と一緒になって会場をぐるぐる一周して戻ってきたりして(笑)。

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ジョン・ファディス登場!

で、非番の(休みの)ミュージシャンたちがいっぱい客席にいるわけですよ。満杯で、モンゴも出てるし・・・もうみんなドッカーンって盛り上がってて。で、そこでの評価っていうのが、後で考えるとやっぱりすごいデカいんだと思うんですよね。それをきっかけに空気が変わっていって、そこに(RMMの)ラルフ・メルカドが来てたんですよ。

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ラルフ・メルカド(左)とセリア・クルス(右)

で、その後パレディアムが入ってて、パレディアムの楽屋にラルフが来て、「お前らいつまでいる?」と。
バンドのメンバーはあと3日か4日残ることになってたんで、「いついつまでいるよ」って言ったら、「その間にレコーディングするからこれサインしろ」って契約書をポンと突きつけられて。
そのパレディアムのライブの時に、当時ラルフ・メルカドがディストリビューションを任せてたアメリカのソニーのディストリビューション部門のトップの女性と一緒に来てたんですよね。で、そこで話がまとまったらしくて、これやろうって言って。で、ポンと契約書を突きつけられて。
「契約書が来ちゃって、どうする?」って。だけど意味全然わかんないし、そこから、「いる間にどうする?」って話になって。でも、わかんないからとりあえず、中身がわかんなきゃ、って。

で、大儀見の親戚かなんかがニューヨークにいて、で、その人のとこ行ってこれちょっと訳してくんない?って訳してもらったら、「これ、ひどいからね、やめた方がいいよ」って。「あ、やっぱり?」みたいな。

これさ、ひどいよこれ。アルバム1枚作るのに当時で20万だか?で、バンドで貰うと終わりと。で、売れたら2枚目は倍だと、3枚目まで契約しろと。3枚目売れたらまた倍だって、倍々ゲームみたいな話で。でも、それ以外のエクスペンスは一切カバーされないから、これはちょっとやめといた方がいいんじゃないって、何のライダーもなくて、もう、ただその文面しか書いてないから、これダメだねってなって。

でも、話が立ち消えになっちゃうのも嫌だねって言いながら、ちょっとじゃあ日本に帰ってしばらく考えさせてくれって、その契約書を持って日本に帰ってきたんですね。
NORAは当時、サンディエゴから住んでたから、サンディエゴに戻って、大儀見はもうちょっとニューヨークに残るって言って。

僕は日本に帰ってきて、日本でたまたま知り合いのBMGビクターのディレクターの友達がいて、一緒にゴルフか何か遊びに行った時に、「ニューヨークでこういうことがあってさ」って話をして、契約書が来たんだ、って。「あっ、そうなの、ちょっとそれ見せてよ」っていうことでその契約書を見せて、で、向こうで撮ってたビデオとかを渡して、「こんなだったんだよね」って言ったら、そいつが「これ面白い」って言ってBMGビクターの当時の社長さんのところに突然行っちゃって、直接社長に「こういうことが起きてますどうでしょう」って言ったら、社長が「それ面白い、うちがやろう」って言ってくれて。

で、日本のBMGビクターと契約して、アメリカのRMMからディストリビューションするという契約ができることになって。で、ラルフに連絡したんですよ。「こういう話があるんだけど」と。「あ、それはいい」と。「それだったらうちは全然問題ない、やろう」って話で。ノーリスクだから向こうは。そして、そこから話が始まったんですよね。


――じゃあ、本体、って言い方は変ですけど・・・

日本が本契約で、向こうにディストリビューションを渡す・・・ワールドワイドディストリビューションをRMMに渡すっていう条件で始まったんだよね。これが後に大問題になるんですよ。
ま、当初はそうだったんですよ。

それで・・・9月に(ニューヨークに)行ったでしょ。で、戻ってきてその話があって、年末ぐらいにそのBMGビクターの話が急激に決まって。年明けに、こうなんだけど、どうだ・・・それいいなと。じゃあやろう、ってことになって。2月の前ぐらいかな?


――それは、1990年ですか。

90年の2月。そう。で、僕もニューヨークにもう一回飛んで。プロデューサーつけるからって言われて、大儀見とニューヨークで合流してRMMのオフィス行ってセルジオ・ジョージに紹介されて。「彼がプロデューサーだと今一番いいから」って。

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なんか感じの悪いやつだな・・・と思いながら、若いのに偉そうな奴だなと思いながら(笑)、でも、そこで初めて会って、そこから始まったんですよね。


(PART 4に続く)
posted by eLPop at 21:20 | Calle eLPop