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2024年はこれだった!ミゲル・バルンブロシオ、フロール・デ・ラップ、トレンケ・ラウケン

2024.12.31

今年、自分が新しく出会ってうぉぉぉと思った作品は、必ずしも新曲というわけではないが印象的な曲をあげたい。

今年前半のラテン音楽最新地図ではアフロペルー音楽をめぐる曲をご紹介したが、その時にも紹介させていただいたチンチャのアフロ音楽を牽引するバルンブロシオ・ファミリーのミゲルによるケチュア語とスペイン語で歌われた曲。最新ラテン音楽地図のイベントでは紹介したが、Web上では未だ紹介していなかったのでこの機会に紹介しておきたい。

ペルー南部沿岸地域に位置するチンチャのエル・カルメンは「アフロペルー音楽の聖地」化によって観光を推進している地域だが、歴史的には、むしろアフロ系とアンデス系の交流こそがこの地域が持っていた魅力である。カホンを叩きフェステホを踊るアフロの聖地のイメージが近年の創られた伝統であることを考えれば、アンデスとの連続性の中にこそ、本来の彼らのルーツがある。そうした歴史的文脈をきちんと踏まえて作られたのがこの「ヤナ・ルナ(黒い人)」だ。タイトルはケチュア語。

Miguel Ballumbrosio "Yana Luna" (Peru)2013

https://www.youtube.com/watch?v=aujZZcJcDXw

また、2024年水口はラテンアメリカのフェミニズムの国際シンポジウムを企画・開催し、現在その成果をもとにブックレットを鋭意準備中なのだが、その中にラテンアメリカのフェミニズム歌謡についての資料を掲載するために伊藤さんの協力を得ながら準備をしている。その中で出会った曲で私の心を撃ち抜いたのが次の曲であった。

それはチリの貧民街で生まれ、幼少期に父が目の前で焼身自殺しようとした経験を持つ女性ラッパー、フロール・デ・ラップ(本名:アンヘラ・ルセーロ・アレイテ)の曲だ。新自由主義が支配するチリにおいて、スラムに生まれ育つということは、犯罪、売春、ドラッグ、DVといったものから距離を取ることが難しい環境がある。

その中で女性として生まれるということは、それだけで社会の歪みを一身に受けて成長することとなる。ただ、幸せになりたいという願いが踏みにじられながら、家にも、学校にも、路上にも居場所を見つけられない女性たち、若くして妊娠し、シングルマザーとしてたくましくなるほか生き残るすべがない女性たちの生を、下から来て上を目指す一人の人間の叫びとして描き出したこのラップは聴く度に心にずんと来る重たい、そして激しい感情を呼び覚ます曲である。

連呼される「Vamos para arriba, porque venimos de abajo(私たちは上へと行く。なぜなら私たちは下から来たのだから)」という言葉の力強さと切実さが、私たちに格差を見てみぬふりをして、その収奪の上の繁栄を享受することを問うまなざしを、きちんと受け止め考えることを突きつける。

私たち一人一人が、こうした音楽を「消費」するのではなく、他者を踏みつけにして成立する社会の歪な暴力性をどう解消していくかこそがより良い社会の在り方へとつながっているのかということに向かい合うことで応えていくことが必要なのだと改めて思う。

Flor de Rap "Inmarchitable" (Chile)2019

https://www.youtube.com/watch?v=dawCDu2lQTg


そしてこの年末に、今をときめくラテンアメリカ映画の若手牽引役として七面六臂の大活躍をしている新谷和輝さんが上映権を購入し、4回限定で上映したアルゼンチン映画「トレンケ・ラウケン」を視聴したので紹介したい(まさかの満員御礼で初日は劇場まで行ったにもかかわらず満席で見ることが出来なかった)。

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第1部、第2部あわせて4時間以上の大長編を一気に視聴したのであるが、わずか4日限定の映画が二日目は午前10時すぎにはもうほぼ完売という状況(上映開始は17時40分)に驚愕し、どういう人が来ているのかと不思議に思ったものだ。そして、改めてその盛況ぶりに映画の可能性を感じもした(ラテン音楽もそれぐらいの活況を取り戻していかねばとも思う)。

映画は、失踪した植物学者ラウラを探しに来たブエノスアイレスの恋人ラファエルと、田舎町トレンケ・ラウケンで彼女の運転手をしていたチーチョの探索行から始まる。

パラレルな失踪、秘密の手紙、湖で発見された謎の生き物、妊娠している女性たち、ラジオパーソナリティ、謎の花、女性医、クィアなカップル、ガウチョ(アルゼンチンのカウボーイ)とさまざまな要素が絡まりあうが、何より物語の筋書きが、聴衆の予想を裏切ってどんどんとメタモルフォーゼしていくところがなんとも言えない魅力となっている(同時に役者の演技がピカイチなのである)。

曇り空、疲れた顔の中年男女、田舎町、とカタルシスのない一見地味に見えるこの映画であるが、その予想を裏切りながら展開していく物語に、気がつけばすっかり引き込まれている。

そしてこの映画の特徴は、人の想像力によって紡がれる作品であるというところだ。真実を語るのではなく、真実を考えながら想像でそれぞれが物語を紡いでいく。その創造/想像が生み出すリアルを超えて解釈される現実というものを提示していく。

監督がインタビューで、夢を分析しリアルな何かに結びつけて具体化していくことで失われるものについて考える必要性、という視点を語るが、まさにその思想に基づいてさまざまな謎や伝聞が、リアルがどうであるのか、その真実を告げられぬままに提示され、投げかけられ、回収されない。

しかし、それこそがこの物語を別の次元からリアルにしている側面でもある。伏線回収される物語の整えられた虚構性を蹴っ飛ばすかのように、不確かで分からない中を想像しながら解釈していくリアルを、この映画は聴衆に投げかけていく。

また、上映後のトーク(2日目)でも語られていたように、ストーリーテーラーが第1部と第2部でスイッチすることで立ち現れる視線も切り替わっていくところも見事だ。男性目線で描かれる第1部に対し、女性目線で女性たちを描く第2部に入った途端、物語は全く別の展開へと進展していく。

男が女性に期待し背負わせるまなざしをすり抜けていく女性たちの物語として、「トレンケ・ラウケン」は、失踪はもしかして解放としての側面もあったのではないかと問いかけるように描かれているのかも知れないと、見終わった後に感じる、そういう映画でもある。

このたびは4日限定の上映であったが、もしかしたら今後別の機会で上映されることもあるかもしれない(おそらくそういう機会を作りたいと思っているのではないかと思う)。なので、ぜひ機会があれば、この不思議できっと見る度に違う発見がある豊かな映画を、ぜひ多くの人に見て欲しいと思う。(個人的にはその時には予告編も見ずに前情報なしに見て欲しい)

トレンケ・ラウケン予告編(英語字幕)

https://www.youtube.com/watch?v=CJEvAlSigCw

また、この映画を製作しているエル・パンペロ・シネという映画制作コレクティボも興味深い。協働による制作という手法は個人的にはグルーポ・ウカマウを思い出すし、私の友人である岡山で「地産地生」映画として地元の人と地元を描く映画を作り続けている山崎樹一郎監督などを思い出したりもするが、この映画も6年の歳月をかけ、主演女優と監督(ふたりのラウラ!)によってシナリオが作られ、トレンケ・ラウケンの町の人々の協力を得ながら作られたインディペンデント映画という意味でも本当に興味深い。

posted by eLPop at 12:59 | 水口良樹のペルー四方山がたり