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ペルー映画『革命する大地』とベラスコ時代から考える

2024.05.20

 2023年の第2回ペルー映画祭で上映され、現在全国で順次上映されている『革命する大地』がなかなか刺激的なドキュメンタリー映画となっている。GW最終日に2回目を見て、レビューを書こうと思いつつ、仕事に追われてこんなに遅くなってしまった。まだ未見の方、ぜひ見に行って欲しい作品です。

 原題「革命と土地」と名付けられたこの映画は、ペルーで68年から始まったベラスコ軍事政権の再評価を迫るドキュメンタリー映画だ。ラテンアメリカ、しかも60年代末〜80年代ということをになると、ラテンアメリカ・リテラシーのある人は、CIAのコンドル作戦に基づく米国主導の反共軍事クーデターとその後のお決まりの虐殺、そして新自由主義の強制導入をイメージする人も多いだろう。しかし、実はペルーはこの時代、まったく逆の路線を突っ走っていた。この軍事政権は「左派」であり、「革命政府」を名乗っていた軍事政権であった。


予告編 『革命する大地』

 この映画の非常に面白いところは、単なる政治的タブーとされた一時代を掘り起こし再評価する、という以上に、映画の中で大量のペルー映画を引用し、ノンフィクションとフィクション、インタビューが並列して語られる所である。ノンフィクションは「事実」を監督の思想に基づいてくみ上げながら語り直される物語だとすれば、そこに含まれる多数のインタビューや物語映画の引用は、この映画の中で多声性を獲得しつつ、再び監督の物語の中に回収されていくという独特な手法となっている。さらに、監督曰く、ペルーで作られた映画の90%はすでに失われてしまってアクセス不能となっている、ということを鑑みれば、この作品の中で過去のペルー映画を引用することは、ペルーという国の歴史と映画史をベラスコ時代の「文化革命」を再考するためのツールとして掘り起こすと同時に、ラテンアメリカ映画の中でもマイナーな国と見なされるペルーでこれまで試みられてきたさまざまな映画を通した表現の闘争をも評価していくことを見る者に求めるものになっていると言えるだろう。


 ベラスコ・アルバラード将軍によるクーデターとその後の政治運営は、ペルーの歴史に不可逆的な爪痕をいい意味でも、悪い意味でも残した政権であったといえる。ペルー副王領の首府が置かれ、ラテンアメリカでも随一の保守的な都市であったリマでは、メキシコ革命(1910年)やボリビア革命(1952年)、キューバ革命(1959年)、チリ社会主義政権成立(1970年)、そしてのちのニカラグア・サンディニスタ革命(1979年)といった下からの社会改革を実現するような社会運動の高まりに民衆は到ることが出来なかった。革命を目指したゲリラ運動の多くは早期に軍に壊滅させられ、前近代的な地主制度が封建的な社会を継続させていた。
 他方、特に南部アンデス地域では50年代末から「土地か死か」をスローガンに先住民による土地闘争が過激化し、道路封鎖やデモだけでなく、時に武力衝突を伴う闘争へと発展し多くの死者も出た。この先住民を中心に展開された激しい土地闘争の中心人物の一人が、この映画でもインタビューに答えているウーゴ・ブランコであり、映画で引用された映画『私は男』や『コンドルが生まれたところ』で土地闘争の中心人物として取り上げられたサトゥルニーノ・ウィルカであった。


 映画の中では、キューバ革命後の米国のラテンアメリカ戦略、ケネディの「進歩のための同盟」政策の重要な項目として、大農園(アシエンダ)の農地改革を挙げられていたと説明する。冷戦期、社会主義が掲げる「圧倒的多数である貧しい人たちが人間的に暮らせる平等な社会実現という思想」に対抗するため、欧米資本主義諸国は資本主義社会でも貧しい人が幸せに暮らせるのだとみせる必要があった。そのため、社会福祉やある程度の生活の向上実感を感じられることが社会主義に対抗するための重要な戦略であり、農地改革の推進もその一環であった。
 同時に、すでに20世紀の前半にペルーでは、都市化が進む中、読み書きのできる都市の労働者不足が問題となっていた。また新興の近代産業勢力は旧態依然のアシエンダが独占する小作農(農奴)の労働人口を解体/解放することを求めてもいた。こうした状況を背景に、早くも1909年にはリマの大学生や弁護士たちが先住民擁護協会を設立して法律や組合の知識を与えることで、先住民運動が組織化されていく糸口を作り、さらに識字率を上げるための巡回移動教室などが回った地域もあった。
 また第二次世界大戦で工業製品の輸入が滞ったことで、政府は工業製品の国内生産を目指したが、そのためには富裕層だけでは産業規模が小さく維持できないため、先住民を消費者に育てていくことが急務となった(しかし実際にはほとんど先住民への分配は進まなかった)。
 だがこうした政策の多くは、実際に富と権力を持っていた40家族らの前に多くが骨抜きにされてきた。さらに米国主導の多国籍石油メジャーがほとんど税金を払うことなく採掘を続け、ペルーの政策への露骨に介入することに対するペルー国民の感情悪化は、政府に石油メジャーとの契約条件の変更を強く要請することとなっていた。

 また、もう一つの重要な背景として、ラテンアメリカの軍部は、文民統制というより、独立した意志を持って国家を守る第2勢力(しかも武力を独占している)という傾向が強い。なので、国家が好ましからぬ状況にあると認識すると、クーデターにより「国家の状態を正常化する」ことを責務と捉えているところがある(これをどう変えていくかが一つの大きな問題ともなっている)。こういう背景もあり、ラテンアメリカにおいて民主主義とは「軍が許容する範囲において」という状況がどうしてもつきまとい、軍自体の政治的ポジションも時代時代で変化していく(内部の綱引きも苛烈)ため、非常にデリケートな問題となっていた(そのもっとも重要な舵取りであったのが、チリのピノチェト後の民主化時の軍との関係であっただろう。)。

 こうしたさまざまな状況の中で、68年にベラスコ将軍は、社会改革をいいながら骨抜きの提案ばかりを挙げるベラウンデ政権に対し軍事クーデターを強行した。映画によれば、アンデス先住民の土地闘争を鎮圧する中で見た格差と不正義、それに軍事高等研究所における反革命のための富の再分配を急務とする認識が軍部内に広がり、ケネディーの「進歩のための同盟」政策がそれを後押しする形で革命を目指す「革命政権」が成立することが可能になった、ということになる。
 映画の中では、ベラスコの功罪の功の部分により光が当てられ、歴史的に「失敗」とされ、語ることすら一種タブー化された改革を高く再評価するものとなっている。
 同時に映画で描かれた一番重要な「失敗」のポイントは、1975年のベラスコの健康状態の悪化によるカリスマの低下とベラスコの権威主義的姿勢、そしてモラレスの軍事クーデターによる転向である、という部分でありこれには私も全面的に同意する。
 またSINAMOS(社会動員機構)の成果についても、一般的に語られているネガティブなイメージよりもかなり重要な役割を担っていた事が改めて明らかになっている。この組織は単なる協同組合ではなく、文化・芸術面でもさまざまな活動がなされていたことはこの映画の重要なポイントであり、その意義深さは作品で扱われた映画というトピックだけを見ても十分伝わるものとなっていただろう。

 それと同時に、「上からの革命」を自称した改革は、権威主義的でどうしても草の根民主主義的なものとは相容れられない部分が出てくる。ベラスコ登場以前から活動していた様々な民衆運動やその活動家たちが弾圧されたり暗殺されたという報告もあり、政府が認める活動のみが選別され、そうでないものには容赦なかったことも忘れてはならない(それは軍という組織の持つ宿痾とも言えるだろう)。ブラジルの教育学者パウロ・フレイレが『被抑圧者の教育学』で述べた、「人間化」とは抑圧の中で非人間化された者だけが行うことが出来、抑圧を行うことで非人間化してしまった権力者は自らを人間化することは出来ない、という議論を思い出す。

 とはいえ、ベラスコ政権の中では、先住民への農地解放や基幹産業の国有化、アンデスのインディオが農民と「改称」され、ケチュア語が公用語に組み入れられるなど、国のあり方を根本を変える試みが相次いでなされた。同時に映画では語られていないが、女性の社会進出や差別解消に向けても革命政権はさまざまなプログラムを行っていた。
 しかし、こうした政策は、多くは目に見える成果が出る前に75年のモラレスによるクーデターによって再び家父長制的制度へと逆戻りした。しかし、この時のベラスコ政権の働きかけをきっかけに女性解放運動は不可逆的な自らの権利としての意識をより広い人々が持つきっかけとなったと言える。

 また、ベラスコ政権は欧米資本主義の介入を排し、ナショナリズム高揚に努めた政権でもあった。テレビやラジオでペルーのナショナルな民衆音楽を一定以上の割合で流すことを決め、この時代、新しく興隆しつつあったペルー・ロックの非常に個性的な試みは70年代前半期をめどに80年代まで地下に潜ることになった(ジャズやクンビアなどは比較的寛容であったという)。エル・ポレンやトラフィック・サウンド、ブラック・シュガーといったサイケデリックロックやジャズ、ブーガルーなどを往還する新しいペルーのサウンドはここで一度断ち切られ、80年の民政移管による市場開放以降新たな形で再構築されていくこととなる。

<エル・ポレンの73年のサウンド>

 そしてムシカ・クリオージャ、アフロペルー音楽、ワイノなどがナショナルな音楽として黄金時代を迎え、国内外で一気に演奏の機会を増やしていった。ビクトリア・サンタ・クルスやペルー・ネグロなどの活動によりアフロペルー音楽もこの時代にいよいよ本格的に飛躍していく時代となった。
 映画において先住民や労働者というものを主人公とした作品を半ば国策的に制作していこうとしていたのと同様、音楽面においても、「民衆音楽」をナショナルな枠組みで称揚し、特にムシカ・クリオージャを利用したペルー賛歌の増産は、今なお歌い継がれるペルーのイメージがベラスコ時代に基本のスタイルが確立されたことが見て取れる。


 こうした音楽面については、映画の中ではベラスコがムシカ・クリオージャが好きであったということ、ベラスコ後のロックやチチャの台頭ぐらいしかほとんど語られておらず、アンデス音楽についてはホセ・マリア・アルゲーダスの歌うワイノや軍楽、革命歌、そして後述するニコメデス・サンタ・クルスの歌などが当時の音として挿入されている。

 このように、映画の中では功罪の両面において断片的にしか伝えることは出来ていないが、それでもこれまで否定的側面が強調されがちであったベラスコ政権について、評価すべきものを評価し、モラレス政権との違いを改めて強調しながらその革新性と限界を問う作品になっている。

 ベラスコ後になると、外国企業優遇政策へと転換し労働者の権利を抑圧する政府によって生活できなくなった人々によるゼネストが荒れ狂うなど、反モラレスの民衆蜂起が過激化し、アンデス地域で生活できなくなった人々が大量に都市、特にリマにデカセギに押し寄せてくる。この「リマのアンデス化」の激化は、民政移管後にセンデロ・ルミノソ(ペルー共産党を名乗る毛沢東主義テロ/ゲリラ組織)と軍による虐殺によるアンデスの空白化と言われるほどの人口移動の前触れとして、リマにおけるアンデス先住民に対するヘイトを生み出し、路上で生きるアンデス民たちは、ワイノとロック、クンビアを融合させた「チチャ」を生み出していった。
 その象徴たるロス・シャピスの音楽映画「貧しき人々の世界のロス・シャピス」の一場面として彼らが差別されながらも成功していくシーンが触れられている。ちなみにこの映画はYouTubeで全編見ることが出来、スペイン語がそんなに分からなくてもおそらく非常に楽しめる映画となっているので、クンビアがすきだという人はぜひ見てみて欲しい。

また、作中では台頭する先住民ルーツのチョロによる新たなストリート系ロックとしてデメンテ・コモンの「私はチョロ」が紹介される。

この時代を代表するのはなんと言ってもロス・モハーラスの「三輪車のペルー」だとも思うのでこちらもご紹介。80年代から90年代を転げ落ちていくペルーの格差と暴力の時代をよく表している映像も非常に秀逸だ。


 あと、作中に流れる音楽として、触れておきたいのが、先述したビクトリア・サンタ・クルスの弟で詩人のニコメデス・サンタ・クルスの歌う「農民の歌」だ。

 まさに農地改革にコミットした歌であり、ペルーのプロテストソング「ヌエバ・カンシオン」に連なる歌手として挙げられるだけのことはある(ニコメデスはチリのビクトル・ハラへのインタビューなどもしており、その交流を経てビクトルはニコメデスの持ち歌「ア・ラ・モリーナ」などを歌っている)。
 この映画では「先住民」と「軍」の関係に焦点が合わされているため、アフロ系子孫への言及は非常に限られているのだが、その中でもさりげなくニコメデスのこの曲が入っているということの意義は大きい。当時のアフロペルー音楽はアフロ系子孫に対する差別に対する告発の歌が一定の割合で入っており(同時に日々のなんてことのない断片や遊び歌、労働歌なども多かった)、奴隷解放を宣言した大統領ラモン・カスティージャを讃える曲や、いつかペルーでもアフロ系子孫から大統領が出ると歌う曲までさまざまな曲がある。

<カイトロ・ソトが歌う「ネグロ・リブレ」>

 そして映画の最後はなんとムシカ・クリオージャで幕を閉じる。ムシカ・クリオージャ、そしてバルス(ワルツ)をペルーの象徴的な音楽として現代に続く道筋を作った偉大な作曲家フェリペ・ピングロ・アルバの代表曲「庶民El Plebeyo」をタイトルとした1962年の映画が最後に登場する。歌っているのはフェリペ・ピングロを歌うことでペルーでもっとも知られた歌手の一人となったヘスス・バスケスだ(そもそも彼女の18歳でのデビューからして「庶民」をピングロ追悼のイベントで歌ったことであり、翌年には映画でそれを歌っているという意味でも彼女なしにこの曲は語れない)。
 →このピングロとヘスス・バスケスについてはここに詳しく書いている

<こちらは1938年のEl Gallo de mi Galpónという映画で歌われた「庶民」>

 そもそも、ムシカ・クリオージャは、リマの貧民の音楽であった。クリオージョ・ポプラルと呼ばれた白人エリート・クリオージョ層とは異なる混血の貧しいクリオージョ層が、その生活の悦びとして歌い継いだ音楽だ。
 2024年3月に亡くなったムシカ・クリオージャ研究者のダリオ・メヒアによれば、20世紀初頭に活躍したピングロは、1920年代に当時のペルーを代表する社会主義思想家マリアテギがヨーロッパから帰国したタイミングで会う機会があったが、ピングロが愛の曲をマリアテギに見せたため、あまり関心を持ってもらえなかったという。まだ若かったピングロは、マリアテギにとって愛や恋のような浮ついた曲を作っている若者と映ったのだろう。しかし、マリアテギの死後となった30年代には名作「庶民」や「物乞い」「かわいそうな労働女性」「農民の祈り」といった社会問題をテーマとした数々の曲を歌った名曲を作曲しており、マリアテギもこれらの曲をもし聴いたらなピングロが単なる民衆音楽家ではない、哲学を持った市井の音楽家であったことを認めただろうと指摘している。

<「物乞いMendicidad」>

 だからこそ、改めてピングロの不朽の名作「庶民」の特に最後に流れた2番の歌詞を見るならば、そこには愛する貴人に対する下賤の者の卑屈な憧れと怒り、というものを越えた構造的差別に対する告発と闘争が歌い込まれていることの意味に改めて直面するのである。リマでも、先住民やアフロ系子孫と同様に民衆クリオージョ層は常に差別と搾取の中で、自らの解放を願ってきた。そして、その一人として立ち上がった男が、ベラスコという北部海岸地方ピウラ出身のクリオージョの男であり、ムシカ・クリオージャを愛し、頑固で愛嬌のある親父として、家父長制打破を目指しながら自らは家父長制を再生産するという権威主義から逃れることの出来ぬまま、それでも平等な社会という理想を目指して生きて、敗れて、死んだのだということが見えてくる。

 こうして再び「革命する大地」という作品を振り返るなら、それはペルーという社会の、資本主義の、植民地主義の、家父長制の、幾重にも折り重なった抑圧と支配のシステムとの闘いの記憶であったことが分かる。彼は、下からの革命を弾圧する中で矛盾を感じ、権力と暴力を利用してシステムに立ち向かい、同じように結局は暴力によって排除された。構造が持つ力は強い。「革命」のほとんどが反動によって、もしくは革命勢力自体が権威主義化することによってその成果を残すことが出来ないで終わるように見える。しかし、しかしそれでも、その経験は残る。つかの間でも体験したという身体的記憶は、社会を見る目を、未来を信じる力を養っていく。21世紀の今、先住民や市民の蜂起が続くペルーが私たちに教えてくれるのは、世界中を覆っている新自由主義による1%のための社会に抗うことを諦めず、失敗を恐れず、声を上げ、経験をつないでいかなければ、世界は転がり落ちていくことしかないということだ。世界は決して勝手に良くはならない。良くなるように見えても、そう簡単には変わってはいかない。だからこそ、私たちはいろいろな方法で、いろいろなアイデアで、独断で、連帯で、あの手この手で、生きやすい世の中を妄想し、作っていく必要がある。それは、すぐには目に見える変化にはならないかも知れない。だが伏流水となって、思いもよらぬ形で実を結ぶこともあるだろう。私たちはまず、日常の中に政治を取り戻し、ささやかな日常の民主化からはじめていくことで、この絶望の世紀を解体し、覆していくそれぞれの革命を、楽しみとともに、野放図に、進めていくところからはじめていくことが必要ではないだろうか。
posted by eLPop at 00:32 | 水口良樹のペルー四方山がたり