Top > Calle eLPop > ラテン・ミュージシャン・インタビュー・シリーズ(3)加塩人嗣(Sax/fl)Part 1

ラテン・ミュージシャン・インタビュー・シリーズ(3)加塩人嗣(Sax/fl)Part 1

2022.10.24

eLPop企画『ラテン・ミュージシャン・インタビュー・シリーズ』

ラテン・アメリカの音楽の情報をお届けするeLPopですが、その魅力に惹かれラテン音楽に取り組む日本のミュージシャンをもっとご紹介して行きたい!という事でインタビュー・シリーズが始まりました! 巻末には登場したミュージシャンの作品リストやオフィシャルWebサイトなどの情報なども掲載予定です。


第三回目はサックス・フルートの加塩人嗣(かしお・ひとし)さんです。

加塩さんトップ.jpg

加塩さんはジャズ系の活動後にキューバ系ラテン音楽に接し、キューバ、メキシコでの演奏の機会を得て、Omara Portuondo、Yumuri y sus Hermanos、NG La Bandaなど、数々の有名アーティストと共演の経験を持つ達人。ラテンとジャズの間で活動され、またブラジル系音楽の演奏経験も多い。現在、自己のバンド、 Don De Don(どんでどん)をはじめ、東京キューバンボーイズなどに所属し精力的に活動中。現在まで、自身8枚のオリジナルCDを発表し他にも幅広い分野で、国内外のツアーやテレビ、レコーディングなどに参加し精力的に活動中。

そんな加塩さんの軌跡を全3回でお届けします!

(聞き手:岡本郁生&伊藤嘉章)

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆ .


――これまでのサックス人生、そして、ジャズとラテンを両方やられる加塩さんのお話をおききしたいと思います。

ジャズとラテンの関係性みたいなことですが、日本の場合って、わりと分かれるじゃないですか。他のジャンルもそうなんですけど、やっぱり僕はその昔、ちょっとニューヨークとか行った事あるんですけど、その時に感じたのは、垣根があんまりないっていうか近しいっていうか。それこそ、あびる(竜太)君たちのようにバークリー行った人たちは、どっちも同じように練習するらしいですね。で、日本の場合はちょっと離れてしまっている。ただ、管楽器奏者としてのこちらとしては、どちらも行き来が出来る感じがするんですよね。ジャズしかやらないよとか、日本の場合はまだまだ多いんで、そういうのはちょっと感じますけどね。もっとオープンにやってみたら?と。

kashio2.jpg

――向うの、特に管楽器のひとに訊くと、エディ・パルミエリで来た人もそうだけど、学生時代に管楽器がいないからメレンゲ・バンドに呼ばれたりとか、日本人でも、バークリーに行ってた人が、なんかわかんないけどバイトで後ろで譜面吹いてればいいからって言われてラテン・バンドを初めて経験しました、とか(笑)いう人がいるんで。そういう意味では管楽器っていうのは……

そうなんですよね。リズムの人って、例えばですよ、ブラジルものとキューバものと、やっぱり専門的にやる人が多いじゃないですか、どちらもやる人も中にはいらっしゃるけど。ボクなんかも、それこそ昨日なんかも、キーストンクラブ東京でブラジル系をやったんですけど、わりとそこらへんは、リズム割をしっかり気を付けていれば、音使いとかはあんまり、ジャズにしてもラテンにしてもブラジルにしても、そんなに変わらないというか共通項が多いんで、気持ち一つでどっちも行きやすいとは思ってるんですけども。


「父親と大げんかして、楽器1本持って東京に出てきた(笑)。大学は中退して。」


――じゃあそんな加塩さんのですね、生い立ちを、根掘り葉掘り聞きたい。60年以上かかっちゃうかもしれないけど……(笑)

正直言いますけど、今年で65(歳)なんで、もう、ほんとに自分でも信じられないんですけど……。
鹿児島の出身で、実家は日本蕎麦屋だったんです。鹿児島市のわりとド真ん中のところで、うちの父親が蕎麦屋をやってまして。当時の父親って、飲む・打つ・買う……まあ、飲むはしなかったか……ま、けっこう派手派手しくて、でまぁ、恥をさらすようですが、外に女の人を作ってですね、外に子供もできちゃったんですね。うちの母親はやっぱりそれが耐えられなくて、小学校の高学年のときに実家に帰っちゃったんですね。

で、そういう中で生活していて、小中高まで徒歩圏内だったんです。高校も、普通科の高校だったんで……ほんとは、ボク長男なんで、あ、弟はいたんですけど、後を継がなきゃいけないんです。ていうか、父親もそれを期待してたと思いますけど、あのー、鹿児島大学ってとこに受かっちゃったんですよ。間違えて、一発で(笑)。それで、「ま、大学は行くか」みたいな(笑)感じで。で、ちょうどその、高校から大学にかけてわりと親しくしていた友達がジャズを聞き出したんです。それまで、僕は中学からサックスやってまして、いわゆるブラスバンドで。ま、そんな一所懸命じゃなかったんですけどね。で、「ジャズどうだ?」っていわれて、いまだに覚えてるんですけど、クロード・ソーンヒル・オーケストラっていうのと、チック・コリアと、渡辺貞夫さんの初デビュー盤みたいなのを持って来られて、聞いたわけですよ。

nabesada.jpg
"SADAO WATANABE"

で、それまでクラシックばかり聞いてましたから、わからないんですよ、どこが面白いのか。でも、それ言うと、ちょっとカッコ悪いじゃないですか。「子供が……」みたいに思われそうで。で、悔しいから、けっこう聞いたんです。そしたらある日、「お、面白いかもしれない」と。高校2〜3年ぐらいですね。それで、鹿児島大学のジャズ研があるんですけど、そこのコンサートを高校3年のときに見に行ったんです。そしたら、「こんな、アドリブとかって、どうやったらできるんだろう?」みたいな……。だんだん、傾倒してってるわけです。自分の中で、ジャズに。

で、大学に入ってジャズ研に入ったんですね。でまぁ、普通にやってたんですが、2年目か3年目ぐらいかな、つまんないことで父親と大げんかして。「出てけ!」「わかった、じゃあ、出てくよ」って、で、楽器1本持って、東京に出てきた(笑)。大学は中退して。

でも当時、ぜんぜんコネなかったので、あの〜、仲の良かった友だちが法政大学に入ってたんですよ。で、京王線・笹塚の4畳半一間のアパートに住んでて、そこに転がり込んで(笑)。それでまあ、いろんなバイトしましたよ、引っ越し屋やったりとか、六本木の「バードランド」ってジャズ・クラブでウェイターやったりとか。で、そのうちに、横浜のダンスホールの仕事とかを紹介してもらったりして。当時、(自分は)そんなに(上手く)吹けないんだけど、吹くとこはいっぱいあるわけですよ。


――1980年代のはじめぐらいですか?

ですね。で、毎晩毎晩シゴかれて、まあ、よくクビにならなかったな、と今になって思うんですけど、まあ、いい時代ですよね。カネはなかったですけどね。それこそ、4畳半一間で共同トイレで風呂なしで、みたいな(アパートで)。毎日、笹塚から横浜に行くので、時間的に銭湯に入れない(笑)。だから、横浜行って銭湯入って、仕事して帰る、みたいな毎日でしたね。

――ボクは一歳下なんで、なんとなくわかります、そのころの感じ。

わかるでしょ! あの雰囲気がね(笑)。

――でも、そんなアパートに住んで銭湯に行って……って、別に貧乏なわけじゃなくて、当時はフツーでしたよね。

そうそう。20代前半だし、東京出てきたばっかりで生活するのに必死で、辛いとかあんまり思ってなかったですね。

――横浜はいわゆる“ハコ”(ダンスホールなどのレギュラー・バンドでの仕事のこと)ですよね? どこですか?

横浜の西口にね、もうないと思うんだけど、「白馬車」っていうダンスホールがあったんですよ。大きかったですね。いわゆるダンスホールで、ダンサーさんがいて、アマチュアの人の(ダンスの)お相手をする、みたいな。フロア自体はそんなにデカくなかったけど。3階席ぐらいまであって、っていうのは覚えてますね。当時はそういうバンドって、お店の仕事をやりつつ、外に仕事かあると……つまり歌謡曲の人のコンサートがあると、専属バンドとしてくっついて回るっていう、そんな感じでしたね。小林旭、三橋美智也、青江三奈、このへんでしたね、僕がやってたのは。

――超一流ですね。

……かどうかわかんないけど、あ、こんな世界あるんだ!って。自分としては、ジャズやりたくて出てきてるから、「なんか違うな、早くこんなところから抜け出したいな」と思ってたんですけど、まあ、ヘンに食えるから、先輩方は、休み時間になるとトランプやって賭けて貧乏人同士でむしりあったりとか、終わりのほうになると酒飲みに行ったりとか、やってましたよね。

――ブラバンやってたってことは、ある程度は譜面読めてたんですよね?……っていうと失礼ですけど。

うん、ある程度は。でも、今になって思えば、ジャズのアーティキュレーションとか、当時はなんにもできなかったよな〜って思いつつ、すっげー怒られてましたけど、なんとかかんとか食らいついていって、みたいな。

――ところで、鹿児島大学のジャズ研はコンボだったんですか?

ビッグ・バンドです。やっぱり、(カウント・)ベイシーとかバディ・リッチが多かったですね。正統派っつったらあれだけど、そういう感じの。ま、たいしたバンドじゃなかったですよ。でも、みんな一所懸命で

――そのころ好きだったのは?

やっぱり最初は(渡辺)貞夫さんに影響されましたよね。『カリフォルニア・シャワー』とかヒットしたでしょう。あれが良かったのか悪かったのかわからないけど、ああいうのに憧れてしまって……ま、貞夫さんがやってることは、ジャズをやろうがフュージョンをやろうが変わらないんだけど……憧れてしまって、そのうちにスクエアで伊藤(たけし)さんが出てきたりとか、しまいにはデビッド・サンボーンがバーっと(出てきて)、いや、これは凄いな、と。むっちゃくちゃ影響されましたね。

60818800.jpg
"California Shower / 渡辺貞夫”

――当時の楽器は……?

大学のときに買ったものですね。それはね、珍しくオヤジが買ってくれたんですよね。で、サンボーンとかを聞き出すと、ダンスホールの仕事をやってても面白くなかったんで、六本木あたりのディスコ・バンドに行ったんですよ。六本木にね、ヘンな赤い絨毯の店があって、お客さんが靴を脱いで踊るんです。「最後の20セント」って、スクエアビルのすぐ近くです。ロアビルの中とか、昔のサテンドールの前の「テニスクラブ」とか、そういう、バンドを入れてるとこが何軒かあって、赤坂だと、日枝神社の前に「ポテトクラブ」ってあったんですよ。そこも出てましたね。

saigono.jfif
六本木「最後の20セント」

――バンドで、ですか?

同じバンドで「最後の20セント」に出るとか、たまに「ポテトクラブ」に出るとか、そんな感じです、ミラージュってバンドで(笑)。そこのボーカルの人が、いま市場の運転手をしてるって聞きましたね。ま、大先輩たちなんですが。当時は事務所も給料の払いがすごい遅れたりとか、あげくのはてに、僕が入ったバンドって、リーダーが九州の人なんで、九州の人が多かったんですよ。そうすると、3つ4つ、同系統のバンドがあるんですけど、もうね、なんかあるとすぐ、こう……(喧嘩)(笑)。いちばん酷い人は、ヤクザに喧嘩売って歩くような人で、ま、すごかったですよ。だから、1年ぐらいしかやらなかったかな。(毎日)夜中の2時ぐらいまで(演奏を)やらされるわけですよ。で、朝まで時間ツブさなきゃダメじゃないですか。そうすると、ロクなことしないんですよ、朝まで酒飲んだりとか。で、こういうのも……まわり見てたんで……ちょっとよくねえな、と思ってまた戻ったんです、横浜に。
そしたら案の定、「おまえ全然ダメになったな」と。で、これはヤバい、と。

ダウンロード (2).jfif
"小野満とスイングビーバーズ / BIG BAND SPECIAL"

そうこうしてたら、小野満とスイングビーバーズっていう……当時、紅白とかやってたんですけど……あのバンドのオーディションがある、っつって、受けたら通ったんですよ。で、それで、そっち行って、テレビの仕事とかするようになって。ほどなくしてそのバンドは解散して、そのあとがミュージック・メイカーズっていう(バンドで)、それもテレビとかやってたんです。で、そこに移って、それこそ、森進一やってたりとか、そんな感じで。で、しばらく我慢して、30(歳)のときでしたかね、フリーになろうと思って。フリーになって今に至る、です。


――1987年ごろですね? 

そうですそうです。でね、やっぱり当時は仕事、いっぱいあったんで、それこそね、ニューヨークに2か月ぐらい遊びに行ったんですよ。やめたから気分転換に。で、帰ってきたらすぐ、いろんな仕事もらいましてね。ほら、レコーディングとか……ぼくはスタジオミュージシャンとして売れた方じゃなかったけど……あったし、あと、ツアーの仕事も(ありました)。ちょっと演歌系で桂銀淑、チョー・ヨンピル、アグネス・チャンとか、けっこうやりましたね。ま、おカネには苦労しなくなりましたよね。でも、その当時も自分のバンドやりたいな、っていう気持ちはずっとあったんで、ライブ活動はちょこちょこやってましたね。

――まずやったのはジャズなんですか?

いや。フュージョン・バンドですね。でも、ちょっと惜しかったんですよね〜。けっこうお客さん多くて、クロコダイルで月1で(出ていて)、だいたい80〜90人ぐらい来てました。ほとんど満杯です。けっこういろんな人が知ってましたよね。ミッドシップというバンドで、CD3枚ぐらい出してるんですよ。自主(製作)ですが。ベースのやつがリーダーで、で、そいつがマーカス(・ミラー)が大好きで、その彼がいろんな曲を書いていて。
(MIDSHIP:加塩人嗣(sax)、藤林昌彦(b)、奥田康浩(de)、吉田悟(key)、山本聡(g)、都筑章浩(perc))

Midship.jpg
"Second / Midship"

――いわゆるフュージョンですね?

そうそう。管は僕ひとり。ドラム、べース、キーボード、サックスという4人で。途中で何年間か、3管増やして、っていうときもありましたね。10年以上はやったかな。で、なんだかんだ出たんですけど、やっぱりバンドって、だんだん勢いがなくなってくるっていうか。それもあったし、メンバーそれぞれが、ミュージカルの音楽監督になったりだとか、それなりにみんな広がってきて、バンドとしては活動できなくなってきて。



(Part 2に続く)




【プロフィール】
加塩人嗣  Hitoshi Kashio


sYYlK8cq_400x400.jpg

鹿児島大学在学中より演奏活動を始める。
フリーの演奏家として、数々のアーティストのツアー、レコーディングなどに参加。(Exile、矢沢永吉、Crazy KenBand 、サルバトーレ・アダモ Etc.)ジャズ系の活動後、 キューバ系ラテン音楽に接し、キューバ、メキシコでの演奏の機会を得て、Omara Portuondo、Yumuri y sus Hermanos、NG La Bandaなど、数々の有名アーティストと共演の経験を持つ。 またブラジル系音楽の演奏経験も多い。

現在、自己のバンド、 Don De Donをはじめ、東京キューバンボーイズなどに所属し、精力的に活動中。
現在までに、自身8枚のオリジナルCDを発表している。他にも幅広い分野で、国内外のツアーやテレビ、レコーディングなどに参加し精力的に活動中。また、MUSIC SCHOOL DA CAPOの講師として後進の指導の面でも、手腕を発揮している。
Website : https://www.hitoshikashio.com/


posted by eLPop at 13:17 | Calle eLPop