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『eLPop今月のお気に入り!2021年8月』

2021.10.05






やっと非常事態宣言解除とか言ってますが、『eLPop今月のお気に入り!2021年8月』をお届けしたいと思います。

新譜・旧譜、新作・旧作関係なく、音盤あり曲あり映画あり、本あり、社会問題ありと様々ですが、この月はなぜかこれだった、というのをチョイスしました。この月の気分が含まれた雑誌、プレイリストのように楽しんで頂ければ幸いです。

【目次】
◆高橋めぐみ『チママンダ・ンゴズィ・アディーチェの本』(ナイジェリア)
◆山口元一『第54回バジェナート伝説フェスティバル』(コロンビア)
◆石橋純『サマー・オブ・ソウル』(USA)
◆長嶺修『不屈の民』(チリ)
◆水口良樹『サウンド・イン・リマ』(ペルー)
◆佐藤由美『映画『明日に向かって笑え!』&松田美緒『La Selvaラ・セルヴァ』』(アルゼンチン&日本)
◆宮田信『ロス・ブキス』(チカーノ)
◆岡本郁生『追悼:ロベルト・ロエナ』(プエルトリコ/NY)
◆高橋政資『追悼:アダルベルト・アルバレス』(キューバ)
◆伊藤嘉章『追悼:ロベルト・ロエナとアダルベルト・アルバレスの思い出』(プエルトリコ&キューバ)



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◆高橋めぐみ(SOY PECADORA担当/スペイン語圏の本・映画)
『チママンダ・ンゴズィ・アディーチェ』


読んだ本:ナイジェリアのミニ特集-後編


お待たせいたしました! みんな大好き(になってほしい)チママンダ・ンゴズィ・アディーチェを紹介いたします。彼女のホームページ(https://www.chimamanda.com/)を開くと大きな花のようなヘアスタイルのキリッとした表情の女性の写真が出てきます。この彼女の表情がその作品を表していると思います。魅力的で新鮮、興味深くとてもおもしろい物語の中に決して見過ごしてはいけない重要な事柄が含まれているのです。

日本では、くぼたのぞみという最高の翻訳者を得ているので、その訳文を全面的に信頼してただ読めばいいだけ、という幸せな体験ができます。

「フェミニスト」としての活動でも注目されているアディーチェですが、やはりまず小説家としての実力を評価していただきたいので、最も好きな3作を紹介いたします。

★『アメリカにいる、きみ』(2002-日本独自編集版出版年は2007)
原題:You in America
著者:チママンダ・ンゴズィ・アディーチェ, Chimamanda Ngozi Adichie
翻訳:くぼたのぞみ
河出書房新社(現在品切れ、デジタル版は入手可能)

youinamerica.jpg

https://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309204796/

 O・ヘンリー賞受賞作を含む日本独自編集の傑作短篇集。細かな心の動きが染みるまさに珠玉の全10篇。
 数日の間に人生が大きく変わってしまった女性が、難民ヴィザを発行してもらうためにアメリカ大使館の列に並んでいる。そうなるに至った出来事。後ろに並ぶ若者からのアドバイス。過酷な面接。O・ヘンリー賞受賞作の「アメリカ大使館」。

 ビアフラ戦争ですべてを失ったイボ族の一家を描いている。同名長編のきっかけとなった「半分のぼった黄色い太陽」。

 稼いだ金のほとんどを仕送りしている主人公がある朝バスに乗ると女性運転手が感じよく話しかけてくる「ここでは女の人がバスを運転する」。

 イボ族の父とイギリス人の母の間に生まれアメリカの大学でアフリカ文学を教える女性の回想「ママ、ンクウの神さま」等。

 全編がお勧めの希有な短編集です。

★『半分のぼった黄色い太陽』(2007-日本の出版年は2010)
原題:Half of a Yellow Sun
著者:チママンダ・ンゴズィ・アディーチェ, Chimamanda Ngozi Adichie
翻訳:くぼたのぞみ
河出書房新社(現在品切れ、デジタル版は入手可能)

halfofayellowsun.jpg

https://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309205519/

 50才以上の人ならばやせ細った手足に大きく膨らんだお腹でうなだれているビアフラの幼児の衝撃的な写真を覚えているのではないでしょうか。その写真は犠牲者数百万といわれるビアフラ戦争(Nigerian Civil War、1967年7月6日 - 1970年1月12日)で撮影され世界を震撼させました。イボ族を主体とした東部州がビアフラ共和国として分離・独立を宣言したことにより起こったこの内戦ではビアフラが包囲され食料・物資の供給が遮断されたため、飢餓が国際的な問題となったのです。

 物語はその内戦が起きるまでと起きてからの様々な状況を往き来しながら、大学の数学講師とそのハウスボーイ、政商の美しい双子の娘たち、娘のひとりの恋人である英国人などの人々を描きます。愛と裏切り、怒りと癒し、そして内戦という地獄。

 新国家「ビアフラ共和国」建国のための混乱によって脱出や避難を余儀なくされ、食糧不足や爆撃という過酷な状況下で繰り広げられる物語は重層的でたいへんスリリングです。

 アディーチェは1977年生まれなので、もちろんこの戦争を体験はしていませんが、イボ族である彼女の家族は大きな犠牲を払ったといいます。この物語はこの世に3年間だけ存在した幻のような、しかし、深い傷痕を残した国と犠牲になった人々、翻弄された人々への深い鎮魂の思いに満ちています。

★『アメリカーナ』(2013-日本の出版年は2016)
原題:Americanah
著者:チママンダ・ンゴズィ・アディーチェ, Chimamanda Ngozi Adichie
翻訳:くぼたのぞみ
河出書房新社 / 河出文庫(2019)

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https://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309207186/

実は、わたしが最初に読んだのはこの『アメリカーナ』でした。この作品は大河恋愛小説とも言える物語で、背景にはナイジェリア軍事独裁政権時代や留学先での人種差別なども描かれてはいますが、やはりちょっとコメディタッチながらこってりした恋愛小説なのです。つまり個人的にはほとんど選ばないジャンル。ところが、読み終わったわたしは「こんなにおもしろい小説があるのか!もう、この人の作品は全部読む!」と叫んでいたのです。

 舞台はナイジェリア、アメリカ、イギリス。中学時代に恋に落ちたふたりイフェメルとオビンゼの長い物語。自分が「黒人」だなどと考えたこともなかったイフェメルは留学先のアメリカで初めて「黒人」であることの意味を知ります。この部分が一番先にショックをうけたところで、確かに自分も日本に居る分には自分が「黄色い肌」の人間だと自覚することはまずありませんし、そのことで「差別」を受けることもないのです。
 アメリカ生活で次々と困難に直面するイフェメル。彼女の人生は裕福な白人男性のおかげもあってグリーンカードと仕事を得てアフリカン・アメリカンの恋人も出来てなんとか落ち着きを見せるのですが。

 一方のオビンゼは9.11のせいでアメリカ留学の道を絶たれイギリスに渡り不法就労の傍ら定住資格を得ようと奮闘しますが、最終的には強制送還されてしまいます。

 そして、長い年月を経て再開するふたり。物語は急展開!どうなる?どうなる?

 作中のイフェメルが立ち上げた「人種の歯、あるいは非アメリカ黒人によるアメリカ黒人(以前はニグロとして知られた人たち)についてのさまざまな考察」というブログや毎度物語の転換のきっかけとなる彼女が通う美容院など興味深いものがキラッキラにちりばめられていて、分厚い本なのに全然飽きないでぐんぐん読ませます。

 先の2作品は紙の本が品切れですが、こちらは文庫になっています。図書館で借りたりしないでぜひ購入して読んでほしい傑作(いろんな意味で濃厚な)小説です。





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◆山口元一("Ay hombe"担当/コロンビア)
『第54回バジェナート伝説フェスティバル』


コロンビアの最新ヒットを紹介するコーナー、"Ay
Hombe”です...が、今月は最新ヒットではなくて、10月13日から17日にバジェドゥパルで開催される第54回バジェナート伝説フェスティバル(Festival
de la Leyenda
Vallenta)にあわせて何曲か紹介します。なおバジェナート、さらにこのフェスティバルについて説明するとなると、とてつもなく長くなってしまうので、ここでは書きません。興味のある方は月刊ラティーナ2012年8月号に特集記事が掲載されているのでご一読を。

毎年5月に行われているこのフェスティバル、昨年は新型コロナウイルス感染拡大のため無観客、その後、来年秋になればなればさすがに収まっているだろうという見通しのもと今年の10月開催が決まったのですが、コロンビアはあいかわらずコロナ酷いです。今年はピロネーロスのパレードがない以外はいちおう通常開催、有観客のようです。もっとも決勝以外は基本無料のフェスティバルで、子ども部門、青年部門、アマチュア部門の予選以外はどの会場もかなり密になるし(あとバジェドゥパルは暑すぎてマスクなんてつけてられない)、ピケリア(即興の歌合戦。サルサのドゥエロみたいなもの)なんて思い切り対戦相手に唾かけますからね...どうなることやら。

まずはこのフェスティバルの事実上のテーマソング”Ausencia Sentimental”。作曲はラファエル・マンハレス(Rafael Manjarréz)、1986年カンシオン・イネディタ部門優勝作です。

Ausencia Sentimental Silvio Brito


https://www.youtube.com/watch?v=nr0jsFjy9xM


“フェスティバルが始まった みんなが僕のことを誘いに来た
僕といっしょに勉強していた 田舎の仲間たちも帰ってしまった
みんなが帰った昨日の午後 僕はふさぎ込んでいた 誰にも気持ちを話したくなかった
僕だって死ぬほど帰りたいんだ でもこの首都にいなければならないのは 僕のさだめなんだ
部屋に閉じこもったまま 僕は悲しい気持ちを あの土地にいることのできない空しい心を 詩にしたよ
気の利いた小話とすてきな物語 それがあの土地の習慣
おじいちゃんたちのために書いた 思い出を綴った詩
いつもいっしょだった恋人や友だちたち
僕はここにいるけれど 僕の魂はいつもあの土地にある“


今年のアコーディオン奏者プロ部門は例年の半分ほど、30人がエントリー。たださっとエントリー・リストを見たところかなり粒ぞろいです。まあ予選か、2回戦ぐらいは聞かないとなんとも言えないのですが、リストだけで、誰が5人のファイナリストになるか、予想してみます。この原稿がウェブに掲載される頃にはもう結果があきらかになっていそうですが。

ハビエル・マタ(Javier Matta)。彼は万年ファイナリストになりつつありますね。ここらで一抜けしたいところです。映像は2012年、初めてファイナルに進出した年のもの。撮影は僕です。

2012 Festival de la Leyenda Vallenata - Javier Matta - Amparito

https://www.youtube.com/watch?v=-PZSKCPYkbQ


カミロ・モリーナ(Camilo Molina)。2014年のアマチュア部門の王様。まだプロ部門ではファイナリストになっていませんが、確実に力をつけていますね。

CAMILO MOLINA - SEMIFINAL FESTIVAL VALLENATO ACORDEONEROS PROFESIONALES 2020.


https://www.youtube.com/watch?v=6ia5Whh8XCo


ヘスース・オカンポ(Jesus Ocampo)。最近めきめきと力をつけてきました。2019年はポンチート・モンサルボ、2020年はマヌエル・ベガ、ハビエル・アルバレスの後塵を拝したものの、僕は一番いいと思っていました。

La Pareja Ideal [Puya] (Donaldo Martinez) - Jesus Ocampo 2019


https://www.youtube.com/watch?v=DZwHZXdKv_g


オマル・エルナンデス(Omar Hernandez)。

Omar Hernández Finalista Festival Vallenato 2020


https://www.youtube.com/watch?v=mM8vGbbou88


ハビエル・アルバレス(Javier Alvarez)。昨年の2位。彼はバジェナート的には歌も旨いです。

Javier Alvarez /Segundo Lugar/ Final Festival Vallenato 2020


https://www.youtube.com/watch?v=wRi5fjUbVBs

この5人は実力的には横一線でしょう。

この大会では、ミスなくプレイをした奏者ではなく、突き抜けた演奏をした人が勝ちます。コロナ禍でホルヘ・セレドンのような人気者まで経済的に破綻したバジェナート業界、大金を稼いでいるわけではない民謡音楽家にはかなり厳しい状況ですが、みんな頑張ってよい演奏を聴かせてほしいですね。






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◆石橋純(熱帯秘法館/CASA CACHIBACHI担当/ベネズエラ& more)
『サマー・オブ・ソウル』



Summer of Soul ... Or, when the latin@ minority is not still represented

8月30日に封切られた「サマーオブソウル(あるいは、革命がテレビ放映されなかった時」を観た。

1969年、ニューヨーク、マンハッタン。ハーレムと「エル・バリオ」ことイースト・ハーレムとの境界に位置するモリス・パーク(のちにマーカス・ガーヴェイ・パークと改称)において、7月末から8月末にかけて「ハーレム・カルチュラル・フェスティバル」と称する週末の音楽祭が開かれた。このフェスティバルの完全記録映像が存在するということは、長らく知られていなかった。とあるフィルム・キュレーターがその存在を「発見」したことが、この映画企画の発端となった。作品は、コンサート映像に、演者ならびに聴衆(当時の若者。いまはオジサン/オバサン)による回顧インタビューを織り込んだ音楽ドキュメンタリーだ。

USアフロ系音楽とサルサ、ラテンジャズ、そしてカウンターカルチャー、USブラックムーブメントに関心を持つ人ならば、必見の作品だ。残念ながら劇場公開は9月末には終わってしまったが、ネット配信が始まったら観ることを多くの人にお薦めしたい。

ひとことで言うと反抗のエナジーと「格好よさ」に満ち満ちた映画だった。ポップスでなくブラック・ミュージックだけをやっていたスティービー・ワンダー19歳のやんちゃさ。ハーレムの女王然として、ブラックピープルを鼓舞するニーナ・シモンの威厳。衣装から振り付けまでキメッキメのモータウン連中グラディス・ナイト・アンド・ザ・ピップスの立ち居ふるまい。「アクエリアス」がスマッシュヒットとなったザ・フィフス・ディメンションの洗練されたダサさ(ダサい洗練じゃなく)。ソウル〜R&Bのステイプル・シンガーズが惜しみなく発露するルーツ礼賛。ゴスペルの女王マヘリア・ジャクソンの不動の存在感。格好よさを数えあげたら切りがない。

音楽で表現するブラック・パワーの祭典というフェスの文脈の中で、ひときわ強烈な閃光を放っていたのは、スライ・アンド・ザ・ファミリー・ストーンだ。ジャンル、ジェンダー、世代、人種/民族の垣根をこえた、自由の爆発! 私のイチオシだ。

スライ・アンド・ザ・ファミリー・ストーン「エブリデイ・ピープル」

https://youtu.be/c0ZG4iZxWxE

当時すでに伝説の域にあった人から、いまや伝説となった人まで、すごいキャストが続々と登場する。この奇跡的なフェスに参加した演者当人ならびに観客代表が、記録映像を見ながら当時を語る------このインタビューがまた素晴らしい。スライ・アンド・ザ・ファミリー・ストーンのライブを観ることは、当時ハーレムに住んでいたアフロ系ティーンエージャーにとっても常識が吹き飛ばされるくらいの爆風だったのだ。そういう証言を聞くことは、ポピュラー音楽史に興味を持つ者にとって貴重な体験だ。

外からぼーっと眺めると一枚岩のように見える「USブラックミュージック」にも、当然ながら境界や序列があるということもうかがい知れた。フェスの序列の頂点にあるのは深南部5州出身であったり、NYCで揺るがぬ名声を得ている大御所たちだ。マヘリア・ジャクソン、BBキング、ニーナ・シモンらがこれにあたる。そのルーツを共有する若い演者――メイヴィス・ステイプルら――は、目を輝かせて大御所と同じ空気を呼吸する。ブラック・ミュージックの周縁地セント・ルイスかから招かれたザ・フィフス・ディメンションは、自分たちを「ニセモノ」と卑下しないまでも、ハーレムでパフォーマンスするには「本格度」が足りないという引け目を感じていたようである。いち早く商業市場における地歩を固めていたモータウン連中も似たような感覚でマヘリアやシモンと同じ舞台に立っていたのではないだろうか。

モータウン社中、グラディス・ナイト・アンド・ザ・ピップス

https://youtu.be/_4kVn3xqxw0

ブラックミュージックのルーツと新世代を体感させる演者・演目にあって、その秩序と序列を破壊して人々を自由のエナジーで満たしたのがスライ・アンド・ザ・ファミリー・ストーンであったように私には思えた。

ところで、われらがラテン連中は? モンゴ・サンタマリアが、後にラテンジャズの古典となった「ウォーターメロン・マン」を、レイ・バレットが「アビジャン」を(バレットの生歌つきで)、文句のない格好よさで披露している。とても残念なのは、前述のような演者本人と聴衆による厚みのある証言のポリフォニーがこの2曲に関しては、構成しきれていなかったことだ。

衣装も演奏も最高に格好いい「ウォーターメロン・マン」は、60年代のハーレムファッションを語るBGMとして使われてしまった。アフロヘヤーもダシキも重要な話題だけれども、モンゴを、わざわざ「伴奏」として使わなくてもいいだろう。アフロキューバ音楽とジャズが1940年代のNYCでどんなふうに出会って20年後の「ウォーターメロン・マン」のブギウギ〜チャチャチャ融合に至ったのか? そういう話ができる人を呼んでほしかった。一般ウケを狙うならば、作曲者ハービー・ハンコックがモンゴのバンドで弾いていたことがあるなんていいネタだと思う。なんならハンコック本人をインタビューにブックしたってよかったんじゃないか? シーラ・Eがモンゴのパーカス技術についてオタッキーに語るのは悪くないが、同じ「二世女子」を起用するならば、メキシコ系のシーラ・E(ピート・エスコベードの娘)よりも、プエルトリコ系のミリー・P(ティト・プエンテ従妹)の方がよかったんじゃね?

モンゴ・サンタマリア「ウォーター・メロンマン」

https://youtu.be/B00lqSsiv14


バレットについての証言はもっと残念だ。インタビューに呼ばれたのは、なんと!今をときめくリン=マヌエル・ミランダとその父ルイス。父ミランダは、米国ラティーノ政治の世界では有名な政治指導者・ロビイストだ。プエルトリコ生まれの彼は、1972年、18歳の年にニューヨーク大学入学のためにマンハッタンに移り住んだと経歴にある。ファニア映画「アワ・ラテン・シング」が封切られ、まさにサルサが世界に名乗りをあげた年である。NYサルサがもっとも熱かった時代にプエルトリコ人大学生としてNYCに住みつき、のちに政治指導者としてキャリアを積みあげた男。そんなミランダ父はサルサについて何を語ったのか? ------すみません、なにひとつ記憶に残っていません。それくらい空虚かつ空疎な、言葉の連なりでしかなかった。

製作チームの誰かが、作品中で次のようなことを語っていた。「フェスは盛りあがったが、誰も映画化の話に乗ってこなかった。ウッドストック映画は大ヒットして世界を駆け巡ったのに。黒人たちがやったことは歴史に残す価値はないとみなされたのだ」。主流社会はマイノリティの人々が起こした文化運動を黙殺した――フェス映像がお蔵入りした理由はこれだというのだ。「革命がテレビ放送されなかった時」という(ファンクの名曲から借用した)副題の含意もそこにある。この主張には突っ込みをいれる余地があるが、ドキュメンタリー映画製作のステイトメントしては定石といえようか。

そのような製作チームが、モンゴ・サンタマリアのラテンジャズをファッション批評のBGMとして使い、バレットの演奏にことよせて「サルサのビッグバン」前夜のエナジーを語らせずに済ませてしまった。つまり、マイノリティの声を拾いあげて現代に問い直すプロジェクトの主たちが、傍らのマイノリティに、みんなを代表して発言(represent)する舞台を用意しなかったということなのだ。そして「ハーレム・カルチュラル・フェスティバル」を歴史化・文脈化するプロジェクトに「ラティーノを代表して発言する」使命で呼ばれた政治・文化のセレブ父子が見せた「軽さ」には、がっかりさせられた。

エル・バリオとハーレムの境界に位置する会場でおこなわれた「カウンターカルチャーの音楽祭」を忘却の淵からすくい上げるこのプロジェクトにおいて、アフリカンアメリカンの隣人としてサウンドスケープを織りなしてきたスペイン語話者の暮らしと政治、その代表としてのモンゴ・サンタマリア(キューバ系1世)とレイ・バレット(プエルトリコ系2世)の音楽を、物語として構成できなかったこと------私がこの作品から感じた最大の不満はそこにある。



付記:「ラティーノを代表して発言する」リン=マヌエル・ミランダのふるまいについては、先月私自身が褒めちぎった映画「イン・ザ・ハイツ」についても、じつはいろいろ疑問を感じている点がある。このことにについては、専門家からじっくり話を訊いたので、別項を寄稿して掘り下げてみたい。どうぞお楽しみに。


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◆長嶺修(猫の目雑記帳担当/スペイン & MORE)
『不屈の民』


A-Musik「El Pueblo Unido Jamás Será Vencido」

https://youtu.be/Jz_7GEfDlIc


いまさらながらではありますが、チリのナンバー「不屈の民」のA-Musikバージョンです。というのも、実は生まれ育った多摩地域の近現代史をコツコツ調べているのですが、戦時期の軍需産業とその後について、つらつら探索していくその道程の傍らに“転がって”いたもので(この曲が、というわけではなく、アルバムを通してのほうがよいのですが、ラテンアメリカと関わりあるとりあえずの1曲ということで)。

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◆水口良樹(ペルー四方山語り担当/ペルー)
『サウンド・イン・リマ』



日本で今、Video Marketで視聴できる音楽ドキュメンタリー『サウンド・イン・リマ』(残念ながら私もまだ忙しくて見れていないのですが)にも登場しているパウチ・ササキの『Koppu』(2011)というアルバムに入っている「雨 ame」という曲を紹介したい。(パウチ氏は声&バイオリン)。アルバム通して日本語のタイトルはこの曲だけだが、非常に印象的。

iOS の画像 (21).jpg
Koppu /Pauchi

Pauchi Sasaki / ame

https://www.youtube.com/watch?v=40Wv_US9hYs


映画『サウンド・イン・リマ』はこちらで視聴できます。

Lima Grita.jpg
https://www.videomarket.jp/title/501006

アフロペルビアン・ジャズの大御所マンオンゴ・ムヒカ(ペルー・ジャズの一員としても有名)なども出演しているので興味のある人はレッツラゴーだ。



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◆佐藤由美(GO! アデントロ!/南米、ブラジル & more)
『映画『明日に向かって笑え!』&松田美緒『La Selvaラ・セルヴァ』』


◆アルゼンチン映画『明日に向かって笑え!』

チリ発のドキュメンタリー映画『83歳のやさしいスパイ』(2020年)は、いろいろと身につまされる要素満載なのだが、老スパイ氏の人柄とささやかな至福のユーモアにグッときた。社会問題の取り上げ方にも、さり気なくお国ぶりが現れるようだ。登場した皆さんが、このコロナ禍を無事乗りきっておられることを、切に祈る。

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して、お次がこちら! アルゼンチン発、不屈の民が理不尽な仕打ちに反撃する痛快ドラマ『明日に向かって笑え!La Odisea de los Giles』(2019年)。まだ間に合う劇場もありそうなので、要チェックですぞ。

2001年12月、アルゼンチン国民を打ちのめし、一部の若者を暴動にまで駆り立てた(※我が元同僚は「彼らの援護で投石しに飛んで行きたい!」と叫んだくらいだ)歴史的事件、金融危機による銀行のデフォルト(債務不履行)宣言と、それに伴う預金引き出し制限措置。悪名高き理不尽な出来事が重要なカギを握っている。寂れた町に住む、なかなかに個性的な人々。明るい未来を拓くべく一縷の望みを託した彼ら夢の起業資金が、悪徳弁護士と銀行支店長の手で騙し取られてしまう。経済・社会の混乱に乗じて盗みをはたらく者あれば、損こいて生きる気力さえ奪われる者もいる、これが搾取の現実というべきか。んが、被害住民らは黙ったままじゃ終わらない。無謀な反撃を実行に移すべく作戦を練り、一致団結するのだった。

“ヒレスgiles”なる語を、寡聞にして知らなかった。アルゼンチンで“お人好し”や“バカ正直者”を指すそうだ。ルンファルド(スラング)の一種だろうか!? 完全にフィクションだが、これまた忍ばせたユーモアの断片が、なんとも素敵な余情の置き土産……。名優リカルド・ダリンをはじめ、アクの強いキャラの持ち主たちが随所で好演。あいや、怪演?

asuni.png
https://gaga.ne.jp/asuniwarae/


『83歳のやさしいスパイ』で終幕を温かく包み込む楽曲は、スペイン・ポップス界の懐かしきヒーロー、ホセ・ルイス・ペラレス作品のカヴァーだった。

かたや『明日に向かって笑え!』の全編を彩る音楽は、バリバリ王道のロック・アルヘンティーノ! セル・ヒラン、ルイス・アルベルト・スピネッタにアルコ・イリス等、粒選りのレパートリーが住民の希望と失意に寄り添い、勇者らの無謀な行動を後押しする。

エンディングはセル・ヒラン(Serú Girán:チャーリー・ガルシーア、ダビド・レボン、ペドロ・アスナール、オスカル・モロが参加)のヒット曲「No llores por mí, Argentina」だ。1982年のアルバムに収録。むろん、一般によく知られるのは同名異曲のほう。1978年ミュージカル『エビータ』で披露されたアンドルー・ロイド・ウェバー作曲、ティム・ライス作詞「Don’t cray for me Argentina」のスペイン語版だろう。1996年の映画化にあたっては、マドンナ主演が、アルゼンチンで大いに物議を醸したっけ……。邦題の定訳は「アルゼンチンよ、泣かないで」だが……セル・ヒラン版は、どう考えても「アルゼンチンよ、俺のために泣くな!」くらいの訳がふさわしい感じ。

Serú Girán No Llores Por Mi Argentina (En Vivo) 1981

https://www.youtube.com/watch?v=x2za4Zsj2CI
セル・ヒラン「アルゼンチンよ、俺のために泣くな」(1981年ライブ・バージョン)


松田美緒『La Selvaラ・セルヴァ』予告

 「流行りのリモートワークです!入魂っ!!」とのメモ書き添えで届いた、旅する歌い手、松田美緒の最新作。全曲、ウルグアイが誇るマエストロ、じき芸歴65年を迎えるウーゴ・ファトルーソの選曲、プロデュース&アレンジを得て実現。来たる10月23日、フィジカル限定でアルバムをリリース(※しかも、極上音質のUltimate Quality CDなる代物らしい)。宇宙と時空の密林が交差、謎めいて深く濃密な……心揺さぶる作品が完成した。

両者は2008年に初めて相まみえ、ウーゴ&ヤヒロトモヒロのデュオ“ドス・オリエンタレス”日本ツアーに松田が参加。2010年作『クレオールの花』、2011年作『コンパス・デル・スル』での共演ほか、一緒に南米ツアーを行った間柄。およそ10年ぶりの邂逅という。
すでにアルバム特設サイトから予約購入が可能。アルバムの詳細はeLPop用インタビュー取材を予定……しばし待つあるよろし。

matsudamio.jpg
http://laselva.miomatsuda.com

こちらが、先行9月18日発表のシングル「Hurry! ハリー」。1999年にマンハッタンで誕生した、ウーゴ・ファトルーソを代表する人気楽曲。荒川幸祐監督チームによるMV映像、撮影地は徳島の聖なる密林だそうな。フラッグパフォーマー麻風(マーフー/mafu)とのコラボレーションが、エキゾチックで斬新な大和神話を描き出しているかのよう。ちなみに、松田が初めて麻風と出会った場所は仏領ギアナ、アマゾンの密林だったとか!

"Hurry! " Mio Matsuda meets Hugo Fattoruso / 松田美緒 ハリー! ウーゴ・ファトルーソ

https://www.youtube.com/watch?v=Dc70ATN4ZZY





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◆宮田信(DANCE TO MY MAMBO担当/USA+MEXICO)
『ロス・ブキス』



 1980年代のロサンゼルス。不法滞在=イレガーレス(またはシン・パペーレス)たちが汗を流す郊外の工場や下町のレストランでいつも流れていたサウンドがある。所謂グルペーラと呼ばれたバンド形式のサウンドだ。ロス・フレディーズから始まってロス・ヨニックスやブロンコスなどメキシコから多くのバンドが登場していた。またチリ出身のロス・アンヘレス・ネグロスなど中南米の他の国のバンドも人気を獲得していた。

90年代中盤、シナロアやドゥランゴから届いてきたバンダに席捲される前までは、移民者たちの応援歌としてグルペーラのヒット曲がロサンゼルス中のスペイン語ラジオ放送からまるで垂れ流れされるようにラティーノたちに届けられた。1985年にイーストLAで生活していた私にも、今でも耳に残る一曲がある。ロス・ブキスの「ネセシート・ウナ・コンパニェーラ」。ちょっと頼りないシンセサイザーの旋律と哀しくも扇情的な高揚感をもつ甘い歌声。特に興味があったわけではないが、無意識のうちに刷り込まれてしまった。

ロス・ブキスは、ミチョアカン出身の歌手、マルコ・アントニオ・ソリスとジョリエ・ソリスによって結成され、あの伝説的歌謡番組『シエンプレ・エン・ドミンゴ』に出演したことが大ブレイクのきっかけになったという。ロックを基調にしながらもクンビアも含むメキシコ大衆歌謡を巧みに取り込んで、何曲もの大ヒット曲を生んだ。やわらかなメロディと常に愛をテーマにした簡潔な歌詞、アメリカ生まれの若いチカーノたちがどう思っていたかはわからなかったが、バリオ最大の人気音楽のひとつだったことは間違いない。

 才能溢れるマルコ・アントニオ・ソリスが1996年に独立したことでバンドは活動停止。しかし時が流れても数々のヒット曲はまさに黄金=オロとして人々に聴き継がれてきた。労苦の果てに獲得したアメリカでの安定した生活を享受する多くのラティーノたちにはひとつのノスタルヒアとして心に残り続けているのだ。また最近ではそんな移民者たちに響いてきたメキシコ発大衆音楽を掘ってDJとして伝える若者たちも現れている。

 そして驚いたことに、今夏突如バンドが再結成され『ソモス・ロス・ブキス』というタイトルでメキシコ系人口を擁するアメリカ大都市7カ所でスタジアム級の会場を廻る大ツアーが敢行されたのだ。オークランドの若いチカーノの友人が会場の動画をインスタにアップしていたが、リアルタイムで聴いていた往年のファンから若い人まで何万人という人で埋まった会場の熱気におもわず感動してしまった。Que Viva Los Bukis!

LOS BUKIS “NECISITO UNA COMPANERA”


https://www.youtube.com/watch?v=PPsZrXnbo9w



LOS BUKIS LOS ANGELES, CALIFORNIA

https://www.youtube.com/watch?v=dPBo-VWe6VI


LOS BUKISウエブサイト
LosBUkis.jpg
https://bukis.com/





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◆岡本郁生(ラテン横丁・USA LATIN & MORE)
『追悼:ロベルト・ロエナ』



“エル・フディオ・マラビジョソ”ことラリー・ハーロウが8月20日、82歳で亡くなったのに続いて、9月23日には、同じくファニア・オール・スターズで活躍したロベルト・ロエナが亡くなってしまった。81歳だった。

プエルトリコのマヤグエス近郊で生まれた彼は幼いころからダンスに夢中で、兄弟のクキとともに技を磨いていた。9歳のとき首都近郊のサントゥルセに引っ越すとしばしばコンテストに出演、それがきっかけで「ラ・タベルナ・インディア」というテレビ番組に出るようになったという。

あるとき、一緒に番組に出ていたパーカッション奏者のラファエル・コルティーホに才能を認められ、なんと、コルティーホから直々にパーカッションを教わるようになると、16歳のとき、コルティーホ楽団に誘われ、ボンゴ奏者として加入。

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しかし61年、リーダーのコルティーホと歌手のイスマエル・リベラがドラッグがらみで相次いで逮捕。残ったメンバーで結成されたエル・グラン・コンボに加入したロエナは69年まで在籍し、独立すると、ロベルト・ロエナ・イ・ス・アポロ・サウンドを旗揚げした。この名前は、最初のリハーサルの日に、ちょうどアポロ11号が打ち上げられたところから来ているそうだ。

この名前のせいで…というわけでもないだろうが、アポロ・サウンドは、当時のほかの人気楽団の音と比べて、確かにスペイシー(?)というか、一味違うサウンドを作り出しているのが興味深い。コルティーホ〜エル・グラン・コンボという流れから来ているロエナだが、その伝統は継承しながら、常にユニークな響きを追及していたのだ。

ジャケット・デザインにしても、『6』ではこのように、ジャケット前面の下の部分を伸ばすと彼が立ってプレイしている姿になる…という優れもの。この立ち姿にまた、惚れ惚れしちゃうんですよね〜。

『6』ジャケット写真
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『6』ジャケット写真(long)
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河村要助『サルサ天国』より
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さらに、ファニア・オール・スターズで活躍し、71年のザ・チーターでのライブにももちろん出演しているが、ここで見られるのは、74年に旧ザイールでモハメド・アリVSジョージ・フォアマンの世界タイトルマッチにあわせて行われた音楽フェスティバルに出演したときの映像だ。ボンゴをスティックで叩いてるのもカッコいいが、なんといっても、このダンスがたまらない!
全身が躍動する素晴らしいダンスに魅了された人は多いはずだ。

Fania All Stars - Live in Africa (7/7) - Ponte Duro

https://www.youtube.com/watch?v=jpvR9q9ECM8


ちなみに、76年に来日した際には、早朝からテレビの「奈良和モーニングショー」に出演。当時はまだ珍しかった家庭用ビデオで中村とうようさんが撮ったという映像を、河村要助さんに何度も見せていただいたが、その中でも「ポンテ・ドゥロ」でロエナが同様のキメキメのダンスを披露、司会のアナウンサーはじめ出演者たちが呆然としていたのが忘れられない。

そして、こちらは2018年のコロンビアでのライブ映像のようだが、超元気でバリッバリに動いてるじゃないですか!
亡くなる間際までお元気で、死因は心臓発作だったとのこと。まだまだ活躍してほしかったのだが……。ご冥福をお祈りします。

MI DESENGAÑO (VIVO) COLOMBIA - ROBERTO ROENA

https://www.youtube.com/watch?v=bCZvtLgB2hE





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◆高橋政資(ハッピー通信担当/キューバ、ペルー、スペイン)
『追悼:アダルベルト・アルバレス』


ラリー・ハーロウが逝った8月20日の12日後の9月1日、キューバのアダルベルト・アルバレスも逝ってしまった。コロナに罹患しての死亡。一時期、癌を患っていたが克服したと聞いていたのに、コロナにやられてしまうとは…。72歳だったそうなので、やはり早すぎる死だと思う。残念でならない。

アダルベルト・アルバレスと言えば、1970年台後半から、ソンをアップデートしつつ復興した功労者の一人だ。彼が活躍しだした頃は、私もちょうどキューバ音楽にはまりつつあった時期だったので、ソン14(カトルセ)やイ・ス・ソンの初期のアルバムは聞きまくった。中でも、81年のセカンド・アルバム『Son Como Son ソン・コモ・ソン』収録の「Son Para Un Sonero(ソネーロのためのソン)」は、今でも、私的キューバ音楽楽曲ベスト10に入る名曲だと思う。

SON PARA UN SONERO - SON 14

https://youtu.be/NqDV49ON4lc

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(キューバ・オリジナルのアルバム・ジャケット)



アダルベルト・アルバレスは、1948年ハバナ生まれ(カマグエイとする記事も見かける)。EcuRed(キューバのインターネット百科事典)に掲載されている情報によると、ハバナで音楽を学んだ後、1972年から父親の出身地で、幼少時に過ごしたこともあるカマグエイで、音楽教師に就いていたそうだ。その頃、ベネズエラのカラカスのラジオ番組を聞き、サルサが中南米各国でもブームになっていることを知り、またその後、サンティアゴ・デ・クーバで、ベネズエラのサルサ・グループ、ディメンシオン・ラティーナとそのシンガーであったプエルトリコのアンディ・モンタニェスと交流を持った。その出来事が、アダルベルトに、ソンの復興を決意させたそうだ。

我々は、どうしてもU.S.A.ラティーノとの関係を想像しがちだが、革命後は特に、距離的にも心情的にも近い中南米カリブ諸国との交流の方が多かったという事実を忘れがちだ。また、マイアミのラジオも聞けるが、ベネズエラあたりまでなら十分にラジオの電波が流れてくるというわけだ。

そんなソンの復興を決意したアダルベルトに最初に手をさしのべたのは、彼より先にソンの現代化を進めていたコンフント・ルンババーナのリーダー、ホセイート・ゴンサーレスだった。ルンババーナへの楽曲の提供を依頼したのだ。Son-Shakeの形式名で発表された「Con Un Besito Mi Amor」は、ルンババーナのセルフ・タイトルのアルバムに収録、キューバ国内発売された。またこのアルバムは、ペルーのLiderレーベルでも発売されていて、そちらでは、アダルベルトのこの曲がアルバム・タイトルに使われている。この曲は、ペルーでもヒットしたのではないだろうか。

Conjunto Rumbavana - Con Un Besito

https://youtu.be/Mj0QqcAIrNg

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(キューバ・オリジナルのアルバム・ジャケット)


その後アダルベルトは、1978年にソンの故郷サンティアーゴ・デ・クーバに向かい、その地で、歌手のティブロン・モラレスら個性的なメンバーたちと共に、彼の最初のグループ、ソン14を結成。1979年に、クラシックのピアニストとして世界的に評価の高いフランク・フェルナンデスに認められ、彼がアルバム制作を機関に進言、彼のプロデュースでファースト・アルバムが制作された。なお、フランク・フェルナンデスとは、その後も長く付き合いが続いた。ソン14では、アルバム3枚を残しているが、どれも名盤なので是非聞いていただきたい。

これらのアルバムは、キューバ以外のラテン諸国でも話題になり、ファースト『A Bayamo En Coche 』収録の「El Son De La Madrugada」は、ヒルベルト・サンタ・ロサがカヴァーしヒット。またサード『Presenta "Son 14" 』収録の「Aqua Que Cae Del Cielo」は、「Llubia」としてウィリー・ロサリオらが取り上げている。その後の作品も含め、フアン・ルイス・ゲーラ、ロベルト・ロエーナ、オスカル・デ・レオン、ルイ・ラミレス、アンディ・モンタニェス、パポ・ルカ(ソノーラ・ポンセーニャ)、エディ・パルミエリなど、そうそうたるスターが彼の曲を取り上げている。稀代なメロディ・メイカーとしての地位をデビュー早々に手に入れてしまったわけである。これは、1990年代初頭から始まったキューバの経済開放路線(これによりキューバのミュージシャンは海外に紹介されるようになった)よりも、10年ほど早いわけで、まさにアダルベルトの音楽力で政治的な壁を突き抜けた、といっても過言ではない快挙だったのだと思う。

しかし彼は、さらなる前進を求め、1983年ソン14を脱退しハバナに戻り、翌年、ソン14のメンバーの多くを引き連れ、新たにイ・ス・ソンを結成。1985年に、セルフタイトルのファースト・アルバムを発表。トップに収録された「Esperando que vuelva María」が大ヒットした。その後も順調にアルバムを発表し続けるが、それらの間を縫うように、オマーラ・ポルトゥオンド、セリーナ・ゴンサーレス、ヒーナ・レオンというキューバを代表する女性歌手達と共演盤を制作。特に、当時少し低迷していたオマーラ・ポルトゥオンドの再浮上のきっかけとなった『Omara canta el Son』は、名盤の誉れが高い。

Omara Portuondo con Adalberto Alvarez - Agua Que Cae del Cielo

https://youtu.be/Tj9s6iYJOVA

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(キューバ・オリジナルのアルバム・ジャケット)


アダルベルトは、その後、1990年代半ばぐらいから、パン・カリブ的なサウンドを押し出すようになってくる。ちょうど、開放政策でが進められた時期であり、音楽メディアがCD主流になってくる時期と重なる。実は個人的には、この時期からアダルベルト・アルバレスの音楽と距離を置くようになってしまった。パン・カリブ的になっていくサウンドに、初期のゴツゴツとしたキューバン・リズムを好んでいた私には、違和感を感じるようになってしまったのだ。

しかし、この時期のアルバムを聞き直してみると、そのしなやかさに気づかされる。考えてみれば、アダルベルトは、ベネズエラやプエルトリコのサルサ・シーンに刺激を受け、ソンの復興を決意したのだし、1980年代以降、ベネズエラ、メキシコ、ペルーでの公演やスペインのサルサ・フェスティヴァルへの出演なども行ってきた。キューバでの成功もさることながら、いつも中南米カリブのシーンを意識して活動してきたわけで、その市場、そして時代の変化を意識したサウンドを追求した結果の、パン・カリブだったのだろう。


そして、最近の2〜3作では、またソンを強く意識した、自身のルーツに戻るかのような初期のサウンドを彷彿とさせる作品を発表していた。最後となってしまった2018年のアルバム『De Cuba pa'l mundo entero(キューバから世界へ)』では、1985年のイ・ス・ソンのデビュー作から2曲セルフ・カヴァーしたりと、アダルベルト流コンテンポラリー・ソンをしっかり聞かせてくれていた。

Adalberto Álvarez y su Son - De Cuba pa´l mundo entero

https://youtu.be/nkuBJJpo3C8

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去年2020年8月には、彼の業績を称えるコンサートが、豪華ゲストやパンチョ・アマートなど彼のバンドの卒業生も迎えて行われ、アダルベルトの元気な姿も映し出されていただけに、残念でならない。

キューバ音楽の復権を、先陣を切っておこなったマエストロ=アダルベルト・アルバレス。安らかに。

Adalberto Álvarez y su Son - Son para un sonero. El concierto. Primera parte

https://youtu.be/ytrib4DrfOg




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◆伊藤嘉章(カリブ熱中症担当/カリブ諸島+カリブ沿岸)
『追悼:ロベルト・ロエナとアダルベルト・アルバレスの思い出』




岡本さんのロベルト・ロエナ、高橋さんのアダルベルト・アルバレスへの追悼文が出そろい読みながら、今月は何を書こうかと考えた。浮かんだのがプエルトリコでの二人のマエストロとの思い出だった。

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(左:ロベルト・ロエナ、右:アダルベルト・アルバレス。サンファンにて)



ロベルト・ロエナとは彼のライブの後や、他のオルケスタが出ているクラブのフロアでも良く話した。いつもスーツでバシッと決めていて、ダンスが抜群に上手い。とにかくかっこいいのだ。

ちょっと怖そうだが、そんなことはなくいつも気軽に話をしてくれた。早口でちょっとだみ声っぽいので聞き取れない事も多かったが、とてもありがたかった。

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1997年サルサ・クラブSan Juan Chateauにて


「マレハダ・フェリス」「トゥ・ロコ・ロコ、ヨ・トランキロ」「ケ・セ・セパ」「ミ・デセンガーニョ」「ラメント・デ・コンセプシオン」「クイ・クイ」「チョトロ」「コン・ロス・ポブレス・エストイ」と言った好きな曲を口ずさむと一緒に歌ってくれたりした。自ら歌ったアルバムもあり、いい声だった。パーカッション、ダンス、歌、バンドを率いての活動とエネルギーと好奇心とサービス精神にあふれていたのだと思う。

1969年のエル・グランコンボ脱退当時は、グランコンボが他のバンドに押されて厳しかった時期だが、NYではファニアが、ブラック・ミュージックが、ジャズが、ロックがと新しい音を作りつつある時代でもあった。ロエナの頭にはやりたい新しい音が頭に渦巻いていたのだろう。

彼のグループ、アポロサウンドやソロ盤ではボビー・バレンティン、レイ・サントス、マリオ・オルティス、エリアス・ロペス、ホルヘ・ミジェー、ルイス・ペリーコ、オルティス、パポ・ルッカ、ルイス・ガルシア…と常に他のバンドと一線を画すサウンドと、親しみやすいメロディーラインを組み合わせた絶妙のセンスの曲でヒットを飛ばした。スタイリッシュで力強く、スイング感がある。とても彼らしい。

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1998年、プエルトリコ・サルサ・コングレスにて@El San Juan Hotel


そんなロエナもアダルベルトの曲を取り上げている。
例えば「ソン・デ・ラ・マドゥルガーダ」。アダルベルト1979年の曲を1990年に取り上げているので、サウンドはキューバとプエルトリコの違いに加え10年の差があるが、根本的な指向/嗜好がかなり違うのが面白い。アダルベルトのティブロン・モラレスとロエナのティト・クルスの歌手の個性の違いも同様だ。

<アダルベルト・アルバレスの原曲>
Son 14 El son de la madrugada


https://youtu.be/9PV7CXCDJb8

<ロベルトロエナ>
Roberto Roena y su Apollo Sound con Tito Cruz Son De Madrugada


https://youtu.be/JfE7tI5uDs0


もう1曲、アダルベルト1993年、ロエナ1994年の録音「Dale Como E(Es)」

<アダルベルト・アルバレスの原曲>
Dale como è. Adalberto Alvarez y su son


https://youtu.be/y4tp-31Uxec


<ロベルトロエナ>
Dale Come Es


https://youtu.be/FFED1_jf3ro



二人の個性の差に加え、キューバとプエルトリコの違いが楽しい。


ロエナに限らずプエルトリコでは80年代前半からアダルベルトの作品を取り上げるようになってきた。サルサの成功を見て影響を受けソンの復権へと動いたアダルベルトの音は、プエルトリコと親和性は高い。
ソノーラ・ポンセーニャ、エル・グラン・コンボ、ウイリー・ロサリオ、ヒルベルト・サンタロサと多くのミュージシャンが取り上げた。特にソノーラ・ポンセーニャは大好きだったのだろう。

筆者がプエルトリコに住んでいた時アダルベルトが来島した。クリントン政権時代でキューバとの音楽交流が進んだ時代でありビザが下りた。

その時の写真が冒頭のロベルト・ロエナとアダルベルト・アルバレスのショットだ。会場には、ウイリー・ロサリオやパポ・ルカ、サンタロサなども顔を見せていた。

パポ・ルカはアダルベルトのステージ前でペアで踊っていたが、目がしっかりステージに向けられていたのをよく覚えている。

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ステージを注視するパポ・ルカ


プエルトリコ勢はアダルベルトのメロディラインの魅力をしっかり受け止める一方、キューバ色のリズムや音の凝縮具合を相当プエルトリコ化してしまうのが共通していて面白い。

この辺を突っ込むと文字数がまだ相当必要になるので、また機会があれば触れることにし、9月に相次いで亡くなった二人がまたどこかで共演していることを妄想することとしたい。

最後にアダルベルトの伝記的映像をご紹介する。

撮影は2000年前後か。カマグエイの風景、ティブロン・モラレスやエル・エバリスト、フランク・フェルナンデス先生、セリーナ・ゴンサレス、マレーナ・ブルケとの共演や、盟友パンチョ・アマートの演奏もたくさん楽しめるが、44分くらいにパポ・ルカとウイリー・ロサリオが出てきてアダルベルトの魅力について語っている。


Adalberto Alvarez Documental Son para un Sonero

https://youtu.be/i3hNF-dgBjA





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posted by eLPop at 12:39 | Calle eLPop