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ラテン・ミュージシャン・インタビュー・シリーズ(2)澁谷和利(前編)

2021.03.23

eLPop新企画『ラテン・ミュージシャン・インタビュー・シリーズ』

ラテン・アメリカの音楽の情報をお届けするeLPopですが、その魅力に魅かれラテン音楽に取り組む日本のミュージシャンをもっとご紹介して行きたい!という事でインタビュー・シリーズが始まりました!
巻末には登場したミュージシャンの作品リストやオフィシャルWebサイトなどの情報なども掲載予定です。

(→第一回あびる竜太さんの記事はこちら)

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
ラテン・ミュージシャン・インタビュー・シリーズ vol.2 澁谷和利
聞き手は岡本郁生と伊藤嘉章
(インタビュー協力:Li-Po(渋谷)

ラテン、と一言で言っても様々な分野がある。シリーズ開始にあたってまずサルサやラテン・ジャズのミュージシャンに話を聞くことから始めることとした。ラテンのリズムは昔から様々な分野に取り込まれたり影響を与えたりしてきたが、ジャズとは長い関係を持ち「ラテン・ジャズ」とくくられる音は近年さらに面白くなっている。一方で、伝統的なジャズ・ファンにはそのあたりが伝わっていなかったり、苦手に思う層もいる。

第二回はサルサの二大バンド「オルケスタ・デル・ソル」と「オルケスタ・デ・ラ・ルス」の両巨塔でラテンのグルーヴをベースで牽引してきた澁谷和利さんに話を聞くこととした。

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――ラテンジャズっていうのがあるってことは皆知っているけど、ジャズの方からすると相変わらずの“チャカポコ”じゃないですか? だけど、伊藤さんともよく話するんだけど、最近のミゲル・セノンとかダビド・サンチェスとかほかの色んなのを聴いても、なんか、ジャズの影響がどうのとかラテンからの影響どうのとかじゃ無くて、もうジャズって…だいぶ前からだけど…普通に知識というか学校で教わってるような普通のものになってるし、日本はそうじゃないかもしれないけど、ラテンのヤツらは普通にやってるじゃない。だから、ラテンジャズをやる人って、向こうだと、ジャズをやろうっていうより、自分のラテン音楽を…って言うか自分の音楽を“ジャズ”っていうツールでどう表現するか?って感じじゃないか、と思うんです。完全に重なり合っているって言うか。

なんか、垣根がない感じイメージですね。よっぽど土着でない限り、ラテン系のミュージシャンは、分かれ目なしにジャズに注目してって言う感じ。それをラテンのリズムにごく自然に当たり前のように(取り入れている)…っていうのは、僕は感じてますね。

――あともう一つ、ラテンジャズって定義が難しい。一番わかりやすいのは、マチートとかの、コンガが入ってジャズをやっているもの。だけど、そうじゃなくても今のものって、ニューヨークのアクセル・トスカとかもそうだけど、パーカッションが入ってなくてもラテンジャズっていうか、完全にドラムでルンバやボンバやったりとか…。その辺を考えると、チャカポコがなくてもラテンジャズって言う感じがする。その辺のところを実際にミュージシャンの方々がどう思っているか?…みたいなところを聞きたいな、と。
ではまず澁谷さんの、知られざる生い立ち(笑)から。

群馬県高崎市の生まれです。

――というとやっぱりBOØWYですか。

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BOØWY

そうですね。(彼らは)高崎工業高校出身のミュージシャンです。多分世代は一緒くらいだと思うんですけど……

――澁谷さんは何年生まれですか?

(昭和)40年です。1965年。だから世代的には一緒だと思うんですけど、僕よりちょっと上なのかなあ(*注:氷室京介1960年生まれ、布袋寅泰1962年生まれ、松井常松1960年生まれ)。でも全然接点無くて。同じイベントにはどうやら出てたみたいで、アマチュアの勝ち抜きコンテストみたいな、ヤマハとか、あと、色々楽器店主催のがあって。「あ、出てたんだ…」みたいな。知らなかったですけど。

――群馬は結構盛んなんですか、そういうの。

どうなんですかね。他県に比べたらあまり盛んではないようなイメージですね。ライブハウスも、(高橋)ゲタ夫さんなんかたまに高崎でのライブハウスでやってるみたいなんですけど、あまり「高崎でやるよ」って話もまわりから聞かないし、僕自身も地元に帰ってちょっと調べた時期があったんですけど、あまり無いんですよね。前橋、高崎、ほんと少ないと思います。そういう意味ではあんまり、まあライブハウスが少ないってことは、あまり活発ではないのかなって。だいたいまあ、そういう気持ちのある人は僕みたいに東京に出て行っちゃうので。

――澁谷さん、音楽って意味では、いつからなんですか?

聞き始めたのは、うーん…物心ついたころに母親がよく映画音楽を流してたので、それをすごく聞き入ってた記憶がありますね。自分が映画音楽の登場人物かのように、音楽を聴きながらそこに浸っていたみたいな。

――話の中にいるような?

そう、興じてましたね。

――何歳ぐらいの時ですか?

保育園の時だから……。

――どんな音楽だったか覚えてますか?

西部劇です。その当時、何でしたっけね……「荒野の七人」とか。

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荒野の七人

――いわゆるマカロニ・ウエスタン。

マカロニ・ウエスタンですね。

――でも、映画見た訳じゃなくて音楽だけですか?

そう。見てないです。ただ音楽を聞いて。映画音楽のオムニバスみたいな……

――ああ、昔よくありましたね。

当時としては高価なステレオをどうやら買ったらしく、両親が。で、毎週末母親が、せっかく買ったっていう事で、映画音楽でもかけようかって言って。で、掛けてるのを何の気なしに聞いて、すごく良いなと思って。で、感覚的に、やっぱり昔の映画音楽って、ストリングス・セクションがすごい豪華じゃないですか。あれはね、すごくね、その、旋律がいいなあって思った記憶があるんで。ストリングスの旋律が気持ちいいんだよなあって、子供ながらに。

――やっぱり今考えれば、エンニオ・モリコーネ、ニーノ・ロータ、フランシス・レイとか、超一流のがやっている訳だから。ミシェル・ルグランとか。

まさにそこなんですよね。

――お父さんは、何か好きな音楽は?

僕の父親は、もっぱら演歌が好きだったのかなあ。だから、洋楽と言うよりは邦楽でしたけど、母親はわりと洋楽でしたね。

――あの(*注:澁谷さんがSNSなどで書いている)お母様ですよね?

そうなんです(笑)。おしゃべりの好きな。聞こうが聞くまいが、寝てようが、しゃべってますから(笑)。ずーっとしゃべってて、僕、聞いてるふりして居眠りしてるんですよ。で、目を覚ますとまだしゃべってる(笑)。
で、そののちに、どうやら僕が、映画音楽が好きだし、そっちの右脳系っていうか、芸術方面に興味を示すって事を理解したらしく、僕の誕生日にアンディ・ウイリアムスって歌手、あの人の…あの人も映画音楽とか歌ってたじゃないですか…で、アンディ・ウイリアムスの二枚組のLP、それこそ、映画音楽からビートルズの曲とか、まあ、アメリカン・ポップスかな…をリメイクして「アンディ・ウイリアムスが歌う」っていう、そういうコンセプトのアルバムがあったんです。それがねえ、もう“ドはまり”で、毎日のように聞きまくったんですよ。そうするとやっぱり、アレンジがもう、とにかくゴージャスっていうか、ストリングス・セクションがすごくて、さらにそういうアンテナがバー!っと立っちゃって。


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アンディ・ウイリアムス

――昔日本でも、「アンディ・ウイリアムス・ショー」ってテレビ番組、向こうのやつがありましたよね。

そう。その当時、高崎に住んでたんですが、まあ、東京と(TVの)プロブラムはたいして変わんないと思うんですけど、たまたまアンディ・ウイリアムスのそのプログラムを見ることがありまして、その時にもう、感動しましたね! アンディ・ウイリアムス、それまでは写真でしか見られなかったし、レコード・ジャケットでしか見てなかったんですが、「うわー、動いてる」って! ああ、こういう人なんだって、あと、こうしゃべったりとかね、なんか、トークショウとか…。だから、アンディ・ウイリアムスの大ファンっていうか…。

――それはまだ小学生のころ?

小学生ですね

――あまりそんな小学生はいない(笑)

あんまりいないですよね(笑)。まあ、そういう下地があったんですよね。それで、2つ上の兄がいるんですけど、兄が年頃になってフォークソング…ニューミュージックか、ニューミュージックが巷で流行るようになって、ご多分に漏れずフォークギターを買ってそれを練習し始めたんですよね。

――お兄さんはおいくつ? 中学生?

中学生。で、まあ、男兄弟の二番目っていうのは長男に影響をうけるし、従順だし、そんな感じでもう、自分もギター弾きたいなとか、まあ、ギターじゃなくてもなんか楽器やりたいなと思って。で、何が良いかなと思って楽器屋さんに行ったりとか。で、僕はドラムやりたいと思って、最初、ベースやる前に。で、ドラムを買うにあたっては、楽器屋に行ってカタログもらってこないといけないなと、カタログをもらって兄貴に見せたら、開口一番に「お前やめとけ」って言われて(笑)。お前には向いてないからって。で、素直に…。

――それ、中学生ぐらいですか?

小学校6年か中学1年くらいですね。で、兄貴が「やめとけ」っていうんだったらやめとこう、って素直に諦めて(笑)。それから1年後か2年後に、兄がいきなり僕に。ベースを買ってくれたんですよ。買い与えてくれた。(お兄さんが)高校に入学したお祝いの、親せきから頂いたお祝いの、5万円あったんですけど、その5万円を全部つぎ込んで僕にベースを買ってくれたんですね。もう一本自分の楽器を増やせば良いのになって思うんですけど、なぜか僕にベースを買い与えてくれたんです。「お前ベースやれ」って。それが僕のベースの始まりなんです。

――お兄さんはいま、何やられてるんですか?

学校の先生です。

――楽器という意味では、そのベースが初めてなんですか、ギターではなくて。

兄貴のギターをちょっと借りてギターの練習をしてましたけど、自分用のギターは買わなかったんで…。

――その頃、ギターの練習ってどんな曲をやってたんですか?

それこそ「22歳の別れ」。伊勢正三、あのアルペジオで。

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伊勢正三「22歳の別れ」(1975)

――確かに丁度その頃ですよね、ニューミュージック。1975〜6年でしょ?

で、ニューミュージックをちょっとかじって、のちに、またいろんなものに興味を示して。時代はちょっと遅いんですけど、プログレ・ロックを兄が聴き始めたんですよ、ジェネシスとかイエスとかピンク・フロイドとか。なんかもう一気にバーっと突入していって、僕はまたそれに付いていって、二人で暗いロック(笑)を聴きながら、前衛的なロックを聴きながら…。そう、よく二人で聴いてましたね。で、そんなことをしてる間に巷ではジャズ・フュージョンが流行り始めて、兄弟そろってそっちの方に傾倒して行って、そうしたらベースがとにかく他のロックに比べると脚光を浴びるというか、チョッパー・ベース、ルイス・ジョンソンとかが、ね、クインシー・ジョーンズのスタジオのミュージシャンで、お抱えのスタジオ・ミュージシャンで、もう、一世を風靡した。で、あのベースを聞いた時に感動して、やっぱりあのパーカッシブなベースっていうのがたまらなく響いちゃって。多分、打楽器的な要素が好きなんですよね。だから最初にドラムをやりたいって思ったんですよね。

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The Brothers Johnson "Look out for #1" (1976)

――その辺に当たるまでは、プログレのベースですか? クリス・スクアイアーとか。

そうですね、実際そこまでは…。ほら、プログレのベースってちょっと難しいじゃないですか。ちょっと僕には及ばないなあと思ったので、ビートルズの、最初にコピーした曲が「Back in the USSR」で。あれ、3コードじゃないですか。初めて曲の頭からお尻まで出来るようになったときは、ほんと感動しました。

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The Beatles "Back In the USSR" (1968)

――お兄さんと合わせたり?

もちろんやりました。多分兄は、一緒に音を出す仲間が欲しかったんですね。何で僕に5万円も出してベースを買ってくれたんだ?って大人になってから聞いたんですよ。そうすると「分からない」って。なんでだろな?って。自分がギター買えばよかったじゃんって言うと、あ、そうだよねーっみたいな(笑)。それはちょっと不思議な、兄弟の中でも…。

――お兄さんは他でバンドやってたりとか、あったんですか。

ああ、やってましたね。大学に入ってからサークルでやってましたね。あと、教員になってからも生徒と一緒にバンドやってたりして。だから生徒からすごい好かれてる。

――ずっとギター?

ずっとギターですね。物わかりの良い熱血教師みたいな。

――兄弟で一緒にやって、狩人とかキリンジとか…(笑)。

そうなってたかもしれない(笑)

――フュージョンでは、やっぱルイス・ジョンソンですよね、あの頃は。ジャコ・パストリアスとかは?

ジャコは、あの音色を聴いた時に、これってベースかな?って、自分には現実味がなかったので、あんまりその当時は(聞きませんでした)。でも、兄がウエザー・リポートのレコードを買ってきてたんで、2人でよく聴いてたんですよ。『8:30』っていうライブ盤、むちゃむちゃカッコいいじゃないですか。なんじゃこのベースは!?って。でも、とてもアレだなっと思ったんで、まあ聞くだけにして、そっちの方向に自分を持って行こうとはしなかったですね。

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渡辺香津美 "TO CHI KA" (1980)

で、やっぱりルイス・ジョンソンとか、あとは渡辺香津美さんがその当時「TOCHIKA」ってバンドをやってて、マーカス・ミラーがまだ20歳そこそこぐらいで、香津美さんがそのアルバムをひっさげて日比谷の野外音楽堂で…(* 1980年)


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Weather Report "8:30" (1979)

――あ、行った!

マジっすか! 岡本さんもいらしたんですか(笑)そん時に。

――あれ、すごかったよね!

すごかった。すごかったすよね。もう、一番最後は、お客さんがステージ上に登っちゃった。覚えてます? 最後の曲で、そんときに僕も一緒になって登っちゃって、マーカス・ミラーのいる前でずっと見てた。

――そのとき、中学生くらいでしょ?

高校1年で、友達と兄貴と、音楽好きな友達と3人で(行ってました)。

――あれ、すごかったなあ…。

あのライブ、すごかったですよね。

――オマー・ハキム(ds)がね…

そう、オマー・ハキムね。

――マーカス・ミラーがさ、「友だち連れて来た」って言って。オマー・ハキム、まだ全然無名で。

そう、全然無名でしたね。

――あのとき、マイクマイニエリ(vib)とウォーレン・バーンハート(p/key)と一緒だったけど、その二人はどうでもよくて。香津美さんとマーカスとオマーとの3人がすげーなーって…。

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TO CHI KA Live at 新宿厚生年金会館


そう、すごくて。そのライブを見て、もうマーカス・ミラーに首ったけになっちゃって、で、何年か後に、ブレッカー・ブラザースの再結成でマーカス・ミラーがベースで来たんですよ。その時に高崎くんだりから「六ピ(六本木ピットイン)」に見に行って。で、「六ピ」に早く着いちゃったんで、東京タワーに観光がてら行こうか…って兄貴と二人で行ったら、なんか見たことあるような外人が東京タワーのエレベーターの前あたりでたむろってるんですよ。で、「あれってマーカス・ミラーじゃね?」って冗談言いながら近づいていったら、本当にマーカス・ミラーで! 彼が着てたブレッカー・ブラザースのTシャツ見て、もう僕が夢中になっちゃって。でも、英語も全然しゃべれないし、とりあえずマーカス・ミラーの肩をたたいて(笑)、その時、兄が雑誌の『JAZZ LIFE』を持ってて、その『JAZZ LIFE』にサインしてくれ、と。で、ペンと『JAZZ LIFE』を渡せば、何して欲しいか見当がつくじゃないですか。そしたらね、(雑誌を)バーっとマーカスがめくって、途中で目を止める場所があったんです。それは何かっていうと、スタンリー・クラークの見開き一面の写真。それを見て「イエー!」って(笑)。この人、スタンリー・クラーク好きなんだなあって(笑)。そう、それで、バーって全部目を通して、サインしてくれたんです。"Nice Wishes"って言葉も添えて。多分、実家に帰ったらその『JAZZ LIFE』は兄貴が取っておいてくれてると思います。あれはね、ほんと嬉しかったですね。

――大興奮ですね!

当時そんなにマーカスまだ(知られてなくて)。今ならマーカス・ミラー、もうそれこそ、ベース小僧は知ってますけど、その当時、ほとんどまだ知らなかった。で、マーカスは「何で俺にサインを求めるんだ」って表情でサインしてました。俺でいいのか?みたいな。

――ほかに、ブレッカー・ブラザースがいたの?

マイク・マイニエリがいたかもしれない。ブレッカー、いたかなあ? とにかく夢中で、僕はマーカスの事しか眼中になかったんで。

――そのあと「六ピ」に行ったんでしょ?

そうです。

――『JAZZ LIFE』掲げて(笑)


1981 Brecker Brothers 来日ライブ@六本木ヒットイン

それから、プロになるまでずっとマーカスの事を追っていて。で、プロで仕事をし始めてから、マーカス・ミラーが『ベース・マガジン』に掲載されるようになってきたんですよね。そうすると、なんかね、ちょっと、やんなってきちゃって(笑)。

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Bass Magazine 1990.10

――なるほど(笑)

マーカス・ミラーがフェンダーのジャズ・ベースの70年代の楽器にプリアンプをぶち込んで、ちょっと変わったスペックなんですけど、それにそっくりな楽器を僕も、そこの(*原宿)「松下工房」っていうリペア・ショップに持って行って改造してもらって。ルックスはほんとにマーカス・ミラー、“マーカス・ミラー・シグネーチャー・モデル”っていうのがフェンダーから出てるんですけど、まさにそれの前身ですよね。それをいち早く改造して作ってもらって、仕事でずーっと使っていました。ノリピー(酒井法子)のツアーもそれでやってたんですけど。そんなことをしてる間に、マーカス・ミラーがだんだん脚光を浴びるようになって、ちょっと恥ずかしくなっちゃったんですよ(笑)。「あの人マーカス・ミラー好きなんだ」みたいに言われそうで(笑)。で、嫌になって来ちゃって、その楽器は手放しちゃったんですけど、今から考えると惜しいことしたかと。すげー良い音してたんです。めちゃくちゃ重いけど。

その後に手にした楽器が、フェンダーの62年のプレシジョン・ベースで。ほんとガラっと(変わった)。なぜかって言うと、デラルスの澤田(浩史)さんが、とにかくヴィンテージ・ベース、フェンダー・プレシジョンにこだわって、すごく素晴らしいプレーをしていて、そのころすごく憧れてたんですよね。で、丁度サルサのアマチュア・バンドでやり始めたころで、デラルスのベースっつたらやっぱり澤田さんだよな、みたいな…。すごい憧れてた時期があって。でも、あの人はラテンだけじゃなくてロックとかそっちの方もすごくて、カッコいいなって。その澤田さんのプレシジョン持った立ち姿に憧れたりとか、かたや、ジェームス・ジェマーソンとかチャック・レイニーあたりもやっぱりそのオールド・フェンダーのプレシジョンを使って、すごいご機嫌なプレーをしてるじゃないですか? そういうのにもやっぱり憧れて、その楽器を使っただけで雰囲気が出てしまうという…。まあ、ベイビーベースなんかもまさにその類だと思うんですけど、まあそんなところで。そう、1962年の楽器にたまたま出会って、それも使ってたんですけども、ちょっとやっぱり、なんですかね、汎用性って意味ではちょっと弱かったんですよね。あまりにもそのキャラクターが強いので。で、そういう意味で言うと、やっぱりジャズ・ベースなのかなって考え始めて、思っていながらも、まだジャズ・ベースには戻らず、まだ色んな楽器を試してみたんですけど、ここ近年になって、また自分にはフェンダー・ジャズ(・ベース)が必要だなって思っちゃって、今から4年前くらいかな、ついにまたフェンダー・ジャズ(・ベース)を購入してしまった…っていう経緯がありますね。


――プレシジョンで言えば、ウイル・リーがプレシジョンですよね。

赤いね…サンバーストだったですかね。また、良い音してるんですよね

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”Bass Magazine" Wille Lee with Red Fender Precision

――ウイル・リーもかっこいいよね〜。

あの人ほんとセンスの塊ですよね。

――歌も歌ってるし…

歌もうまいですよね。

――結構CMとか歌ってるでしょ。

歌を歌えたらいいなと思いますけどね。自分で曲書いても、やっぱり、メロディーを自分で書いた曲とか、自分でベースでメロディーとか弾いたりするんですけど、やっぱりこれ、絶対歌があった方がもっと曲が引き立つよな…とか思って、これ自分で歌えたらなおさらいいな、人に頼むんじゃなくて、おカネを払って人に頼むことはできると思うんですが、やっぱり自分が作ったメロディーだけに、自分の指向性とは違うような感じで歌われてしまうと、それはそれでね、せっかく人に頼んだりしたのに、こういう感じじゃないんだよ本当は…みたいな事に成るよりは、やっぱり、自分が歌えて自分の思ったようにメロディーが歌えるなら、これほど幸せなことはないって思います。そういう意味では、本当に歌を勉強しておけば良かったなと。

――そういう、音楽的な教育っていう意味では、どうなんですか?

音楽教育はね、僕は東京に出てくるきっかけ作りとして、当時「武蔵野音楽学院」っていうのが調布に、プロ養成専門学校の草分けみたいなのがあって、そののちに「メーザーハウス」とか、あと代々木の「ミューズ」とかで始めて、その武蔵野音楽学院に行かせてくれと親に頼み込んでね。それまで親の家業を継ぐつもりでずっと、高校まで商業高校に入って…。

――家業って…?

ミシン屋さんです。

――ミシンを作ってる?

ミシンを販売する方で、主に工業用ミシン。縫製屋さん(縫製業)に卸すミシンで、ジューキのミシン。

――ロックミシンとか?

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そうですそうです。あれを主に扱っていて…という家業だったんですけど。まあ、高校卒業したら家を継ぐっていうつもりでいたんですけども、高校2年生の時に、突然、閃いちゃったんですよね、バンド活動をやっている間に。友達とバンドやってて…。

――その時はどんな曲をやってたんですか?

その時はね、巷ではジャズ・フュージョンとか流行っていて、僕はもうそっちの方にバーっと入ってたんですけど、周りの友達はポリスとかTOTOですね。その当時流行ってたのはポリス、TOTOで、そこらへんの曲をやってましたね。でも、今となっては、すごいいい経験したなって。王道のTOTOとかポリスって。今だにスティングの音楽は僕はグッと来るし。

――それで閃いた?

そう。高校2年生の時、そろそろ自分の…というか親の店を継ぐつもりでいたんですけど、なんか閃いちゃったんですね。プロになりたいって思っちゃって、突然。

――周りにそういう人がいた訳ではない?

いた訳じゃないし、周りの友達もあくまでも趣味って言うか、学校卒業したら普通に就職するってつもりで音楽やってたし、僕だけなんか、そういう風に思っちゃったんですよね。それまで、どちらかというと引っ込み思案でおとなしくて全然目立たないようなタイプの人間で、自分の気持ちを主張するとかそういう事もなく、ごく普通の高校生だったと思うんです。そんなおとなしい僕が、なんで一人で東京に出てこようと思ったのか、今だに僕、自分のその時の気持ちを辿っても分からないですよね。なんか強い力に引っ張られたような感覚ですかね。なんでこんなおとなしい僕が一人で東京に出てきちゃったんだろう…みたいな、後で考えると。でも、その当時は本当に夢中で、頑なに僕はプロになるんだプロになるんだって、それこそ、そういう風に閃いて学校の担任の先生に「僕はプロになります」って宣言して以降は、とにかく“練習の虫”になってました。

当時の様子を僕の兄は「お前の集中の仕方はただものではない」って言うんです。兄は本当に学業が優秀でスポーツもあれなんですけど、受験勉強もほんとうにしてたんですよ。その兄が「お前にはかなわない」って言った。お前が「プロになる」って言ってから、その、なんていうか、こいつにはかなわないと思った、って言うんですよね。自分ではごく自然な気持ちで、ただ一所懸命、楽器を練習してたんですよ。


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――どんな練習をしてたんですか?

練習は、闇雲にただ楽器を持って練習して、眠くなったと思いながらただ楽器をもったままベッドにポーンと寝るじゃないですか。で、朝、抱えたまま目が覚める(笑)。重くてゲーと思いながら、そんな感じで。

――やっぱりコピーしたり、それから『JAZZ LIFE』とか『Player』とかの譜面をやったりですか。

雑誌とかによく“JAZZ的アプローチ”とか色々あるじゃないですか、そういう所から情報を得て勉強した…っていうのはないんですよね。闇雲にコピーをして、自分の好きな曲を、例えばルイス・ジョンソンのベースをコピーしたりとか、マーカス・ミラーのベースをコピーしたりとか、本当に闇雲な感じで練習してましたね。

――音楽理論とかあるじゃないですか…

全然そういうのは無くて、譜面も全然読めないし、そんな状態でよく東京に出ようと思ったなって(笑)。で、その学校に行けば何とかなるのかなと、専門学校的な感覚を半分。でもやっぱり、東京では僕と同じような事を考えてプロを目指してとにかくしのぎを削ってるはずだと…そういうアマチュアの人たちが。なので、下準備をしていかなくてはダメだ、と、それなりに、ある程度の下地をやっぱ作っていかない事には話にならないだろうと思ったんですね。で、そういうのがあって、分かんないけど、ただ闇雲に自分が好きな曲をコピーして、それが自分の納得いくレベルまで練習して…っていう事をずーっとやっていて、そんな感じです。

で、東京に出て初めて学校に行って、ジャズ理論とか習うんですけど、ほんとチンプンカンプンで、これを習ったところで自分がベースを弾くに当たって何の役に立つのかなって、全然繋がんなかったって言うのがあって。あまりにもレベルが高すぎちゃって、で、すごい煮詰まっていて、結構学費とかも高かったので親がひいひい言い始めちゃって、「学校どうなんだ〜?」みたいな話になって来た時に、その当時一緒にバンド活動していた友達が、実はあの、ニューハードって言うビッグバンドのローディーをやっていたんです。で、そのニューハードの黄金期にピアノを弾いていたピアニストの人が事務所を立ち上げて、当時、サンミュージックのアイドルのバックバンド、歌伴の事務所を立ち上げて…。


――なんていう人ですか?

今城嘉信って人なんですけど、その人の事務所のローディー、お抱えローディーみたいな事に(なって)。実際に僕、なんか、勉強とか練習とかしてても、実際のプロがどんな風に、プロとして一曲を仕上げているのかとか、できんのか?って思ったんです。で、それを確認したいって意味もあったんですよ。それにはもってこいですよね、ビッグバンドね。どんどん譜面渡されて、初見でガンガンやるじゃないですか。で、初めてね、「あ、プロって本当に譜面読むんだ、おたまじゃくし読んでしかも初見でやってるよ」ってビックリしちゃって。で、すごいショックを受けて、やらなくちゃいけない事一杯あるなって思って。

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結構落ち込みましたけど、逆に課題が見えたので、自分がこれからプロになるためのプロセスをどういう風に踏んだらいいのかっていうのが…技術的な事ですね…それが分かったので良かったと思いますね。東京に出て1年目です。学校に1年通って、なんかもうすごい煮詰まってて、こんなことやってて良いのかなみたいな。で、実際のプロの演奏を見て、どういうものかを見てみたいと思って、思ってた矢先にそんな話が来たので、そのローディーの仕事を2年続けて。
で、そろそろもう良いかな…って思ってる時に、営業バンド、当時横浜でディスコとか米軍キャンプとかで演奏する、それこそ黒人音楽を演奏するバンドなんですけど、ディスコ・バンドっていうんですかね、そのバンドに…最初断ったんですけど…どうしてもやってくれって拝み倒されて、「じゃ、あまあ、経験の為にやらせてもらいます」って、で、ローディーをやめてそのバンドに入ったんです。


――80年代中盤くらいですか?

80年代前半くらいか…。ん?80年代半ばくらいですかね。そうですね、

――そのバンドは毎晩でしょ?

毎晩ってほどじゃないですけど、わりと仕事はありましたよね、すっごい安かったですけど。1本8千円くらいですかね、均一。例えば、パーティーの仕事でギャラが良いとしても8千円…。そんな感じで、米軍関係キャンプから横浜のイベント関係とか。そのバンドも2年くらいやって、そろそろ煮詰まって来たなあって時に、僕がローディーやってた事務所で、サンミュージックからポスト松田聖子のタレントがデビューするんで、そのバンドを募集してるってことでオーディションを受けてみないかって言われたんですよ。それで、バンドのメンバーは事務所があつらえてくれて、そん中のベースは僕ってことで、それが受かっちゃったんです。それがノリピー(酒井法子)だったんです。ノリピーの仕事、まあメジャーな仕事っていうのではこれが僕のキャリアの初めての…。

――ノリピーは何年くらいやったの?

10年です。

――結構やったんだ。

デビューから10年。ちょうど10年の時に彼女がドラマで…「星の金貨」か、なんかドラマでヒットしたんです。その主題曲がまたすごい売れちゃったんです(*「碧いうさぎ」)。で、その曲をひっさげてのツアーが最後でしたね。バンドが総入れ替えになった。僕はまた別のアーティストとかやってたので、それをやりながら、もうその頃にはラテンの方にも足を突っ込み始めていて。

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酒井法子「碧いうさぎ」(1995)

――そのラテンの最初のあたりを詳しく! いや、その前に、譜面の読譜はどうやって(笑)?

そうなんですよ。あのね、それが話すと長くなりますけど、とにかく僕がローディーやっていたバンドのベース・プレイヤー、僕にとっての師匠みたいな人ですが、その方が、練習用にバッハのチェロの無伴奏、あれを紹介してくれたんです。自分でも練習したんです。運指の練習ってことで、とにかくこれを練習しろって渡されて。もう、おたまじゃくしがすごい数ですよ、目が回っちゃうような感じだったんですけど、ひとつひとつの音を辿ってやってくんですが、1ページ仕上げるのにものすごい、何時間もかかって…っていうような、こんな事をやりながら、とりあえず、そう、最終的にはその本の無伴奏の半分くらいはやったのかな。

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J.S.バッハ「無伴奏チェロ組曲」


――すごいですね。

でも、前半ぐらいでもかなり読譜という意味では勉強になるんですよ、おたまじゃくし読むのに。


――それ、ベース用の譜面で?

もともとチェロなんですけど、同じ「ヘ音」記号なんで。で、ベースラインではなくて、本当にメロディなんで、弾いてて楽しいんですよ、メロディアスで。

――チェロだと、クラシックの運指だったりは…

それは、特に頭のチェンジはなくて、音程の飛躍とかはありますけど。

――それは、エレキ・ベース?

エレキです。音の飛躍はありますけど、そんなに大変なことではない感じです。そういう風に弾いていくとすごくメロディアスだし、それが、1ページ完成するとダ〜って達成感があったので、それを1ページクリアして、また次のページをクリアして、クリア、クリア…ってやってる間に、おたまじゃくしへの抵抗感がなくなったんです。
それがやっぱり大きかったのと、あと、ローディーをやりながら、松田聖子のとこのサンミュージック系のアーティストを抱えていたバンドなので、その中で、牧村三枝子さんっていう演歌の歌手の方で、その人のツアーなんかも回ってる間に、牧村さんが僕の事をすごく気に入ってくれて、「あら、かわいい子ね…」みたいな。(僕は)今じゃちょっとアレですけど、その時かわいかったんですよ、その時なりに(笑)。すごい気に入られちゃって、現場で会うたびに、「あー、澁谷澁谷…」って、もうすごいかわいがってくれて、「あんた、ベース目指してんだって?」って、ある時、「じゃあ、あたしのステージでベース弾きなさいよあんた」って言ってくれたんですよ。

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本人が言ってくれたから、バンマスもその当時の社長も、「お前、譜面読めないけど、本人が弾いていいって言うんだから、お前やれ」って。「曲を覚えてでもやれ」って、言ってくれたんですよ。そこでチャンスをもらって、まだバッハのあれで練習してて、まあ本当にたどたどしい感じですけれど。で、実際の実戦の譜面なんてまだ全然目にしたことなかったんで、当然弾けないんですよ。譜面渡されたりしても。で、それでも覚えてでもね、とにかく、ライブの音源をもらって、譜面も全部コピーさせてもらって、家でひたすら練習して。で、とりあえずステージ上では譜面を見てるふりをしろと(笑)。それでね、最初は師匠の隣にダブル・ベースみたいな感じで座って、曲によって「それじゃこの曲お前弾け」って。ホントにやさしい先輩方で、こんなのなかなか無いですよね。そういう意味ではすごいラッキーだな、って。で、とりあえず、覚えた曲を弾かせてもらって、譜面もこう、一応なぞりながら見ながら、読めるかどうか関係なし。そんな事やっているうちに、だんだん実戦の譜面も慣れてきて、補助輪がぽんと外れる感じで、そのうち、バンドのベースの人が辞めてったんですよ。それからは僕が牧村三枝子さんのレギュラー・ベースになったんです。本人もホント気に入ってくれてて。だから、読譜の練習はそこで学びました。だから僕は、ちゃんとした写譜屋さんの譜面しか読めなかったんです。僕、ラテン界に入って手書きの殴り書きの譜面が読めなかったです。ホントにお恥ずかしい話ですけど。なんであの写譜屋の譜面が読めるのに、手書きの簡単なコード譜しか書いてないような譜面が読めないんだろう?って、すごい落ち込みました、ラテン界に入って。


――では、ラテン界に入った経緯を。

そのきっかけがね、某ピアニスト、まあ、キーボーディストですけど、岡田玄さんって人がいて…その岡田玄(*現在岡田げん)さんってピアニスト/キーボーディストは、ノリピーとツアーした最初のキーボーディストでした。で、その人が、一緒にツアー回ってたんですけど、来年ちょっと今井美樹のツアーでやることになったから、俺ちょっとやめさせてもらう…って、ノリピーのツアーから離れて行って、で、それ以来5年くらいのブランクがあったんですよね。で、5年ぶりくらいにいきなり電話がかかってきて、「あのさ、今サルサって音楽やってんだけど、サルサ界はほんとにベースの人材が居なくて。人材発掘してるんだけど、澁谷君やってみない?」って。

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岡田げん

――それ、何年くらいですかね…?

1995年とか。

――デラルスとか、もうデビューしてました?

そうですね、デビューしてましたよね。で、伊達弦がね、その当時、デラルスを辞めて何年かくらいで、そのバンドにいたんです。

――なんというバンドですか?

オルケスタ・ルンバ・マクンバっていう…プロとアマチュアの混合のバンドで、そのバンドに、ちょっとやってみないかって誘われて、その頃、僕は自分の趣味のバンドでは、ファンク系のかなりマニアックなGO-GOとかP-FUNKとか、そっちの方に傾倒してて、でも、そこらへんて、結構東京でうまい人、一杯いたんですよね。すごいしのぎを削ってる感じで、煮詰まってたって言う感じが(あります)。で、なんか新規開拓じゃないけど、全く別の何かはないかな?と思ってたところに、岡田玄さんから連絡が来て、「ちょっとサルサのベースをやってみないか? 澁谷君は黒人音楽好きだよね、黒人音楽が好きだってことはラテンの音楽もやったらいい感じになるんじゃないかな」って誘ってくれたんです。で、その時に、「じゃあ、ちょっと、やらせてもらいます」っていう話になって。じゃ、全くの無知では難しいと思うので、最初はリズム練習しよう…って、伊達弦がね、リズム練習の機会を設けてくれて、岡田玄さんと僕と伊達玄で3人で、しばらくそういう練習してましたね。ベースのタイミングについても色々。

――どんな練習してたんですか?

2つ、僕はトゥンバオを。シンプルなトゥンバオですね。で、岡田玄さんがベースのアプローチのパターン、バリエーションなんかを、こういうアプローチもあるよって色々教えてくれて。伊達弦なんかは、タイミングの事とか音の長さの事とか、色々教えてくれたですね。すごいありがたいなと。

――なんか短い曲やったりとか?

曲はね、オルケスタ・ルンバ・マクンバっていうバンドでは、主にプエルトリコ・サルサ、ニューヨーク/プエルトリコの、それこそその当時の、レイ・セプルベダが、名曲あるじゃないですか、なんだっけな。

――「ペリグロソ・アモール」?

あー、それそれ、それやってました! それをね、すごいカッコいいなって思って。「ああ、こういうサルサ良いな」と思って、やってましたね。


Ray Sepulveda En Vivo - Peligroso Amor

――当時エレベで?

ええ、エレベです。

――アップライトはいつから?

その時は、どうやらベイビーベースっていうのがサルサではもてはやされているって言うか使われている、っていう情報はあったんですけど、まだ欲しいっていうところまで至っていなかったんです。そこまでサルサにのめり込んでなくて、それこそ最初の頃は、マーカス・ミラー・モデルのエレベでやってました。

で、ベイビーベースが欲しいって思い始めたきっかけが、プエルトリコ系ではないんですけど、イサック・デルガドっていうキューバ人。NGラ・バンダを辞めた後にソロで活動し始めた時に『CON GANAS』ってアルバムが出て、あれをね、ピアニストの岡田玄さんが「またこんなアルバムが出たよ」って、「結構いいよ。澁谷君だったらこういうの好きなんじゃない?」って、もらったんです。テープをもらって聞いたらもうハマっちゃったんですよ。ベイビーベースが無茶苦茶良い音してるんですよね。なんていうか、ものすごく丸くてふくよかで、そのレコーディングに携わったプレイヤーはキューバ人じゃないんですよね。ベネズエラのスタジオ・ミュージシャンだったんです。それでね、「こういう音を出したいな、サルサで」「サルサで自分が演奏するときに、こんなサウンドをバンドで弾けたら最高だな」って思って、それから血眼になって探しました。



Issac Delgado "El 443025" (2014)

(後編に続く)

posted by eLPop at 18:51 | Calle eLPop