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わたしたちの間にある壁をどのように乗り越えていくべきか、粘り強く思考するためにby高際裕哉

2019.11.20

 eLPopメンバーの友人の一人でもある高際裕哉さんが、facebook上でチリの劇団ボノボの公演『汝、愛せよ』の観劇レポートを、今まさにチリが直面している社会闘争、そして日本における芸術をめぐる問題、そしてそれらすべての根源ともいえる分断と階層化による社会の地滑り的組み換えなどと絡めて非常に熱量あるエッセイを書かれておられた。高際さん曰く「勢いに任せて書かずにはいられなかった」というその文章に感銘を受け、今、少しでも多くの人にこのメッセージを呼んでほしいと思ったので、高際さんの許可を得て、ここに転載させていただくことといたしました。(水口)

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東京芸術祭ワールドコペンペティション2019 Photo Maiko Miyagawa


【基礎情報】
東京芸術祭ワールドコンペティション2019
アメリカ部門
劇団ボノボ『汝、愛せよ』
11月2日 (土) 14:00 / 18:00
東京芸術劇場 シアターウエスト



わたしたちの間にある壁をどのように乗り越えていくべきか、粘り強く思考するために

高際裕哉



 2019年11月2日、東京芸術祭ワールドコンペティション2019の「アメリカ部門」の演劇、劇団ボノボによる『汝、愛せよ』を観覧してきた。劇が終わると役者たち全員が「チリでは現在人権侵害が起こっている」と書かれた垂れ幕を手に壇上に戻ってきた。
 同芸術祭でこの作品は最優秀パフォーマー章、批評家賞、観客賞の三つを受賞した。
 日本でもチリで大規模なデモが起こったのちの詳細を知ることは難しい。少なくとも10月26日、100万人以上が集まった大規模なデモは、警察および軍隊により「解散」を迫られただけであって、民衆の怒りが収まっているわけではないことは胸に留めておきたい。事態は現在進行中である。同国の富の再分配がなされない、あるいは延々と続く経済格差への民衆の側から反発が噴き出している最中に、日本にやってきて上演をした彼らだ。以下の文章から彼らへの敬意と連帯の意を示しつつ、かれらの演劇を見て考えた点をしたためたい。

 作品の第一幕は先住民と修道士と思われる征服者の会話から始まる。二人の会話では修道士が「我々は平等だ」と言い続けるが、被征服者の使用人は頑としてそれを受け入れようとしない。被征服者が繰り返す言葉には “incómodo”「インコモド:居心地のよくない、厄介な、落ち着かない」という形容詞が繰り返される。のちに征服者の兄が会話に割って入るも、被征服者は相変わらず彼は征服者との関係がインコモドなのだと繰り返す。彼は征服者に対し怯え、卑屈に接している。

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東京芸術祭ワールドコペンペティション2019 Photo Maiko Miyagawa

 そして被征服者の使用人は、家畜の牛と性的関係を持ったことをほのめかす。この場面はおそらく植民者側(あるいは作者・演出側)が意図的に挿入した「野蛮な人間たち」に対して抱く植民地幻想のステレオタイプかもしれない。あるいは使用人が繰り返す牛を「愛する」という表現自体が牛を「殺した」ことを含意しているのかもしれない。それは問題として脇に置いておくにしても、被植民者側が植民者側に対して「居心地が悪い」と繰り返すモチーフは舞台の中でテーマを変えて変奏されていくものになったのではないか。

 第二幕の舞台は近未来である。学会シンポジウムに参加する医師たちの会話で展開される。「アメナイト」という地球外からやってきた人々に対して医療がどのように尊厳を回復させる効果があるのか、という問題について学会発表を控えている。昔ながらのハリウッドスタイルで、宇宙人を制圧するというテーマでは全くない。「アメナイト」には“ameno”「アメノ: 快適な」人々という含意がある。他者に対して名付けられた名前であるにせよ、彼らとどうにか共存しようとする意図が読み取れる。現実的にどのように共生するかが議題だ。
 「アメナイト」がチリにおける先住民であり、より世界的に見れば、植民地における「被植民者」であり、西洋的な視点から見た「他者」であり、近代国家においては統治を拒み続ける「先住民」であることは疑いの余地はない。
 医師団は「他者」たる「アメナイト」の尊厳を尊重するため、人道主義的な発表をしようと試みる。しかし皮肉にも、劇が進行する中であらわになるのは医師一人一人に巣食う「アメナイト」への差別意識である。
あるものは医師としてアメナイトを診察するときには自分の差別意識を彼らの前であらわにしたことを告白し、アメナイトコミュニティーで医療に従事していた男性医師は、彼らに暴力的な側面があることを吐露し、彼らの理解は無理だと述べる。唯一女性医師であるベロニカだけが模範的な非差別主義の信念を貫く。
 劇中であらわにされるそのほかの医師たちの差別意識は、性・ジェンダー的、人種主義的、移民嫌悪的差別意識と結びついたものとして提示される。リベラルな顔を装った男性たちのよくある敗北の姿だ。一観客の筆者もわが身を振り返りどこまで「差別」に対して自覚的か反省を促された。もしも舞台の中で即座に聞かれたら口ごもってしまうだろう。
 劇の最後に、以前罪を犯して刑務所に入っていたものの、優秀な研究結果を作り上げたアルトゥーロが、スイス出身で、同性愛者嫌いかつアメナイト嫌いで、ある晩、アメナイトのタクシー運転手に「お前はウサギに似ているな」とたった一言言われただけで、殺してしまったことを告白する。自らが動物の比喩で表現されることが許せなかったのだ。
 アルトゥーロは、タクシー運転手に暴力を加えている間、アルトゥーロはアメナイトに恐怖と戦慄の表情を見、逆説的に「他者」であったアメナイトが同じ人間であったことが目に焼き付き、殺してしまったことを深く悔いている。「他者」と私たちが意識的にも無意識的にもくくってしまう存在が同じ人間存在であるということに気づくのが相手を殺す瞬間だったというのは皮肉である。

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東京芸術祭ワールドコペンペティション2019 Photo Maiko Miyagawa

 一方「アメナイト」に対し非差別の信念を貫いた女性医師のベロニカは、かつてかれらのコミュニティーで経験した話を医師たちに語る。彼らの部屋に一人残り、彼らにとって重要な言葉「腹を開け」という言い回しは行動を伴わなければならないものだった。ベロニカはそれを受け入れ、老婆から錆びたナタで腹を切り裂かれるという儀式を受ける。そして彼女は直観的に、わたしたちの差別が潜んでいる場所がどこにあるのか、身体的な差がわたしと彼らの間にあるのか、という疑念から自由になったと語り、仲間の医師たちに、自らその時切り裂かれた「腹を開」き傷を晒す。彼女は身体的に「アメナイト」を知っている。果たして観客たる私たちもそこまで身をささげられるものなのか。アルトゥーロの極限とは別の形の極限、身体的な傷を分かち合うことという選択肢を提示されたことには胸を締め付けられた。
 この二つの極限状態のほかに、わたしたちは「他者」との回路を発見することはできないのだろうか。と一観客として思考を巡らせているのが舞台上のその他の男性医師たちと同じだという点があらためて非常に歯がゆい。
 舞台では最後に、他国からの医師たちが彼らが発表を前に仲間割れしていることを懸念し、「”cómodo”(心地よい)な状態になったら発表にうつるようにと言葉を残し、幕が閉じられる。「cómodo」とは植民地主義的かつ「他者嫌い」≒incómodoな状態を克服した時のことともとれる。一方、それが英語に翻訳され名詞化されれば、commodity「日用必需品」という商品経済の言葉にもなる。私たちの世界が市場経済と切り離せないことがほのめかされながら、同時に私たちが切り開いていく未来についても暗に指示されている。非常に両義的な終わり方だった。植民地主義に端を発する他者の問題、それと連続する資本主義の問題が絡み合い、わたしたちは困惑している。

 この戯曲が「アメリカ」部門に分類されたのは画期的なことであった。視点をヨーロッパによる南北アメリカ征服までさかのぼり、また英語圏アメリカが単一のアメリカではもはやありえず、南と北の壁を取り払った場所としての「アメリカ大陸」あるいは今日的にはかなりの程度北アメリカの内部にも「ラテン」アメリカが存在することを示唆するこのカテゴライズは、日本語圏においては新しい試みだったと思われる。
 また、今日、この戯曲を日本で上演する決定も劇団にとっては決意が必要だったに違いない。作品内において差別の根源は植民地主義にあるとボノボは提示し、その構造的差別が現在まで経済体制の中に組み込まれ、生き延びていることを批判する作品であったためだ。
 おりしも、日本で2019年8月3日、あいちトリエンナーレ2019「表現の不自由展」で中止騒動があった直後、同月10日にいち早く自らの作品の展示中止を求めたのは日本のアーティストたちではなく、海外のアーティスト11名であり、そのうち8名はスペイン語圏(多くはアメリカ大陸)のアーティストたちであった。遠い場所であるように見えるからこそ、アメリカス(複数のアメリカ)が私たちに提示してくれる抵抗の方法、および屈服せず生き延びる方法は、完全な閉塞状況に急速に陥ってしまった日本語社会に勇気と、生き延びるために必要な狡猾さと曲げる必要のない信念の大切さを教えてくれる。
 その文脈で、スキャンダラスな事件の顛末のさなかに、わたしたちの中にもあるかもしれない「差別主義」に対する思考を促しながらも「反差別主義」のモチーフを演劇の中に組み込むチリの劇団ボノボの公演を今日の日本で見られたことは幸いである。日本に流布する「他者嫌い」の「言説」、というよりも、それ以上に、現在日本には、政権によって半ば公的に肯定されつつある過去の歴史の否定を公言する人間が相当数存在し、歴史的真実をねじまげ、今を生きるマイノリティーたちに対していつ暴力を働くかわからない人間も少なからずいる。私たちが当たり前のように蓄積していたと信じてきたものが、どこからどう突き崩さるのか、あるいは脅威にさらされるのか、少なくとも行動を起こす前に慎重に可否を自己検閲しなければならないような状態が、間違いなくある。それに対し、チリの彼らはその「他者嫌い」の言説や、あるいはそれに対し異を発することにおびえることに対しいちばん重要な問いを発したように思えるからだ。それがスペイン語と字幕とで数百人にしか見られなかった舞台であっても。
 南米大陸各国の情勢は再び混迷を極めていることは周知のとおりだ。しかし、そうであるからこそ、彼らは古く根強い植民地主義の残滓を暗示する。それでだけではない。デモをしたチリの民衆に対しても投げられる問いがある。国家権力から「暴徒」として扱われ「他者」化される民衆自身がどのように自らを問い直すのかという問題。構造的に周縁部に追いやられてきた「先住民」に対して社会が深く持つ差別意識、また文化的な差異があるにせよ、ともに経済的には周縁部に置かれている自分たちをどのように認識し、そこから共に立ち上がる前に、両者の間に立ちはだかる問題をこの作品では実験的に表現しているように思える。

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東京芸術祭ワールドコペンペティション2019 Photo Maiko Miyagawa

 翻って作品が私たちの社会の中にも投錨されたのも事実だ。セクシズム、レイシズム、ホモフォビア、また貧富の差によるラベリングは人間を「他者」・「動物化」することで人間存在ではなくならせてしまう。これらの「他者化」は今日全球的に猛威をふるっている病であり、それは暴力的な言語・行為を通じて新たな形で露わになっている。その病を蔓延させるのは、植民地主義の残滓であり、また新自由主義による貧富の格差の信じがたい増大に違いない。コメディのようでありながら批評的である作品の幕が下りた後、現実にどう立ち向かうべきか、私たちに問題は託される。繰り返すが、劇団ボノボのメンバーたちは、幕が下りた後、舞台に戻り、「チリでは現在人権侵害が起こっている」と書かれた垂れ幕を手に壇上に戻ってきた。人権とはわたしたち皆が持っていて、踏みにじられることが許されない権利のことだ。
posted by eLPop at 20:08 | Guindahamacas