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<エル・ポップ>トークライブ〜キューバ、プエルトリコ、ニューヨーク 黄金の三角関係〜 Vol.7(前半)

2019.04.20

のんびりしてるにも程がある!…ってことではあるんですが、2018年6月9日に開催した「黄金の三角関係 Vol.7〜サルサの時代」。
ようやくアップに漕ぎつけました。改めて読み直してみると、なかなか興味深い話が満載です。

★<エル・ポップ>トークライブ〜キューバ、プエルトリコ、ニューヨーク 黄金の三角関係〜 Vol.8
6月15日(土)開催予定で調整中!@Con Ton Tonです。
よろしくお願いいたします。

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岡本(以下O) 「黄金の三角関係」7回目です。ニューヨーク〜プエルトリコ〜キューバの三角関係をとことん追求してみよう……、ま、とことんは出来ないので、ちょっと考えてみようかなっていうことで(笑)やってるんですが、一応マンボくらいまで行ったので、今度はその後を考えてみようじゃないか、というわけです。
 今日は、我々の大先輩の飯田義文さんも来て頂いていて、どっちかっていうと私が飯田さんに聞きたいぐらい(笑)。
 曲を聞きながら、家で飲んでるっていう感じで(笑)楽しんでいただければと思います。僕らも分かんないことあったら飯田さんにお聞きしますんで。どうですか、高橋さん。

高橋(以下T) 以前、1960年代をやったから、その後の「サルサの時代」になるんですけど、相互にいろいろ分かんないとこがあるんで色々と聞いてみたいな、という感じですかね? どうですか、伊藤さん?(笑)

伊藤(以下I) えっ?あ、すいません、もう酔っ払ってるんで(笑)。(われわれ3人は)好きな音楽は重なってるけど、重なってないところもあって。で、その知らないところをここで解明するということで、自分らのためにやってるようなとこもあって。それを一緒に聞いていただけたら嬉しいなぁ、という感じです。

 キューバから帰ったばかりなんですよね、伊藤さん?

 そうなんです。3泊5日、トンボ帰りですね。実質2日だけだったんですけれども仕事があって……空き時間を無理やり作って回りました。クラーベの起源っていうのを前に<eLPop>に書いたんですけども、それを検証に行ってきました。文献を探しに行ったのと、あと、「(クラーベは)この辺でできたんじゃないかなぁ……」っていう地区のところをウロウロして、「あぁ〜なるほど、そうかもしれないなぁ」なんてことを思ってきたんで、またおいおいどこかに書きたいと思います。

 それは楽しみですね。じゃあ早速、曲を聞きたいと思います。「サルサの時代」って、一応60年代後半くらいのところを設定していろいろ聞いてみようってことではあるんですけれども、まずはキューバから。

 あぁ、キューバからなの? じゃあ、とりあえず一番目のいってみましょうか。
(……と、音源を探す)

 じゃあ探している間に……。先ほど配ったチラシで、来週の11日〜20日まで青山の「スペースユイ」っていうところで、河村要助さんの個展「ジョイフル・トウキョウ」という展覧会(2018年6/11〜20)がありますので、これは是非見ていただきたい。
 河村要助さんがどういう方か? この人がいなければ日本にサルサっていうのが紹介されなかったっていう人で、僕らよりも飯田さんの方が河村さんとは、付き合いが深いくらいですよね?

飯田 いや、私はあの、河村さんとか、藤田さんとかと、レコード・コンサートをやってたの。

 聞いた話では、71〜72年に、多分s-kenさんだと思うんですけど、ニューヨークに行った方が「要助、これ、ニューヨークですごい流行ってるよ」って言ってお土産を持ってきてくれたらしく、それが、ウィリー・コロンの『ギサンドGuisando/Doing a job』っていう、金庫破りのジャケットの、3枚目のアルバムだった。

guisando.jpg

 河村さんはイラストレーターなんですけども、もともとR&Bとかソウルとかジャズとかが好きで、なんて言ったって、62年だかに日比谷野音でマイルス・ディヴィスを高校生の時に見たっていう人で。「羨ましい!」って僕はなんでも言ってるんですけど(笑)、音楽フリークで、東京芸大に入ってパルコに行って、それでイラストレーターになり、湯村輝彦さんとか矢吹申彦さんと「ナンバー1スタジオ」っていうのをやって。それで「ミュージックマガジン」……当時は「ニューミュージック・マガジン」だったんですけど……その創刊の頃からいろんなことを手伝っていた。
 で、河村さんがそのウィリー・コロンのアルバムをもらって聞いて、ものすごい衝撃を受けて。ただ、本人が言うには、ものすごく大好きになったんだけど、ニューヨークの音楽だって言われたのに何語なんだかまずよく分かんないっていう(笑)。どこの国の音楽だか分からない、って言うところから始まって。で、当時はLPなんで内袋にカタログが印刷してあって、ウィリー・コロンってファニア・レコードなんですけど、ニューヨークの住所が書いてあったんで、とりあえずそこにカタログに書いてあるものを全部注文したそうです(笑)。そういうところから始まって、「これはなんか“サルサ”って言う音楽らしい」、と。
 当時「ラテン・ニューヨーク」っていう雑誌がいろんな取材をしてまして……編集長はイシー・サナブリアっていう、まさに映画『アワ・ラテン・シング』でイスマエル・ミランダとラリー・ハーロウが「アブラン・パソ」をやる前にMCで紹介してる彼なんですけども……その「ラテン・ニューヨーク」っていう雑誌を定期購読するようになり、そういうところから徐々に、「いまサルサっていう音楽がニューヨークで流行ってるらしい」っていうところから「ニューミュージック・マガジン」に紹介して……っていう(流れでサルサが日本に紹介された)。
 その記事を僕なんかが読んで、「あ、こういう音楽があるのか」っていうところからいまに繋がっているので、もう本当に河村要助さんがいなければ、まさに今のこういう我々の繋がりもなかった。それだけじゃなくて、本当にイラストレーターとしては超一流でいろんなところでいろんな賞をとってる人なんで。この展覧会は是非見ていただきたいなというところでございます。すいません長くなりました(笑)。はい、準備できましたか?

 はい、出来ました。

お客さん ひとつ聞いていいですか? その、ウィリー・コロンのアルバムを持ってきたのは何年くらいなんですか?

 71〜72年って聞いてますけどね。

お客さん ほぼリアルタイムですよね?

 ほぼリアルタイム。直後くらいだと思うんですよね。

飯田 ただ、メディアには紹介してないと思うんですよ。仲間内だけで。

 そうですよね。で、そういうことがあって、70年代半ばにかけてなんとなくブァーって盛り上がって、1976年にファニア・オール・スターズが来日したんですけど……

お客さん 日本に来たんですか、76年に?

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 そうそう。

飯田 だって、私、行ってますから、中野サンプラザ、

(会場どよめき)

(プロモーターは)キョード東京ですよね?

飯田 あぁ、そうそう。

 思ったほどは動員できなかったみたいで……。

飯田 いや、でも結構入ったみたいだよ。

 ただ、全体的にいうと……

飯田 あ、そうだね〜。

 (そのせいもあって)そのあと10年くらいは、(ラテンのアーティストを)呼ぶのが叶わなかったっていうのがあったんだけど、それがきっかけでオルケスタ・デル・ソルも出来たし、あと、我々に(サルサを)紹介してくれた河村さんと、藤田正さんっていう当時「ニューミュージック・マガジン」にいた編集者、あと、渡辺研一さんてもう一人の方がいたんですけど、その人たちが毎月1回恵比寿の喫茶店とかでレコード・コンサートをやってたんですよ。僕は学生の頃にたまたま行ってて。で、飯田さんにもそこで知り合って、っていう感じですね。

飯田 それと、銀座のソニービルの……

 そうそう、そうですね。「サルサ天国」って(レコード・コンサートを)やったりしたんですが。

 本になってるね、2冊。

index.jpg サルサ番外地.JPG

 そう。河村さんは雑誌「ブラックミュージックレビュー」にずっと連載してたんで、それをまとめたのが、「サルサ天国」と「サルサ番外地」。我々にとっては、聖書の旧約聖書、新約聖書みたいな感じなんですけどね(笑)。いま、なかなか手に入らないんですけど。

 そういう意味じゃ、もう一つは、飯田さんが作ってた「トロピカル通信」とか「サルサで行こう」とかね。ミニコミ誌ですけど、それを一所懸命手に入れて、読んで、っていうのもありましたね。

飯田 実は、バックナンバーは結構持ってるんですよ。

 そうなんですか!? じゃあ、それ、ちょっとPDF化したいですねぇ。

 それをアップしましょう! すごい貴重な資料ですよ!

 僕、全部は持ってないので……

飯田 じゃあ、データかなんか差し上げますよ(笑)。

 やった! じゃあそれ<el Pop>にアップしよう! すごい貴重!

 そうそう。こないだ(2月)金沢で会った中原さん。中原さんのも少しPDFにして送って頂いたんですけど。手書きのやつとかね……。

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 リズムの研究とか、すごいじゃないですか。

 すごいですよね。なんかやっぱり色んな人が、そうやってやりながら広がってきたっていうね、そういう感じしますよねぇ。

 まだ全然クラーベっていうものが分かんなかった時期から、っていうね。

 はい。じゃあキューバから……。

 まず1959年のキューバ革命とそのあとのキューバ危機やなんかで、キューバと米国は断絶して相互の人的交流が一部規制されていたっていう中で、キューバとニューヨーク、プエルトリコの60年代は、まぁ、色合いはそれぞれかなり違うと思うんですよね。
 ニューヨークとかプエルトリコ、特にニューヨークは、サルサっていう方向に向かったんだけど、キューバはそれとは全く……全くとは言えないけど、ちょっと違う方向にいっていた。(米国が)カーター大統領の時代(77年〜81年)になるまで、なかなかそういう文化的交流が出来なくって違う道を歩んで行くことになったんですね。音的にはそういう印象なんですけど、カーターの時期になって少し交流が進んで、ソンをもう一度見直すみたいな方向にキューバ国内でも向くことになったんですけど、それの元のきっかけを作ったバンドでコンフント・ルンババーナ(Conjunto Rumbavana)っていう、1955年革命の前に結成されてるバンドなんですけどね。
 60年の半ばの録音のアルバムを聴いてもらおうと思います。その中に、アダルベルト・アルバレス(Adalberto Álvarez)が作曲した曲とかロス・バン・バン(Los Van Van)のフアン・フォルメル(Juan Formel)が作曲した曲なんかも入っています。彼らが若いころ、自分たちでバンドを作る時に、参考にしたというか、キューバのソンの流れを組むバンドということで、リスペクトされていたバンドのアルバムから、アダルベルト・アルバレスが作曲して、編曲とかにも関わった曲です。


♪ Conjunto Rumbavana / Con un besito mi amor

 コンフント・ルンババーナで「コン・ウン・べシート・ミ・アモール(Con un besito mi amor)」。作曲がアダルベルト・アルバレスでアレンジもやってますね。
 コンフント・ルンババーナ、55年の結成なんですけど、コンフント編成は、キューバでは50年代とか全盛期で、こういうバンドいっぱいあったんですけど、このバンドもラウル・プラナス(Raúl Planas)っていう歌手がフロント張ってて、結構人気があったんです。で、60年、革命前後くらいにホセイート・ゴンサーレス(Joseíto Gonzáles)っていうピアニストがこのバンドのリーダーになって、そこからこういう、よりモダンな編曲・アレンジをするようになった。で、70年代〜80年代半ばまで、キューバではずっと人気があって、僕が一番最初にキューバに行った時に、コンフント・ルンババーナの追っかけみたいなこともちょっとしたりしました。若い子から結構年配の方まで親しまれてるって感じだったんですけど。で、ホセイート・ゴンサーレスは日本にもツアーで来たりとか、ロス・パピーネス(Los Papines)とも一回、えーっと何年だったかな、1970何年かに来てて、日本ビクターにも録音も残してるんですよね。この時代の若きアレンジャーで、サウンドクリエーターみたいな感じですね。アダルベルト・アルバレスは後に、ソン・カトルセ(Son14)を作るんですけども、それのためのアイデアとか、このホセイート・ゴンサーレスにはすごくリスペクトがあって、コンフント・ルンババーナのサウンドっていうのはすごく参考にしたっていう……。すごい憧れがあったっていうのは言ってますね。そんな感じで、のちの伏線になるようなバンドの曲を聴いていただきました。

 これは60年代半ばくらいですか?

 多分60年代半ばくらいですね。

 前にこのトークライヴで60年代のことやった時に、やっぱりなんていうんですか、革命の後って、なかなかバンドとしてはうまく継続できないっていう話がありました。50年代のものと、今聞き比べると、もう完全に違う感じがするんだけれども。

 あぁ〜、そうですよね。

 例えば、その後に出てきた“ティンバ”みたいな感じが、今聞いて、すごくしたんだけど(笑)。これは突然出てきたのかな……って。

 50年代の終わりくらいから60年代って、キューバでは、ニュー・リズムっていって、“パ・カ”とか“モサンビーケ”だとか色々出てきて、そういうちょっと前のソンとは違う、ちょっと汎カリブ的な音を、みんな作ってたんですよね。だから、その辺の影響もあるんじゃないかな。ちょっとカーニヴァルっぽい感じが入ってたりとか。このルンババーナも、結構、ソン系統の伝統に則ってやってる部分と、バチャータっていって……ドミニカ共和国のバチャータとは全然違うと思うんだけど……バチャータってリズムをやったりとか、このアルバムにもね、見ていただくと分かるんですけど、バチャータでしょ、ボレロ・チャ、ソン・チャ、それからバチャータ・ソンとか、ソン・シェイクとか……シェイクっていうのは、なんだろうな、ロックじゃないんだけど、その感覚みたいなのを入れてるとか。だから、ティンバが、なんでああいうのが出てくるかっていうと、やっぱりこの時代からの流れがずーっとあって。
 岡本さんがいつも、「曲が終わったら終わりでいいだろ」って言うけど(笑)、終わってまたリズムを始める、みたいなのは、このルンババーナも、僕が見た87〜88年くらいの時にもやってましたからね。
 だから、ティンバとかああいうのが出る前から、いったん終わって、もう一回リズムだけガーっ!とやって、ちょっとやって終わる、みたいなことをやってた。だから、ティンバもポッと出てきたわけじゃなくて、伝統的な……という言い方がいいかどうかわからないけど、その流れがあるって思いますね。

 やっぱりそれまでのマンボとか、それから所謂オーソドックスなセプテート・ナシオナルとか、(それ以前の)ソンと全然ノリが違うじゃないですか。岡本さんと同じこと思ったと思うんですけど、それってすごい特殊だなと思ったのはね、60年代、キューバ革命の後、ストップするじゃないですか、音楽が入ってきたりする事や演ることも含めて、そんなことやってる場合じゃねぇみたいな。で、そこの間で、ムシカ・モデルナがあって、学んでいくみたいな。入ってこないものに対する憧れ、入ってきたものへの憧れみたいな、なんていうんですか、要らぬぐらいそれに影響されてしまった感じがするんですよね。ニューヨークなんか、それが普通にあるから、もっと、ゆったりとブーガルーなんか始まってきたんだけど、キューバってね、止められてたものが急に入ってきて、それは、「なんだなんだ、あんまり入ってこねーぞ」っていうとこに、過剰に入ってきた感じがとってもしたんですけど、どうでしょうか?

 うん、そうですね。だからね、このあと聴いていただく予定なのは、そういうのがてんこ盛りです。やっぱりビートルズとかの影響っていうのが聞いていただくと分かると思うし、ビートルズやブラッド・スウェット&ティアーズのリフを最後にちょこっと入れたりとかね、そういうことやるんですよ。スタイルとしては、キューバのソンとか、グァラーチャとか、グァヒーラとかの流れを組んだような、そういう流れを残しながらそういうことやるんですよね。

 とっても面白いなと思うのは、ニューヨークの場合は、自分らのルーツを大事にしようっていうとこが残りながら、ゆっくり影響が入ってきた感じがするんだけど、キューバはしばらく入って来なくて、来たら、「なんか面白いよ、とにかくやろうぜ」みたいな、ちょっと節操のない感じ(笑)があるのは面白いな、と。

 そうですよね。でもね、革命前から同じ様な傾向があると思いますけどね。どうしても、日本でキューバっていうと、アルセニオ・ロドリゲスみたいなイメージがあるから。アルセニオってキューバの音楽の中でもちょっと特異なものだって言われるじゃないですか、あのリズムの取り方とか、ずーっとそのノリで行くみたいな。それで、アルセニオが抜けたあとにバンドを引き継いだチャポティーンは、それこそニュー・リズムをどんどんやりましたからね。50年代半ば以降から、ニュー・リズムっていうのをどんどんやった。だから、汎カリブ的な感じはすごいしますよね。ニューヨークっていうのは、都会であり、北米の中のラテンっていう感じなんだけど、やっぱりキューバはカリブ海の中のラテンだから、もともとその辺はあるような気がしますけどね。

 そのニューヨークにね、ビートルズに影響されたラテンっていうのはあまりないでしょう? だからなんか、汎カリブっていうより、白人音楽に異常に影響された感じがするんですよね。

 だからまぁ、面白いと思ったものを取り入れたんだろうなぁ、って(思います)。でも、取り入れ方がやっぱり汎カリブっていう感じが僕はするんですけどね、サウンド聞くと。
 でも、それってもともと、ルンバの時代はルンバで、どうしても政治的な理由で(海)外で活動しなくちゃいけなかったような人たちっていうのがいたし、マンボの時代もいろんな理由で外に出た人たちがいた。外に出て行くと、結構その汎カリブ的なところから突き抜けないと、というところがあると思うんです。一方(キューバに)残った人たちは、どっちかっていうと汎カリブで、あとは憧れももちろんありますよね、欧米に対して昔から。みんなそうじゃないですか、他の国も。他の国は違うのかな? そういうのがあるかなぁという気がしますね、憧れがあるかなぁ、という。

 今の曲を聞いて結構、衝撃だったんですけど(笑)、60年代、革命で断ち切られたところで、伝統的な昔のマンボとかが全くなくなったわけじゃないだろうけど、いきなりこれが出てきたっていうのが。ま、いきなりじゃないのかも知れないけど……。今、伊藤さんが言ってたように、あんまりニューヨークでビートルズの影響を受けたラテンとかって出てきてないから、そこが、どういうメンタリティなのか? そこのところがすごく面白い。

 そうですねぇ、うん。まぁまぁ、追い追い……(笑)

 追い追いね(笑)。じゃあ、ニューヨークの方に行きますけど、革命後っていうことで、モンゴ・サンタマリアとラ・ルーペのをかけてみたいと思います。

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 モンゴ・サンタマリアは、その前からニューヨークに来てて、ティト・プエンテとかとやってたんですけど、ラ・ルーペっていうのは女性歌手でね、この頃に来たんですかね? 革命(が原因)で来たかどうかはわからないんですけども、キューバからニューヨークに来て、『Introduces La Lupe』っていう『モンゴ・サンタマリアがラ・ルーペを紹介します』ってアルバムで。62年なんで、モンゴ・サンタマリアは「ウォーターメロン・マン(Watermelon man)」が大ヒットする年なんですよね。ですからもう、スターになっていたと思うんですけども、彼がラ・ルーペを押すよ、みたいな感じでこのアルバムが出てくるんで、そういう意味ではすごい注目の曲だと思います。



♪ Mongosantamaria feat. La Lupe/ Besito pa ti

 モンゴ・サンタマリアがラ・ルーペをフィーチャリングした「べシート・パ・ティ(Besito pa ti)」。「あなたにキス」みたいな、強烈な(笑)。のちに「フィーバー」とか、もっとものすごいのありますけど、ちょっとその片鱗を感じさせつつっていうことだとは思うんですけども、これを聞いてると、62年の、さっき言ったモンゴ・サンタマリアの「ウォーターメロン・マン」の雰囲気もあるし、で、やっぱり62年、革命があって、もう経済封鎖してるのかな? ちょうどそれくらいだから、キューバの方々もどんどん亡命する人は亡命して(来ていて)。だから、キューバの国内もそうだけど、ニューヨークの方でも「どうなるのかなぁ?」っていうところだったのかな?って思うんですよ。
 で、そのへんの、無理やりいうと、不安感、不安定感みたいなところがあるんだけど、でもやっぱり、当然エンタテインメント業界としては、ヒット曲を出さなくちゃっていうところがあって、ラ・ルーペも、英語で歌ってたりなんかして、「私はやっぱりこれからニューヨークでやっていくのよ」みたいな、そういうところも感じられたりして、すごいフレッシュだし面白いなぁっていうのを、今聞いてて改めて思いましたけどね(笑)。
 なんかこう、どうなるか先行きわかんない……みたいな。逆にニューヨークとしては、多分、それまでずーっとキューバ音楽をお手本にしてやってきてたんで、当然、これからもそういうことで行くんだろうなっていう風に彼らは思ってたんじゃないかな、って想像するんだけど、その中で、モンゴ・サンタマリアっていうスターをバックにして、「これからよろしく!」みたいな、ラ・ルーぺのフレッシュな意気込みが感じられる曲だな、と僕は思うんですけどね。どうですかね? ちょっと考えすぎですか(笑)

 58年のプエンテのアルバム『ダンスマニア』がマンボの頂点という意味ではですね、それと同時に、その頃のパレイディアムにはコルティーホが出てたりっていう風に、ビッグバンド・マンボからコンフントっていうかグループっていうか、そっちへ移ってる時代ですよね、若い人の心は。で、ちょうどそこでキューバとの間が切れて、だからアフロ・キューバンっていうことも、なんとなくこう、お国としてはばかれるところの“敵”みたいなものっていうとこだから、アフロキューバンのビッグ・バンドはそこで余計盛り下がっちゃったんじゃないかと思うところもありますし、つまりその“アフロ・キューバン”っていう言葉がね。で、そこに60年代ってやっぱりロックの時代で、またソウルなり、なんなり出てきて、っていうことと、国交が切れたこともあって、残ってるニューヨークの人たちの間には、(キューバンは)やっちゃダメだからっていうんじゃなくて、もっと面白いことあるはずだよね、っていう気持ちも同時にあって、それが、今のリズム感、今の曲に自然に反映してるような気がしますね。

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 時代を整理すると、モンゴ・サンタマリアが、50年代、40年代くらいに、もうアメリカに渡って活動していて、米国でもトップアーティスト、トップミュージシャンの一人になったわけだけど、59年と60年にキューバに帰って『アワ・マン・イン・ハバナ(Our Man in the Havana)』と『モンゴ・エン・ラ・アバナ(Mongo en la Habana)』っていうのを録ってて……調べたら59年と60年なんですよね……だから、いわゆる国交を完全に断絶する前にそれを録った。
 で、カルロス・エンバーレ(Carlos Embale)とかメルセディータス・バルデース(Merceditas Valdés)なんかが参加してるんだけど、その後61年に国交断絶。
 そこでちょっと考えたいのが、どうしてもキューバからの亡命っていうと、反革命政府で出た人たちっていうイメージを思い浮かべちゃうんだけど、キューバの場合、その前の30年代のルンバの時代から多くのミュージシャンが海外で活動していて、それはまぁ、ルンバは結構その当時の政府に対して反政府的思想の人が多くて、で、パリとかニューヨークで活動してたりする人もいたし、ソノーラ・マタンセーラとかは、中南米カリブ中で人気があったから、セリア・クルスも同じですが、革命後もそのまんまツアーやってたら帰れなくなったミュージシャンとかも大勢がいます。
 さらにいうと、ルディ・カルサードとかって、やっぱりルンバ時代からもう米国とかで活動してたりとかね。あと、フスティ・バレートとかは40〜50年代からメキシコに行って、その後ニューヨークに渡って、サルサやなんかにちょっと関わったりしてるじゃないですか。だからそういう、革命で外に出たっていう感じじゃなくて出た人たちって結構多かった。その後のパキート・デリベラとかアルトゥーロ・サンドバルは、いわゆる反革命政府っていう感じですが。

 そのふたりは完全に亡命ですよね。

 80年代ですよね。

 そうそう。ラ・ルーペもキューバではかなり人気あったらしくって、当時のキューバでは最初のロック歌手っていわれてた。だから、何かそういう反革命政府という政治信条だったのかわかんないし、それより、もっと活路をニューヨークに見出そうみたいな感じはあったのではないかと。そこに革命が起きちゃったから……みたいな感じで。

 まぁ、それはあるかもしれないですね、確かにね。

 だからまぁ、岡本さんが言ってたみたいな、新しく「よし、この地でやっていこう」みたいな感じっていうのが溢れてる気はしましたけどね。キューバ人のその辺の、特に米国とかに行って活動したキューバ人は、それぞれの立場によって、やっぱり、あんまり外から見てて、反革命みたいな感じって思うよりは、もうちょっと自然な流れだったと見る方がいいんじゃないかなという気はしてますけどね。

 当然その前から交流はあったわけで、たまたま革命があったから帰れなくなった人もいるし、そういうことは、あると思うんで。ただ、今のを聞いてみると、革命云々は別として、英語であれだけ歌ってる。なんか、すごいかわいいなぁって感じが僕はしましたけどね(笑)。 どうですか、伊藤さん。

 そうですね。やっぱりラ・ルーペ、この頃本当に若い。若いラ・ルーペはその辺を楽しんでたところもあるんじゃないですかね。

 なんか、ダイナマイトですよね。

 ダイナマイト、がーん!みたいなね(笑)

 ボディもね(笑)。

 ボディね、そこにきますか(笑)

 やっぱり、セックスシンボル的な感じですよね(笑)

 キュートですよね。

 いやぁ、このジャケット、なかなかいいジャケットだなぁって、いつも思ってるんですけどね。じゃあ、伊藤さんお願いします。

 60年代のプエルトリコ、コルティーホは今日は持ってこなかったんですけど、じゃあ持ってきた中で一番古いのは何かな?って見てみたら、トミー・オリベンシアの62年のですね。
 2番目の曲、行ってみようかなと思うんですけども、今、岡本さんがかけたのが62年ですよね? で、高橋さんがかけたのが65年前後くらい。だから、62年のプエルトリコなんですけども、トミー・オリベンシアはニューヨークでいきなり活躍したわけではなくて、プエルトリコで59年に自分のコンボを作ってですね、60年くらいにもうちょっと大きくして、一番最初の録音っていうのは、2組のボレロのバンドとマルチニークで3曲録音っていうのが最初なんですけど、その次に、62年にアルバム作って……っていうことで、その頃は、ニューヨークはまだサルサって言ってなかったと。例えばこういう風な、ちょっと黒っぽいリズム、モンゴ・サンタマリアのリズムみたいなっていうとこで、ブーガルーもまだない頃ですよね。まだサルサっていう音楽でもないし、マンボは当然残ってたけど、っていうその時に、62年のプエルトリコの音っていうのはどんなだったんでしょう?



♪ トミー・オリベンシア/Trucutu

(会場から拍手)

 拍手が!(笑)

(会場笑)

 これ、62年で、先ほどの音楽とやっぱり違う。62年ですでにサルサではないかと。で、ファニア・レコードの誕生って64年ですよね。それよりまだ2年前、ということですよね。まだ、サルサ!みたいなこと言う前のことですよね。その頃のニューヨークっていうのは、もちろんサルサっぽい音っていうのは当然あるし、パルミエリの独立しての活動なんかも、62年に始まってるわけですけども、でもまだ世の中は、デスカルガとかブーガルーがこれからとか、パチャンガとか。そういう時代にこのオリベンシアはどっちかっていうと地元でやってた。もちろんニューヨークに行かなかったかどうか分からないんですけど、キュラソーでコンサートやったり、カリブの中でやってた人の音がもうすでにこうなってたっていうことですよね。

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 だから、サルサっていうのはもちろんニューヨークで生まれたわけですけど……ムーブメントも含めて、でも、音としては、コルティーホも含めてもうすでにプエルトリコにあったっていう感じがするのを、今の音から、とっても思うんです。で、60年代のプエルトリコって、コルティーホは麻薬でとっつかまっちゃって、そのあと、それがグラン・コンボに変身するわけですけど。

 まさに62年!

 62年ですよね。そういう時代ですよね。
 で、ソノーラ・ポンセーニャはその前からあるんですけど、ソノーラっていうキューバ的なトランペットを中心の音だったから、キューバっぽい感じがあるわけですけど、トニー・オリベンシアは、この60年代頭に若きトランペッターとして出てきてこの音を作ってたっていうとこが大事で。あの、トニー・オリベンシア楽団って……どうしても我々は(プエルトリコというと)グラン・コンボだポンセーニャだって言っちゃうんですけど……実はとっても大事なバンドだったんだなって思います。

飯田 あの頃ねぇ、プエルトリコには……これがやっぱり先端行ってるかもしれないんだけど……結構、同じようなバンドがあったんですよね。

 あったんですよね、多分ね。

飯田 うん、いろいろあったんで、その中ではやっぱり……

 まぁ、後に続いたっていうこともあって。

飯田 今から思えば一番サイケだなっていう。いや〜、オリベンシアってあの〜、実はトランペットも吹けなくって、なんでもない人だっていう(笑)

 あ〜! そうですよね!(笑)

 トランペットを吹いてるイメージない。なんかグィロを持ちながら口笛吹いてたような気がする(笑)

飯田 ライブとか見てもトランペット全然吹いてないんですよ(笑)

 吹いてないんですよ! 確かに吹いてないんですよ!(笑)

飯田 そう、私もね、最初は騙されてたの(笑)。トランペッターだと思ってて。ライブではトランペット持ってるだけで何にもやってないっていうね(笑)

 なんかその話聞くと、全然サマになってないな〜っていう感じがする(笑)

 トランペット、持ってはいるんですよね(笑)

 グィロも持ってはいる(笑)。いや〜、ここがオリベンシアの非常に計算高いとこですね(笑)。

飯田 いや、もう、大好き!(笑) 歌手が、パキート・グスマンとチャマコ・ラミレス、大歌手ですね。
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 そういう意味ではやっぱり、こういう歌手を選ぶ力がありますよね。フランキー・ルイスにしてもね。

飯田 確かに、ラロだって歌ってたんだからね。

 そうそう!

飯田 ヒルベルト・サンタ・ロサも歌ってたし!

 いい歌手を選ぶ力ってのは、この人はすごいですよね。

飯田 プロデュース能力は優れてたってことですね。

 そうですねぇ。

 そういう人はやっぱり重要ですからね。トミー・オリベンシア、すごい!

 プロデューサーっていう感じなんですかね?

 そういう感じじゃないですか、やっぱりね。

 そうでしょうねぇ、これ見よがしですよね、自分は吹けるんだって(笑)

 裏があった(笑)

飯田 昔、騙された!(笑)

 イメージ戦略(笑)。でも、イメージ戦略って大事ですよね(笑)。別にトミー・オリベンシアのソロを聴きたいわけじゃなくて、例えば、フランキー・ルイスの歌を、パキート・グスマンの歌を聞きたいわけですから、それは、全然問題ないですよね。

 そうですよね。そういう意味じゃ、グラン・コンボだってそうですよね。

 あぁ、そうですね。

 別にラファエル・イティエールのピアノを聞きたいわけじゃないし、ウィリー・ロサリオのティンバレスが聞きたいわけじゃないし、みたいなことはありますよね。歌手ですよね。

 そういう意味では、何が大事かっていうのをちゃんと分かってる人だっていうことはあるかもしれないですね。

 だからやっぱり、プエルトリコとか、サルサって、歌であるっていうところが強いですよね。そこがニューヨーク〜プエルトリコの一つの特徴っていうか。キューバはやっぱりリズム。リズムを前に出しても成り立つみたいなとこがありますよね。

 っていうことで、続きましてキューバ。

 さっき伊藤さんが、ビートルズだとか欧米のロックだとか、こんなにも簡単に節操なく影響される……っていう話をうけて、なかなか知られてないその時代の、まぁ若者の嗜好のひとつ……みんながそういう風にしてたわけじゃないんだけどそのひとつってことで、ちょっとロックぽいのを1曲かけてみようと思います。
 1960年代の前半までは結構、いわゆるロックン・ロールとかのバンドはいっぱいあったんですけど、ビートルズとかが出てきて、もうちょっとサウンド的にやるとか、サイケなことをやるバンドが出てきてるんですよね。例えば68年にミルタ・イ・ラウル(Mirtha y Raul)結成とか、ビートルズ来日の1966年結成のロス・ブカネーロス(Los Bucaneros)とか。
 聴いていただくのは、グルーポ・ロス・シンコ・ウ・クアトロ(Grupo Los 5U4)っていう、オスバルド・ロドリゲス(Osvaldo Rodríguez)っていう盲目のシンガーソングライターが作ったバンドで、曲は「エル・グアヒーロ・イ・ス・トナーダ」。1960年代の後半くらいに録音したんじゃないかなぁっていう曲なんですけど。


♪ Grupo Los 5U4/El Guajiro y Su Tonada

 よくわかんないでしょ(笑)。一応「El Giajiro y Su Tonada」っていうんで、グアヒーラ、田舎の方の音楽のスタイルっていうんで、鳴き声を入れてみたりだとか、その曲調が変わるところなんかがトナーダの感じだったり。

 途中、「グアンタナメラ」が……

 そうそう。この時代の他のロックのグループとか聞くと、ソフト・ロックやってるグループがあったりだとか、サイケなことやってるところがあったり、グループ・サウンズみたいなのとか、結構あるんですよね。
 で、これが人気があったかっていうと、YouTubeで結構上がってたり、当時のテレビ番組で取り上げられてたりするし、この辺の人たちっていうのは、アルバムとか出してるグループはそんなに多くなくて、シングルで終わった人も多いんですけど、ヌエバ・トローバなんかの人たちのバックやったりとかしてるって感じで。
 それを受容する下地があって、その後のロス・バン・バンなりイラケレなりっていうのが出てくる土壌っていうのがあったんじゃないかなと思います。

 今の曲って、(当時のキューバ人は)楽しいと思って聞いてたんですかね?

(会場笑)

 なんか、岡本節炸裂(笑)

 いや、まぁ、あの(笑)

 俺は楽しくねーぞ、って言ってる!(笑)

 いや、別にいいんですけどね。だって、50年代まではマンボとか聞いてたわけでしょ? キューバ人って元々こういうのが好きってことですか?

 まぁ、新しいことは好きですよね。やっぱり革命前とか、それこそ米国からいろんなものがどんどん入って来てて、フィーリンの人たちも例えば、いわゆるジャズを聴いて、このやり方を取り入れてみようと思ったとか、真似してたら自然にああいう感じになったとかっていう感じで。だからある意味、憧れ? みたいなのがあるんだけど、それが、ああいうサウンドになっちゃうところが、面白いなぁみたいな感じで思っています(笑)。
 例えば70年のイラケレみたいなバンドがほんっとに人気あったんですよね。70年代、80年代ね、もう、若いのも年配の人も大好きで聞きに行ってたみたい。あんな、ファンクでバーッとやるようなバンドが本当に国民的に人気があったっていうのが、やっぱりそういうキューバ人の特性があるんじゃないかなぁっていう気はしますけどね。

 例えば、米国とかだったら、ジミヘンとかね、そういうサイケみたいなロックみたいなってところが、さっきのものの代替っていうか、代わりっていうところがあったんですかね?

 多分、あったと思いますよね。だから、キューバは、40年代とか50年代、フィーリンが起こった時っていうのは、いわゆる米国の海兵隊なんかがレコードを持ってきて、で、小遣い稼ぎに、「最新のだよ」っていって売ってたんですよね、兵隊たちが。それを買って、「あ、格好いいじゃないか、新しいじゃないか」っていってホセ・アントニオとかが、ナット・キング・コールの真似をしてて。で、そのうち、そういう人たちがいっぱい出てきてフィーリンになっていった、っていう。それが、(革命で)分断されて、そういうのが入ってこなくなった、ってなると、そういうのを手に入れて聞けるっていうのは一部の人だけなんですよね。だから、外国に行く仕事の人なんかがレコードを買ってきた。それをみんなで回して聞いてたっていう話もある。要は、ニューヨークで、キューバの音楽が入らなくなっちゃったから自分たちでやってた、自分たちの音楽を作り出していったっていうのと同じような感覚なんじゃないかな。

 ロックの代わりっていう意味なのかなぁ……って、ちょっと思うところはありますけどねぇ。っていうのは、こないだUnityっていう、アクセル・トスカとアマウリー・アコスタを中心としたユニットが来た時に、ふたりにインタビューしたんですけど、「今度、どういうのをやりたいの?」って聞いたら、なんだっけな……アバンギャルドじゃなくて、「サイケデリック・キューバンをやりたい!」って。で、「サイケデリック・キューバンって、ちょっとイメージできないけど、どういうの?」って聞いたんですよ。そしたら、「例えばイラケレみたいな」って。
 それが正しいのか……っていうか、正しく描写されてるのかどうかわからないですけど、そういうイメージはあるのかなぁ、っていう感じはしましたね。

 イラケレはやっぱり、あのくらいの世代の人たち、今の世代の人たちでも、やっぱり好きなんですよね。ああいうある意味ガチャガチャした音なんだけど。ボレロも好きな国民ではあるんだけど、ああいう音っていうのも世代問わずにやっぱり聞いてたっていう。

 伊藤さんはどうですか?

 さっきかかってた曲はね、高橋さんが「グアヒーラの延長だ」って。で、グアヒーラって黒くないじゃないですか。基本的に白い音楽、っていう意味では、あ、こういうの好きだったんだねっていうのは、キューバ人全体が好きだったとは思えなくて、やっぱりその、グアヒーラみたいに白い人が聞いてたんじゃないの?と。わかんないけど。
 で、ガチャガチャが好きな人は、やっぱりこれはダルいよねって思ってたんじゃないかと、なんとなく思いますけどね。だから、そのガチャガチャしたイラケレ、その、キューバの人口からしたら、いわゆるもっとリズムが好きな人が多いところでは、やっぱイラケレっていうのはエバー・グリーンなのかな、っていう感じはしました。

 確かに、ロックやってる人たちっていうのは、どっちかって言えば、やってる方も聞いてる方も白人。それは、どこの国でもそういう傾向なんだと思うけど。こういうような環境というか下地っていうあって、やっぱり、楽しんでる人たちがいたっていうところから、イラケレ、ロス・バンバン、やいろいろなのが出てきたっていうとことなんじゃないかな、と思って聞いていますけど。

 面白かったです。じゃあ僕は、ニューヨーク、60年代っていう意味でいうとですね、(キューバから)色んな人が亡命してきて、ニューヨークの人としては、憧れの人がニューヨークに来た!みたいな感じがあって、その一つの象徴が、カチャオっていうベーシストで、デスカルガを50年代後半にやった人。ティコ・オールスターズでデスカルガをやった時の録音をちょっと聞いて欲しいんですけど、これ「デスカルガ・デ・コントラバホス」、“ベースのデスカルガ”ってことで、前半でそのカチャオがベース・ソロをグリグリ弾いて、後半でティト・プエンテとかとやってたボビー・ロドリゲスがやるっていう曲。ティコ・オールスターズのヴィレッジ・ゲートでのライヴですね。


♪ Tico All Stars/Descarga de Contrabajos

 最初がカチャオがベースでソロやって、途中からボビー・ロドリゲスと代わったんですけど、どうですか? 全然スタイルは違うけれど、いや〜素晴らしい演奏だな……と思いながら聞いてて、やっぱりこれを聞くと、ニューヨークは、もともとトラディショナルなキューバ音楽が本当に好きなんだなっていうのが分かりますよね。どうですか、こういうのは? さっきのキューバのと全然違いますよね。

 まぁまぁ、さっきのはロックの人たちだったじゃないですか。だから、そうですよね。好きで、それを踏襲してやってたんでしょうね。あと、さっき言ったんですけど、キューバの人たちが、もう30年代40年代からニューヨークにいたってことがすごく影響してるんだろうなぁって思いますよね。ルンバの時代からいて、マンボの時代もいたし、あとさっきも言ったけどメキシコも。キューバ人ってもう30年代・20年代から、外で活動するのが一つのかたちなんですよね。
 ソノーラ・マタンセーラって、マタンサス州出身だから、なかなかハバナで活動できなかったりとかっていうのがあったりして、だから外に行くしかない。まぁ、あんな狭い国だからいろいろと状況が……。

 狭い、という割には広いでしょ?

 うん、でも、ほらやっぱり……

 プエルトリコとかと比べたら全然広いですよ。

 でもほら、音楽で食おうと思ってる人の数と、それを国内でまかなえる数が、やっぱり差があって。米国、ベネズエラ、コロンビアとかに昔から行ってるし、あと多くの人がメキシコ行ってやったりしてますからね。その辺は、なかなかと全体像をフォローできないんだけれど、結構人気グループのクババーナ(Kubavana)あと、ルイス・サンティ(Luis Santi)とかが率いたグループが、70年代……70年代よりもう少し前か、60年代後半からマイアミで活動して、もうサルサの初期みたいな録音を出してるんですよね。だからその辺をちょっと探ってみると面白いんじゃないかなぁって気がしますね。

 これからですか?

 そう、これから、それを取り上げてみるっていうのが。

 僕はホントに、さっき高橋君がかけてくれた、60年代のキューバのが、ちょっとなんか、衝撃的っていうか、面白かった(笑)

 あれ、面白かったすねぇ。いやぁ〜、今までベニー・モレーとか色々やってきたところから、これかよ?!みたいな話がやっぱり出るわけですよね。

 (笑)

 どっから来てるの?っていうところが不思議な感じですよね。

 そうですよね〜。不思議というか、でも革命後にガラッとそうなったとは思えなくって、革命前からそういうのがあったっていう風に思ってます。
 チャポティーンとか、フアニート・マルケスとか、ニュー・リズムみたいなのを色々とやって、他にも前とは違うものを色々とやろうっていうのが、かなり強いかったんじゃないのかなぁ、っていう気はしますけどね。あともう一つは、やっぱり憧れがあるからコピーしてて、で、コピーをやってたら、やっぱりキューバ的なものが出てきちゃったみたいな。

 コピーが別のものになっちゃったみたいな?

 別に、キューバの音楽にそういうものを取り入れようと思ってやったわけではなくって、コピーしてたら別のものになったっていう。リズム感もやっぱり違うじゃないですか、ロックの人とは。だから、そういう流れで出来たんじゃないかな。あとは、とりあえずキューバ人は新しいものが好きですからね。

 なんかその、日本の物言いだとよく「キューバの伝統」とかいうじゃないですか(笑)。ふざけてますよね(笑)。本質的にはキューバ人も新しいものが好きで、どんどんどんどん変わってて、っていうことなのに、なんか物言いだと「美しきキューバ」「伝統」とかいうじゃないですか。なんか、違うかもしれないですね。

 そうですよね。新しいものが好きだし、あと、米国に対する憧れっていうのは、ありますからねぇ。やっぱりそこに行って成功するっていうのが一つの…っていうのは、昔からある。ある意味、今でもそういう風に思っている人はいるし。

 そう。だから結構面白いな、ってね。それがいいかどうかは別にして(笑)

(会場笑)

 あれ、別に、僕は、そんなに……好きじゃない、っていう(笑)。はい、「時事放談」の細川隆元です(笑) 伊藤さんお願いします(笑)

 では僕の番なんですけど、なかなか70年代に入らないっていう(笑)。

お客さん 「サルサ」まで行ってませ〜ん(笑)

お客さん2 ゆっくりどうぞ、ゆっくり(笑)

 ファニアに入ってないじゃないですかぁ!(笑) 

 じゃあ、突然入って終わりましょうか(笑)

 !(笑) じゃあ、一応ですね、これは、ファニアじゃないのかな、あ、もともとインカですけど。え〜、まだ60年に引っかかってますけど(笑)ソノーラ・ポンセーニャ、69年です。ポンセーニャはもっと昔からやってるんですけど、一旦ちょっと活動中止になって、68年だったかな、再活動スタート。で、これ69年の作品だったと思うんですけども、「アチェロス・バ・ウン・パロ(Hacheros pa' un palo)」っていうアルバムの1曲目を、聞いていただきたいと思います。


♪ Sonora Ponseña/Hacheros pa' un palo

 ソノーラ・ポンセーニャ、69年のアルバムから聞いていますけど、なんか、先ほどの1曲目と比べると、どっちがキューバンか? っていう話になるんですよね、本当に。

 そう! ポンセ、どうしてくれるんだ!(笑)

 責任取れ! みたいな(笑)

 ポンセーニャはやっぱり、キューバン大好きなんですよねぇ。

 キューバン大好きですよねぇ。親父が、やっぱりキューバン大好きで、バンド作ったから。

 ですよね。

 でも、これをニューヨークで……まぁプエルトリコでもそうですけど……やって成り立つっていうとこが、とっても面白いですよね。ニューヨーはその、新しいブーガルーとかがありながら、こういう音楽も吸収する。

 ニューヨークの人はキューバ音楽、いわゆるトラディショナルなキューバンが好きなんだなぁっていうのを改めて今日、再確認しましたね。なんかあの、変なキューバ音楽……

(会場笑)

 要はあれってロックの代替、代替っていう言い方は変だけど、そういう意味がありそうな気がするんですよ。ジミヘンとかがいなかった代わりに、っていうところがあるのかなっていう気がしたんだけど……いや、それはそれですごいいいと思ったけど、ニューヨークはニューヨークで、また、本当にトラディショナルが好き。それはなんか面白いなって思いましたよね。

 そうですよね。でもそのキューバでも、当時の人たちが、ロックとか流行ってるらしいけど、でも一部しか聞けないし、自分たちでやろうって言ったのと、やっぱサルサが、今までキューバの人たち中心でやってたのを、自分たちでやろうと思ったのと、やっぱり気持ちとしては同じだと思うんですよね。だから、その辺はやっぱ大衆っていうのは嘘をつけないっていうか、やっぱり自分たちが興味があるものを何かやろう、っていうことの結果だと思うんで。
 あとやっぱり、キューバは基本的にサルサの時代、ないですからね! 自分たちでやってるの、サルサだと思ってないですから。さっき伊藤さんがちょっと怒ってたんだけど、なんでサルサっていう言葉を使うのかっていうのは、それは、商売上いいから、みたいなことだから(笑)

(会場笑)

 いや、本当にね、キューバって商売好きですよね、だから商売に騙されちゃいけないと思うんですよね、聞く方も。

 今回の出張で、なんか感じることはありましたか? 商売に関して(笑)

 2泊4日でキューバに突然行ってきたんですけど、やっぱり、商売ですね。悪いって意味じゃなくて、やっぱり、キューバで生きなくちゃいけないので。だけどその手法がねぇ、なかなかみんな長けてますよね。なんか、物言いとかね、チャリンコ・タクシーのお兄ちゃんと話してても、いかに取るかっていう、それがね、社会主義を経て余計強まってると思うんですよね。

(続く)
posted by eLPop at 16:15 | Calle eLPop