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2/10 eLPop 金沢編 資料B「岡本郁生のかけた曲」

2018.02.27

◆El Rey Del Mambo / José Curbelo
Los Reyes Del Mambo (1946)

1940年代半ばのニューヨーク。チャーリー・パーカーやディジー・ガレスピーが先頭に立ってビバップ革命が進行していたこの時代はまた、ラテン音楽とジャズが盛んに交流していたときでもありました。

 そんな中で活躍していたラテン楽団のひとつが、キューバ出身のピアニスト、ホセ・クルベーロの楽団です。紹介したのは46年11月29日の録音ですが、ここでの注目はなんといっても、のちにそれぞれが自己の楽団を率い、ライバルとして熾烈な人気争いを演ずることになるティト・プエンテ(ティンバレス)とティト・ロドリゲス(歌)が共演している、というところでしょう。

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 40年代初頭、マチート楽団にティンバレス奏者として加入したプエンテは、海軍に召集され、終戦までの3年間、護衛空母に乗っていました。除隊後、GIビルを利用してクラシックの名門ジュリアード音楽院に入学。音楽理論やオーケストレーション、指揮などを学びます。その間、いくつかの楽団で働いていたのですが、その中のひとつがクルベーロ楽団だったのです。

 ロドリゲスがクルベーロ楽団に加入したのはおそらくこの46年だと思われますが、同年、新しくできた「チャイナ・ドール」というナイト・クラブに出演したときに中国人ダンサーとして働いていた日系2世のトービ・ケイ(本名:タケコ・クニマツ)に出会い、翌47年に結婚しています。しかしその年、トービ夫人の体調が悪いという理由で仕事を休んだはずのティトがバーで飲んだくれていた・・・と誰かがクルベーロに告げ口したため楽団をクビになってしまいます。

 そんなわけで、両ティトが同楽団内に在籍していた時期は短く、その意味でも貴重ですが、さらにいえば、「マンボの王様」というタイトルも気になるところ。

 ぺレス・プラドが「エル・マンボ」などを大ヒットさせて世界で“マンボの王様”となるのはもう少しあとのことです。46年にこのタイトルの楽曲をやっているということは、マンボの成立過程を知る上でも意味があることではないでしょうか。




◆Subway Joe / Joe Bataan
Subway Joe (1967)

 ジョー・バターンは、1942年、ニューヨークでフィリピン人の父とアフリカ系の母のもとに生まれた“アフロフィリピ―ノ”です。少年時代は悪の道に走り、刑務所暮らしも経験したあと、60年代の半ばから音楽活動に入りました。とはいえ、子供のころからドゥーワップが大好きで、仲間と歌っていたころにはよく「耳が良い」と言われていたそうですから、音楽の道に入ったのは必然だったのでしょう。

 67年、ファニア・レコードから『ジプシー・ウーマン』でデビュー。トロンボーン2本の“トロンバンガ編成”によるゴツゴツと荒々しいサウンドと、彼のいなせな歌いっぷりでいきなり人気を獲得することになります。このデビュー作は全9曲をなんと4時間余りで録音したというほどで、溜まりに溜まっていたエネルギーが一気に爆発した傑作です。67年はウィリー・コロンがデビューした年でもあり、ブーガルー・ブームの中、ファニア・レコードはますます勢いを拡大していくことになります。

 それから1年も経たず、同じく67年にリリースされたのが2作目の『サブウェイ・ジョー』。タイトル曲は、まさにブーガルー・アンセムともいうべきナンバーで、彼のカッコよさが集約された永遠の名曲といえるでしょう。

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 当時のブーガルー・ブームについて、ジョー・バターンは昨年12月に来日した折のトーク・ショウで「ブームはすぐに終わるとわかっていた。だから俺は、“ブーガルー”ではなくあえて“ラテン・ソウル”という言葉を使った。なぜなら、ブーガルーがなくなっても、ラテンはなくならない。そしてソウルもなくならない。だから“ラテン・ソウル”なんだ」と語っていました。

 実際、このブーガルー・ブームは、68年ごろにはすっかり収束してしまい(日本のグループサウンズ・ブームとそっくり)、サルサの時代へと突入します。

 ブーガルーは時代のあだ花、単なる一過性のものと見る人もいます。しかしそれは、ニューヨークに住む若きラティーノ(ニューヨリカン)たちの地元意識の目覚めといえるのではないでしょうか。それまで、世界中のラテン音楽界は、ほぼキューバ音楽の影響のもとにありました。それが、キューバ革命をきっかけとして少しずつ変化が訪れ、如実な形として現れたのが、ラテン音楽にR&Bやロックの感覚を付加したブーガルーだったのです。この時点でニューヨリカンたちはようやく、借り物ではない、自分たちのラテン音楽を見つけたといえましょう。ニューヨークのラテン音楽=サルサが誕生するためには、この、地元民としての意識の形成が不可欠だったのです。




◆Caminos / Luis“Perico”Ortiz
Sabroso! (1982)

 トランペット奏者/アレンジャー/プロデューサーのルイス“ペリーコ”オルティスは1949年、プエルトリコのサンフアン生まれ。音楽高校を卒業後にプエルトリコ大学でも音楽を専攻しますが、67年、18歳のときには、晩年をプエルトリコで過ごした著名なチェロ奏者パブロ・カザルスが指揮するプエルトリコ交響楽団のゲストとしてソロを吹いたほど、才能あふれる音楽家なのです。

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 70年にニューヨークへ移ると、ティト・プエンテ、モンゴ・サンタマリア、ファニア・オール・スターズといったラテン音楽だけでなく、ディオンヌ・ワーウィック、サミー・デイヴィス・ジュニア、トニー・ベネット、デヴィッド・ボウィなどポップス〜ジャズの世界でも活躍しました。その後78年からは自己の楽団でアルバムをリリース。ストリングスなども多用した、これぞニューヨーク・サルサ!という洗練された音作りで、一躍人気楽団となったのです。

 ファニア・オール・スターズがニューヨークのクラブ「ザ・チーター」で行った歴史的なライヴとそれを記録したアルバム『ライヴ・アット・ザ・チーター』(72年リリース)、さらにドキュメンタリー映画『アワ・ラテン・シング』によって世界に知られるようになったサルサ(=ニューヨーク・ラテン)は、70年代を通じて大いに盛り上がり、音楽的にもぐんぐんと成熟していきます。しかし80年代に入ると、ニューヨークに住むラテン系の若い世代の志向はヒップホップやダンス・ミュージックへと向かい、サルサは大きな曲がり角に立っていました。

 ちょうどそんなとき、82年に発表されたアルバム『サブロソ!』は、ある意味で、ニューヨーク・サルサの頂点ともいえそうな、これ以上ないほどの美しさを感じさせる作品です。流麗なストリングス、ステディにリズムを刻みながらじわじわと盛り上げていくリズム・セクション、クールかつエモーショナルに場面を作り上げるホーン・セクション、ロベルト・ルゴのジェントルでシャープな歌声……。さまざまなパーツが一体となってペリーコの美しき世界を形成しているのです。

 マンハッタンの夜景にいちばん似合うのは、こんな曲だと思うんですよね


posted by eLPop at 10:10 | Calle eLPop