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「<エル・ポップ>トークライブ〜キューバ、プエルトリコ、ニューヨーク 黄金の三角関係〜 Vol.4」(後半)

2017.10.13

昨年2016年9月17日(土)、新宿のバー「Con Ton Ton」で開催した「<エル・ポップ>トークライブ〜キューバ、プエルトリコ、ニューヨーク 黄金の三角関係〜 Vol.4」。テーマは「マンボ」。
さまざまなマンボの謎に迫ることはできたのか…? その後半です!

※なお、次回「Vol.5」は、10月28日(土)@「Con Ton Ton」の予定です!

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【Abaniquito / Tito Puente & Orchestra】

O(岡本) ティト・プエンテで「アバニキート」なんですけど、こうなると、もうかなりねぇ、あぁ、マンボだな〜って感じですよね!

T(高橋) そうですよね〜。これって、シングルっていうかSP?

 SPを集めたCDが出てて、そこからかけました。ちなみに「アバニキート」って、“扇”っていう意味なんですけども、ティンバレスの奏法で、♪カッ・プルルル……って連打する、あれが、(叩いているスティックが)扇に見えるっていうんで「アバニコ」っていう奏法。それから取った「アバニキート」をお送りしました。
 じゃ続きまして、もう、こうなったら、曲をどんどん聴いていこう(笑)。喋んない、喋んないと言いながら、結構喋ってしまう(笑) 
 つづいてノロ・モラレス。さっきも伊藤さんにかけてもらいましたけど、次は「110丁目&5番街」。これもカッコいい曲なんで。


【110th St & 5th Ave / Noro Morales Y Su Orquesta】

 ノロ・モラレス、聴いて頂きました。カッコいいですね、これね。

I(伊藤) カッコいいですね〜。

 こうなるともう、完全にマンボ。これも49年とか50年です。ノロ・モラレスは、プエンテなんかよりはちょっと先行してたって感じありますよね、年齢的にも。

 そうですね。ノロ・モラレスって、なんていうんですかね、憧れじゃないですけど、彼らがそうやって見てたひとりですよね。全然年齢も違うはずです。
 プエンテとティト・ロドリゲス、子どものころ一緒に野球やったりしてたときに、プエルトリコの音楽を通じての誇りみたいなことを2人でよく話してたみたいなんですけど、その時に出てきたのはやっぱりノロ・モラレスの話しだったみたいですね。

 ノロ・モラレスは、最後はプエルトリコで(亡くなった)?

 そうですね。亡くなったのは確か70年代だったと思うんですけども、プエルトリコで。この人、すっごい大酒飲みでして、1日に1本ラム酒開けたっていう。で、なおかつ、女大好きでですね、4回くらい結婚してんのかなぁ? それで、誰が言ってたのか忘れましたけど、ノロ・モラレスは、ちょっとかわいい子見るとすぐに恋に落ちて、なんかやっちゃう、みたいなね。

 でも、結構オヤジっぽい顔ですよね?
noro_morales.jpg
 そうですよね! どっちかっていったら、ハゲチャビンで丸っこくって、デブなんですけど、でもやっぱりピアノが上手いんでモテたらしいんです。それで、大酒飲みで、香水も毎日、すごい高い香水をぷんぷんさせてですね、レコーディングしても、そのおカネをすぐそっちに使っちゃうっていう感じだったんですけど、流石に、肝臓と腎臓にガタが来てね、最後プエルトリコで亡くなっちゃった。

 ノロ・モラレスって、最初はどんなとこから音楽を始めたんですか?

 えーっとですね、プエルトリコにモラレス兄弟っていうのがいまして、お父さんが確かヴァイオリンかなんか……いや違う、トランペットだ……が、楽団やってたんですね。で、その頃の音楽っていうのは、もっとクラッシックに近い音楽だったんですけども、兄弟がいてですね、彼はピアノで。3人いたのかな。で、ベネズエラに移住して、楽団やって、戻ってきて。

 家族で楽団やってたの?

 家族で楽団やってて、まぁ、大編成じゃないらしいんですけども。とにかく音楽一家で育って、ピアノがすごく上手くて、ニューヨーク行ったら早速それで食い始めたっていう、そんな感じですかね。

 なるほど。ニューヨーク行って、どの辺の人たちと音楽やり始めたんですか? もう自分のバンドで注目されちゃったりとか、っていう感じ?

 えーっとですね、ザビア・クガートのとこにも、やっぱりいた。

O&T あ〜!

 やっぱりザビア・クガートって、ラテンのバンドの窓口ですよねぇ。お金持ち相手で、ちゃんと稼げるところで活動して。さっき言いましたけど、ウォルドーフ・アストリア・ホテルっていうとこで……。そこで「使ってもらえないか?」「やるか?」っていうとこから、スタートしたらしいです。

 ノロ・モラレスとミゲリート・バルデスとの共演録音とかもありますけど、やっぱり、ザビア・クガート繋がりで知り合ったっていう感じなのかな〜。

 ザビア・クガートもね、今、伊藤さんが言ったけど、色んな人が参加した。ティト・ロドリゲスもいましたよね。で、何となく、ちょっと掴みどころがないような感じがあると思うんですけども、元々はスペイン生まれで、バルセロナだったかな、19世紀最後の年、1900年の元日生まれなんですよね。それでキューバに移住して、で、ヴァイオリン奏者なんですが、すごい才能があったみたいです。それで、ロサンゼルスに行って映画音楽の仕事をしていて、その後に自分の楽団を作った。
 で、ニューヨークのウォルドーフ・アストリアっていう超高級ホテル。そこから、生放送でラジオ放送をやってたんですよね。それですごく人気が出て。

 全米で人気あったみたいですね。『水着の女王』という映画のオープニングの所で、ホテルのプールサイドで、ザビア・クガート楽団が演奏していて、みんなが踊っているというシーンがあるんだけど、そういうミュージカル映画、それもハリウッド製のにも特別ゲストで出ていたんですよね。トゥンバオ・レーベルの復刻CDに収録されたなかでも、ミゲリート・バルデスと、マチートとティト・ロドリゲスが、フィーチャリングされていますね。
 ザビア・クガートって、どうしても「マイアミ・ビーチ・ルンバ」とかが有名で、どっちかっていうと、ゆる〜い感じのノリのイメージなんだけど、40年代とか、初期の頃っていうのは、マンボと完全につながるような感覚が、リフみたいなところで、あるんですよね。で、演ってる人たちが一流っているのもあると思うけど。

 (伊藤さんの持参したSPを見て)すごいの持ってますね! 

 この辺は、聴いて頂くとイメージが変わるんじゃないかな、っていうね。

 なんかかけます? ザビア・クガート

 いや、でも、78回転だから…(笑)

 ザビア・クガートは、さっきのノロ・モラレスじゃないけど、ラテンのエロおやじみたいな(笑) 
Xavier_Cugat.jpg
 エロおやじですよねぇ〜(笑)

 すごかったらしいですよ(笑)

 若い奥さんと、次から次へと、なんか、4〜5回結婚してますよね。

 そう、美人ばっかり。

 最後は、確か、心臓があれで、死んでるんじゃなかったでしたっけ?(笑)

 そうそうそう。あの…あんまり言えないけど(笑)

 いい人生。うんうん。

 あの、お腹の上で…(笑) 死んじゃったっていう。

【会場笑】

 それ、いったいいくつくらいだったんでしょうかねぇ? 結構な年ですよね?

 結構な年ですよ、90歳くらいいってんじゃない? (※1990年に90歳で死亡)

 そりゃ死にますよねぇ。体力使いますからねぇ……。

 ティト・プエンテ先生が来日した時に、「あの××」って悪口言ってたらしいですよ(笑) 「あのオヤジ、そのうち死ぬぞ」と(笑) 「やっぱりか」みたいな感じだって、我々の共通の友人の佐藤由美編集長が言ってました(笑)

 佐藤由美編集長、そこ、突っ込んだわけですか?! やりますね、流石!

 じゃあ、マンボっぽいかどうか、ちょっと聴いてみないと。とりあえず5曲目を。


【PLAY♪Xavier Cugat / Bambarito 】

 えーっと、「バンバリート」を聴いてもらったんですけども、もう1曲、さっきのマリオ・バウサと一緒に作った曲「トゥンバオ」……トゥンバオって、ラテンのベーシックなリズムのスタイルのことを“トゥンバオ”っていうんですけど……それを聴いてみましょう。


【Tumbao / Xavier Cugat】

 えーっと、これがですね、たぶん40年、41年くらいの曲だと思うんですけども。

 ミゲリート・バルデスですからね、早いでしょう、40年か41年でしょう、たぶんね。

 何か、不思議な感じで、面白いですね。

 そう、汎カリブ。汎カリブっぽい。

 うん、すごい汎カリブっぽい。カリプソっぽかったり……。50年〜60年代に行ってコルティーホからグラン・コンボにつながるような、ゆったりした感じもあるし。ハイチにつながってもおかしくない。なんか、マンボの鋭角的なとこと全然違うとこが面白いですね。

 ザビア・クガートってずっと出し続けていて、マンボ時代になってもやってまして、「キューバン・マンボ」っていう曲があって、これ、ノロ・モラレスもやってたし、色んな人がカバーしてて、ペレス・プラードもやってたかな。で、それのオリジナルがザビア・クガートなんで、その曲をちょっと聴いて頂きたいと思います。マンボ時代になってからのザビア・クガート。


【Cuban Mambo / Xavier Cugat】

 ザビア・クガートの「キューバン・マンボ」なんですけど、いわゆるアレですよね。営業バンド的な、ショウビジネスの世界。

 分かりやすいですね。あ、これはマンボだ〜、って。

 そうですね。だから、たぶんザビア・クガートの流れが、ペレス・プラードで。で、それの真似、っていうかね。

 何年くらいですか、これは?

 これは多分、60年代じゃないかな……50年代の後半かもしれない。

 なるほど、じゃあ、マンボがはっきり分かってから。

 そうですね。

 こうなると「マンボ」って分かりやすくなりますよね。

 超分かりやすいですよね!

 ここにクガートのSP盤があるんですけど、これ、たぶん40年代後半〜50年代くらいに日本に入ってきたもの。親父の形見なんですけどね、そこに日本語の解説がついてるんで、読んだんですね。
 そしたらですね、「タンゴ、スウィングと並んで、ラテンアメリカ系のリズムは、現代ではホールに」……ホールって書いてある、ダンス・ホールですね……「ホール・クラブに欠くことの出来ぬものとなっている。下品な踊りとして社交場から敬遠されていたルンバを中心として、こんなリズムが早く広く受けいられるに至ったのには、やはり人間各人原始への旅愁という感覚があって〜」みたいな訳の分からないことが書いてあるんですけど(笑)、まぁそれはいいとしてですね(笑) 「〜アフリカの土人が持っていた泥臭いリズム」……ひどいですね、これね、「土人」とか書いてますね。今だったら大問題ですね。「それが人間の持って生まれた自然なリズム感に発したものであっただけに、泥臭いリズムがキューバに渡って、サンバとして発達して〜」……これ、意味分かんないですよねぇ!!!

【会場爆笑】

 キューバに渡って、サンバとして発展したらしいんですけど!

 河村要助さん、怒っちゃいますよ(笑)

 「…それが、ブラジルに渡って…」

【会場爆笑】

 すごいなぁ…!

 「…最後に急速にダンス・リズムとして、人気を博して、北米はじめとして、全世界に広まっていったのです。」と言い切ってるんですよねぇ、これねぇ、当時、すごいですよね!!! 「…マンボは、ペレス・プラード(作曲者、バンドリーダー)の創作したものといわれていますが、コンガ、ルンバ、サンバ等、一連の従来のアメリカのリズムが混合して、新しいリズムが生まれたと言えるのでせう。」と書いてますが。

【会場爆笑】

 「…でせう。」(笑)

 もう、分かんないですよね! 適当なこと言ってますねぇ!(笑) 本当ね、音楽評論家とか、こういうのは絶対信用出来ない! というのが良く分かったっていうのがあるんですけども(笑)

 それ、誰が書いてるんですかね? 中村とうよう、じゃないですよね(笑)

【一同爆笑】

 いやいやいや、昭和20年代の話しなんでね(笑)

 すいません(笑)

 と、いう話なんですけども(笑)

 最近まで、そういう話ありましたからね。「サンバの国からやってきた! 熱いサルサ!」みたいな(笑)

 そうそうそう、あったあった(笑) でも、やっぱ、サンバってそれだけ、あれですかね? このくらいの時代から、広まってたんですかね?

 やっぱりカーニヴァルと、あと『黒いオルフェ』とかじゃない?

 ありますよねぇ。当時だったらたぶん、カルメン・ミランダのハリウッド映画とかね。「もう、分かんない。サンバからキューバいっとけば、まぁ、間違いないだろう」と。こういう感じですよね(笑)

 たぶん、ここはどこだ? って聞かれても分かんないと思うんですよね。「キューバ、これはどこだ?」「ブラジルです」みたいな(笑)

 隣だから、近いからね! 色々影響されてね!(笑)

 あぁ〜、そうですよ(笑)

 でも、分かりにくかったのかもしれないですね(笑) じゃあ、この流れで、どうですか?

 じゃ、ペレス・プラード。ベニー・モレーと、メキシコに渡ってから一緒にやるんですけど、その一緒にやったのが、歌入りのマンボとしてはかなりカッコいいので、とりあえず「ババラバティリ」っていうのを、聴いて下さい。


【Babarabatiri / Benny More & Perez Prado】

 カッコいいでしょう? 歌はベニー・モレーで、バックがペレス・プラード。メキシコでCD1枚分ぐらいの録音、勿論当時はSP盤でしたけど、録音して、ベニーは、キューバに帰ったんですけど。ペレス・プラードっていうのは、結構、誤解されてて、いわゆる「マンボNo.5」とかで、「ウ!」っていうのが先行しちゃって、世界的に。もう、それで……

 「ウ!」のおじさん、みたいな。

 そうそう。でも、マンボを世界に広めたっていう功績はメチャメチャあるんだけど、逆に、ちょっと商業的な、とか言われるんですけど、出発点はかなりね、やっぱり違っていたと思うんですよね。ザビア・クガートとは、そのあたりが違うかな、って。
 要はね、キューバで、オルケスタ・カシーノ・デ・ラ・プラヤという当時の最先端のバンドに彼が入って、ピアノを弾くんだけど、もう、当時からめちゃくちゃな弾き方をしていたというか。突然、オクターブ、その上をドンと弾き出しちゃうみたいな、そういうトリッキーな演奏をどんどんして、その後、カシーノ・デ・ラ・プラヤをやめて、自分のバンドで何枚かキューバで録音したんだけど、キューバでは全く受けなかったと。キューバ人が好きな歌心みたいなのと相容れなかったんじゃないかと。ペレス・プラードは特殊すぎたんじゃないかと思うんです。やっぱり、歌心みたいなものは、プエルトリコも同じだと思うんだけど、カリブ海は全般的にそこが重要視されるんじゃないかと思うわけ。逆に、ニューヨークは大都会だからこそ、ダンスっていうのが、すごく要求されるみたいなところがあるんじゃないかと。で、ペレス・プラードは、メキシコに渡って、メキシコで大成功した。

 要は、メキシコも大都市だったっていうことなんだよね?

 そう、大都市だったっていうことですよね。景気もめちゃめちゃ良くって、映画とかもいっぱい作ってて、その中で音楽映画も作られてて。で、キューバ人がそれに出演してて……ああ、音楽映画っていうか、劇中に必ず音楽が、生演奏が出てきて、そこで主人公が踊って、で、そのあとカメラがパンして、主人公たちが飲んでる、雑談してる、みたいのがね。
 で、そういう需要があったから、当時のメキシコには、かなりの数のキューバ人ミュージシャンがいたんですね。さらに、ペレス・プラードがメキシコでなんであんなに成功できたかっていうと、マリアッチ・バンド、ああいうブラスの伝統っていうのがメキシコにあったから、ハイトーンが長く続くブラスを吹けちゃう人たちが結構いたということも言われてますよね。
 ベニー・モレーのほうは、最初、ペレス・プラードとやるの嫌だったらしくって、それは何故かっていうと、キューバで成功出来なかったプラードのことがちょっと心配だったみたいで、一緒にやっていいのかな、みたいのがあったみたいですね。でもやってみたらすごかったっていう感じで。だから、プラードっていうのは、特に初期の頃のを聴いて頂くと、かなりすごい、っと思ってもらえると……。

 それ、いつか機会を設けてやりましょう。
 で、今のが、48年でしたよね。さっきかけたプエンテの48〜9年の録音を集めたアルバムの中で、同じ曲をやってるんで……たぶん今のとかに影響されてるんじゃないかと思うんですが……すごく歯切れがいい、素晴らしい演奏です。ティト・プエンテ・ヴァージョンで「ババラバティリ」聴いてみましょうか。


【Babarabatiri / Tito Puente & Orchestra】

 ティト・プエンテ・ヴァージョンでしたけども、これ、歌手がビセンティコ・バルデスっていう人。さっきのと、やっぱり違いますよね! なんかこう、さっきのは、結構ガリガリいく感じだったけど、これはもうちょっと甘い感じの……甘いっていうか、ちょっと味わいが違いますよね?

 ビセンティコ・バルデスってキューバ人なんだけど、プエンテがビセンティコ・バルデスっていう歌手を選んだ訳が、なんとなく分かるっていうかね。
 おもしろいなって思ったのが、ビセンティコ・バルデスって、僕ら、若い時にラテン音楽、特にサルサ経由で、そのルーツの音楽を聴き進んでいったとき、ビセンティコ・バルデスのアルバムはいっぱいレコード屋にあったんだけど、どれも途中で針上げちゃうような……。甘〜くって。全然良さが分かんなかった! 今はもう、良さがすごく分かるんだけど、若い時っていうのは、リズムを聴きたかったっていうのがあったからね。でも、やっぱりなんか、プエンテも、ああいうリズム中心の音楽の中に甘さを求めたんじゃないか、って。それでビセンティコ・バルデスを(歌手に選んだんじゃないか)、って。
 ベニー・モレーはまだ駆け出しで、やっと名前が知られてきたころでしょ。で、今かけたのが、その後に録音されたんだけど、ビセンティコ・バルデスが、同じ曲を違う感じで歌い、まぁまぁ妄想ね(笑) 妄想ですけど、ビセンティコ・バルデスが「どうだ俺の方が上手いだろう」という感じで歌ったと、そういう風に考えるとまた面白いかなっていうね、どうですかね(笑)

 高橋さん、なかなかジジイ的な発想、い〜い感じですよね(笑)。高橋さん、僕より年下なんですけど(笑)。いやぁ、でもやっぱり、プエンテって、歌がやっぱりね……。自分は若い時のジーン・クルーパじゃないですけど、リズム大好きって言いながらも、やっぱり歌が好きだったから、あれだけ人気があったんですね。やっぱり最後、ティト・ロドリゲスと競り合ったんですけども、ロドリゲスはやっぱり自分が歌を歌って、その甘いとこも持ってたんだけど、まぁもちろんリズムが強い色々な人入れていったんだけど、でも、プエンテは一人で……

 そうか! (甘さのある歌手を入れたのは)ティト・ロドリゲスへの対抗っていう……

 そうそうそう! 絶対そうだと思うんですよね。そこは非常にプエンテらしい、ビジネスマンとしての面でもあると思うんですけど、でも、自分も好きだったと思うんですけどね。だから、そこの両方のラテンの楽しみを、両方持ってたっていうところが、やっぱりプエンテの一番すごいところかなって思いましたね。

 なるほどね。そうですよね。ベニー・モレーはこの当時まだ若くて、そのあと自分のバンド持って、ボレロもすごくしっとり聞かせるみたいに、何でも歌える人、みたいな感じになっていったんで、その辺やっぱり、リズムだけじゃなくて、歌心が重要ですよね、やっぱりラテンはね……。あの、オヤジなんで(笑)

【一同笑】

 昔はリズムだけだったんだけど、やっぱり最近はね、歌が大切だなぁっていうのは、すごく思って。だんだん酔っぱらってきて、全然マンボと関係ないこと言ってますけどね(笑)

【会場笑】

 流石ですね。いやぁ、ちょっと感涙しました。

 高橋くん、実は、メキシコ人ですから(笑)

【一同笑】

 でもホント、プエンテも歌手の選び方が絶妙ですよね。この後、サントス・コロン、ラ・ルーペ、セリア・クルス、あとはインディアですか、90年代入ってからね。その辺の選び方はさすがだなぁって思いますけどね。

 男と女と、全く傾向が違いますよね。男はなんか、甘〜い感じの歌の人で、女性はダイナマイト系っていうかね、ガッ!て来るようなね。

 はい……楽しく過ごしてまいりましたが、時間も時間ですので(笑)。
 最後にやっぱり、ティト・ロドリゲスを聴いて頂こうかなと思います。まさに今日にふさわしいですね。「This is Mambo」というです曲を(笑)。「これが、マンボだ」と。

 結論! みたいな。

 そうそう。まぁ、何を言ってもですね、これをかければ終わりかなっていう(笑)。 これは58年だったかな? 『Three Loves Have I』から。


【This Is Mambo / Tito Rodriguez And His Orchestra】

 はい! これがマンボだ! ということで、締まったんですけど(笑)

 そうですか???

【会場爆笑】

 一応。

 ものすごいスピード感のあるバックで、ガシガシ歌ってるんだけど、優雅に聴こえるっていうのは、すごいですねぇ!

 すごいですよねぇ。やっぱりティト・ロドリゲスのバンドって、バックがすっごいしっかりしてるのに、歌ってる本人がすっごくゆったりしながら、決してゆるくないっていうのが、これがすごいですよねぇ!

 全くそうで、個人的には、ティト・プエンテよりも、ティト・ロドリゲスの方が好きなんですよ。やっぱ、オヤジでしょ?(笑)。歌に泣かされたいっていうか、歌に弄ばれたいみたいなの、なんかあるじゃないですか。

【一同笑】

 弄ばれたい(笑)

 あの、リズムに弄ばれるのもいいんだけど、歌に弄ばれると、ラテンって、より面白くなってくるんじゃないかなぁ、って(笑)。

 流石、社長!

【会場爆笑】

 それ、顔が好きってことですか?(笑)

 変な方向に行きたいわけじゃないんだけど(笑)

 じゃあ、まぁ、そういうわけでですね(笑)、マンボ(というテーマ)は、またやらざるを得ないんじゃないかな、って気がしますけども。

 全然結論出てないよねぇ〜。

 あと、マンボっていうか、キャブ・キャロウェイとか? ちょっと色々課題がまた出たと思うんで、その辺を考えて、またやりたいと思うんですが……。なんか質問とかありますか?

 質問っていうかね、ふざけんな、みたいなお叱りとかね(笑) 

お客さん1 質問じゃないんですけど、「マンボ・アバクア」って書いてあるんですけど、これが非常に気になるんですけど。

 あぁ〜、はい。アルセニオね、じゃあ、かけましょうか。

お客さん1 ありがとうございます!

 これも確か、50年代。52〜3年だと思うんですけど。アルセニオ・ロドリゲスなので、マンボというか、ソン・モントゥーノっぽい曲です。


【Mambo Abacua / Arsenio Rodriguez】

 はい、いかがでしょうか。ま、マンボかどうかって言われれば、マンボじゃないような気がしますけどね。

 ソン・モントゥーノですね。

 だけど、何ですかね、あそこの、トレスの、それがリフっぽいと言われれば、そうかな、っていう。

 でも、リズムの振幅っていうのは、激しいですよね。アルセニオ以外で、こういう感じの音楽を1930〜40年代にやった人っていなかったんですよね。そこが、やっぱり、アルセニオのちょっと特殊なところで、その時代のキューバ音楽って、もっと明るくて楽しいものだったのが、アルセニオが、もう、地べたを這うようなリズムをやってしまったという、そこが特徴的。じゃ、その流れで、「ソウ・カバージョ」。マンボのルーツは、俺だって、主張した曲をちょっと聴いてもらいましょう。43年のやつね。


【PLAY♪Arsenio Rodriguez / So Caballo 】

 確かにこれ、♪ソウ・ソウ・ソウ・カバージョ〜って、しつこく繰り返してるところが、マンボっていえばマンボ。さっきの曲より全然こっちのがマンボっぽいですよね。

 そう。で、前後の曲と比べると、この曲だけ本当に最初から♪ソウ・ソウ・ソウ・カバージョ〜って、リフで始まって、最後までずーっと押し通すっていうのは、アルセニオの曲の中でもやっぱりちょっと特異なんですよね。だから「俺が最初にやった」っていうのはまぁ、まったく後付けなんだけど、いろいろマンボの曲を後で聴いてみると、確かにこれ、マンボって言われればマンボだな、って感じはしますよね。

 要は、さっきのアルカーニョのパターンっていうか、やり方ですよね。いきなり、バンッとやって、その繰り返しフレーズが延々と繋がるっちゅうかね。今考えれば、あれマンボだぜ〜、とか(笑)

 そう、俺がやってたんだよ〜、みたいなね。

 言ったもん勝ち(笑)

 他に何かありますか?

お客さん2 世界的にラテン音楽が、こう、ドンと広がった、一番大きなタイミングっていうのは、やっぱりこのマンボ・ブームだった、っていうのが一番正しいんですかね?

 世界的っていう意味でいえば、その前に、やっぱり「南京豆売り/ピーナッツ・ベンダー」。1930年に録音されて、すぐにもう、パリとかで大ヒットして、それがまたすぐに日本にも来て。

 日本でもSP盤発売されたし。

 「鉄仮面」っていう人とかですね。

お客さん2 音楽の塊として、1曲が流行るということではなくて……

 そのヒットのあとに、いわゆるルンバ・ブームになったので、まぁ、そっちの方が早い感じですよね。

 ルンバ・エイジってね、言われてますよねぇ。マンボ・エイジに先駆ける。

お客さん2 さっきから、やっぱり世界的にガンッと広まったのは、やっぱりペレス・プラードなり、ザビア・クガートがメジャーでいて、で、ティト・プエンテとマチートって、日本に来たじゃないですか? あれって、やっぱり、どっちかっていうと、マイナーだから来れたんですかね? それが、いまひとつ分からない。なんであの時期にあの人たちが来たのかが、いまひとつ分からない。

 あの、自分のことで恐縮なんですけども、親父ってね、終戦の時に大学生ぐらいなんですよね。で、それが、ボンボンだったもんで、レコード・コレクション持ってたんですけども、終戦ちょっとした時に、もうラテンのものが入っているんですね。で、(自分は親父と)あんまり仲良くなかったもので、あんま喋ったことないんだけど(笑)、でもいっぺんやっぱり「ラテンはダンスの中で、どうだったの?」みたいな話を聞いたら、基本的にはトミー・ドーシーとかね、スウィングなんだけど、でも、やっぱりラテンの音は、40年代の最後から50年代頃に、いっぱい入ってきたんだよ、って言ってたことを考えると、60年代に来たのは、もうすでに日本にあったっていうことなんですよね。

お客さん2 日本でもジルバとかっていう形で広がっていった中に、マンボがくっついてたっていう意味なんですかね?

 そういう意味ではね、日本でも、江利チエミとかね、「〜マンボ」とか、あと、渡辺ハマ子とか、それはもう50年代から「〜マンボ」って言葉がついた歌謡曲がいっぱいありますんで、それはもうあったんじゃないんですかね。50年代の後半ですね、たぶん。と、いうようなことの気がします。

 「ニュー・ラテンクォーター」とかですよね。あれはやっぱりその、米軍の人たちもお客さんだったと思うし、向こうのジャズ、っていうかショウビジネスのところの人を連れて来ようっていう……。

お客さん2 他にもいっぱい来てたんですよね、あそこには、ジャズの人とか。その中の一環だったわけですよね?

 そうです。ニューヨークのジャズクラブ。

お客さん2 今の「ブルーノート東京」みたいなところだったんですよね?

 そういうような感じ。でも、もう、値段は全然、違います。一晩いくらだっけ? 2万円とか?

 新卒の1ヶ月分とか、そういう話。

 今でいう、20万円くらいだったとか(笑)。だから、外人か、あとは社用族、お金使える人。だから良く言われるんですけど、スパイとかが本当にいまして。東西冷戦の頃、CIAとか、そういう人たちの……

 社交場だったんですよね。

 そうそう。そういう東と西のスパイが色々跋扈してた。赤坂ですしね、そういう場でもあったらしいですよ。

 だから、ラテンのこの辺のっていうのは、要は、世界の最新の音楽だったんですよね、ジャズと共に、ラテンと、あとまぁ、カントリーとかもそうだろうし、ハワイアンとかもそうだろうけど、いわゆる最新の音楽だったんですよ。だから、すぐに日本人がカバーをしたっていうね。だからこう、憧れの……なんか向こうでルンバっていうのが流行ってるらしいぞ、っていう流れで、来たんじゃないかなぁって気がしますけどね。

 あと一つ強調しておきたいのは、ロックンロールっていうのが1955年くらいに、エルビス・プレスリーが出て、そこでもう、米国の価値観がガーッと出て、変わりましたけど、その前……20世紀前半は、キューバっていうのが、ものすごい音楽輸出大国だった。さっき言った「南京豆売り」でルンバ・ブームがあって、そのあとにマンボ、まぁ、当然キューバだけじゃないですけど、そのあとはチャチャチャとかね。常にキューバが先頭に立って、音楽を発信していた。そこがロックンロールによって、ガラッと変わったんじゃないかな、っていうことは思いますけどもね。

 色々探したんですけれども、昔の親父のコレクションの中にね、そのSP盤の中に「今月の新譜」っていう小冊子みたいなのがあるんです。その中で覚えているのは、1951年の「今月の新譜」は……半分は日本の音楽で、半分は外国のなんですけども……その半分くらいがいわゆるスウィングみたいな感じで、その残りの半分のところにラテンがね。マチートはこの冊子出てないんですけども、ザビア・クガートは出てて。で、日本の方にパッと目を向けると「〜マンボ」とか「〜ルンバ」とかいう曲名があるのね。51年の日本の中に。本当にルンバのリズムだったか、マンボのリズムだったかは、分からないんですけども、そういうものが入ったっていうのは、あるなぁと思った。
 さっき岡本さんが言われた、ロックンロールが入る前に、もうすでにルンバとか、マンボっていう言葉が、入っていたっていうのと、それから向こうの新譜が出ていたっていうのはあったんじゃないかな、と思います。

 ロックンロールが音楽のカルチャーを替えたっていうのはあるんだけど、もうひとつ、完全にロックンロールが、音楽のビジネスのやり方を変えたんですよね。いわゆる米国を中心としたアングロサクソン的価値観を中心としたショウ・ビズの世界っていうのを、そこで作っちゃった。で、それより以前のものは、古い、っていうイメージをどんどんどんどん植え付けていった。ショウ・ビズのやり方を変えちゃったっていうのは、かなり影響があるんじゃないかなって気がします。

 あと、今、伊藤さんが言われたことにちょっと関連すると、昭和25〜6年(1950〜51年)ですけど、黒澤明の『生きる』っていう映画で、主人公が女の子に引き連れられて夜遊びするんですけど、途中でナイトクラブ行って、東京キューバンボーイズの演奏ですごい踊りまくるっていうのが出てくる。やっぱりそれを考えても、直接というか、すぐにね、マンボ・ブームだったりっていうのは日本に来てたんだろうなぁって想像できると思うんですよね。

 今度、ここで、モフォンゴさんが持ってるSP盤レコードを聴く、みたいなことやりません?

 すっげー、オヤジみたいなこと言ってますねぇ(笑)

 オヤジみたい、じゃなくって、オヤジだから(笑)

 確かに、若い人たちにとっては昭和30年代なんて、すっごい昔、もう歴史の教科書だねぇっていうことなんですが。だからまぁ、その頃のことをやるのも面白いですね。今、持ってきたんですけれども「ジャパニーズ・ルンバ」って、有名なね、細野晴臣さんの。でもこれってホント、自分の親が聴いてたくらいの時代の話しなので、そういうのを聴くのも面白いですねぇ。

 はい、他には?

お客さん3 根本的な話として、今回紹介してくれた人たちは、我こそがマンボの元祖のオリジナルである!といいたがっているように聞こえるんですけど、なんでそんなに主張したいのかな? っていうか、他のジャンルの音楽でも、こう、自分がオリジンだって言いたくなるようなものなんでしょうか?

 それは、儲かるからですよ。

お客さん3 あ、そういうこと?! 単純にお金の問題なんですか(笑)?

 まぁ、一番はそうじゃないですか? やっぱり俺がオリジンだ、っていったら、オリジネーターが一番。言ったもん勝ちで。
 例えば、レコードもそうかもしれないけど、まずは興行ですよね。ライブとか行ったときに、「マンボの元祖」とか「ロックンロールの王様」というところでいった方が、その後追いです、って人よりは、やっぱり(客が)入るんじゃないですか? そこが一番大きいんじゃないかなぁと思いますけどね。で、パチャンガにしても、売れたらみんなが真似してパチャンガやると思うんだけど、「パチャンガ第1号」みたいな人が出せば、やっぱり、そのレコード買うだろうし……っていうところが大きいんじゃないかなぁと僕は思いますけどね。どうでしょうかね?

 あと、ミュージシャンって、自分がオリジンだ、オリジネーターだっていうのが、大切なんですよ、すごく。僕なんか、仕事的に、ミュージシャンと結構付き合いあるからなんだけど、やっぱり、オリジナルなものっていうのを、めちゃくちゃこだわるんですよね。それは、僕なんかは、「職人であるのが先でしょう」って思っちゃうんだけど、ミュージシャンっていうのはやっぱり、自分が最初に出来た、とか、やった、みたいなのが好きですよね。それが、プライドであり、次の制作の意欲とかになるんだろうけど、まぁ、だからマンボは、こんなに世界的に売れて、そういう意味では、ペレス・プラードがマンボのいいところを全部、ある意味じゃ取っていってしまったから、「これのオリジナルは俺の方が先にやってるぜ」みたいなプライドっていうのは、ミュージシャンは、僕らが思ってるよりすごく気にするって感じはしますよね。

お客さん3 もし、マンボがブームになったから、僕がオリジンだ、っていうんだとしたら、それは全て後付けの話しっていうことに聞こえますけど。

 そうそうそう。でもね、誰がマンボを発明したか、誰がマンボっていったか、っていうのは基本的に僕はすべて後付けだと思っていて、基本的には、いろんな人がいろいろ演ってるうちに、みんな同じような感覚の音が出て来てきたんだけど、マンボが一時代を席巻したとなると、やっぱり、「俺が最初にやったぜ」みたいになるんじゃないかな(笑)

お客さん3 じゃあ、例えば、ルンバのミュージシャンも、自分がオリジンだっていう風に、みんな言ってたんですか?

 ルンバは、ちょっとまた違いますよね。一応、「ソン」なんですけど、まぁ、言われてるのは、「南京豆売り」っていうのが世界的にヒットするときに、誰かが、分かりやすいようにっていうんで、「ルンバ」って名前を変えて。それがたぶんキャッチ―な名前で、「ソン」っていうよりも「ルンバ」の方がエキゾチックだっていうのもあっただろうし……

 あとね、「ソン」だと、英語の「ソング」に似てるから、そういう風に間違われるから、っていうのが定説。

 なので、“ルンバ”ブームの最初は、「南京豆売り」だ、っていうのは分かってるんですよ。だからそこには、「俺が…」っていうのはない訳です。

 「チャチャチャ」はエンリケ・ホリンだし、みたいな感じ。でも「マンボ」は同時多発的に、色々なところで同じような音楽性をみんなやりだしたから、「いや、俺だ俺だ」みたいな感じになってるんだよね。別に、みんな、全部正解といえば、正解だし(笑)

 そうですよね。だって、60年代の「サルサ」っていうのも、まぁ、色々な音を聴いてみると、もう50年代からトミー・オリベンシアがやってるんじゃねぇか、とか、グラン・コンボがやってるんじゃないか、っていいながら、でもファニアができて、「サルサ」っていった時にそれを統合した、っていう感じですよね。ラベリングの問題、っていう感じ。

 まぁ、「サルサ」にしても、誰がっていうのは分からないけども、なんとなくこう、みんながこういう風になって出来たよねっていう、共通認識みたいなのがあると思うんですよ。でも、「マンボ」っていうのは、共通認識がないままに、なんか、ペレス・プラードがバーンって出た、っていうようなイメージがあって、だけど、「それ、俺の方が先だよ」っていう人がいっぱいいたっていう話なんで、その辺が、ちゃんと共通認識として取れていないってことじゃないかなぁ。その辺がサルサとちょっと違う気がしますけど。

 僕もそうだと思いますね。だから1946〜7年くらいに、突然みんな「マンボ」っていうのを言い出したのは、その辺なんですよね。だから、「最初は誰?」みたいになっちゃうんだけど、っていうところですよね。

 サルサは、さっき岡本さんが言ったように、これが、っていう共通認識がある。なんとなくですけどね。で、「ファニアがレーベル建てた、あ〜それだよね」っていう感じですけど、「マンボはね〜、バラバラでした」って感じですよね、各々ね。やっぱり誰かがきゅって言ってくれたり、共通認識がそうだよね、っていうのがないと……

 あと、やっぱあれじゃない? ペレス・プラードが余りにもヒットして、ものすごく儲かったっていうのがあるんじゃないの!? 「なんだよ! てめぇだけ儲けやがって!」みたいな(笑)

【会場爆笑】

 それは、絶対あったと思うんですよ! やっかみは! そういう、ほら、商標登録とかもないと思うし、「俺がやったのに、なんで、てめぇが先にやってんだ!?」みたいなとこじゃないんですかねぇ。

 そうかもしれないですよね。「やっぱおカネ」みたいなところが、あるかもしれない。

 だからペレス・プラードも、要は、キューバでは全然最初から受けいれられなかったんだけど、その後メキシコでずっとね……。やっぱり、自分の故郷は最後死ぬときに、メキシコだって言って。だから、キューバでは、認められなかったのもあるし、やっぱりさっき言ったみたいにやっかみが色々なところから結構あったから、最初に認めてくれたメキシコっていうのに対して、すごいリスペクトがあったっていう話は聞くんで、そういうようなことも、マンボのね、ちょっと複雑な要因なんだろうなぁって気はしますけどもね。

お客さん3 何か…、面白いですねぇ。

 あの、これ、全部、我々の妄想なんで(笑) あくまでも(笑) だから、あんまり信じないように(笑)

【会場爆笑】

 はい! そんなわけで、今日はありがとうございました(笑) 

(了)
posted by eLPop at 13:02 | Calle eLPop