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「<エル・ポップ>トークライブ〜キューバ、プエルトリコ、ニューヨーク 黄金の三角関係〜 Vol.4」(前半)

2017.09.22

なんと! 昨年2016年9月17日(土)、新宿のバー「Con Ton Ton」で開催した
「<エル・ポップ>トークライブ〜キューバ、プエルトリコ、ニューヨーク 黄金の三角関係〜 Vol.4」……
やっと、記事でのご報告に漕ぎつけました。たいへんお待たせいたしました!
テーマは「マンボ」。さまざまなマンボの謎に迫ることはできたのか…?

※なお、次回「Vol.5」は、10月28日(土)@「Con Ton Ton」の予定です!

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吾妻.jpg
【誰がマンボに“ウッ!!”をつけた/吾妻光良 & The Swinging Boppers】

岡本(以下O) …はい、というわけでですね、吾妻光良 & The Swinging Boppersの「誰がマンボに“ウッ!!”をつけた」。これ面白くて、♪マンボから“ウッ!!”がなけりゃ、マンボでも何でもない……っていう、まぁ、ある意味正しいかなって気がするんですけどね(笑)。じゃあ、続きまして、ペレス・プラードのお馴染みのやつを。


【PLAY♪ Pérez Prado / Mambo No.5】

 これは、たぶん、かなり古い方のアルバムですよね。

伊藤(以下I) (音が)柔らかいですね。

高橋(以下T) でも、50年代になってからなんですけどね。一番知られてるタイプのは。

ペレス・プラード、「誰がマンボに“ウッ!!”をつけた?」ってことで、“ウッ!!”を付けた人の曲を聴いてもらったんですけども(笑)。
 きょうは曲をいっぱい聴いてもらって、「あ、これがマンボの感じかな」みたいなのを聴いて頂くのがいいかなって思ってまして。
 次は、マチートの「タンガ」。曲自体は41年くらいだと思うんですけど、聞いていただくのは、『ジョ・ソイ・ラ・ルンバ(Yo Soy La Rumba)』っていう63年のアルバム(に収録されたヴァージョン)。ここでは“アフロ・マンボ”っていうジャンル名になっているんですけど、これを聴いてみてください。


【Tanga/Machito】

 マチート楽団の「タンガ」。1963年のアルバムからなんですけど、これは、もう完全に、♪ッダ・ッダ・ッダッダッダ〜っていう、反復フレーズが強調されて、いかにもこう、“マンボの作り”にしてるっていうような感じだと思うんです。
 もともと42年とか43年とかの曲なんですけど、そのときの音源がいま手元にはなくて。割と有名な、ジャズのチャーリー・パーカーとかが入ってる48〜9年のヴァージョンがあるんで、それをちょっと聴いてください。同じ曲なんですけど、全然雰囲気が違いますんで。


【Tanga/Machito】

 こんな感じです。これはこれでカッコいいなと思うんですけど、さっきのに比べると、反復フレーズみたいな、いわゆるマンボらしいってところがあんまりなくて、これはやっぱりどっちかっていうと、アフロ・キューバンっていうか、そんな感じだと思うんですけどね、伊藤さんどうですか?

 そうですね、リフがあんまり聞こえてこなくって、これはこれでカッコいいですけれどね。フレーズも共通するところあるんですけれど……。ということは、マンボの特徴って言われてるリフみたいなものはまだ最初はなかったのかと。それは43年でしたっけ?

 元はね。これは48〜9年で、さっきのは63年(のヴァージョン)。

 再録っていうことなんですよね? 43年ころには、ああいうフォーマットで出来ていたのかな? まぁ音源ないからわかんないですけど。

 マチート楽団の結成が40年でしたっけね?

 初録音が41年でしたね。

 だから、初録音して、すぐ2年後に「タンガ」がヒットして、

 初ヒットですよね。

 その時、どんな音だったのかが分かんないのがちょっと残念ですよね。
 その前のニューヨーク(の状況)ってどうだったのか、ってことなんですが、もっと遡っちゃうと、米西戦争が1898年で、キューバとプエルトリコがアメリカ領になって、そのあと第一次世界大戦直前にプエルトリコに市民権が与えられて……要は(プエルトリコ人を)戦争に送り出して使っちゃおうっていうことで……それで米国にプエルトリコ人がどんどんどんどん、特にニューヨークに出て行っていると。で、片やキューバの方も、査証がいるからプエルトリコ人ほど行き来は出来ないけど、ミュージシャンはどんどん行くわけですよね。
 でも最初のうちは、まだハーレムにはラテンの人はいなくて、ユダヤ人が住んでいた。それがだんだんプエルトリコ人が侵食していって……っていう中で、音楽も出てきたんですけど、初めてラテン・クラブっていうのがハーレムに出来たのが、1934年。「クラブ・クバナカン」っていうのがハーレムに出来たのが、初めてなんですよね。それまでは、もちろん、ザビア・クガートが30年代に「南京豆売り」っていう、♪マニ〜っていうのを流行らせたんですけども、それは、ハーレムで流行ったっていうよりは、白人世界の中で、なんかエキゾチックなものとして流行ったっていうことですよね。

 これは世界的に……

 バーッと広がったんですよね

 そうそう。パリとか日本でも流行ったんですよね! いわゆるルンバ。それはやっぱすごいですよね。

 やっぱり白人の所に行くから、世界に広がる、みたいなことなんですけど、じゃあ、実際のところ、その下の方のラテンの世界で、クラブはいっぱいあったか?っていうと、そんなことはなくて、やっと30何年に、そのハーレムのクラブが出来たっていう。

 「クラブ・クバナカン」っていうのは、ハーレムにあったんですか?

 イースト・ハーレムなんですよ、114丁目。でも、その時に、下の方……下の方っていうのは、庶民の方の為の店として。いわゆる、お金のある白人の方っていうのは「コットン・クラブ」行ったり、それこそ、ザビア・クガートが初めてデビューを飾ったウォルドーフ・アストリア・ホテルに……

 高級ホテルですよね、

 そう。(当時)出来たばっかりの高級ホテルです。……っていうところとは別に、庶民が、働くだけではなくて、クラブへ行って遊ぼう、っていう場所が出来たのが、やっと30年代くらいだったっていうことらしいんですよね。そこからその、ラテンの音楽っていうのが、庶民っていうか、ラテンの中だけで熟成されてきたっていうのがニューヨークだったと思うんですけど。
 何が言いたいかというとですね、その前に黒人の世界があって、「サヴォイ・ボール・ルーム」や「コットン・クラブ」のように、20年代にはもう、黒人の音楽、ビッグ・バンドでやってるとこがあったところに、ようやく30年代にラテンが入ってきた。絶対、エクスチェンジ(交流)がそこから始まったと思うんですけれども、その感覚が(成熟したのが)たぶん、僕が思うに43年くらいになるんですね。10年経ってる。その黒人の音楽のリズム感とか、リフとかいうのが、ラテン音楽に入り込んで、さっきの「タンガ」みたいなのが出来てきたんじゃない? って思います。大雑把にいうと。

 ひとりの、すごいシンボリックな人が、そのマチート楽団の音楽監督のマリオ・バウサっていう人。1910年とか11年生まれで、1925年くらいですか、15〜6歳の時に初めてアントニオ・ロメウの楽団でニューヨークに録音に行ったときに、ジャズを……20年代だから、ルイ・アームストロングとか出てきた頃っていう感じだと思うんですけど……聴いて、ものすごい衝撃を受けて。で、1回キューバに帰るんですけども、30年代頭にニューヨークに出てきて、最初はチック・ウェッブでしたかね、で、その後にキャブ・キャロウェイ楽団の音楽監督をやる。
 今、伊藤さんが仰ったとおり、ミュージシャン・レベルではもうその頃から、デューク・エリントン楽団にいたフアン・ティソル(トロンボーン:プエルトリコ人)みたいな人もいるし、いっぱい出稼ぎで、ミュージシャンとして来てたわけだから、ラテンとジャズの間の……ラテンっていうのが強く出るかどうかは別として……ミュージシャン同士の交流っていうのはたくさんあったはずですよね。それが、40年代くらいにマチート楽団として、ある一つの結実というか、スタートを切ったということになると思うんですけれども。

 チック・ウェッブ楽団っていうのは、「サヴォイ・ボールルーム」で、ジャイヴとかでね、すごく人気のあった楽団。ていうことは、要はその「サヴォイ・ボールルーム」っていう黒人が行くところに、マリオ・バウサが入っていって。ラテンと黒人音楽の両方の橋渡しですよね。

 チック・ウェッブの、彼(バウサ)が入った録音って、アフロ・キューバ的な影響を受けたような曲とかってあるんですかね?

 いやぁ、ちょっとわかりません。ただ、題名の中に「ルンバ」って名前が付いた曲が何曲かあるんで、それかなぁと思うんですけども。
 でも、そこでまずミュージシャン同士の交流がありながら、その間に次々にですね、プエルトリコなりキューバなりから移民が来て、要は、聴く層とか踊る層とかが段々増えてきたのが、30年代〜40年代だと思うんですよね。で、踊る層がたくさんいるから、初めて「クラブ・クバナカン」が出来て、っていう時に、ものの本によるとですね、この「タンガ」が流行った42〜3年、日曜日にマチネーがあって、「サヴォイ・ボールルーム」でそのチック・ウェッブとかが安く聴ける時にですね、16時頃から19時までがマチネーで、そっちにラティーノたちが踊りに行く。で、19時に終わると、今度はハーレムに、その「クラブ・クバナカン」の後に、「ラ・コンガ」っていうクラブがあるんですけど、そこでマチートとか、そういうので踊る。要は、ブラック・ミュージックで踊った後、肩慣らしをして、それで次にラテンで踊るぜっていう。

 それが何年くらいですか?

 それが、ちょうど40年くらいです。ノロ・モラレスっていうプエルトリコのピアニスト、それが「セレナータ・リトミカ」の大ヒット、その頃の逸話として残ってるんですけれども。

 そのヒットが……?

 それが42〜3年。ちょうど「タンガ」のころですね。そのころにちょうど、やっぱりブラック・ミュージックとラテンを両方楽しむ聴衆がいた、っていうことが、やっぱりこういうサウンドが生まれた要因かなぁ、なんて思ったんですよね。

 なるほど。それで言うと、80年代も変わってない(笑)っていうのかなぁ、今もそうかもしれないけど(笑)

 なるほどね(笑)

 ヒップホップやハウスと、サルサやメレンゲも同時に、っていうかね。そういう意味では、あんまりメンタリティとしては、連中は変わってないな(笑)っていうのを、今、改めて思ったんですけど(笑)

【一同笑】

 そうですよね(笑) せっかく今、話に出たんで、キャブ・キャロウェイの、マリオ・バウサが入って録音したすごいラテン的な、キューバ的な音源があるんで、それをちょっと。タイトルは「チリ・コン・コンガ」。1曲目です。バウサがキャブ・キャロウェイ楽団に入ったのは1939年、で、そのちょっと前に、キャブ・キャロウェイがラテン的なので録音した「ラ・コンガ・コンガ」っていう曲なんですけど、まぁどっちかっていうと、ちょっとカリプソっぽい感じですよね。


【La Conga Conga/The Cab Calloway Orchestra】

 すごい、スウィングしてますねぇ。

 1938年、バウサが入る、たぶん直前に録音したやつですね。その前に、1931年に「Doing The Rumba」っていう曲を作ったんですけど、これは、全然ルンバでもないし、いわゆるキャブ・キャロウェイのちょっとジャイヴっぽい感じですよね。ご存知だと思いますけど、キャブ・キャロウェイは1930年代からブラック・エンターテインメントの頂点に立っていた人で、いわゆるその、庶民の娯楽としてのジャズ、みたいなのをやってた人ですよね。で、次聴いて頂くのは、バウサが入った後に、バウサが多分もっと、「キューバンっていうのはこうだぞ」みたいなのを示し、取り入れてやったんじゃないかなと思っているんですが。「チリ・コン・コンガ」っていう曲ですね。


【Chile Con Conga/The Cab Calloway Orchestra】

 キャブ・キャロウェイで、1939年の「チリ・コン・コンガ」。なんか最初は、いわゆるルンバ・バンドのやるコンガ、コンパルサっぽい感じでしたけど、後半になってくると、どんどんどんどん、なんか、振幅というか、ノリがすごくなっていく感じは、マンボっぽいっていう感じしますよね。キャブ・キャロウェイは、一時期キューバにも行って録音したという、そんなこともあるらしいんですけど……

 あっても不思議じゃないですよね。

 でも、音は、今のところ、僕は聴いたことないんですけど。
 僕は、キャブ・キャロウェイとミゲリート・バルデスっていうのが結構ダブって。あの、ちょっとコミカルな、エンターテイナーっぽいところっていうか。それが、それぞれが影響を受けた、っていうのもあったんじゃないかな?とか。あの、「ハイディ・ホー」みたいなのもね、同じようなことしてますしね。何かその辺も、間接的にでも交流があったんじゃないかなぁっていう気がしてますけどね。その中から、今みたいな曲も生まれてきたんじゃないかといことで。

 今聴いてみると、やっぱりマチート楽団の最初の頃の音にすごい近い感じがするし、40年代半ばのディジー・ガレスピー、チャノ・ポソが入ったような感じの、なんかその前段階というか。すごい近いような感じがしましたね。ちょっと、キャブ・キャロウェイ、もうちょっと掘り下げてみたいけど(笑)

 掘ってみたい(笑)

 伊藤さん、どうですか、今の?

 やっぱりその、20年代の音楽っていうか、キャブ・キャロウェイとかエリントンが出てきた頃って、エキゾチックなものをまずは……っていうところで、たぶん、キューバンとか、あとはアフリカをテーマにしたものもありましたね。
 そのラインで言うキューバンぽいっていうか、アフロ・キューバンっていうラインがひとつずーっとあって、それが今聴いたようなとこ、マチートまでつながっていってるんですけど、マンボっていうことになるとですね、アフロ・キューバンって言いながら、ちょっと別の感覚があるのは、僕はすごく黒人音楽、つまりさっきの「サヴォイ」の中でも、チック・ウェッブとか、あとカウント・ベイシーとか、そのカンザス・シティー・サウンドのリフの感覚が、あ、これ、カッコいいじゃないか、ってアフロ・キューバンのミュージックに入ってきたのがマンボかなぁ、とか思ったりするんです。
 で、その感覚がミュージシャン・レベルの中にあって、30年代を通ってきた後、40年代に入ると、もう最初の移民、10年代とか20年代に入ってきた世代の子どもの世代になっている。若い奴らが、ジャズも一緒に聴きながら育って、これカッコいんじゃないか、っていうとこに乗ってきた時代が、ちょうど40年代の頭かなぁ、と思います。
 ちょうど43年、さっきの「タンガ」と同じ時代に、イースト・ハーレムで大ヒットした、どこでも聴かれたっていうのが、先ほど話に出たプエルトリコから来たピアニスト、ノロ・モラレスなんですけども、彼の一番大ヒットで「セレナータ・リトミカ」っていうのを、ちょっと。


【Serenata Ritmica/Noro Morales】

 これ、マンボじゃなくて、やっぱりルンバ…

 ルンバですよね、どっちかっていうと。なので、たぶんまだこの頃、まぁ大ヒットしたということは、若い人からお年寄りまでがとっても気に入ったっていうことで、皆の耳はこれくらいだったと思うんですけど、たぶん若い人の耳は、もっと……

 先を行ってた。

 先を行ってた! っていうのが40何年だと思うんですよねぇ。

 どんどん新しいのが出てくる時代ですよね。時代っていうか、日々更新される、みたいな。

 日々更新される、っていうことだと思うんです。
 で、1941年まではですね、ニューヨークでは、プエルトリカンとキューバン、すごい仲悪かったんですよね。なんでかっていうと、プエルトリカンはノー・ビザでいられるんですけど、キューバンって29日しかいられなくって、残った人はたいてい潜って働くみたいなことなんですけど、その辺もあってですね、「けっ」みたいなのがあったんですけど、41年になってガラッと変わるのは、マチートが、プエルトリコの美女イルダ・トレスさんと結婚した後ですね。「いいじゃん!」みたいなことになってですね(笑)、なんか急に和んだらしくて(笑)、それから交流が、ミュージシャンの間も……まぁ、もちろん仕事は一緒にしてるんですけど、もっと親身な形で広がっていったと。マチートの力っていうのはすごいなぁって!

O&T すごいですね!

 ……っていうことを、思ったんですけども(笑)。だからそのあたりから、イースト・ハーレムの中でも、もちろん色々聴いてたんだと思うんですけども、ミュージシャンの交流も色々あって、どんどん変わってきたっていうとこが一番40年代の頭の面白いとこかなぁと思ったりします。

 そうやって考えると、マチートは偉大ですね、やっぱり。

 マチートは、40年とかに自分のバンドを作るじゃないですか。で、その前から、まぁ、ヴォーカリストだからたぶん目立ってたんだろうけど、人気があったっていうことですかね? やっぱり。

 たぶん、そうだと思いますね、絶対人気あったと思います。

 そのエピソードからいったらね。

 でも、あれですよね、マリオ・バウサがキューバから呼んだ、みたいな形ですよね、確か?

 うん、マリオ・バウサの方が先。先に仕事があったんですよね。

 マチートって、色々なバンドでヴォーカル取っていて、自分のバンドを作る前は、コンフント・カネイに入っていたと思うけど、たぶん、もうその時代から結構人気があったっていうことなんでしょうねぇ。

 今の話でいうと、割とキューバ人が、マチートにしろ、マリオ・バウサにしろ……ノロ・モラレスはプエルトリカンですけど……先導してたような感じですけど、プエルトリコ人自体、もうニューヨークに当然いたわけですけど、メインの音楽っていうか、やってたのはどんな感じですか? ラファエル・エルナンデスとか……

 プエルトリコ人は一番最初、1910何年、ラファエル・エルナンデスという……ラテン・アメリカで最大の作曲家って言っていいと思うんですけども……皆さんご存知の「クンバンチェロ」って、よく高校野球の応援歌で、ブラバンでよくやるやつ(笑) 

【一同笑】

 「クンバンチェロ」「カチータ」とか色々あるんですけど、そんな作品を作った作曲家で。で、その人はどっちかっていうと、トリオとかカルテットで歌を聴かせる、メロディラインが非常に素晴らしいんです。プエルトリカンが好きなのは、やっぱり歌だったんですよね、ですから、トリオとかカルテットとかで歌を歌うっていうのがあって。で、キューバの人はやっぱりリズムということだったんじゃないんですかね。で、その頃ティト・プエンテが、このころまだ小僧でいるわけです、23年生まれだから当時15〜6歳、もうちょっといくか? ティト・プエンテって14歳くらいから働き始めたんですよねぇ?

 そうです。

 その前に、ティト・プエンテが何が大好きだったかっていうと、ひとつは、ジーン・クルーパのドラムですよね。要はスウィング・ジャズ。「シング・シング・シング」(ベニー・グッドマン)のドラムで、あの♪ダカダカダカッっていうのが、もう大好きで、まぁ野球も大好きだったんですけど、音楽が非常に大好きで。で、もう一つは、街角でヴォーカル・グループをやってたんですけども、それ黒人音楽のですね、インク・スポッツっていうですねアカペラのグループがあるんですけども。やっぱり、ティト・プエンテ、リズムも好きだったんですけども、そういうヴォーカルも好きだったっていうのが、プエルトリコ社会、っていうかその頃の皆さんの好みだったんじゃないかなぁ、という風に想像しますけどね。

 同時に、プエンテは、ダンサー目指してたんですよね。

 そうですね(笑)

 どっかで足ケガして、っていうのがあって(笑)。それも面白いなって思うんですけどもね。歌って、踊って…(笑)

 プエンテ、あと、あれですよね、アンセルモ・サカサスのピアノかなんか聴いて、ピアノも習い始めたりなんかして…。なんかそう考えると、落ち着きのないやつだなって(笑)

【会場笑】

 何でもやりたい(笑)

 まぁ、確かに、落ち着きのない感じの方でしたけどねぇ(笑)

 確かに(笑)

 あの、インク・スポッツって、挙げたじゃないですか、ヴォーカル・グループの。やっぱりちょっとラテンっぽい感じなんですか? 

 いや! もう全然リズミックじゃなくって、どっちかっていったらムード。バラードっていうか、ボレーロを歌ってるような。そういう感じでした。

 あのぅ、ちょっと最初の地点に戻ってですね、その頃、40年代頭には、まだマンボっていうのがあんまり出てきてないっていうことで、いったい誰がマンボを作ったのか、っていうことですね。
 「ウ!」を付けたのは、ご存知だと思いますけど、ダマソ・ペレス・プラードっていう人。ダマソが名前で、ペレス・プラードっていうのが苗字。時々、ペレスが名前で、プラードが苗字って思ってる方もいるみたいなんですけど、一応ペレス・プラードっていう苗字なんです。で、「ウ」を付けたのは彼だとしても、誰が作ったのかっていうのは、本当に諸説あって、有力、というかよく言われるのは、アルカーニョっていうバンドに、カチャオ・ロペスとお兄さんのチェロ奏者のオレステル・ロペスっていう人たちがいたときに、ダンス・パーティーなのか、デスカルガっぽいところなのか分からないんですけれども……

 ダンソンがもう古い音楽っていう風になってきたんで、それをこう、新しい、グァラーチャとかやってるバンドやコンフント、あとアルセニオのバンドみたいなのとかが出てきちゃったんで、それに対抗して、ダンソンをちょっと若者にも受けるようにってんで、ビートを効かせて、ちょっとジャズっぽいっていうか、そういうような要素を入れてやりだしたのが、その2人っていうことですよね。

 それで、ダンス・パートになった時に、ちょっとこう、アクセル踏むっていうか、ギア上げるみたいな感じで倍テンポにしたのが始まり、とかいうのが一番有力みたいなんです。でも、他にも同時多発的に色んなとこでやってたんじゃないか? って説もあるし、あと、すごい有力なマンボの創始者としては、今も出た、アルセニオ・ロドリゲスって人がいるんですけども、でも、アルセニオの曲で「マンボ」って名乗ってるのってあんまりなくって、50年代入ってからなんです。
 で、高橋君がこないだから言ってるんだけど、アルセニオの場合は、マンボ・ブームになって、あとから「あ、それをマンボっていうんだったら、俺もうやってるぜ! やってたぜ!」みたいな感じでね(笑)。でもね、いわゆるソン・モントゥーノとか、そういう感じのものが多いですよね。ただ、そういわれてみれば、リフを効かせるみたいなところでは、マンボ的なのかな、っていう。

 そうそう、あの時代、アルセニオがマンボのひとつのルーツって言われてるのは、それまでは、セステートとかセプテートっていう、トランペットも1本だけだったのを、トランペットを複数にしたのが、アルセニオとかソノーラ・マタンセーラで、ピアノを最初に入れたのもアルセニオっていわれてるんです。あとコンガを入れたのもアルセニオ・ロドリゲスだと言われていて、だから、その辺のやっぱり革新をしたんですよね。それで、他のバンドもそういう方向にどんどん行った。
 で、彼の場合、特にリフの、アフロ的なリフのソン・モントゥーノってとこに特化して、それを前面に出して演奏するようになってきて、っていうことで、まぁ確かに、マンボっぽい音にはなってる。で、あとは、ちょっと先に話しちゃうと、オルケスタ・カシーノ・デ・ラ・プラヤっていうのは、1937年が始まりなんだけど、その1曲目、初録音でアルセニオの曲やったりしてるんですよね。

 じゃあ、カシーノ・デ・ラ・プラヤをちょっと聴いてほしいんですけど、今、言いましたけど、いわゆるラテンの……サルサとかもそうですけど……編成の元を作ったのは、やっぱり、アルセニオっていうこと。コンガ、ピアノっていうのはいまは普通ですけど、その前のソンのバンドでいうと、コンガもピアノもいなかったわけで、それはやっぱりひとつには、「コンガ」っていうぐらいなんで、あまりにも、なんていうんですかね、アフリカ的すぎるっていうか、黒すぎるっていうか…、そういうところも、入れた当初は抵抗があったという風にも聞いてるんですけどね、コンガという楽器自体ね。

 そうですね。じゃあ、1937年、アルセニオ・ロドリゲスの「ブルーカ・マニグア」という曲を初録音したんですけど、その曲ですね。カシーノ・デ・ラ・プラヤの「ブルーカ・マニグア」。


【Bruca Manigua/Orquesta Casino De La Playa】

 「ブルーカ・マニグア」なんですが、これが……

 1937年。カシーノ・デ・ラ・プラヤの初録音ですよね、SP盤だったんだけど。あの、前半はあれなんだけど、後半で、すごく、こうリズムがアフロっぽくっていうか、振幅の激しいリズムになってくるっていう、この辺がたぶん、アルセニオが自分のバンドでもやってたことだったんだろうなと、で、それが……。
 その前に! カシーノ・デ・ラ・プラヤっていうのが出来た当時っていうのが、エルマーノス・カストロっていう、どっちかっていうとルンバ・バンドで、もうちょっとこう、大人しいというか、ちょっとエキゾティシズムを前面に出したようなバンドがあって、で、それの分家みたいな感じで最初は作ったらしいんですよね。で、その中にアンヘルモ・サカサスと、ミゲリート・バルデスが入って、で、こういうような、ちょっと今までのとは違う、まぁエキゾティシズムな曲ではあるけど、リズムの振幅が激しいのをやりだしたっていうところで。
 そのあと、1940年くらいに、その2人は、ニューヨークに行って、アルセニオは行ったり来たりなんですけど、それこそ最初はザビア・クガートでやりだして、そのあとマチートやなんかとやったりしてね。で、ミゲリート・バルデスは1942年にマチートとアルバムを録ってるんです。なので、その辺で、彼もかなりキューバとニューヨーク・シーンの橋渡し的なことをやったんじゃないかなぁという感じです。

 今の、37年なんで、まだマンボっていうのがないと思うんですけども、でも、これ、今、聴いてるとね、本当、後半のなんかこう、ちょっとテンポ・アップっていうか、リズムが強化された感じは、もう一歩行けば、すぐマンボに行きそうな、前夜っていう感じはしますよね。

 たぶん、それまでって、ちょっとのんびりしたっていうか、柔らかい音だったけど、この辺からスピード感みたいなのが出てきたときに、そのさっきの、ニューヨークでリフみたいなものが、まぁニューヨークだけじゃなくって、ペレス・プラードもそうなんですけど、そのビッグ・バンド・スタイルのリフみたいなのが重なって、っていう感じですかね? だから、その、マンボの元のリズム感っていうのは、この辺にある感じ。

 そうですねぇ。だから、今、伊藤さんが言ってたとおりで、マンボってやっぱりひとつは、そもそも論を言ったときに、倍テンポにしてみたっていうところと、あとやっぱリフですよね。繰り返しフレーズみたいな。だから今のサルサとかメレンゲでも、マンボ・パートっていうのがちゃんとあって、そこでダンス・パートになって、いきなりガン!と、マンボ・パートで踊らせるみたいなところがあるので、それは本当に受け継がれているというか、ここから始まったということだと思うんですけども。じゃあ次は、そのそもそもの、と言われている最有力創始者、アルカーニョなんですけど……。

 そうですね、キューバ人に言わせると、そして、キューバ人の学者が書いた本とかを読むと、マンボってやっぱり、アルカーニョ。さっき言ったカチャーオ、イスラエル・ロペスとお兄さんのオレステス・ロペスのロペス兄弟が作ったっていうことは、みんな書くんですよね。ただ、1938年に、「ダンソン・マンボ」っていう曲を発表したっていうのが、ひとつの大きな根拠なんだろうけど、でも、これは、ディスコグラフィーとかを探してもないんですよね。で、今から聴いて頂くのは、1951年の「マンボ」っていう曲。だから、その間、結構年月経ってるんで、本当は最初どうだったかっていうのは、ちょっとわかんないんだけど、まぁ、一応彼らが「マンボ」って付けて録音したのを、とりあえず聴いてもらいます。


【Danzón/Arcaño y sus Maravillas】

 1951年、アルカーニョ・イ・スス・マラビージャスで、「マンボ」っていう曲ですね。それまでは、さっき聴いた「ブルーカ・マニグア」みたいな、最初に歌があって、後半からどんどん盛り上がるパートっていう、そういうのが、もうこの曲なんかは最初からソン・モントゥーノみたいな感じでやってるっていうのと、それからダンソンとは全く違うリズムの取り方っていうかね、そういうところなんだろうなっていう感じ。で、その辺がやっぱり、ルーツなんだ、オリジネーターだ、っていう風に主張する根拠なんじゃないかな、っていう感じは、音を聴いてしますけどね。

 ♪マンボ、マンボ〜って言ってるからマンボなんだよ! みたいな(笑)

【爆笑】

 っていうところもある(笑)

 ごり押しっぽい感じも、ちょっとしないでもないですけどねぇ(笑)。これこそ、いったもん勝ち! みたいな(笑)。

 「マンボ」の語源も、なんか全然はっきりしてないらしいですよね。なんか、ダンサーが「マンボ」とか「マンビ」とか……「マンボ・マンビ」って曲あるけど、あれ「マンビ」って言った、「マンボ」って叫んだ、みたいのが始まりだけど、じゃあ、そのルーツはどこにあるかっていうと、なかなか学者も分かんない、みたいなのは読んだことありますけどねぇ。

 この録音51年ですよね? この時もまだカチャーオとお兄さんのオレステスの、ロペス兄弟はいたっていうことですよね。でも、なんで、51年なのか。遅いですよねぇ? もうちょっと早くやってもいいんじゃないか……(笑)

 そうそうそう、ちょっとなんでか分からないですよね。だから、もしかしたら、ちょうど自分たちが、そういえば「ダンソン・マンボ」とかやったなぁって、いうんで、もしかしたら……(笑)

【一同笑】

 忘れてたの?!(笑)

 忘れてたけど、使える、とか思って?!(笑)

 でもね、もっと早い44〜5年の録音で、「アルカーニョ・イ・ス・ヌエボ・リトモ」という曲とかやってるんですよね。あとは「ホーベン・リトモ」とか、そういうのを、40年代に録音してるんで、たぶん、そういう思考っていうのは、その時代、40年代の頭……もしかしたら30年代終わりくらいからあったんだろうな、っていう感じはしますよね。

 じゃあ、次はこの同じ曲をですね、40年後くらいですか? カチャーオ、この頃は当然アメリカに亡命しちゃって、ちょうどあれですよね、アンディ・ガルシアっていう俳優が……彼もキューバ系なんですけど……プロデュースして、あと、ちょうどグロリア・エステファンが『ミ・ティエラ』を発表して、そういったものが、マイアミのキューバ人コミュニティとかで注目されて。その中で、アンディ・ガルシアが、それまでパッとしなかった……っていうのも変ですけど、まぁ、80年代とかには、マイアミで地味にやってたとは思うんですけども……自分のアイドル的な存在であるカチャーオをプロデュースして、DVDで映像も出ました。その一環のアルバムなんですけども、当時、伊藤さん、講義を受けたんですか?

 そうです。プエルトリコに住んでいたときに、カチャーオが来てですね、このアルバムが出たのは94年なんですけども、ライブをホテルでやって、そのあと、コンセルバトリオ(音楽院)で講義をやったんです。その時にベースは、ご本人もちょっと弾いたんですけども、ベース担当は、ラモン・バスケスっていうやつで、友達だったんで呼んでくれて、で、行ったんです。
 で、それで使った教材が、今の「マンボ」なんですけども。譜面は、その頃ちょうど出てた、カルロス・デル・プエルトの親父の方が書いた教本があって、このマンボを取り上げて、それを譜面に使ったんですけども、その時に、カチャーオが「マンボ」って言わなくて、これは「ダンソン・デ・ヌエボ・リトモ」だ、って言ったんですね、説明として。つまり新しいダンソンのリズムだ、って。さっき高橋さんが紹介したアルカーニョ、だからたぶん新しいリズムだ、っていう意識は多分あって、それがマンボって名前が後からついた。それがいまだにカチャーオの頭の中にあって、「ダンソン・デ・ヌエボ・リトモ」っていう書き方をして。
 で、あとで教本を買ったらですね、カセットが付いてるんですけども、カルロス・デル・プエルトも、「ダンソン・デ・ヌエボ・リトゥモ」って言ってるんですね! なので、あぁ、そうか!と。このマンボに使うベース・パターンは、「ダンソン・デ・ヌエボ・リトモ」、つまり「ダンソン」の発展系なんだっていう風に思ったのが、すごく印象的でしてね、そんなエピソードのある曲です。

 じゃあ、カチャーオの、ニュー・バージョンの「マンボ」。こっちの方がだいぶマンボっぽいですよね。はい。


【Mambo/Cachao】

 はい! こっちは、なんていうの、看板に偽りなしのマンボという感じはするんですけど、まぁ、今のヴァイオリンのリフの繰り返しが、マンボということだと思うんですが、ただ、僕、これ最初に聴いたときに、ちょっと違和感はありましたよね。これがマンボか? っていうね。だから、プエンテとか、そういうホーンのリフのとか、あと、やっぱり、ペレス・プラードのからすると、チャランガ編成のマンボっていうのは、あれ? っていう感じが当時したことを、ちょっと今、思い出したんですけど、どうですかね?

 僕もやっぱりチャランガのモントゥーノ・パートみたい、って感じと、今思ったんですけど。

 でも、そのモントゥーノ・パートが、マンボだっていうことなんですよね。

 って、いうことなんですよね!? さっき、岡本さんが仰ったですけど、プエルトリコで、ジセルっていうメレンゲーラがいて、コンサート行って、コンサート前のリハに入ったんですけど、速いパートになった時に、彼女が、「マンボー!」っていったら、皆が、すごいノリが、ガーっと上がってきて、あれ、未だにそういう感覚なんだなぁと思って。マンボって感覚がとても新しかったんじゃないか? って気、しますよね。

 さすがキューバ人、ネーミングがうまい(笑)

【一同笑】

 そうそうそう(笑)。僕は今、聴いて、チャランガ・バンドのよくやるパターンだなって感じがしちゃって、逆に僕は、ちょっと感覚違うかもしんないけど、古い51年の録音の方が、なんかマンボっぽい感じはしたなぁ、って。

 あぁ〜、なるほど。

 あの、古い録音の方が、リズムを深く取っているみたいな感じがしたなぁ。まぁ、まだマンボが確立されてないときの曲なんでね、演奏の仕方によって、かなり色々出来るんだなぁって感じはしますけどね。

 「マンボ」っていったときの、イメージというか、形っていうのが、今かけたものの時代ぐらいになると、もう、ある程度確立されて、やっぱその、リフ、繰り返しリフ……、さっきから本当に繰り返しになっちゃってますけど(笑)

【会場笑】

 それが、マストなんだろうなっていう感じはね(笑)

 なるほど、そこですか今日は。 さっきからグダグダおんなじことばっか言ってのは(笑)

 そうそう(笑) これが、マンボなんだよ、って!(笑) 言ったもん勝ちだから(笑)

【会場爆笑】

 えーっと、まぁ、本当に誰が…、まぁ、また繰り返しなんだけど(笑) 誰が作ったのか分かんないし。……っていうのは、本当に音源がないわけですよね。

 っていうか、やっぱり、同時多発的に、色んなところで、こう、同じようなことを皆やってた、ってことでもありますよね。で、それを「マンボ」って、誰かが名前を付けて、それが誰が付けたのかも、いまいちはっきりしないから、だれがどうやって「マンボ」って言いだしたのかも、それがはっきりしない、だから何か謎が……っていう感じになっちゃうのかなぁって気はしますけどね。

 やっぱり一番有名なペレス・プラードの、「エル・マンボ」にしても、「マンボNo.5」にしても、1949〜50年くらいに世界的に大ヒットしまして。あとは、ティト・プエンテみたいな人が出てきて、いわゆるマンボっていうスタイルを確立した後は、その、「マンボ」っていうのが曲タイトルに付いたのもいっぱい出てくると思うんですけど、40年代って、まだかなりグチャグチャしているというか、リズム的にもルンバ、アフロっていうのがあったりとか、いろいろ混じってる。
 その中で、かなり早い時期、45〜6年にですね……キューバ人でしたよね? ホセ・クルベーロって?

 キューバ人です。

 キューバ人のピアニスト/バンド・リーダーのホセ・クルベーロという人がいまして、その人の音源を今度はちょっと聴いてほしいと思うんですけども、これが、なんとですね、ティト・ロドリゲスっていうプエルトリコ人のヴォーカル……50年代のマンボ黄金時代に、プエンテ、ティト・ロドリゲス、マチートと並んで三大楽団といわれた……そのティト・ロドリゲスとティト・プエンテが、同時に在籍していたという、かなり珍しい録音。このあと、2人それぞれソロになっちゃうと、もう、ライバル同士になって、反目しあうといいますか、対抗意識バリバリでやってたんですけど、この頃は、仲良く、かどうかは分かんないですけど、同じバンドにいたと。
 ちなみにこのホセ・クルベーロって人はですね、このあとマネージャーになって、ティト・プエンテとかのマネージャーをやって。ラリー・ハーロウをファニアに紹介したのも、彼だったらしいんです。ハーロウは結構プエンテに世話になってたんで、そのツテで……ということらしいんですけども。
 じゃあ、まず聴いてほしいのが、「エル・レイ・デル・マンボ」。これが何年ですか?

 1946年ですね。


【El Rey del Mambo/José Curbelo y Su Orquesta】

 ホセ・クルベーロで、「エル・レイ・デル・マンボ」なんですが、これ、ディスコグラフィーを見ると(リズム表記は)“グァラーチャ”となってます。

 ええ、そうなんですよね。1946年ではグァラーチャ、でも次の年にホセ・クルベーロが「チャイナ・ドール」っていうところでやったライブの方では、一応、マンボ、ってなってるんですよね。だから、
 ペレス・プラードが1946年に、形式名として「マンボ」っていうのを、使ってるんですよね。11月20日録音で。「トロンペティアナ」っていう曲なんですけど、これはCD復刻とかもされてないんで、聴くことが出来ない。ただ、ディスコグラフィー上では、ちゃんと(マンボって)なってる。
 それとやっぱり、同じ年、1946年に、アンセルモ・サカサスって、さっき言った、カシーノ・デ・ラ・プラヤの初代ピアニストだった人が、やっぱり「マンボ」って曲、そのものずばりの曲やってて、これは聴けるんですけど、グァラーチャ・ソンって形式になってて。まぁ、これがマンボかって言われたら、今のよりはマンボっぽくない感じ。
 だから1946年くらいに、「マンボ」っていうのを色んな人が言い出したと。で、なんでだろうな、っていうのはありますよね。

 でも、少なくとも、今のは「エル・レイ・デル・マンボ」だから、タイトルとしては、マンボって言ってるわけですよね。とすると、今日考えてる中でいうと、初めてタイトルとかに、マンボって出てきたと思うんで、45〜6年に初めて表に登場してきたということなのかなと。表というか録音物として。

 46年ですよね。

 録音物として出たっていうことは、当然、巷には、もっと早く出てきたっていうことだと思うんですけども、46年くらいが最初の登場じゃないか、と、今の時点では思われますね。

 だから、録音物の最初としては1946年、一応3月に、録音してるんで。細かい話だけど、今のホセ・クルベーロよりも、ちょっと先に「マンボ」って曲をやったのがアンセルモ・サカサス(笑) ではありますよね。

 じゃ、続いて、またホセ・クルベーロ。今度はさっきも出てた「チャイナ・ドール」っていうところでのライブ・アルバムなんですけど、これが46年って(アルバムに)書いてあるんですけど、違うんですか?

 ええっとね、結構信用できるディスコグラフィーだと、1947年ってなってるんですよね。まぁ、これも復刻のなんで、まぁ……

 ジャケットに、でかく書いてありますよ、46年って(笑)

 これ、トゥンバオ・レーベルじゃないですか。トゥンバオ、ご存知の方も多いかと思いますけど、キューバ関係を中心として、プエンテとかノロ・モラレスとか、ティト・ロドリゲスとか、その辺も復刻出してる復刻レーベル……今はもう全然新しいの出してないですけど……なんですけど、初期の頃は、結構、その年代とかそういう表記が、いい加減っていうか、だいたいこのくらいだろうな、っていうのでやってたんです。途中からは、かなりしっかりしてくるんですよね。

 (笑) これ、スペインの会社でしたっけね?

 うん、スペインの会社ですねぇ。録音年に関しては、クリストバル・ディアス・アヤラっていう人が作ったディスコグラフィー、一応、ディスコグラフィーとしては一番信用できるんで、それを元に僕は調べてるんだけど。

 じゃあ、その「チャイナ・ドール」のライブ・アルバムから「スン・スン・ババエ」。有名な曲です。


【Sun Sun Babae/José Curbelo y Su Orquesta】

 「スン・スン・ババエ」、さっきからしつこく「繰り返しリフだ、繰り返しリフだ」って言ってたんですけど、今、そんなに繰り返しリフ出てこなかったっですねぇ(笑)

 おかしいじゃねぇか、って(笑)

 これも、まぁグァラーチャっていえば、グァラーチャですよね。

 この曲はね、その前後くらいの人たちがよくやってる有名な曲なんですけどね。やっぱりメロディラインがしっかりあって、それに合わせてやってるっていう感じ。だからまぁ、マンボかって言われれば、やっぱりマンボって感じじゃないですよね。

 でも……やっぱりマンボなんじゃない?

 あぁ〜、むつかしいな……

 なんか、雰囲気なんだよね、マンボって(笑)

 そうそう、雰囲気的なところあるよね。

 さっきからの話が、全部、ぶち壊しに(笑)。いやぁ、結局、雰囲気だよ! みたいな感じになってしまっているんですけども(笑)

【会場笑】

 でも、どっかにフックが、なんかちょっとこう、あるんですよね。まぁ、元になったダンソンと違うっていうことは分かりましたけど、じゃ、グァラーチャとマンボが、どこが違うか? って言われると、なかなかこれは難しい気がしますけどねぇ。

 だから、やっぱり、これも繰り返しになっちゃうけど(笑)、この時代、1946〜7年くらいを境目に、みんなこういう感じの音になっていったんですよね、必然的に。ニューヨークでもそうだし、キューバでもそうだし。だからこの後、いわゆるマンボっていうのが、表舞台に上がって、ニューヨークでは、三大バンドが……っていう感じ。

 ちゃんとしたマンボのフォームっていうのが、まだ出来てないんですよね。

 出来てない。だからネーミングもあやふやで、いつの間にかマンボってみんな言ってたみたいな感じになったんじゃないかな。この路線と、それからもうひとつ、ペレス・プラードがキューバからメキシコに飛び出してそこで独自なマンボを作った。そのふたつがマンボとして世界中に……僕らみたいな後から聴いてるような人たちには……マンボって認識されたんだろうなぁっていう感じがしますけどね。
 誰がマンボを発明したか? って、もうずうっと昔から言われてるけど、そういう論争が、結局決着はついていないわけだし。それはやっぱり、同時代に、同じことを皆やってた、というとこに落ち着くんじゃないかと思うんですけど、どうですかね?(笑)

 ……ますます難しくなって、混迷を深めてきましたね。こんなことでいいんでしょうか?(笑) 
 思うのは、46年って第二次世界大戦が終わった翌年じゃないですか。それまでって、43年ごろからレコードの材料が全然なくて。少ない材料は、グレン・ミラーとか、全部あっちのアメリカン・ポップス、ポピュラーな方へ行っちゃって、ラテンも、レコードでは出せなかったと思うんですよね。ただし、ライブではあったわけなんですけども。そんな中で、ニューヨークの中で踊る層がだんだん出てきて、戦争が終わって、レコードの原料もバーッと出てきて、まだSP盤ですけど、SP盤がガーッと出せるようになってきたときに、人々が戦争から帰ってきて、ダンスもより盛んになってきたときに、やっとマンボが、ダンスに合った形式のマンボになったんじゃないかなぁ、っていう、年代的なことがある。たぶんそれまでは、スピード感とかが違うものが、マンボってことだったんじゃないですかね。

 伊藤さんに、こないだもマンボ・ダンサーのYouTubeとか、見せて頂きましたけど、その頃はまだ、マンボ・ダンスみたいなものは確立してなかったってことなんですかね? やっぱりダンスと結びついて、初めてジャンルとして認識される、っていうとこはあるんですかね?

 たぶん、過渡期が40年代前半くらいからだと思うんですけど、そのころって戦争中なんで、そのフィルムってあんまりないんですよね。だけど、46年にさっきの「チャイナ・ドール」が出来て、で、翌年がいよいよ「パレイディアム」ですよね?

 はい。

 で、そこからやっぱりダンス・クレイズも出てきたし、よりディテールに違う個性を出してきたダンサーが、本当にたくさん(登場してきた)。マンボ時代には有名なダンサーの、キューバン・ピートにしろ、キラー・ジョーにしろ、マルコにしろ……たくさん出てきたっていうのは、そういう時代と、それから、マンボ・バンドがたくさん出てきたという事情があるんじゃないですかね? 戦後。

 ダンサーたちの映像が残ってるじゃないですか? あれは、何年代ですか? 50年代ですか?

 たぶん50年代ですね。40年代じゃないと思いますけど。やってる曲なんか見ると、パレイディアムで。

 じゃあ、そんな中で、いよいよティト・プエンテを次に聴いてほしいと思います。ティト・プエンテの功績っていうのは、色々あるんですけど、ひとつ大きな功績っていうのが、ティンバレスを立って叩くようになったっていうことらしいんですよね。それまでは、ティンバレスって、後ろの方にいて、座って、いわゆるパイラっていう、胴ですね、胴を叩いて、リズム・マシーン的な役割が多かった。
 ティンバレスがどこから始まったかっていうのも、これもまた、すごく難しい問題で、誰が最初かっていうのも、まぁ諸説あるみたいなんですけど、とにかく最初は、座って、♪トゥントゥク・トゥンットゥク〜って、パイラ(胴)を叩くのがメインだったのが、ティト・プエンテが……プエンテは17歳からプロになってマチート楽団にもいて、そのあと海軍に入って、戻ってきてこのホセ・クルベーロに入ったわけですけども……マチート楽団か、ホセ・クルベーロの時に立って叩くようになって、で、ついには前の方に行ってやるっていうことになったわけなんですけども。
 彼は48年くらいに自分のバンド、まずピカデリー・ボーイズっていうのを作って、それがティト・プエンテ・オーケストラになるわけですが、じゃあ、最初の頃の「アバニキート」っていうヒット曲。歌っているのはビセンティコ・バルデス。


【Abaniquito/Tito Puente & Orchestra】

(続く)
posted by eLPop at 20:27 | Calle eLPop