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イルマ・オスノ「タキ −アヤクーチョ−」インタビュー その4

2017.08.28

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少し時間が空いてしまいましたが、いよいよインタビューの最終回になります。
この回では、アンデス世界でもっとも演奏されている音楽ワイノとはどのような音楽であるのかをイルマさんに語っていただき、アルバムにも収録されている孤児の歌をめぐるエピソードなどを聴きながら豊かなケチュア語歌謡が描き出す世界について、少しだけ分け入っております。
また、9月9日には下北沢の音倉にてアルバム発売記念ライブが開催されます!みなさんのお越しをお待ちしております! (詳細はこちら)

これまでのインタビューはこちら
(その1 その2 その3


-それではこのアルバムにも収録されている、アンデス地域で一番広く演奏されているワイノとはどういうものであるのか。イルマさんにとって、そしてアヤクーチョにとってのワイノとはどのようなものかを少しお話していただければと思います。
ワイノという音楽は、その起源についても謎が多くよくわかっていない音楽です。なのでワイノ、もしくは別の場所ではワイニョと呼ばれているこの音楽を定義することは非常に難しいことです。ハラナと呼ばれることもありますしね。こういったハラナ、ハラウィ、ワイノといったさまざまな音楽とそれらの呼称についてはそれぞれ研究もあります。私が今ここでアヤクーチョのワイノについて言えることは、それは音楽のジャンル(形式)の一つであり、人々のセンティミエント(心の機微)を表現するためのものであるということです。そのセンティミエントとはノスタルヒア(郷愁)であったりトリステサ(悲しみ)であったりするものです。またアレグリア(喜び)といった思考もその中に含まれるものです。またからかいや馬鹿騒ぎとしてもワイノは使われます。

このワイノというジャンルの音楽は、好きな時に演奏することができる音楽です。誕生日であったり、何らかのパーティであったり、別れのパーティとかね、そういうときにはワイノ・ハラネーロ(アップテンポの陽気なワイノ)をやったりしますね。パーティの最後の方とかにね。それから一人のときにも同じように演奏しますね。孤独もワイノとともにあるものの一つです。こんなふうに、ワイノとはどんなときにも歌われる音楽なのです。私たちにもっとも近い音楽といってもいいでしょう。女性たちは羊を放牧に連れて行くときにもワイノを歌います。水汲みに行くときにもワイノを歌いながら行きます。カーニバルも同様です。ワイノとは一年を通じて常に私達とともにある音楽なのです。12月から1月まで、そしてそれに続く日々もね。あ、1月から12月だ(笑)。いつも一緒なのです。
でもほかのジャンルの音楽は違うのです。一年の限られた時期にだけ歌われるのですね。例えばハチュア(カチュアとも言う)は収穫期にのみ歌われます。その時だけです。その他の音楽も、守護聖人の日であったり、とうもろこしの種まきの時であったり、その時だけと決まっているのです。特定の時にしかほとんどの音楽は演奏されないのです。ワイノだけが時に縛られない音楽なのです。
またワイノは歌われる場所によってスペイン語で歌われるものとケチュア語でうたわれるものがあります。私はケチュア語で歌われるワイノが好きなんです。ケチュア語のワイノのほうが古いものと言われていますが、私はケチュア語のワイノにはスペイン語のもの以上に個人のより深いところにある感情の機微を感じ取れるように思うのです。スペイン語のワイノのほとんどは現代的なものです。一般的に歌われるテーマは「愛」を扱ったものに絞られます。「アモール」「ミ・ビダ」「何処へ行ってしまうのか」「いつまた会えるのか」ってね。しかしケチュア語のワイノは、もっと人間そのものに寄り添っていて、愛だけを歌っているのではないのです。もちろん、愛についても歌います。鳥について、石について、イチュ(アンデスのイネ科の植物)について、苦しみについて。村を出ていってしまった人のことを歌った歌もあります。なので私はケチュア語のワイノの方が好きなのです。

-このアルバムの中では両親のいない子どもたちのワイノ(Hどこを見ているMaytam qawanki)が収録されていますね。アンデスのワイノの中ではこういったテーマが非常に多いですね。
非常に沢山ありますね。
-なぜこれほどまでに両親のいない子どもたちというテーマが普遍的なテーマの一つとして歌われ続けるのでしょうか?
うーん、難しいですね。
私の経験から言うのであれば、私が育った「暴力の時代」には、私たちはいつも「明日はもう生きていないかもしれない」と感じながら日々を過ごしていました。今晩私たちはきっと死ぬんだって。いつもそんな不安に苛まれた日々を過ごしていました(※アヤクーチョは、80年代から90年代までセンデロ・ルミノソが台頭した中心的地域であり、センデロと軍部の両者から多くの民衆が殺され、難民となった人々がリマへと大量に流入した歴史がある)。もちろん、私には両親はおりましたが、アンデスにおける「孤児的なもの」とは一般的なそれとは少し別の感覚なのです。誰もがいつ殺されてもおかしくないと思っていましたから。すべての子どもたちは、まるで孤児のように生活していました。権力によって孤児になることもありました。また突然外から圧倒的な暴力によってすべてが変わってしまうことも少なくありませんでした。そんな時、自分たちを守ってくれる人もいないのです。
こういった子どもたちを扱ったテーマは伝統的なものであると思います。ですが私の忘れられない記憶の中にはこんなエピソードがあります。それは私の故郷の村から離れたところで起こった話です。その時、その家は両親が家を空けていて子どもたちが4人家に残っていました。両親は仕事でしばらく家をあけていたんですね。子どもたちはそれで家の中のすべてのこと、料理まで含めて全部する必要があった。上の子がだいたい5、6歳ぐらいだったと思います。その子が料理をしようと思って火をつけてそれを忘れてしまった。で、家が燃えてしまったんですね。周りの人が助け合って火を消してくれたんですけど、そのあと子どもたちは食べるものがなくなってしまった。寝る場所もない。なんにもない。さらに両親までいないんです。そう、まるで孤児みたいに。そんななか、子どもたちの一人が歌ってたんです。この曲を。それがずっと頭のなかに残っていました。ああ、孤児なんだって。両親が不在で、子供だけで孤独の中にいて。それが私の中に焼き付いたのです。子どもたちが歌っていたその情景が。それが私の中の深いところで悲しい記憶としてずっと残っていたのです。
-この歌詞はアプリマックの有名なカーニバルの曲「タンボバンバのカーニバル」を彷彿とさせますね。(※川を渡っている楽隊が橋ごと流されて楽器や帽子が浮かんでいるのを空からコンドルが見ていたという歌詞が有名)
 あ、そうなんですよ!
-こうした情景は、アンデス的な世界観の重要な一翼を担っているものであるということなんでしょうか。
はい。そうだと思います。川や山々、空気や木々は、私たちにとって全て意味を持っているものなのです。それらは歌の中で大きな意味をそれぞれ担っています。
例えば川は不在を象徴します。なぜなら川とは流れ去って、けっして戻ってくることはありません。なので不在という意味を持っているのです。なので例えば誰かが死にたいと思って川に行く。そうするとそのまま行ってしまってもう帰ってこない。死と不在を意味するのです。
他の要素だと例えば山々や丘は、「去っていく」ということを示します。山を越えて見えなくなる。行ってしまう。
-見えなくなってしまう、と。
そうです。その向こう側へと行ってしまうということを示します。両親が山の向こうに行ってしまったら、もうその後何が起こってもわからない。その生死さえも、もはやわからなくなってしまう。だから、計り知れないことを「そう言われている」と歌の中では言うのです。丘の向こう側に行ってしまってもはや真実はわからない、ただ、「そう言われている」のです。
また、風や空気は便りを意味します。遠くから私たちにそれを運んできてくれるのです。
花々は純潔であったり、女性や女の子を意味します。ユリ、私たちは「アマンハイ」と呼んでいますが、あ、これはまた話すと長いテーマになるのですが、一見、「きれいなユリの花よ、まだ咲くんじゃない、私が大きくなったら咲いてほしい」といった感じで、非常にわかりやすいものに見えるのですが、もう少ししっかりとこの歌を分析してみると、このユリの花が意味するものとは、まさに今打ち破った瞬間なのです。正確にはこの瞬間とは、それは少女性の終わりなのです。実際の年頃の少女、12、3歳ぐらいでしょうか、まさに女へと変化していくその瞬間の少女、そういうものを指すんです。ある小さな花が一人の女性へと変わるその時、その瞬間を意味します。なので人は「君は開いてはいけない」と歌うのです。なぜなら花開く、つまり大人になるということは私だけのものであった時代が終わり、恋ができる年齢になるということになります。しかしその少女を愛でている人はおそらく彼女に恋することが認められない年上の人、例えば親であったり家族であったりして、相手の女の子は常に小さな子であったりするわけです。だから大人になってしまわないで、恋なんてするようにならないでと頼むわけですね。こんなふうにケチュア語で歌われる歌は非常に魔術的な意味を持っているんです。
-残念ながら時間になってしまいました。今日は本当にありがとうございました。
ありがとうございました。
(おわり)
posted by eLPop at 17:30 | 水口良樹のペルー四方山がたり