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ルス・カサル、初の来日公演迫る!――気品と知性の花

2017.05.02

 2017年5月12〜14日、スペインの国民的スターが、本邦初パフォーマンスをブルーノート東京で披露する。昨秋、四半世紀ぶりに国内盤リリースが実現し、プロモーションのため初来日。アルバム『ラ・パシオン』は彼女にとってソロ12作目、格別の思いが込められた2009年録音のラテンアメリカ曲集だ。来日公演を前に、彼女の芸歴を語る上で外せない局面、アルバム制作に至る経緯などを、彼女自身の言葉でご紹介したい。(2016年11月8日インタビュー@リスペクトレコード/通訳:高際裕哉氏)

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◆映画『ハイヒール』の成功がもたらしたもの
 「ピエンサ・エン・ミPiensa en mi」は、メキシコの大家アグスティン・ララが1940年前後に発表した佳品で、「口づけのとき、悲しいときにも、私のことを思っておくれ……」と歌われる。男から、去った(仲を引き裂かれた?)女へ切々と訴えかける歌だが、作者自身の美声が味わえる1943年の録音は、後年に有名トリオが演唱するメキシカン・ボレロに較べてかなり洒脱、きっぷのいい歌い口が印象的だ。
オリジナルの歌詞「口づけのときcuando beses」を、「苦しいときcuando sufras」と最初に歌い替えたのは、誰だったのか? チャベーラ・バルガスの絶唱では、「苦しいとき、悲しいときにも、私を思って……私の命を奪いたいというのなら、それでも構わない。君なくして私の命など、いかほどのものか」と続き、意味合いはいささか変わってくる。
 チャベーラ・ファンでつとに知られるスペイン映画界の奇才、ペドロ・アルモドバル監督は、1991年作品『ハイヒールTacones lejanos』(日本公開92年)で、この往年の名曲の吹き替えをルス・カサルに指名した。当然、歌詞に「苦しいとき」のほうを採用しているが、語りかける相手は、15年ぶりに再会したものの窮地に陥ってしまっている娘だ。母の悔悟、愛憎入り混じる複雑な胸の内が、「ピエンサ・エン・ミ」の歌詞に託される。母役を演ずるのは、大女優マリサ・パレデス。ご存じ、アルモドバル映画常連の一人で、83年作『バチ当たり修道院の最期』、95年作『私の秘密の花』、99年作『オール・アバウト・マイ・マザー』、2011年作『私が、生きる肌』にも出演している。
 80年代よりロック・シンガーとしてのキャリアを積み重ねてきたルス・カサルが、なぜラテンアメリカの名曲へ目を向けることとなったのか……話はまずそこから。

◆ラテンアメリカの名曲への情熱
――『ラ・パシオン』を、なぜ2009年というタイミングで録音されたのか?
LUZ アルバムは、「ピエンサ・エン・ミ(私を思って)」に始まった……そう、91年ね。録音の数日後には、いつの日かこういうスタイル、こんな雰囲気のボレロ・アルバムを一枚作りたいと思い始めていました。2009年に私が2度目の病を患ったとき、いよいよアルバムを作ろうと構想を練り、曲選びを始めたんです。(※彼女はオフィシャルサイトで、2007年と2年後の2009年、乳がんを公表している)
――選曲が素晴らしかった。もちろんスタンダード・ボレロも入っていますが、「べサメ・ムーチョ」のような超有名曲ではない。あなたらしい独特の選曲で、ラテンアメリカのいろんな国のエッセンスが入っていますね?
LUZ そのとおりね。ひとつには、私が好きな曲であるということ。二つ目は、ラテンアメリカの様々な国の作品を再紹介したかったということなんです。例えば、ブラジルの人々はボレロと縁が無いと言われているけれど、かつてはボレロの名歌手やコンポーザーがいた。チリもそう、優れたコンポーザー、素晴らしい歌手たちがいました。キューバにはさらに良い作品があるでしょうが、とにかくできるだけ違う国々の楽曲を紹介したかったのです。「べサメ・ムーチョ」はビートルズでさえ採り上げたぐらい、あまりに歌い尽くされた曲だと思う。「ある恋の物語」もそうだけれど、私には歌ってみようという興味を掻き立てる曲だったわ。「灰」は、ボレロの名曲の中にあって、近年埋もれがちだった。トーニャ・ラ・ネグラが歌うこのメキシコのカンシオンを聴いたとき、がんを患っていて、これを歌わなきゃと思ったのです。愛と落胆、壊れてしまったほかの物事が語られていて、それら異なる要素のコンビネーションこそが、このアルバムを豊かにしてくれると感じた。愛の歌だけじゃないところがね。
――アレンジャーをデオダートに指名したのは、ご自身だったのか?
LUZ 私と、フランス人プロデューサーを含む特別制作チーム全員で選びました。彼はボレロという分野において知識があり、多彩な経験をもつアーティスト。そのプロフィールを見ても、適任な人物だと思いました。
――これが、デオダートとの初仕事だったんですね?
LUZ ええ、これが最初です。私がデオダートの名前を記憶に刻んだのは、70年代の名盤『ツァラトゥストラはかく語りき』。音楽との出合いから何年も経ったのち、その彼と仕事をし、彼の横で歌うことになったわけです。ええ、私が歌うとき、彼はずっと傍らにいてくれましたよ。彼は音楽史の一時代をなす、偉大なアレンジャーですからね。
――日本盤では、その後のアルバム(※2013年作『Almas gemelas』)から2曲ボサノヴァを、ボーナストラック収録。 この2曲の軽やかさが、アルバムの色合いを、より広がりのあるものにしたと思います。
LUZ おそらく、そうね(笑)。ボサノヴァに関しては、人生で初めて歌う機会だったのよ。エウミール・デオダートの後押しがあったから。2曲はいずれも、アントニオ・カルロス・ジョビンがフランク・シナトラと録音した曲。これはスペイン人が歌う、私流のヴァージョンなんです。このブラジルの曲を録音するときに思い浮かべたのは、エリス・レジーナでした。私の人生において様々な局面で重要な意味をもつ女性たちは、順不同で……エディット・ピアフ、ジャニス・ジョプリン、ミーナ、多くのスペイン女性、そしてエリス・レジーナなの。エリスが歌っているテレビ番組を観たとき、涙が止まらなかった。ブラジルの歌い方を知らなかった私が、ボサノヴァを歌うと決めたとき、テレビ番組のエリスを思いながら歌っていたんです。

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◆ボレロが与えてくれた自由
――もともとあなたは、ロック、ポップロック、バラーダ歌手として人気がありました。「ピエンサ・エン・ミ」を録音したのは、アルモドバル監督からのオファーだったのか、それとも録音後に、映画でテイクが起用されることになったのか?
LUZ ペドロ(・アルモドバル)が、まずこの曲を映画のために使おうと考えたのです。シナリオを作る以前に、映画を撮る前に、この曲ともう一曲(※ミーナ65年の大ヒットで知られる「別離Un annod’amore」。64年ニーノ・フェレル作で、原題は「C’est Irréparable」。アルモドバルのスペイン語訳詞によるカヴァーが「ウン・アニョ・デ・アモール」)を決めていました。そして映画の撮影前に、私に声がかかったんです。それまで私は5枚のロック・アルバムをリリースしていたので、難しい課題だったけれど、結果はとても良かった。私にとって人生の分かれ道になったから。それ以降も、私は私であり続けていますが、この曲を歌ったお蔭で、より自由になれたわ。ロックに留まらない歌の世界を拡げられると分かったし、人々もそれを受け容れてくれると知ったからです。
――じゃあ、映画『ハイヒール』の歌で、初めてロック以外のジャンルにアプローチされたわけ?
LUZ そのとおり。
――ファースト・シングルを発表される前に、ラケル・メレーの生涯を描いた『Las Divinas』という音楽劇の舞台に立たれたそうですが、その頃から古い歌に接しておられたのでは?
LUZ そう、でもとても短い期間の仕事で、あの役を引き受けた理由は安心が欲しかったのと、経験を積みたかったから。77〜78年頃のことね。フランスで有名だったスペイン人女性歌手……ルーツはフランスだし、スペイン=フランスね。彼女は“クプレ”(※スペイン歌謡)の歌い手です。クプレはスペイン文化の一部ですから。でも、歌手としての私が興味をもっていたかと問われれば、必ずしもそうではない。私たちの世代は、すでにアルマンド・マンサネーロのボレロも、「べサメ・ムーチョ」にも親しみを覚えなかったわ。無理もないでしょう? 好きでなくとも知ってはいたし、歌えはしたわ。かの時代への興味はあったけれど、親世代のレパートリーよね。私のではない……私は他の音楽をやりたかったし。

◆歌詞で厳選したレパートリー
――ボレロ・アルバムの中で特に異色で珍しかったのが、マリア・エレーナ・ワルシュの「セミのようにComo la cigarra」。なぜこのカンシオンを、アルバムに入れようと思ったのか?
LUZ それを説明するのは簡単ではないわね。ラテンアメリカのレパートリーを次々に選んでいるとき、アルゼンチンと来て……アルゼンチンのボレロは、どうも私の歌としてしっくりこなかったの。そのとき、マリア・エレーナ・ワルシュが子供のために手がけた作品を思い出した。彼女はとても名声を確立した女性。非常に力強く、反逆者、レズビアンでもあった。彼女の、他者と異なる個性にずっと興味を抱いていたから、もう一度作品を聴き直して、詞の内容からこの曲を選びました。一見して愛の歌のようだけれど、そうではない。しかもこのアルバムは、決してボレロに限定したアルバムではなく、一種のミックスだから、ヴァリエーションのひとつにとてもふさわしいと思ったんです。
――つまり、あなたにとっては歌詞が、選ぶ際の重要ポイント?
LUZ 歌詞はとても大事。選んだ歌すべてにパッションがある。パッションといっても、愛そのものの情熱もあれば失った愛への情熱と、いろいろだわ。例えば「灰」にしても、これまで重ねてきた愛の記憶がすべて灰になってしまうという含みをもたせているわね。歌において音楽と歌詞はどちらも重要なのだけれど、レナード・コーエンが歌詞に重きをおくように、ボレロというジャンルも、音楽よりも歌詞のほうに少しだけ重要性があると私は思う。ボサノヴァでは逆に、歌詞よりもメロディーやハーモニーのほうに比重がおかれていると私は思っています。だから『ラ・パシオン』では、テ・キエロ、テ・キエロ(愛してる、愛してる)……みたいなありふれた歌詞は選んでいないわ。

◆フランスでの人気、日本との奇縁!?
――母国スペイン以外のヨーロッパ、特にフランスでのあなたの人気は絶大です。何か特別なブレイクのきっかけがあったのか? 勲章を授与されるくらい影響力があると聞きますが。
LUZ 人気が出たのは92年、映画の曲「ピエンサ・エン・ミ」がフランスでヒットしてから。フランスでもペドロ・アルモドバルの映画作品は、もっとも注目されてきた。その後、今に至るまで私のパフォーマンスが好まれているようだけれど、理由はよく分からない(笑)。自身がとりわけ他に優れて特別な存在と言えるほど、私は傲慢な人間ではないわ。フランスには優れた歌手がいっぱいいるのに、なぜこんなに今も支持されているのか……。
――フランスのファンは、どんな年齢層なんでしょうか?
LUZ 若い人たちから年長者まで幅広く、いろんな人が聴きに来ます。ここ数年、ダリダのレパートリーで、年上の女性と青年が恋に落ちる歌を採り上げたのが共感を呼んだみたい。他にもフランス語でジルベール・ベコーの曲を歌っていますが、キャリアにとって重要なコンサートをフランスで開催できているのは喜びです。92年から現在まで、大小の公演をずっと続けてこられているんですもの。
――フランス政府から叙勲されたのは、何年のこと?
LUZ 2007年か08年だったかしら? フランス文化人勲章ね。名誉市民としてパリ市の鍵ももらったわ。日本でも、海外の人間に鍵をくれないかしら(笑)。確かにフランスでハードワークをこなしてきたけれど、それは私の人生にとって、プロとして幸運だったわね。
――今はマドリーにお住まい?
LUZ ええ、マドリーに家があるわ。でも、今は日本にいられて幸せ! ずっとずっと、本当に日本に来たかったの。何度か話があったのだけれど、実現しなかった。彼(ディレクターの高橋研一氏)のお蔭で、やっと……。
――彼の“パシオン”で!
LUZ そう、彼の情熱のお蔭よね。やっとここに来られた。92年にセビージャで、ロック・グループの聖飢魔Uと共演したのよ(※聖飢魔U公式サイトによれば、セビージャ万博の前年、91年とあった)。
――ウソ〜!
LUZ 彼らはスペインで有名じゃなかったから、私が共演することになった。その後、訪日の話もあったのだけれど、ヨーロッパでの仕事が忙しすぎて立ち消えになってしまったの。うー、チャンスを逃した!(と、悔しがる) でも、何年も経って、私たちはここにいる。日本については、文学にも映画にもさほど知識豊富というわけではないけれど、ずーっと興味があった。日本文化がもつ特性に興味を抱いていたの。そして、プロ歌手としてチャンスが来るのをずっと待ち続けていたのよ。
(※ちなみに、昨年11月のプロモ来日から帰国したのち、彼女はエル・パイス紙に「!Viva Japón!」と題するエッセイを寄稿した。文中で、訳本を手に入れたばかりの、徳富蘆花『不如帰』読後の感銘を綴っている!)

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◆故郷への恩返しと社会貢献
 現在はマドリーに暮らすというルス・カサルだが、生まれたのはガリシア州ア・コルーニャ県の町ボイモルト。彼女が幼い頃、一家はアストゥリアス州都ヒホンへ移り住み、音楽教育やバレエの基礎を身につけ、カヴァー専門のロックバンド、ロス・ファニースの活動をヒホンで開始。その後、ソロ・シンガーを目指すべくヴォイストレーニングを重ね、77年にマドリーでプロ歌手の道をスタートさせている。
 スペイン映画界の異能の人、アレハンドロ・アメナーバル監督作『海を飛ぶ夢 Mar adentro』(2004年/日本公開2005年)に挿入された、ガリシアを象徴するナンバー「ネグラ・ソンブラ」をカルロス・ヌニェス伴奏で歌っていたのも、ルス・カサルだ(※1996年録音/ロサリア・デ・カストロの詩作に1892年、フアン・モンテスが曲をつけた)。そして、彼女の故郷ガリシアとの繋がりは、どうやら今も途絶えていなかったらしい。

――生地のガリシアで、現在フェスティバルをずっと続けておられるとか?
LUZ 最初の動機は、生まれ故郷に何らかの恩返しのプレゼントがしたいと思ったからなの。パコ(※彼女のマネージャーで、マラガ出身者)と音楽による行動を起こしたいと、単独でチャリティー・イベントを考えたんです。ガリシアのフェス開催地は、ほとんど農業と牧畜だけで生計を立てているような町。そんな隔絶した土地の人々とともに、音楽のチャリティー・イベントをやっていくことに意味がある。慈善団体への連帯を表明し、そこへ利益をもたらすことに主眼をおきました。今年(2016年)で5回目ですが、年々より大きな実りを上げてきているわ。
――生まれた土地の記憶をお持ちなんですか?
LUZ ええ、フェスティバルの思い出を通して、今も生まれ故郷を体感しているわ。
PACO フェスティバル会場の中に、彼女の生家があるんだ。
――えっ!? ほ〜〜すごい! 農場持ち??
PACO 大農場なんだ。
LUZ 1万5千人が毎日集まるようなところ……2011年からね。
PACO ほら、これが今年の写真だよ。(※と、スマホで牧歌的な会場風景を見せてくれる)
――わーぉ!!!
PACO トウモロコシ畑越しに、草原の客席と特設ステージ、キャンプ用のテントが見えるだろ? これが、屋敷の中の写真だ……
――まさか、大地主の娘さん?
LUZ 私の家系は1730年から続く、ガリシアのファミリーなんです。
――うっひゃーーっ!!
LUZ 今年の収益金は、この12月にポータブル浄水器を戦地に配る活動をしているNGOへ寄付します。
PACO 第1回は、スペイン国内の癌と闘う患者と家族の団体に寄付した。そう、毎年違う団体にね。
LUZ 難病患者の団体や、被災者支援、国境なき医師団へも寄付したわね。
――出演者も、国際的なメンバーが集うわけですね?
LUZ そう、友人であるジャクソン・ブラウンが今年出演してくれたし、スペイン人ではジャズからフラメンコ、ロック、プログレ、ポップと、あらゆるジャンルのミュージシャンが参加しているわ。フェスには4つのステージがあってね。本当にたくさんの経験を重ねたわ。アーティスト招聘に協賛金集め……より良い運営のため、自分たちでたくさんの仕事をこなさなければならないけれど。
――完全にルスさんご自身が、主催者として実務をやってらっしゃる?
LUZ だって、私は経験を積んだ大人の女性ですからね(笑)。うんと幼い頃から音楽と関わってきているし。人は失敗も経験するものだけれど……人生は短い! 死を迎えるのはあっという間よ。私は音楽を通して人々と関係を築いていく人間。人々が今どんな問題を抱え、何によって人々を満足させられるかを考えるわ。歌を通して人々に話しかけるのは、良いことだと思う。だから、何が現実かを知らなければならない……この小さな世界で、歌手はたくさんの異なる世界があることを知る必要がある。そうでなければ、私は人々に対して 「世の中に苦しみや悲しみ、問題があったときは、私のことを思って」(※「ピエンサ・エン・ミ」の一節)なんて歌えない! 真に注意を払わなければいけないのよ。
――素晴らしい志ですね。フェスの正式名称は?
LUZ Festival de la Luz(ルス=光のフェスティバル)。
――パーフェクト! 希望と喜びの光ということですね。
LUZ そのとおりよ。“知ることの光”でもある。子供たちが学ぶ機会もエリア内に設けていて、詩人や科学者のトーク……映画上映や芝居のテント小屋もあるわ。
PACO 食事コーナーやマーケットも会場内にあるんだよ。農産物が並べられ、ヤギなどの動物たちにも触れられる、いかにも田舎のフェスなんだ。

 ルス・カサルのオフィシャルサイトにフェスの詳細も載っているので、興味を持たれた方はぜひチェックを! 2016年9月9〜11日開催の第5回には、ジャクソン・ブラウン、ウィリー・ナイル、リフ・ラフらが出演。スピン・ドクターズのクリス・バロンも駆けつけたそうだ。スペイン勢では、フラメンコのホセ・メルセ、ペドロ・ゲーラ、ラウル・ロドリゲス、スサーナ・セイバネ、ロック界からも多数バンドが参加。
 取材後、「日本のオルケスタ・デ・ラ・ルスは、もちろん活動中よね?」と、ずっと名前にご縁を感じていたのだろう、密かな期待を込めてつぶやいた、ルス姐さんであった。

 ブルーノート東京公演の直前より、彼女は待望2年半ぶりのツアーを再開。4月26日のトゥールーズ公演を皮切りに、年内のスケジュールが発表されている。6月9日には2016年パリ録音、没後30周年記念アルバム『ルス・カサル、ダリダを歌う』がフランスでリリース予定という。

ブルーノート東京公演
posted by eLPop at 02:38 | 佐藤由美のGO!アデントロ