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映画「SIGO SIENDO(カチカニラクミ)」を巡る徒然 その3

2016.12.05

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◆その3 リマ/ムシカ・クリオーヤ編


 気がつけば前回「Sigo Siendo」の記事をアップしてから1年が経過してしまった。続きを、完結編を書こう書こうと思いながら、気がつけばこんな時期になってしまった。
 去年の秋、どうしても見たくて山形まで見に行った映画。そしてその後東京のセルバンテス文化センターにてもう一度視聴。この映画に流れる民草の生きる姿と、その生活と共にある音楽の有り様にさまざまなことを考え、そしてさまざまなことを学んだ。そして何より、ペルーという国の音楽の奥深さに改めて出会いなおした。この映画で取り上げられた人々、彼らの社会的な周縁性と彼らを取り巻く貧困と差別、抑圧と排除の構造の中で、それでも民衆音楽とともに生きてきた人々の姿とその音楽の豊かさは、人という存在が音楽を依代に、しなやかに、そして傷つきながら、変容させられながらもしたたかに生きていく、そんな後ろ姿であったように思う。
 そんな映画の最後を飾る舞台はリマだ。


 ペルーの首都リマ。広大な砂漠を埋め尽くす家々、車であふれた幹線道路、そしてごった返す人々。ここでは、ペルー最大の都市であり、あらゆる地域の人があつまる都市移民の町でもあるリマのもっとも古いバリオ(街区/下町)で、今もひっそりと息づいている沿岸民衆音楽ムシカ・クリオーヤとともに生きてきた人々が描かれる。
 ここで登場するリマのバリオは、おそらくバランコとラ・ビクトリアであろうか。バランコは、かのチャブーカ・グランダが愛したバリオであり、数多くのペーニャが並ぶムシカ・クリオーヤをもっとも身近に楽しめる地区でもある。そしてラ・ビクトリアはリマの旧市街の中ではもっとも治安が悪いという悪名を馳せているが、ムシカ・クリオーヤのゆりかごとして数多くの音楽家を輩出した地であり、特にアフロ系の影響力が強いバリオでもある。
 バリオの音楽家たちの多くは裕福ではない。皆何かしらの仕事をしながら音楽を心の友として日々を生きている。バランコの町並みをバックに登場するのはロサ・グスマン。代々音楽家一族の歌手である。でも彼女は語る。
「とにかく歌いたかった。お金を払ってでも歌いたかった。」
その熱い音楽への気持ちが民衆音楽家たちを突き動かすことによって担われてきたのだと気づかせてくれる言葉。
バリオの有名な音楽家であった父の思い出。そしてその周りで花開いた音楽。セレナーデが取り持った愛、ハラナなフィエスタに集まった文化人たちの饗宴。そうした子供時代からの記憶が彼女の音楽への大きな原動力となっている。
「食べることをやめられないと同じように、音楽なしには生きていけない。」
それがまさにバリオに生きる民衆音楽家たちの率直な音楽との共に生きてきた感覚なのであろう。こういった物言いはファッション的なイメージとして巷に氾濫してはいるが、一生その土地の音楽とともに人生を歩んできた彼らの言葉にそのような浮ついた軽薄さはみじんもない。
 そんなロサ・グスマンが歌った歌は、「トードス・ブエルベン」。セサル・ミロ作の郷愁に満ちた帰還の歌。後にサルサで歌われたことにより世界的に有名になったペルーのバルスである。バランコの酒場でセサル・バルデロンの爪弾くギターにのせて歌い始め、やがてシーンはペーニャ"ドン・ポルフィリオ"で彼女が歌うシーンへと転換していく。稀代のギタリストにしてベーシストであった故カルロス・ハイレや、チャブーカ・グランダのバックをつとめたギタリストとしても有名な故フェリックス・カサベルデ、そしてペルー・ネグロでも活躍した"バスケス・ファミリー"のカホン奏者マヌエル・バスケス・"マングェー"などそうそうたるメンバーが加わっての「トードス・ブエルベン」はまさに琴線をかき鳴らす素晴らしい演奏であった。(この曲についてはこちらを参照)
 ペーニャ"ドン・ポルフィリオ"についても話しておこう。数多くのペーニャが立ち並ぶバランコにおいて、このドン・ポルフィリオは必ずしも一般的なペーニャではない。タクシーの運転手に言ってもけっこう知らない人が多い、そんなペーニャである。にもかかわらず、ここはムシカ・クリオーヤとアフロペルー音楽にとって、決して無視できぬペーニャでもある。
 このペーニャの名前となっているドン・ポルフィリオとは、ポルフィリオ・バスケスを指している。60年代以降盛り上がったアフロペルー音楽の復興運動の中心となったニコメデス・サンタ・クルスの詩と音楽の師匠であった偉大な民衆芸術家だ。40年代末よりリマでフェステホを復活させるなどアフロペルー音楽の再構築のもっとも先陣を切った人物で、アフロペルー音楽を牽引してきたバスケス・ファミリーの長老でもあった。彼の息子にはカホン奏者としてもダンサーとしても有名であったアベラルド・バスケスや先年亡くなったペペ・バスケス、ギタリストとして活躍したビセンテ・バスケスなどそうそうたる音楽家が名を連ねている。また本作にも登場しているマヌエル・バスケス・"マングェー"はポルフィリオの孫である。そんなポルフィリオの名を冠したこの伝説のペーニャは、周りのペーニャがはけた後、音楽家たちが集まり自分たちのために音楽を演奏し、語り合う、そういう場所であったという。そのペーニャがさり気なく舞台として選ばれている、ということ、そのさり気なさがこの映画全編を通して見られる粋さなのであろう。それこそが粋を愛するリマっ子の監督の挟持なのではないだろうかとも勘ぐってしまう。

 さて、冒頭のトードス・ブエルベンだけで随分と長くなってしまった。この曲がペーニャの風景を描いていたとすれば、続く名曲「オラス・デ・アモール」はカジェホンで催されたフィエスタのハラナな情景が描かれているシーンである。案内人はラロ・イスキエルダ。彼もアフロペルー文化復興運動のまさに最前線を切り開いてきた伝説の演奏家の一人である。ニコメデス・サンタ・クルスのヘンテ・モレナやビクトリア・サンタ・クルスのテアトロ・イ・ダンサス・ネグラス・デル・ペルーに参加し、ペルー・ネグロの立ち上げメンバーのひとりとして活躍した、まさに歴史の生き証人とも言える音楽家の一人である。
 そんな彼がある古いバリオを散策し、古い友人たちと久しぶりに再会するところから物語は始まる。古いバリオのくたびれた街角から門をくぐると、細いカジェホン(集合住宅)に入る。そこで催されるフィエスタの光景がこのシーンのメインである。そのシーンに重なるように音楽家たちによってバリオ音楽の黄金時代が語られる。貧しくともフィエスタを楽しみ、音楽とともに生きた半生である。フィエスタのシーンでは、バリオ・ラ・ビクトリアで活躍したアフロペルーのパーカッション奏者で、数多くの名曲も生み出しているホセ・ビジャロボスの娘ビクトリア・ビジャロボスの歌う「オラス・デ・アモール」にスポットがあたる。この曲もバリオの音楽家フェリペ・ピングロ・アルバの遺した名曲だ。ピングロは、20世紀初頭に活躍した音楽家で、ムシカ・クリオーヤ最高の作曲家の一人とされるギタリストで、彼の作品には今なお色褪せることなく愛されている名曲が数多くある。

 バリオの「フィエスタのための音楽」としてのムシカ・クリオーヤは、まさにムシカ・クリオーヤの真髄であり、この音楽がフィエスタのために生まれたという意味でももっとも重要なシーンでありながら、長らく忘れられてきた音楽シーンでもあった。リマの伝統的街区の閉じられた場でのみひっそりと続けられ、華やかな音楽産業としてのムシカ・クリオーヤのスターたちとは全く異なるプライベートな音楽空間で愛されてきたもう一つのムシカ・クリオーヤ世界である。それが2000年代に入ってにわかに再び注目が集まるようになり、数多くのバリオの音楽家たちが新たに「発掘」され、録音されるある種のブームが訪れた。「Sigo siendo」のこのパートは、その流れを受けたシーンであると言える。古き良きバリオのフィエスタの情景としてのムシカ・クリオーヤを再評価しようという流れの中で生み出された名シーンなのである。

 これらペーニャとバリオのフィエスタという空間で愛されてきたムシカ・クリオーヤを支えてきた重要な要素の一つは、音楽家一族が持つ伝統であった。かつてはバリオごとに、家ごとに異なる流儀があったとされ、フィエスタがあるとその技を盗むためによそのバリオに偵察に行ったりしたものだったという。リマっ子たちが守ってきたその伝統は、忘れられたバリオの片隅に、そして商業化されたショーミュージックの中にそっと忍び込み、その心意気を今に伝えているのである。

 さらに、この映画には監督がどうしても取り上げたかった歌手が登場している。リマ生まれ、スペイン育ちの歌手、サラ・バンである。監督自身もリマ生まれで映画の勉強のためにスペインに渡り、以後スペインを拠点に映画製作の活動を続けていることもあってか、このサラ・バンのファンであった彼は、彼女にどうしても出演して欲しかったのだという。
 移民たちが遠くはなれた土地で祖国、あるいは故郷の音楽を思い、その伝統を紡ぎ、伝えていこうとすることもまた、この映画に潜まされた物語である。劇中にはサラ・バンがスペインで活躍する歌手であることなどは一言も出てこない。故に、知っている人だけがその物語に気づき、その実践の意味と向き合うことが出来る。
 90年代のペルーはテロとハイパーインフレという混迷の時代であった。半ば脱出するかのようにスペインへと母に連れられて渡ったサラ・バンは、当時12歳だったという。新天地で彼女がはじめに始めた音楽活動はヘビメタであった。そこからシンガーソングライターとして成功していった。
 ペルーを出て、国外で活躍している音楽家はたくさんいる。アメリカ、メキシコ、スペイン、そしてもちろん日本にも。そうした音楽家やそれを志す人たちに、サラ・バンの出演は無言のメッセージを発している。また国外へ出てはいなくとも、首都リマという異郷に出てきて音楽活動を続けるなど、故郷を離れて生きる道を選択した者にとってもそのメッセージは十分に意味をもつものであるだろう。
 ちなみに、彼女が歌っている「カルド・オ・セニサ(アザミか灰か)」は、チリ・フォルクローレの母といわれるビオレタ・パラと若きフランス人音楽家ヒルベルト・ファブレの恋に捧げられたチャブーカ・グランダによる名曲である。


そしてチャブーカゆかりの曲と人物がもう一人、この映画には登場している。今最も有名なアフロペルー歌手の一人でもあるスサナ・バカだ。歌われる曲は彼女の代表曲であり、彼女を有名にするきっかけともなった作品「マリア・ランドー」だ。社会の底辺で、夜明けから夜中まで働いて、それでも日々を生き残ることに精一杯な日々を過ごしている無数の人々のことを歌った名曲を、フェリックス・カサベルデのギター、カルロス・ハイレのベース、そしてマヌエル・バスケス・"マングェー"のカホンにラロ・イスキエルダのコンガと超がつく豪華なメンバーで聴くことが出来る。また、リマの旧市街の夜明けの風景と街路で歌う姿が非常に印象的なシーンでもある。


 そしてクリオーヤ・パートを締めくくる最後の案内人は故カルロス・ハイレだ。彼はこの映画の音楽ディレクターでもあり、エンディングの重厚な中部アンデスのオルケスタ編成で演奏されるムリーサ(パサカジェの一種)も彼の作曲である。そのことだけでもいかに彼が広い音楽世界を生きてきた人か、ということがにじみ出る。彼ほど素晴らしいギタリストはまたといないとニコメデス・サンタ・クルスが語ったまさに稀代の音楽家でありながら、彼が亡くなった時、自分のお葬式を出すお金すらなかったと監督はインタビューの中で語っていた。最後まで市井の音楽家で在り続けた人であった。


 監督は、この映画を作る出発点は、大好きな音楽と音楽家を取り上げた映画を撮ってみたかったということだった、と述べていた。そして、コルクエラ監督が愛した音楽の多くは、ショー音楽の世界ではなく、市井の中で息づく音楽だった。そのことを突き詰めていく中で、この「Sigo siendo (カチカニラクミ)」が生まれることになったのだろう。
 彼らが依って立つ伝統というものが、大きく変わらざるをえない状況下にある今、コミュニティはもはや維持が困難となり、内外からの変化への圧力は、これまで営んできた彼らの生のあり方を否応なく変えていこうとしている。そんな中で、そのコミュニティと共にあり続けた音楽も今、大きな変化の岐路に立たされている。新しいものがどんどんと生み出され、また、後継者を失った音楽は廃れ、新たなシステムのもとで伝統は全く異なる文脈へと置き換えられようとしている。
 しかし、それでも我々は生きていくのだ。たとえどれほど姿が変わってしまおうとも、生きていくのだ、という決意表明が、このカチカニラクミという言葉には込められている。この映画に出演している民衆音楽の伝説的ヒーローたちの幾人かはすでにこの世界から旅立ってしまった。しかし、その思いはこの映画の中で描かれたように、伝わり、受け継がれ、そしてしなやかに変化していくのだ。そうやって生き様を写す鏡として、民衆音楽はつねに人々の傍らにあり続ける。そういう音楽の営みを大切にしている人々の姿を描いた、この映画は、そういう映画なのである。

posted by eLPop at 14:51 | 水口良樹のペルー四方山がたり