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ソノーラ・ポンセーニャの軌跡

2016.07.12

プエルトリコを代表するサルサの偉大なオルケスタの一つ「ソノーラ・ポンセーニャ」
60年以上の歴史を持ち、そのスイングするリズムとジャズの香りがする精緻なアレンジやサウンドなど、聴いてよし、踊ってよし、演ってもよしの素晴らしいオルケスタです。

ちょうど7/18にクロコダイルでコンフント・ソブリオとマンテキージャ・ペロが、ポンセーニャへのオマージュ!のライブをするとのこと。これは貴重!ということで簡単にポンセーニャの軌跡をご紹介します。

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◆結成
ポンセーニャを結成したエンリケ・"キケ"・ルカ・カラバージョは1912年、プエルトリコの南部、ポンセの西のコーヒーで有名なヤウコの町で生まれた。

1944年、キケ"は地元ポンセでグループを結成。トレス、ギター(キケ)、コンガ、ボンゴと歌手の5人で、"コンフント・インテルナショナル(Conjunto Internacional"という名前でスタートしたのだった。

10年後、ダンス・パーティーや週末の仕事に疲れを感じ、家族のためにもっと金になる仕事をと、一旦活動を休止したがミュージシャンとしての血は収まらず、1954年2月、より力強いサウンドを持ったグループを大きな編成で再結成。"ソノーラ・ポンセーニャ"の誕生だ。

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レパートリーはアルセニオ・ロドリゲスやソノーラ・マタンセーラ、コンフント・カシーノ、ロベルト・ファス&エスピなどのナンバーを取り入れたもの。当時の島のサンファンを中心とした北側では、何といってもコルティーホのバンドが人気で、ポーカルはイスマエル・リベラ、そしてピアノは現在のエル・グラン・コンボのリーダー、ラファエル・イティエールがぶいぶい言わせていた頃だ。

ポンセーニャのデビューSP盤はヒットしアレンジも素晴らしいものだったが、決して奇をてらったものではなく、「ソノーラ」の編成で「コンフント」的なサウンドを狙ったものだった。アルセニオの影響はあるにしても、やはり時代の「コンフント」的サウンドが前に出た音と言えるだろう。このデビュー時代は、NYのエディ・パルミエリのラ・ペルフェクタと比べてみると、パルミエリがトロンボーンを真ん中に置いた点を除けは、かなりの共通性が感じられる。「オルケスタ」や「ソノーラ」「チャランガ」などと一線を画す「コンフント」の当時の斬新さが分かる気がする。

◆そのスタイル

ポンセーニャのスタイルは大きく3期に分けられる。

初期は1946年のキケによってスタートし、息子の天才少年パポ・ルカがピアニストとして加わり、当時のルース・フェルナンデスの人気TV番組でデビューした頃の時代。アルセニオやマタンセーラをベースにしたスタイル。

中期はジェリー・マスッチがNY公演したポンセーニャを聴き、インカ(Inca)レーベルを買収しファニア傘下に収めた60年代後半からファニア・レーベルの一員となった70年代。彼らの人気が一気にラテン圏にも広がった時代だ。いわゆる「サルサ」が形になって定着してきた時代。

そしてパポのジャズへのアプローチがポンセーニャ・サウンドを完成させた1980年代から現在までの時代だ。70年代後期から80年代は「クロスオーバー」「フュージョン」も出てきた時代だが、そんな音を耳に入れながらカリブのリズムとサウンドを軸にスタイルが感性した時代。

こういった初期のアルセニオの先進的なソン・モントゥーノやマタンセーラの歌謡性、中期のコンフントの感覚からNYとPR汎カリブ性の絶妙なバランスの中で出来あがってきたサルサの感覚や時代としてのエレピの導入、そして後期のスイング感とジャズ・テイストや絶妙なアレンジという様々な要素と魅力が
重なり合う華やかなサウンド、加えて歴代の色々な歌手がもつ個性がこのポンセーニャの強力な魅力だ。

◆少年パポ・ルッカの加入

キケには3人子供がいるが真ん中の長男、パポは1946年にポンセで生まれた。
5歳の頃からクラーベがとても達者で、キケはそれを聴くのが楽しみだったという。ある日の事、キケはパポをバンドの練習につれて行った。まだコンガの後ろに座ると隠れてしまうような背丈だったが、ティト・プエンテのマンボ"ラン・カン・カン"を叩いたコンガがあまりにバッチリ決まっていたのでメンバーも大喝采だった。

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パポの才能に気付いたキケは、友人の音楽教師フランシスコ・アルバラードの口添えでポンセの音楽学校(エスクエラ・リブレ・デ・ムシカ・ファン・モレル・カンポス)に入学させる事とし、パポは学校でソルフェージュやクラリネットを学び始めた。その中で何といっても才能を見せたのはピアノだった。毎週金曜日の文化活動の時間、同い年のエクトル・ラボーが歌い、ホセ・フェブレスがトランペット、パポがピアノを弾くというのがお決まりだったという。

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1957年11月、島の北側、サンファンの西隣りのバヤモンのクラブがパポのポンセーニャでのステージ・デビューだった。マチート楽団の代演だったが満員のお客。12歳のパポは用意されたピアノの前に座るとペダルに足が届かったが、ペダルに継ぎ足しを付けて長くして切り抜ける。未成年だったパポは演奏時間にしか店にいる事は許されず、演奏が終わるとバンドのバスにあわてて戻るという活動のスタートだった。こうして日中は音楽の勉強をし、夜はそれをバンドで実践するという生活が始まったのだった。

そして同じ年、ルース・フェルナンデスの人気番組でTVデビューもあった。気後れするパポをキケはチャンスを逃すなと励まし、同じくピアノ・ペダルに継ぎ足しを付け見事な演奏をを行ったという。


この年ポンセーニャは3枚のSP盤を録音したがそのうち2枚はパポが参加。一枚はA面がソノーラ・マタンセーラのナンバー"Smoke Mambo /Humo"で歌い手はセリオ・ゴンサレス、この曲がパポのソロが聴ける最初の録音となる。B面はボレロの"Cerca De Tu Corazón"で ポンセーニャの歌手Charlie Martínez。

そしてもう1枚はボレロを歌わせたら最高のフェリペ・ロドリゲスとペドロ・オルティス・ダビラ"ダビリータ"がボーカルのボレロ"Noche de Locura"だった。

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1960年代、パポは徐々にポンセーニャの看板となってゆく。ライブの主催者はパポの参加を依頼し、観客もパポが子供だから、というよりその才能を聴きに来ていた。60年代中盤からこの若きパポは父キケの自慢の種であると同時にポンセという街の自慢の種でもあったという。1960年14歳のパポは、グループと共に初めてNYへの演奏旅行に加わり"Centro Manhattan"、"Teatro Puerto Rico"といった、NYのラティーノにはお馴染みの場所で演奏する。またこの年、パポはConservatorio de Música de Puerto Ricoに進学し、引き続き作編曲やピアノを学んでゆく。


◆インカ・レーベルとの契約、そしてファニアへ


そんな中、1968年キケはグループの音楽監督を22歳のパポに譲る。いよいよパポが思う音を作って行く形となった。時代はLPレコード全盛の時代に入っていた頃。インカ・レーベルの代表のペドロ・パエスはソノーラ・ポンセーニャに出会い契約を申し出て、キケもそれを受ける。そしてメンバーのオリジナルやアルセニオの曲を含む最初のLPの作品“Hacheros Pa’ Un Palo”がリリースとなった。編曲は若きパポ。



この新譜とタイトル曲はNYのラジオ曲を通じて大ヒットとなった。翌'69年、インカでの2枚目“Fuego en el 23”がリリース。メンバーはキケ、パポ、そして歌い手はルイジ・テクシドールティト・ゴメスの黄金のコンビ、タト・サンタエージャ(b)、エドガルド・モラーレス(timb)、フェリックス・トレス(congas)、フランシスコ・アルバラード(bongos)、カルメロ・リベラ(tp)、ホセ・ロドリゲス(tp)、デルフィン・ペレス(tp)、ラモン・ロドリゲス(tp)という鉄壁の布陣だった。

タイトル曲の“Hacheros Pa’ Un Palo”や"Se formo la rumba"、"Amor verdadero" や ボレロの"Paño de Lágrimas"など多くのヒットを輩出。

そして翌年の作品" Fuego en el 23"は前作をしのぐヒットに。アルセニオの古い曲に新しい息を吹き込んだ曲は、サルサという新しい音を明らかにしたとも言えるもので、ラジオでも大ヒットした。

パポはアルセニオ・ロドリゲスのピアニストでアレンジャーのリリ・マルティネスのスタイルに影響を受けていたが、徐々に自分のスタイルを作りつつグループの中心となってゆく。一方、ファニアは1970年初にポンセーニャの所属していたインカ・レーベルを買収する。ファニア・レーベルでの最初の作品“Navidad Criolla”はプエルトリコのクリスマス・ソング、アギナルドやパランダがテーマで、そこではまだ個性は明確ではないが、続いての3作、“Prende el Fogón”、“Sonora Ponceña”、“Sabor Sureño”はアルセニオの影響をも濃く出つつ、パルミエリのスタイルとも共通のものが見える。




この70年代前半は作品、Algo de locura (1971)、Navidad criolla (1971)、Desde Puerto Rico a Nueva York (1972)、Sonora Ponceña (1972)、Sabor Sureño (1973)はいずれもヒット量産。
"Algo de locura"収録のティテ・クレ・アロンソの作曲のPa' los ponceñosやAcere ko 、Cenizas 、" Desde Puerto Rico a Nueva York "のCon maña sí, Tumba la caña jibarito, Oh Mayi 、" Navidad criolla "のUn jíbaro en New Yorkなどがヒットしたが、例えば" Desde Puerto Rico a Nueva York "収録のティト・ゴメスが歌う「Prende el fogón」のように、古いキューバのソンを新しいサウンド「サルサ」として聴かせるポンセーニャの音は大きな支持を受けたのだった。



しかし1974年、ボーカルのティト・ゴメスは7年間/6枚のアルバムを残してポンセーニャを脱退。またホセ・ロドリゲス(tp)、ミッキー・オルティス、ティト・バレンティン、ウンベルト・ゴディノウ、エフライン・エルナンデス、フランシスコ・アルバラードと共にラ・テリフィカを結成し、ポンセーニャは大きな痛手を受ける。



ティトに代わって加入したのはポンセの東、グァヤマ出身の植字工だったミゲル・オルティスだ。この甘く特徴のある歌い方はパポに新たなインスピレーションを与え、1984年、肺の不調で脱退するまで、多くのヒットを飛ばしポンセーニャに無くてはならない歌手だった。例えば自身の作曲によるJuan Bayona、ロベルト・アングレロ作曲のLa vida te doy、若きエドガルド・モラレスの素晴らしいティンバレスが聴けるNo muera el son、La pollera colora、El yeyey、Jubileo 20、Ahora me rio yo、Vas por ahi、Luz negra、Agua a la candelaやPensandolo bienなどかなりの数のヒットを飛ばしたのだった。

'75年以降、アルバム“Tiene Pimienta”からパポは違ったスタイルへと変化する。エレピのサウンドだ。また次作の“Conquista Musical”からはプロデューサーが変わった事も大きな要素だ。それまでラリー・ハーロウからルイ・ラミレスを迎えパポと共同プロデュースとなる。

ルイのアドバイスによりポンセーニャは中南米・カリブのツアーを行い、レコーディングに際してルイス・ペリーコ・オルティスを音楽監督に迎えたり、取り上げる曲も、例えばウイルソン・チョペレナのクンビアの定番“La Pollera Colorá”やプエルトリコのボンバ、ドミニカのメレンゲ、ボレロやフィーリン、ワワンコやソンと大きく広がった。

'70年代の終わりにはセリア・クルースとの作品“La Ceiba”をリリースしたが、それはこの変化の象徴のような作品だ。



そんな中、1977年ティンバレスのEdgardo Moralesが7年/7枚の参加作品を残して脱退、エル・グラン・コンボに参加したが、グループの勢いは止まらない。この年、テリフィカを脱退したヨランダ・リベラがボーカルとして加わる。この時期の歌い手の中心はミゲル・オルティスとジョランダ・リベラだが、この個性的な2人のスタイルには当初異論もでたものの、結局見事な成功となった。


◆ポンセーニャ・サウンドの完成


そして1980年、ポンセーニャは傑作をリリースする。“New Heights”とタイトルのついたこの作品はそのロン・レヴィンによるイラストのジャケットの斬新さと共に新しい音に満ちていた。この作品以降、ポンセーニャはジャケットにこのイラストレーターを起用し、またアルバム・タイトルも英語にしたが、世界に大きくファンを広げる一助になっている。



80年代中盤には、ポンセーニャはサルサのトップバンドとして不動の人気を博すようになった。一方1978年、ルイジ・テクシドールが脱退しボビー・バレンティンのオルケスタへ移籍した6年後の1984年にヨランダ・リベラもと、看板ボーカルの脱退が続いたが、それをカバーしたのが新加入の無名の新人歌手トニート・レデーToñito Ledéだった。彼は在籍の2年弱の間ポップ・スターのような大人気だった。

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同時にこの時期ポンセーニャが取り入れた新機軸は、最新のキューバの音とラテン・ジャズだ。まずキューバの新しい音としてはアダルベルト・アルバレスとパブロ・ミラネスだ。アダルベルトはソン14のリーダーで、パポは彼の作品から“Soledad”と“Cuestiones”の2曲をヒットさせている。パブロ・ミラネスはヌエバ・トローバを代表する歌手/作曲家だがニコラス・ギジェンの詩をベースにした“Canción”と“Sigo Pensando en Tí”がヒットした。ラテン。ジャズの面からは、トランペット中心の「ソノーラ」の編成から、サックスなどを加えた新しい編成をベースに新しいサウンドへのチャレンジを開始した。アレンジもそれに合わせジャズ色が強まりサウンドも華やかさを増した。チック・コリアのナンバーやラテン・ジャズ・スタンダードも取り入れている。



しかしこの盛り上がりの中、ポンセーニャは1986年トニート・レデーを交通事故で失ってしまう。

レデーが亡くなった後、ポンセーニャにとってはそれを克服する辛い時期だった。85年にミゲル・オルティスが引退したあとであったが、新しい歌い手としてピッチー・ペレス、マニー・マニックス、ダニー・ダビラなどがフロントに立った。



90年代に入り、92年までルイシート・カリオンが歌い手として加入。 A comer lechón や Yaréと言ったヒットを飛ばした。

この時期はパポがポンセに新しいレコーディング・スタジオ”ピアニッシモ”を建てた時期でもある。パポの息子のエンリケ・ルッカがエンジニアを務めている。

1991年、16年/15枚のアルバムに参加したVicente "Pequeño Johnny" Rivero(congas)が脱退。ペケーニョ・ジョニーはその後エディ・パルミエリの楽団で何度も来日しているのでおなじみの人も多いだろう。

この90年代は Into the 90's (1990), Merry Christmas (1991), Guerreando (1992), Birthday party (1993), Soul of Puerto Rico (1993), Apretando (1995), On target (1998),といったアルバムがリリースされ、Yaré, Quiero seguir siendo tu amante, Tan bueno que era, Busco en sueños, Fea, No vale la pena, y Como amantesなどがヒット。筆者が毎週のように彼らを聴きに行っていた時代だが、素晴らしいスイング感とパポのソロにいつもノックアウトされていた。



40枚もの作品の中で、パポとキケのカリブ音楽/サルサへの貢献の集大成は、2000年2月19日のプエルトリコのアンフィテアトロ・ティト・プエンテで行われた45周年記念のライブ盤だろう。“Boranda”, “Timbalero”, “Fuego en el 23”, “Ahora Sí”と言ったヒット曲もすばらしい。

以後もポンセーニャはプエルトリコからNYをはじめとする全米各地や中南米、欧州と世界を巡り2004年に50周年を祝い、また自らのレーベルPianissimoから新譜“Back to the Road”もリリースしている。“Back to the Road”では、過去のキャリアにとらわれることなく、新しい挑戦を盛り込みCaprichosa, El Alacrán, Con Tres Tambores Batáといったナンバーが素晴らしい。

同年2月のJubileo de Oro賞の受賞コンサートでは12,000人の観衆を集め、また同月のプエルトリコ上院議会での表彰、翌月サルサ国民の日“Día Nacional de la Salsa”でのオマージュ、ポンセ市よりの表彰、9月にはロベルト・ロエナのアポロサウンド、リッチー・レイとボビー・クルースと並んでポンセーニャもプエルトリコの新設された大コンサート会場のEl Coliseo José Miguel Agrelotのこけら落としなど、その功績をたたえるイベントが続いている。

最近のリリースこそ少なくなったが、プエルトリコではコンスタントにライブも行っている。
キケも100歳を超えて健在だ。パポも一時体調を崩したが、今は元気。これからも健康で活躍して欲しい。
posted by eLPop at 01:13 | 伊藤嘉章のカリブ熱中症