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「<エル・ポップ>トークライブ〜キューバ、プエルトリコ、ニューヨーク 黄金の三角関係〜 Vol.2」(その1)

2016.05.30

 去る2016年4月23日(土)、新宿のバー「Con Ton Ton」にて開催しました、
「<エル・ポップ>トークライブ〜キューバ、プエルトリコ、ニューヨーク 黄金の三角関係〜 Vol.2」。
テーマは「60年代」です! 当日のトークをここに採録いたします。

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岡本(以下O) 「キューバ〜プエルトリコ〜ニューヨーク 黄金の三角関係」、2回目は何やりましょうかということで、やっぱり60年代なんじゃないですかねぇ……と。

 ま、ニューヨークに関しては、何となくですけども、知られているというか把握出来てるところはあると思うんですけども、プエルトリコ、あとは特にキューバに関しては全然分からないことだらけ。今日はその辺の60年代を中心に聴いてみようかなと思います。

「キューバ〜プエルトリコ〜ニューヨーク 黄金の三角関係」ということで、1回目にも最初に、キューバ音楽に対する想いをちょっと語ったんですけども、キューバ音楽っていうと、イラストレーターの河村要助さん……僕の師匠っていうか、皆にとっても師匠だと思うんですが……で、思い出すことがあるんです。

 あるとき、新宿のライブハウスみたいなところのトークショウで、ニューヨーク・ラテンについて喋って下さいと河村さんが呼ばれたんですが、「心細いから一緒に来て」と言われて(笑)ついて行ったんです。

 その時にそこのマスターが……ちょうど河村さんと同じくらいの歳の方なんですけど……“本物のラテン音楽”っていう言葉を使ったんですよね。そしたら河村さんが激怒しまして(笑)。要は、キューバはそうだけどニューヨークっていうのは本物じゃない、みたいな。そういういい方が、やっぱりありましたよね、昔ね。いまもまだ何となくそういう雰囲気があるような気がしますけど。で、河村さんは、ニューヨークにちゃんとラティーノがいて、そこで音楽をやっている、その音楽をなんで本物じゃないって言うんだ、キューバだったら本物なのかって、ものすごい勢いで怒ったことがあって。それはすごく良く分かりますよね。

高橋(以下T) そのマスターは、本物はやっぱりキューバ、って感じだったんですか?

O というようなニュアンスですね。ラテンについてはそんなに詳しくないと思うんですけど、当然音楽好きの方で……。そういうライブハウスもやってる人ですから、ジャズとか色々聴いてきた人だと思うんですけども。でもやっぱり、ラテンっていうか、サルサっていうのは、キューバ音楽から出てきたものじゃないの?っていうところが、一般的なイメージとしてあるんじゃないですか?

 河村さんは、そうじゃない、と。河村さんがよく言ってたのは、今日かかるかもしれないですけど、コルティーホのアルバム『エン・ニューヨーク』のことですよね。なんでプエルトリコ人が、寒いニューヨークの街角で、ジャケットを撮影しているのか?っていう。そこにサルサの本質がある、みたいなね。そういうところを、僕なんかは、いつも心の中に留めているというところがあるんですけど、どうですか?高橋くん。

cortijo_en_NY.jpg

T うん、そうですよね、だから、この連続トーク企画も、キューバとプエルトリコとニューヨークっていう、3か所の関係を語ろうと始めたわけで、これを広げていけばもっともっと広がって、コロンビアであり、ベネズエラであり、ペルーであり。それこそブラジル、アルゼンチンにまで繋がっていくワケですよね。その中でそれぞれの地域で面白い、興味深いものがあるわけだけど、それは、それぞれの関係性から出て来たものも多いはずですよね。また、サルサに関して言うと、この間も言ったと思うけど、最近よく「キューバっていうとサルサですよねぇ」って言われるんだけど、いつも「いや、違います」っていってます。(笑)

伊藤(以下I) 激怒してですか?(笑)

T まあ、激怒はね(笑)まだあの、器が大きくないんで(笑)激怒は全くできないんですけどね〜。

(会場笑)

T 仕事関係でも、「ちょっとキューバ音楽を紹介する文章を書いたんで、見てもらえますか?」って言われて、実は昨日もあったんですけど、やっぱり“キューバのサルサ”っていう風になってて、そこはちょっと訂正してもらいました。いわゆる“キューバ流のサルサ”みたいな感じならいいんですけど。

O それなら分かりますよね。

I うん、それならね。

T 元々サルサがあって、キューバで、サルサに刺激されて出てきたのが、キューバン・サルサみたいな感じじゃないかと考えているので、僕は商売でちょっとした書き物するときも、必ず“キューバン・サルサ”って書いてるんですよね。

 だからその辺のこととか考えると、今回はキューバの60年代って、国内のことだけしかピックアップできなかったんですけど、本当は、キューバって小っちゃい国だから、それに対してミュージシャンが多すぎるっていうのが昔からあって、昔から中南米、北米、いわゆるアメリカスに活動の場を求めていたと。そこに1959年のキューバ革命なんかでその現象に拍車がかかり、61年に米国との国交断絶っていう歴史的なこともあった。キューバを出た人たちもいろいろな国で活動を続けていたんだから、本当はその辺までフォローしなくちゃいけないんだろうなと思うわけです。ちょっと今回はそこまで拾えなかったんだけど……。というのもキューバ国内もやっぱり、キューバ革命後色んな意味で変わったところがあって、激動の60年代だったわけで、国内の音楽状況だけでもいろいろなことがおきているので、今回はそこに絞らざるを得なかったんです。

 でも、そういう歴史も踏まえて見てみると、その…“本物のラテン”とかという発想にはなんないですよね。

O やっぱりイメージっていうのがねぇ。すごく大きいんですよね。

T そうなんですよね。それこそ、オールド・ラテンっていうと、どうしても、あのトロピカル系の、ティピカルなものっていうイメージで、それはキューバ!って、どうしてもありましたからねぇ。

O 伊藤さんは?

I あの、“本物のラテン”っていう話でいえば、僕、某・大家の方のトークショウみたいなのに行った時、ニューヨーク・ラテンかけたり、キューバンかけたりされてたんですけど、その方がですね「いやぁ〜、やっぱりキューバ深いよね、ニューヨークに比べて!」って言ったんですよね(笑)

(会場笑)

O 河村さんいたら大変ですよ!(笑)

I 僕もね、激怒して、この方の本を家に帰って踏んだり(笑)。こういう事が起こるのは、昔はやっぱりディストリビューションというか、音源がキューバ、っていうとこが多かったことと、それから、プエルトリコにせよ、コロンビア、ベネズエラにせよ、伝わってこなかった。特にプエルトリコなんか、国っていう単位じゃないので、紹介されづらい。

 だけど今は、YouTubeはあるし、インターネットの時代なんで、その辺はもっとフラットにいくらでも情報入ってきて、各々のところで各々のラテンがある、ということが分かると思うので、そういう観点で見て行かなきゃならないかな、という風には思います。

O 60年代ということで、資料を……簡単に年表と、後は、かける候補曲を載せたんですけど、どっからいきますかね? 高橋くん、これ、何年?

T これはね、1953年。一番最初のやつ。

O じゃあ、それから行きましょう。

T  1960年よりだいぶ前の1953年ですけど、このときにチャチャチャが生まれて。
キューバって、60年代の前から、いわゆる新しいリズムとか、新しいスタイルがどんどん出てきて、ミュージシャンたちはそれで競い合っていたんですよね。で、僕の考えだと、チャチャチャがその先駆けだったんじゃないかと思ってて。で、まあ、そのチャチャチャの第1号曲ってことで。「シルバー・スター」という曲ですね。

【PLAY♪ Silver Star / Orquesta America】


T オルケスタ・アメリカで「シルバー・スター」。
 ご存知の方も多いと思いますけど、チャチャチャっていうのはエンリケ・ホリンが作った、というか発明した音楽なんですよね。で、世界中に広がって、それこそ中華圏とかアラブ圏とかでも、チャチャチャの曲を作った。一時期すごく流行って、今でもこのリズムを使った曲が時々出てきますけど、それの第1号がこの曲なんです。発明した人がはっきりしているっていうことが、この時代以降の一つの特徴だと思うんですけども、エンリケ・ホリンが……後々自分のグループを設立するんですけども……その前にオルケスタ・アメリカに在籍した時に作った曲ですね。

 よく、エンリケ・ホリンの1号曲っていうのは「ラ・エンガニャドーラ(嘘つき女)」って言われるんですけど、その曲と、今聴いて頂いた「シルバー・スター」がA・B面で、こっちがA面だったらしいです。

 両方とも最初チャチャチャって表記はなかったらしいんですけど、今聴いて頂いたように後の方で♪チャチャチャ、チャチャチャ……って歌ってるじゃないですか。それが流行って皆で「チャチャチャ」って言うように、チャチャチャのスタイルの曲、みたいなことになったらしいですね。だから元々は歌付きのダンソン。前半はダンソンな感じで、後半、歌が入ってもっと軽い感じになって行くっていう構成ですね。

 それまでキューバ音楽は、ソンが全盛だった時代以降、ずーっとソンの枝分かれ/ヴァリエーションで色んなことをやってた。それがここにきて、ちょっと違うリズム感のスタイルが出てきて大人気になった。で、これがすごい勢いで世界中に広まっていったんで、この後、色々な人が色々なニュー・リズムっていうのを出してくるようになったんじゃないかな、と思うんです。ニュー・リズム・ブームの元が、チャチャチャかなぁって感じがします。

O 「ラ・エンガニャドーラ」っていうのも、オルケスタ・アメリカなんでしたっけ?

T そう。元々オルケスタ・アメリカ。「シルバー・スター」のB面。SP盤だったと思うんですけど、78回転のね。

O この当時、世界的流行としては、やっぱりマンボじゃないですか。でも、それじゃなくて、チャランガ楽団(註:ヴァイオリンとフルートを擁した楽団のこと)で、ということだったんですね?

T ニューヨークとかではマンボとかが流行ってて、まぁ、キューバでもマンボも少しは演奏されていたんだけど、よく言うのが、「キューバ革命はチャチャチャのリズムと共にやって来た」っていうこと。キューバでは「チャチャチャ」が革命前から大人気で、さっき岡本さんが言ったチャランガがね、皆好きなんですよ。で、特にアフリカ系の人たちが好きだっていう、僕たちにはなかなか理解できない感覚なんですけど。この何か、弦楽器のノリ、大きいノリみたいなのが好きで、で、革命前にアフリカ系の人とかが好きなバンドっていうと、ファハルドとそれから、オルケスタ…

O アラゴン?

T アラゴンも人気だったんですけど、もっと人気だったのが、オルケスタ・メロディアス・デル・クアレンタとか、スブリメ、その辺が凄い人気だったみたい。パーカッションとかを前面に出したのがたぶん聴かれてたんだろうなぁと思うんだけど、アフリカ系の人たちには、こういうチャランガ・バンドがやっぱり一番人気だったみたいですよね。

O チャランガっていうとね、やっぱりなんかこう優雅なイメージがあるじゃないですか。だけど先日、森村献さんが蒲田でやった「キューバンファンタジー」、(オルケスタ・デ・ラ・ルスの)NORAさんも出たイベントですが、その時に、弦楽四重奏を入れてチャランガをやったんです。もう、素晴らしいっていうよりも、こんなファンキーな音楽なのか!っていう驚きですよね。ヴァイオリンがひとり入ったりすることあるけれども、なんかこう、弦のリフでぐいぐい来る感じって、実体験した人はあまりいないんじゃないかなぁと、改めて思って。

キューバンファンタジー.jpg

T そうなんですよ。今でも、人気あるバンドって、例えばロス・バン・バンにはヴァイオリン3・4丁入ってるし、アラゴンは昔から人気あって、あと、オルケスタ・レベ。レベも一時期すごく人気あったんだけど、やっぱりヴァイオリン3・4丁入っている。ストリングスが入って、そのストリングスで大きいノリを出す、っていうのがやっぱり好きだったみたいですよね。

O ニューヨークだと、チャランガ楽団じゃなくて、オルケスタでチャチャチャをやりましたよね。やっぱり、ヴァイオリン奏者があんまりいなかったっていうことなんですかね?

I アラゴンがプエルトリコ来た時に、対バンがプエルトリコ・オール・スターズで、僕、リハとか行ってたんですが、その時にアンディ・モンタニェスとかが聴き惚れてんですよね。「こりゃあ、プエルトリコにはないよね〜」って。「やっぱり弦が集まんないよ、プエルトリコじゃあ」って言ってたんですけど。なので、キューバにはその弦楽器が、たくさんいたんじゃないですかねぇ。ニューヨークでもやっぱり、チャランガ・ブームの時、随分プエルトリコから持ってったっていう話がありますんで。

T なるほどねぇ。確かにやっぱりキューバにはチャランガっていう伝統があるから、ダンソンをチャランガで演るっていう(スタイルがあって)。革命後だと、音楽教育は国が支えるようになったから、クラシックとかは必ず勉強する。

 でもそうか……、キューバは昔から、まあキューバだけじゃないと思いますけど、クラシックはラテンアメリカに根づいているもんね。

O その年表にも書いてますけど、プエルトリコにはパブロ・カザルスの交響楽団があって。あ、でも、出来たのはこの年くらい(1959年)ですか……。そりゃそうですよね、そんなに古くからいたわけじゃないですものね。

I それよりもっと前の1800年代くらいは、キューバとプエルトリコは似たり寄ったりで。こないだ話ししましたけど、あの(イグナシオ・)セルバンテスの娘の家庭教師はプエルトリコから連れて帰ってて、その頃は多分どっこいどっこいだったんです。

 が、その後の、19世紀終わりから20世紀頭のキューバの経済発展と歓楽街としての発展の中で、やっぱりそうとう違っていったんじゃないですかねぇ。だから、(プエルトリコは)オーケストラを、この時初めてプエルトリコ交響楽団っていうのを作ったっていうことなんですけど。

O あ、そうなんですか? それまでなかったの?

I なかったんですよ、いわゆるスモール編成のはあったし、音楽学校もあったんですけど、本格的なのはなくて。で、カザルスがそれを作った。でも、キューバにはもうあったので、やっぱり音楽家の数という意味では違ったと思うんですよね。

O カザルスって、いつからプエルトリコにいたんですか?

I えーっとですね、ご存じの通り、お母さんがプエルトリコ人なので、行ったり来たりっていうことなんですけども、スペイン戦争(スペイン内戦)で国を離れて、戦後もフランコが続いて……っていう中で、1955年から。

O これって、あれですか? ルイス・“ペリーコ”・オルティスがソロを吹いたっていうオーケストラですか?
※70年代初頭からニューヨーク・サルサ界を代表するトランペット奏者/アレンジャーとして活躍、のちに自己の楽団を率いて数々のヒットを放ったルイス・“ペリーコ”・オルティスは、故郷プエルトリコの音楽学校でカザルスに師事。成績優秀だったので、卒業公演ではカザルス指揮のオーケストラでソロを吹いたという。

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I あ、そうですね。ペリーコ・オルティスが、カザルス先生に習って。60年代のことですね。70年代もそうですけど、先生に教わったサルサの管楽器奏者がずいぶん多い、ってことですよね。

T 念のために、カザルスのことを簡単に……

I スペイン出身のチェリスト、世界的なチェリストで、一番有名なのは「鳥の歌」ですよね。お母さんがプエルトリコ人でお父さんはカタルーニャ人。スペイン内戦の時に、独裁者(フランコ)とファシズムが嫌いだ、って、その辺もあってプエルトリコに移住して、クラシックの指導にすごく力を入れて。プエルトリコ交響楽団を作ったり、それから、分け隔てなくサルサの管楽器奏者なんかにも指導して、っていうことをしながら、海外で演奏旅行したりと。で、最後プエルトリコで亡くなったという方ですね。

O サンフアンに記念館みたいなのがありますよね。

I ええ、そうです。パブロ・カザルス・ミュージアムですね、とっても面白いのが、アフロ・ルーツ・ミュージアムがサイド・バイ・サイドに建っているんですけども、何か、そういうところを見ると、なるほどなぁっていうか……。そういうミュージアムがあるんで、サンフアンに行かれたら、ぜひとも尋ねてみるといいと思います。

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Museo de Casals, San Juan, Puerto Rico

T 国連で招待されて、国連平和賞が授与されたときに、演奏したんですよね。

I 94歳の時の国連本部でのライヴが残って、発売されてますよね。すごくいい演奏で、ちょっと感動しますけど、やっぱり、平和っていうか、そういうことについて、何か思いがあるっていう感じがしますよね。



O クラシック・ファンでカザルス好きな人でも、彼がプエルトリコで死んだということ、知らない人も割と多かったりするみたいですよね、日本では。
 
 さて、チャチャチャが53年くらいですけど、この当時、ニューヨークは本当にマンボ・ブームの真っ只中です。ジャズでいえば、そろそろハード・バップになろうかという頃で、「パレイディアム」で毎晩いろんなバンドが……マチート、ティト・プエンテ、ティト・ロドリゲスをはじめとするバンドが演ってたわけですけど、当時のプエルトリコっていうのはどうだったんでしょう? コルティーホ楽団はまだ、出てないですよね?

I え〜と、コルティーホは54年とかですけど、そのころはですね、やっぱりメインはビッグ・バンド編成で、オルケスタ・パナメリカーナっていうものや、もうちょっと前でいくとセサル・コンセプシオンっていうのが、ビッグ・バンド・タイプで、マンボなんだけども、プエルトリコのプレーナとかボンバっぽい音とかリズムで皆を躍らしてたという感じで。それで、それがニューヨークと行ったり来たりっていう形ですね。

T メキシコなんかでいくとね、キューバ人が、まあ、その当時メキシコがすごく経済的に調子よかったんで、メキシコに行って稼いでたりしてたんだけど……。ベニー・モレーとか、その前にペレス・プラード。ペレス・プラードがやっぱりこの時期メキシコで大成功をおさめていた。ビッグ・バンド編成だし、キューバじゃ、ああいう感じの音はいまいち受け入れられなかったんだろうな、って気がしますけどね。あとは、フェジョーベとか、そろそろ行きだすっていう感じなんで、メキシコでティピカル系の音楽っていうのが、花開いてた時期でもありますよね。

I この時代までって、例えばチャランガ編成にせよ、ソンの編成にせよ、ここは、キューバ・オリジナルな感じだと思うんですけども、40年代くらいからニューヨークのビッグ・バンドっていう形式が入ってきたときに、(ビッグバンドの形でやる音楽として)キューバとかメキシコはペレス・プラードみたいな音の形に、プエルトリコはセサル・コンセプシオンがいて、で、ニューヨークはニューヨークで、いたっていう。マチートより、もうちょっと前ですけども。

 ロック・バンドから、ギターやドラムの編成でつくる音楽が広がったように、ビッグ・バンドの形があって、ここでフラットな形ができた気がするんですよね。フラットっていうのは、バンド編成っていう意味で、そのビッグ・バンド編成が同じ時代に、うちの音楽、うちのフィーリングの音楽、っていうか各々のラテン音楽を作っていったような感じがするんです。

O なるほどね。ビッグ・バンドによって、ってことですね。

I ってことですね。

O 確かに、さっきセサル・コンセプシオンとか出ましたけど、ほんとに同じビッグ・バンドでも全然違いますもんね、やっぱり。

I ニューヨーク=マンボとか、メキシコ/キューバ=マンボっていうことなんですけども、そう見るのに加えて、ビッグ・バンド音楽が色んなとこから出た中で、ディストリビューションが強かったり、エンターテインメントとしての興業が強かったところがやっぱり、一番外に出て、広がって行ったっていう感じもします。

O キューバのチャランガ楽団は、当たり前ですけど、ヴァイオリンとフルートっていうのがメインなんですが、あれはビッグ・バンドになるんですかね? ビッグ・バンドではないか……。

T ビッグ・バンドではないですよね。チャランガは、ダンソンを演奏するスタイルだったんだけど、でも、ダンソンって元々、ビッグ・バンドじゃないんだけど、ピケーテ・ティピコっていって、いわゆるバブル・トロンボーンとか入っていた古いスタイルのブラス・バンドの編成でやっていて、それがいつの間にか、アントニオ・ロメロなどがチャランガ編成で演りだして、そっちの方がずっと一般的になった、っていう歴史があるんです。その辺もちょっと面白いかなと。キューバの特殊性かなって感じはしますね。
 
 で、ブラス・バンドからチャランガになっていったっていったのとは別に、やっぱりジャズから影響されたビッグ・バンドってのもあって、たとえば、オルケスタ・カシーノ・デ・ラ・プラージャっていって、ペレス・プラードとかペルチンとか、そういう有名プレーヤーたちがいっぱい輩出されたグループがあったんだけど、名前のとおり、ホテルの中のカジノなんかで演奏していたようで、ちょっとこう、チャランガよりもハイソ向け、っていう感じだったんじゃないかな。

 ペレス・プラードは、カシーノ・デ・ラ・プラージャ時代にはすでにああいうトリッキーな編曲、演奏とかをしてたんだけど、そのビッグ・バンドの流れで、自身のバンドも大人数のビッグ・バンドにしたんじゃないかなと思います。



(続く)
posted by eLPop at 16:12 | Calle eLPop