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「<エル・ポップ>トークライブ〜キューバ、プエルトリコ、ニューヨーク 黄金の三角関係〜 Vol.1」(前半)

2016.03.01

去る2016年2月13日(土)、新宿のバー「Con Ton Ton」にて、
「<エル・ポップ>トークライブ〜キューバ、プエルトリコ、ニューヨーク 黄金の三角関係〜 Vol.1」
を開催いたしました。
当日のトークをここに採録したいと思います。ぜひご笑覧ください!
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岡本(以下O) ……ではそろそろ始めさせて頂きます。「<エル・ポップ>トークライブ〜キューバ、プエルトリコ、ニューヨーク 黄金の三角関係〜 Vol.1」。
 キューバは去年、国交を(米国と)50年ぶりくらいに回復しまして、どんどん動きが出てきている、ということもありますし、あとは、昔からラテン音楽といえば、どうしてもキューバ、プエルトリコ、ニューヨークというのがすごく重要な地点になっておりますので、そこをまあ、考えてみようと。
 僕ら酒飲むといつもいろいろ話しているんですけど、一度こういう場でやってみましょうか、ということで。今回が1回目ということなので、これからもだらだら続けていって、いろんな話が出来ればいいかなという風に思っております。

 ということで、資料、というほどのものでもないんですけど、お配りしています。
今日かけそうな曲を3人がピックアップしたのと、あと裏にですね、一応、雑なんですけどちょっと年表らしきものを作ったので、それを見ながら聞いて頂ければなぁと思うんですけど。
 ざっと見てみると、1898年の米西戦争というのが、ひとつやっぱり大きなきっかけになっておりまして、そこまでは基本的にキューバ、プエルトリコというのはスペイン領だったわけです。そこでキューバはまがりなりにも独立して(1902年)、プエルトリコはスペインから米国領になりまして、色々関係しつつ、ずっとお互いに影響を与えながら現在に至るということなんですね。

 僕自身のことを言いますと、“サルサ”っていうものを初めて知ったのは1970年代半ばのファニア・オール・スターズだったんですけども、その時点でもう、キューバっていうところは米国と国交が無くて、新しいものが入ってこないということで、ニューヨークにいるキューバ人やプエルトリコ人たちが、試行錯誤しながら自分たちの音楽を作っていく……それが“サルサ”という風に呼ばれていったわけですけれども。(米国において)キューバは、革命前の音しか当時は聞くことが出来なくて、でもそれをどんどん自分たちなりに発展させたというか、解釈していってサルサと呼ばれる音楽が出来たと、そういう時代だったわけですよね。その後どんどん状況も変化しまして、まぁ、いまもね、変化しながら、やってるわけですけども。そこの部分でもね、キューバっていうものに対する、妙な憧れがあったり、あとはそれに対する……んー、ちょっと難しいですね(笑)……すごく複雑な、まぁ僕らはラティーノじゃないので関係ないっちゃ関係ないんですけど、聴いてる方としては、最初にどこの音楽を聴いて、次にどんな音楽が出来てっていう風に、考えれば考えるほど、なかなか複雑な思いを絡めるようになって……。

 それについて、高橋君、キューバ側から、っていうのでもないですけど、一応キューバの物をいろいろ出しているアオラ・コーポレーションの高橋政資さん、何か話して下さい(笑)

高橋(以下T) そうですね。まぁ〜色々聴くのは聴くんですけど、キューバ音楽を、どっちかといったら中心に聴いたりはしているのかもしれないですね。ただ、入口はやっぱりファニア・オール・スターズだったりするわけなんですけど……。

 キューバってある意味、音楽的にいっても、中村とうようさんが昔言われていたのが、「最終的に独立が一番遅かったから、結局、遅く独立した方が、新しいことが逆に出来る」っていうね。そういうのはあると思いますね。(中南米で)一番早くに独立したのはハイチですよね。で、ハイチはやっぱりその後、色んな大国が干渉したりとか、あまりまだ成熟しないまま独立しちゃったから国が混乱しちゃって、みたいなことなんだけど。キューバは一番最後に独立したから、逆に新しいことが……新しいことっていうか、やりたいことが、他の地域よりは出来たんじゃないかっていうね。逆にプエルトリコは、米国の領土になっちゃったわけだから、やっぱり米国の経済に拘束されるっていうかね、そういうのがあるんじゃないかなっていう感じがするんですよね。で、もう一つはキューバが社会主義国になったから、逆に、ちょっと僕らが分かんない、変わった国みたいなイメージっていうのがどうしても出て、そうすると、外から見てるとちょっと興味持ちやすいみたいな。プエルトリコとかニューヨーク・サルサっていうとやっぱり米国の音楽、それが強みなんだけど、まぁ日本から見ると、その辺が面白いかなあって思ったりはしますね。

O 基本的に僕の認識としては、キューバって、やっぱり音楽大国なんですよね。1950年代半ばに、プレスリーに代表されるロックンロールが出てくるまでは、20世紀になってからほぼずっと、世界に対する音楽の発信地がキューバですよね。最初はソンがあって、マンボ、チャチャチャ、と。だったんですけれども、そこでロックンロールがドンと出て、米国の音楽が世界を席巻するようになって、で、その後キューバ革命が起こって、だいぶ変わっちゃったというのがあると思うんですけど。それで、まぁ、プエルトリコ、キューバ、ニューヨークの三角関係の重要性が、やっぱりあると思う。キューバだけじゃあ、ソンとかマンボっていうのが世界中に広がんなかっただろうし、ニューヨークっていうのが一つ介在していることによって、世界に広がったっていうのがあるんじゃないかなって思ってるんです。マンボなんてほんとそうですよね。

 で、もう一つの、プエルトリコっていうのがすごく重要な位置を占めておりますので、プエルトリコ専門家、っていう言い方も、三人が別に分かれてるっていうワケじゃないんですけど(笑)……僕が一応ニューヨーク担当とかなってますけど。とはいえ、プエルトリコ専門家なので(笑)伊藤嘉章さん=モフォンゴ伊藤さん!

伊藤(以下I) 伊藤です、通称モフォンゴ(Mofongo)と言います。え〜と、そうなんですよね、別にこの三人、各々敵対関係でも何でもないし(笑)……まぁ、ないかどうか知りませんけど、でも一番専門っていうか、触ってるところが多いっていうのは確かに、まぁ、僕もプエルトリコにたまたま5年住んでたんで、そういうことになってますけど。

 さっき岡本さんが最初に言われてた、微妙な気持ちがとか、感覚がっていうのは、あの〜、例えばプエルトリコ音楽ファンはですね、何となくキューバっていわれると「煙ったい」だとかね(笑)、それから逆にキューバからは、「プエルトリコ、う〜ん、なんかちょっと違うよねえ」みたいなこととかね、「サルサ・ロマンティカ、なんか嫌だよね、リズムがなくて〜」みたいなね(笑)。そういうこと言う人がいる訳ですけど、地元ではですね、住んで思ったのは、やっぱり微妙な気持ちがあって、米国側を向いたときは「俺たち兄弟だ」っていう感覚が非常に強くてですね、やっぱりプエルトリコは独立じゃなくて米国の経済下にいて、それから政治的にもですね、別の州みたいになってるので、米国からやっぱり影響というか、嫌なことも含めて押し付けられるわけでしてね、その辺のことは、同胞だと。それから、音楽的にも米西戦争以前とかそのあたりは、まだダンソンとかダンサとか、アバネラとかやってるときは同じ音楽を共有し行き来してた。19世紀に活躍したキューバの名作曲家、イグナシオ・セルバンテスの娘さん、マリア・セルバンテスの音楽教師はプエルトリコ人だったわけなんですけども、そういう風に行き来があるんですよね。そういうとこで、音楽的にも、ソンとかそういうことについては一緒だと。

 ところが、まあ同時に、何でしょうね……音楽的趣味はちょっと違う。長い間に違ってきているのか……。岡本さんと何年か前にエル・グラン・コンボのチャーリー(・アポンテ)をインタビューしてね。で、キューバ音楽をどう思うかって訊いたら、「いやぁ、すげえいいよ、俺大好きだよ」って言ってね(笑)。その後に、本当にそうですか? って言ったら、「まぁ、ちょっとうるせえんだよな」って(爆笑)。「がちゃがちゃしてる」とかって言ってましたよね。やっぱり音楽的趣味が違うんじゃないかなっていうね。なんかでも、それがいろんなとこで混じり合って、色んな時代で、色んな段階で混じり合って、それが面白いなと思っております。

 伊藤さんがいま仰ったように、お互いにやっぱり、別にけなさないですけどね、でも心の中ではやっぱりどう思ってるかは分かんないですね(笑)。もちろん、みんなリスペクトし合ってると思うんだけど、ニューヨークのラティーノのやつとかだってね、「キューバ音楽ってほら、10何分もやられたんじゃ、たまったもんじゃないよ」みたいなね(爆笑)。「やっぱりほら、5〜6分でキチっとやって終わってくれないと。ちゃんとまた席に戻って、一旦リセットして、そんでまた次の曲が始まったらダンスに誘うみたいなね。そういうのがないとさ、やってらんないよね」みたいな(笑)。「15分、20分やられたんじゃさあ〜」みたいなこと言うやつも結構いたりだとかね(笑)。まあ、趣味の問題もあると思うんですけども。

 まあ、お互いすごい、プライド高い人たちだからね(笑)。ラテン系の人たちって基本的にプライド高いから。やっぱりリスペクトするんだけど、違いはちゃんと主張するよね。あるキューバのティンバレス奏者は、ニューヨークやプエルトリコの人のカウベルの叩き方を見て、「あいつあんな早い曲なのに、ミディアム・テンポの曲と同じ叩き方してて、よくあんなに手、動くよな」「もっと、ノリを出せる叩き方があるのにな〜」とか言ったりとか(笑)。だけど、それぞれリスペクトがちゃんとあるっていうのがありますね。そのへん、こちらから見てて、違いが分かると、なお面白いっていうかね、楽しみが色々増えるかなっていう気がしますよね。

 そうですよね。はい、それでまあ、ちょっとこないだね、インターネット見てたら、あるインタビューがあってですね……
「ちょうど日本にサルサが入り始めた1996年」とか「サルサといえばキューバ」とか、ウソばかり書いてある。
【会場爆笑】

 だいたいね、サルサが日本に入ってきたの70年代だし(笑) 「サルサといえばキューバ」って!? 何言っちゃってんだ? みたいなね(笑)。こういうウソがまかり通ってるんで、やっぱりこういうのはダメだな、と。どうですか(笑)

 そうですよね(笑) なんか、ほんと最近ネットとかに書かれちゃうと事実ぽくなって、ますますね。昔は、印刷媒体しかなかったから、そうはやっぱり編集者がねえ、ミスを切ったけど、最近危ないですね、ホントにね。

 そう、それに、色々とあるだろうけど、「サルサはキューバ」っていうのがね(笑)。 前から言ってるんですけど、一応キューバ人もサルサって言うけど、実際は、サルサやってると思ってるキューバのミュージシャンいない、っていうね。だからその辺、よく岡本さんと話すんだけど、その辺ははっきりと、間違いだっていうのを主張はしていった方がいいよね。

 大きな誤解があるんですよね。

 やっぱり、あのロス・バン・バンが、絶対自分たちの音楽をサルサっていわなかったじゃないですか。僕、だからバン・バン大好きでね! あぁ、偉いな、と思ってたんですけど。そういうことが分かってない人が多いんですよね。

 私はよくこれまでも言って来たんだけど、オルケスタ・レベの大ヒット曲で「ミ・サルサ・ティエネ・サンドゥンガ(Mi Salsa Tiene Sandunga)」というのがあって。で、そのくらいから『ミ・サルサ』っていうテレビ番組がキューバで始まって、だけどそのサルサというのは、キューバ人って結構商売上手だから、「“サルサ”っていう言った方が多分いいぞ」みたいなの(笑)、絶対どっかにあったんですよね。だけどその裏には「俺のサルサは違うぞ」というメッセージがちゃんと曲名の中に隠れてる。“サンドゥンガ”って、黒人のそういうグルーヴみたいなものだけど、「俺のサルサは、俺のサンドゥンガがあるんだぞ」みたいな感じだから、要はこれ、「サルサ(という言葉)を使ってるけど、俺がやってるのはサルサじゃない」って宣言してる様なもんなんだよね。


 レベ、僕もすごいリズムが大好きで、でもまあ、サルサじゃないなあって。でもあれ、売るっていうか、一旦惹きつけて、その上で、「いや俺の音楽って、サルサっぽいっていうけど違うんだぞ」って言ってるの、偉いなと思ってるんですけど。
 でもさっきのインタビューの話じゃないですけど、レべが死んだとき「サルサの父」とか言われてたんですねぇ!  誰とは言いませんけどね。高橋さんもよくご存じの方ですけど(笑) ああいうことがあっちゃいかんですよねぇ(苦笑)

 あまりにも、こう……、誤解というかねぇ。キューバ人がそういう風に言うのは分かるわけですよ、意図が。僕らとしては良く分かる。それをなんか、間違って解釈して、っていうのは、どうもちょっとね……。おかしいよな、と。そういうの、ありますよね。「キューバ最高」っていうのはいいけど、キューバ何回行ってたらいいとかさ(笑)、なんか違うんですよね。これはもう大昔からの話ですけどね。

 そう、岡本さん、昔っから、「高橋くん、俺、キューバ大っ嫌いなんだ」って言ってるもんね。
【会場爆笑】

 昔っから言ってるんですけど(笑)、まあ、高橋くんは、僕が言ってる意味がすごく良く分かってるからね。
【会場笑】

 だから、その辺のことを踏まえてね、こういうイベントで、こう、聞いて頂いたりするとね、面白いんじゃないかと。

 僕も、もちろんキューバの昔のとか、すごく大好きで聴いてるわけで、まぁそういう……。まぁいっかそれで(笑)
【会場「あ、終わっちゃった笑」】

 えぇ?これで終わり?(笑)

 (笑)じゃあ、なぜそういう風なことをこの3人が言うか!? ということなんですね。突き詰めようとすると、あまりにも幅が広すぎて、今回、どこから始めようか?と思ったんですけど、やっぱりデスカルガっていうのが一つ、ものすごく重要なところに、音楽としてあるんじゃないかなっていう風に思っておりまして、で、まあ今日はとりあえずデスカルガを色々聞いてみようかなと思うんです。

 まず、僕が持ってきたのは「デスカルガ・ファニア(Descarga Fania)」ですね。ファニア・オール・スターズが、1971年、ザ・チーターというところでやったライブに収録されている、まさに「デスカルガ・ファニア」。これがファニアのデスカルガだ、という曲。観客が手拍子で叩くクラーベが途中で出てくるんですが、これで初めてクラーベを認識したというか、僕はそうだったんですけど、クラーベっていうものがあるのは知ってたけど、「あ、こういうもんなんだな」っていうのをこれで初めて分かった人も多いんじゃないかと。では、「デスカルガ・ファニア」聴いて頂きたいと思います。
【PLAY♪ Descarga Fania / Fania All Stars】


 はい、ファニア・オール・スターズの「デスカルガ・ファニア」なんですけど、まさにデスカルガ。デスカルガって英語で言うとジャム・セッションっていう風に訳されるんですけども、これが1971年。

 ファニア・レーベルは1964年にできましたが、当時ですね、色んなレーベルの、デスカルガ・アルバムがすごく流行ってたんですよね。で、その(流行の)きっかけになったのを、今度聴いてほしいんですけど、アレグレ・オール・スターズ、1961年ですね。これも、いわゆるジャム・セッション。さっきのファニアのちょうど10年前なんですけど、チャーリー・パルミエリっていうピアノの人をリーダーにして、あとはジョニー・パチェーコ、まさにファニアを作った、副社長になった人ですけどね。あとはホセ“チョンボ”シルバ、キューバ人。あと何人か、6〜7人ですけどね、有名ミュージシャンが集まりまして、火曜日の夜にセッションをやったらしい。アル・サンティアゴっていうアレグレ・レーベルの社長が、デスカルガをやりたくてこれを作るわけなんですけども、まあ、有名ミュージシャンたちなんで、なかなか(皆)時間が取れないと。で、火曜日の夜が一番スケジュールが空いてるということで、火曜日の夜にやったらしいんですけどね。ブロンクスのクラブ、ザ・トリトンズっていうとこでやった、このアレグレ・オール・スターズ。何枚もシリーズで出ていますが、ここでは、61年に出た1枚目の1曲目「アイ・カミナ・イ・ベン(Ay Camina y Ven)」です。
【PLAY♪ Ay Camina y Ven / Alegre All Stars】


O ……はい、アレグレ・オール・スターズの「アイ・カミナ・イ・ベン」。さっきのファニアのもそうですけど、典型的なデスカルガのスタイルだと思うんですが、簡単なコーラスを挟んで、ソロを繋げていくっていう。いまソロをやっているのが“チョンボ”シルバ(サックス)、その前がバリー・ロジャーズ(トロンボーン)。ユダヤ人のね、エディー・パルミエリ楽団にいた人。一番最初がジョニー・パチェーコ(フルート)だったわけですけど、で、これ、さっき言った通り、アレグレ・レーベルのアル・サンティアゴっていう人がですね、実はキューバでやった『キューバン・ジャム・セッション』っていうものにものすごく憧れて、自分たちのレーベルでやりたいということで、これをやったというわけなんです。じゃあ、その元になったものを今度は聴いてほしいと思うんですけど。高橋さんお願いします。

 え〜っとですね、昔からキューバとかラテンとかサルサとか聞いてる人であれば、よく見たかなと思うんですけど、こういう青色と黄色のジャケット(レコードのジャケットを見せる)、なんですけど、1956年録音でそのころ最初に発売され、その後何度も再発になって、日本にも入ってきたお馴染みのアルバムですね。
cuban_jam_session_1.jpg cubanjamsession2.jpg cubanjamsession_ahora.jpg

 で、『キューバン・ジャム・セッション』というネーミングも、ある程度表向きの、海外なんかにも発信したいっていうのが表れてると思うんです。いわゆるこういうキューバン・ジャム・セッション・スタイルを録音した、一応初めてのアルバムだっていう風に言われていますね。これも1〜2日で、EGREM(エグレム)の……いまはEGREMなんですけど当時はPANART(パナルト)というレコード会社があったんですけど……のスタジオで皆で録ったと。アフター・アワーズ・セッションなんで、皆クラブなんかで仕事をした後に集まって演奏してたのを、それをスタジオに集まって再現してくれよ、みたいな感じのノリで作ったみたいですね。これが1956年の録音なんですが、だいたいLPとかってこの時期から広まって行ったわけですよね。それまでは、シングル盤とか、SP盤とか、3分〜3分半くらいのがレコードで収録できるサイズだったんですけど、それが、片面でそれこそ10分とか、30分近く収録出来るようになって、いわゆるセッションを録音しても面白いんじゃないか、ってそんな発想で出来たっていう感じですね。とりあえずちょっと聴いて頂いて……。
【PLAY♪ Cimarron『Cuban Jam Session Vol.1』】


 『キューバン・ジャム・セッション』1枚目の、一応デスカルガの最初の録音と言われているアルバムの中から聴いて頂きました「シマロン」という曲ですね。さっき聴いたニューヨーカーのアレグレ・オール・スターズとか、ファニア・オール・スターズとは、かなり、肌触りというか、感覚が違うっていうのが面白い感じで、やっぱり時代が違うっていうのもありますけどね。あとは場所の違いっていうかね、キューバはやっぱりどっちかというと、こういうことやっても、ゆったりした感じみたいなものが重要だったりしますね。ニューヨーカーっていうと、もっとこう、突っ走る感じで。やっぱりその土地の音だっていうのが、面白いですね。

O まあ、でもこれが、(アレグレ・オール・スターズの)元ってことですよね。

 うんうん、そうですね。これをさっきの人たちが聴いて、いいなって思ったんですね。ただ、これは1956年の録音なんですけど、デスカルガっていうのは1940年代から演られてて、一説には……というか一番有力な説なんですけど……マンボが出来る元になったのがデスカルガであると。マンボが1945年くらいにはだいたい形として出来はじめてるので、1940年代の半ばか、42〜43年くらいにはデスカルガって、もうやってたと思うんですね。

 ものの本で、向こうのを読むと、例えばノロ・モラレスが40年代の頭にニューヨーク行って、空いた時間に、なんか延々、特にピアノとパーカッション奏者と演ってたっていうのが書いてあるので、(デスカルガの)形としては、もうあったんだよね。

 そうですね。それから、まあ色々なアイデアを出しあって、マンボの創出に繋がっていったっていう。あと、ちょっと面白いのが、いま聴いて頂いたなかで、スキャット、ヴォーカルありますよね、結構かなりスキャットっぽい、ジャズっぽいんですけど、エル・グラン・フェジョーベという人ですね。「マンゴ・マングェー」という有名な曲の作曲者で自身でも歌ってる人なんですけど、フェジョーベっていう人は、1950年代半ばくらいに、キューバじゃ食えないというんでメキシコに渡っちゃって、メキシコで成功していく。そして、フィーリンというですね、最近ウチ(アオラ・コーポレーション)とか、あとエル・スール・レコードさんとかがここ数年少しずつ復刻してるんですけど、フィーリンという、基本的にはボレロをすごくモダンな感じで歌うみたいな、そういう運動というのが1940年前半ぐらいからあって、フェジョーベというのはそのフィーリンの集まりの中にやっぱり関わってた人だったんですね。

 で、聴いて頂いた曲で、途中でエレキギターの音が出てくるんですけど、あのエレキギターはフィーリンの一番有名なアーティストで、ホセ・アントニオ・メンデスですね。もう、「ラ・グロリア・エレス・トゥ(La Gloria eres Tú)」とか有名な曲をいっぱい書いてる人です。で、フィーリンというのは、若いシンガーソングライターたちが集まって、ジャズや映画音楽など、特に米国からの情報を中心に、色々こんなコード進行とか流行ってるらしいぞ、とか言いながら歌のジャム・セッションして……、で、そのことをデスカルガって呼んでたっていうのがあって。で、たぶんその辺がプロのミュージシャンにも刺激になって、仕事の終わりにジャム・セッションしようみたいになって、器楽演奏でもはじまったっていう。

 それは何年くらいの話なんですかね? やっぱり40年代?

 42~3年ですよね。多分。で、面白いのが、フィーリンのピアニストで、フランク・エミリオっていう人がいますけど、やっぱりデスカルガの録音を作ってますよね。あと、ニーニョ・リベラっていうトレス奏者、彼も、いま聴いて頂いたのが『キューバン・ジャム・セッションVol.1』なんですけど、Vol.1が大ヒットしたので、Vol.2.……とどんどん作っていくんですが、Vol.3として出したのがニーニョ・リベラなんですよね。フィーリンと、こういうジャズっぽい(?)インストゥルメンタルな音とは、一見、違うところから出来たんだろうなと思ってしまうんですけど、実は根っこは同じ、っていうのは面白いなぁっていうね。

 あれですよね、こないだ高橋くんとちょっと話してたんですけど、デスカルガ、さっきのは1956年のやつですが、最初はいつからあるのかねぇって話をしてて、LPが出来たから収録出来るっていうことでアルバムが出たんだろうけど、たぶん(それ以前に)あったんだよねっていう……。それでいまの話に繋がるんですけど。

 あと、さっきの年表とか見てみると、有名なミントン・ハウスでチャーリー・クリスチャンとかセロニアス・モンクがやってたのが、1941年ですか? 40年代くらいからジャム・セッション、アフター・アワーズ・セッションがニューヨークのジャズ・シーンにあって、それがビバップになったって言われているわけですけど。それが直接キューバに行った、というのも変だけど、そういうのがキューバでも行われてたということなんですよね。
christian.jpg

 そうですね、やっぱり近いですしね。キューバって、いまでもある程度そうですけど、アメリカ合衆国、USA、米国に憧れがあるんですよね。やっぱり「あそこで流行っているものは直ぐに取り入れたい」みたいな、そういう感覚っていうのがあって、それと同時に、「自分たちの音楽がまた違うんだぞ」みたいな、そういう誇りがあってって感じですね。だから、それがこう、上手く混じって面白いのが出来たのかなぁっていう感じがします。

 あと、そのデスカルガっていう言葉なんですけど、元を言うと「デスカルガール(descargar)」、「荷を下ろす」っていうこと、みたいな意味でしたっけ。

 言葉、すごい面白いです。ジャム・セッションっていうのと全然違うからね。そのまま(英語に)直訳すると「ディスチャージ(discharge)」っていうことで、「チャージを外に出す」「荷物を下ろす」ってこと。いま、「ダウンロードする」っていうのも「デスカルガ」ですからね。あと、向こうの人でね、ヒバロの音楽ってあるんですけども、二人でこう、色んなことを、二人の歌い手が色んなことを即興でやるときも、「俺たちはデスカルガンド(descargando)」、「ディスチャージングしている」と。つまり、なんか言いたいことを体の中から、出す、放出するっていうようなね、意味で言っていると思うんですけど。ジャム・セッションって、みんな集まって自分のことをやるっていうんじゃなくて、ラテンの人たちはなんか、内にあるものを出していく、ってそういうことなんですかね。

 伊藤さん、せっかくヒバロの話出たので、何かヒバロの曲を……。

 ヒバロですか……。

 かけません?(笑)
【会場笑】

 デスカルガっていうことでいうと、放出っていう意味もあるけど、あとはなんかこう、アフター・アワーズ的な意味が大きいんじゃないかなと、僕は思ってます。仕事が終わって、「お仕事終わったから好きにやるぜ」みたいな雰囲気じゃないかな?と。それがいわゆる、内容的にジャム・セッションだっていうことで、ジャム・セッションって呼んでるんですけど、ホントはアフター・アワーズ的な意味が大きいんじゃないかな、と。

 今日はアルバム持って来てないんですけど、資料の僕のとこに書いてある、カコのね……カコってティンバレス奏者、エル・グラン・コンボのリッチー・バスタールのお父さんなんですけど……カコって人は当時、あまり日本で知られてないっていうか、注目されてないけど、すごくバンド・リーダーとして活躍してね、あ、さっきのアレグレ・オール・スターズにも入ってるんですけど。で、彼も1964年くらいに、プエルトリカン・オール・スターズって、のちにプエルトリコ・オール・スターズって別のが出来るんですけど、それをやったりとか、あと、『カコズ・ニューヨーク・アフター・アワー・オーケストラ・トリビュート・ア・ノロ』ってアルバム、ノロ・モラレスに捧げる“アフター・アワー・オーケストラ”って、これが、デスカルガっていう意味の割と本質的なところなんじゃないかなって気がするんですが……。
kako_PR_all_stars.jpg kakos_NY_after_hour_orch.jpg

ちょっと1曲。ヒバロを。じゃあ、解説を。

 これは、別に直接デスカルガに関係あるわけじゃないんですけど、やっぱりそうやって吐き出すというか、まさにこの農民の人たちのですね、仕事終わってね、家帰って、飯食った後、楽しんでね、その日あったことを言い合うとかなんですけど、持ってきてみたのが、トレス・エルマノス(Los Tres Hermanos)っていって、ヒバロの歌い手3人が、ラミート、ルイシート、モラリート、っていう3人がですね、有名な人たちと一緒にレコードを作ったっていうやつですね。たぶんこれ50年代くらいだと思うんですけど。それで3人がですね、各々即興で、お互いに、まあ、歌い合ってるというか。そういう曲なんです。一種の歌によるデスカルガ、みたいな。タイトルは「ペレア・エントレ・エルマーノス(Pelea entre hermanos)」兄弟の間のけんか、兄弟喧嘩ですね。だから3人が競って歌っているところがあるんです。
【PLAY♪ Pelea entre hermanos『Los Tres Hermanos-Ramito, Luisito, Moralito』】


 メロディーとかリズムとかはすごい単純なんですけど。歌ってるのが、即興でデシマ(désima)っていう、韻を踏んだ10行詩で歌っていて、10行やると、次の人に交代になるんですけども、向こうの村祭りだとですね、2〜3行でお互いに言い合ってですね、言葉の喧嘩をするっていうか、ラップですよね、あれね。ラップをしていって、面白いことを言った方が勝ちみたいな。まあ一種のジャム・セッションでもあり、デスカルガでもあり。

 これを、デスカルガっていう風には言うんですか?

 いや、これはコントロベルシア(controversia)って言って、つまりは戦いっていう意味ですけど、だからその歌ってることを、「何を歌っているんだ?」と訊いたら、「自分はディスチャージングをしている」、「エストイ・デスカルガンド(Estoy descargando)」と言ったのを聞いて、あぁ、そういうことか、と。

 ちなみにいまのは、録音としては何年ぐらいなんですか?

 録音としては50年代の録音ですけど、もちろん習慣としてはもっと昔からあるんです。やっぱりプエルトリコって、ニューヨークとかキューバとも違って、当時レコードを録音して出す会社がなかったんで、ニューヨーク系の人が録音をしてっていうことで、それでちょうどこのころから、ヒバロっていうのが、それまでは土地の芸能としてしか認識されてなかったんですけども、ポピュラー音楽として面白いんじゃないか?っていうことで取り上げられ始めた。

 あれですよね、チュイート・エル・デ・バヤモン(Chuito El de Bayamon)とか一番くらい有名な人だと思うんですけど、彼もあれですよね、ラジオで紹介されるまでは全然知られてなかった。50年代? 40年代後半ですか、あれは。
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 そうですね、クアトロ奏者でラジオパーソナリティのラディスラオ・マルティネスっていう人が、面白いんじゃないかっていって取り上げたのが、30年代、40年代くらいなので、それまではただの、バヤモンっていう村のおじさんだったという。

 キューバなんかでも、コントロベルシアって言って、二人で言い合って、それこそ一応10行詩なんですけど、さっき伊藤さんが言ったように、もう、2行くらい、下手すると1行で次々かぶせてきて、で、結局どっちが勝つ、まあ勝つっていうとあれなんですけど、聴いてる人達の反応を見て、一応どっちが優勢だったみたいな。

 ただ、伊藤さんの話で面白かったのが、プエルトリコは1950年代には録音があったということで、まぁキューバだとグアヒーラだとかっていうことになるんですけど、ポピュラー音楽として、もうちょっとアレンジされたようなものは出てたけど、その元のようなものっていうのは、当時あんまりレコードでは出てなかったと思うんですよ。結構、革命後に革命政府が「民衆の文化っていうのをバックアップするよ」っていうようなところから、テレビやなんかにコントロベルシアも出て、まぁ皆もともと知ってたとは思うんですけど、そういう生の、元のスタイルっていうのが表に出てきた。それよりもプエルトリコの方が、逆にレコードとして聴けるようになったのが早いっていうのがね、なにか面白いなあって。まぁ、米国のレコード会社が入ってきたから、そういうのも録音しようということになったのかなぁという感じしますけどね。

 僕、今ね、高橋さんのお話伺っていてね、やっぱりそこにキューバとプエルトリコの大きな違いがあって、やっぱりプエルトリコって、歌うことに関して凄いこだわりがあるような気がすんですよね。で、キューバはやっぱりリズムについて凄いこだわりがあるっていうか。なので、やっぱりそういう、「歌で、ジャム・セッションっていうか、即興でやることは偉い、カッコいいことだ」っていうのが、よりあって。こういう風なことがあったから、やっぱりエクトル・ラボーとかもね、小さい頃からこればっかり聴いて、これのコンテストに出て、みたいな人が出たわけでしょうけどね。

 あれですよね、エクトル・ラボーの叔父さんとかもこういうのをよく歌ってたんだけど、何かに書いてましたけど、よくそれで喧嘩をしたっていう(笑)。そういうもんなんですね、やっぱり。言い合ったり(笑)

 そうですね(笑) 

 酔っぱらいの喧嘩(笑)

 酔っぱらいながら(笑)。いいですよね、それ。ちょっとラップでね、何か喧嘩してるような。ディスってるみたいな?(笑) カッコいいですよね。

 ちょっと話し逸れましたが……

 デスカルガってそういうことだよね。要するにね……。だからやっぱりアフター・アワーズ・セッションっていうかね、仕事後の楽しみの、自分のやりたいことをアウトプットする様なのが本質なんですね、やっぱりね。

 プエルトリコの場合、これは仕事後ってことなんですか? これがメインで楽しんでやってるってことですよね? いわゆるどっかで仕事やって、その後集まって楽しんでるって言うわけじゃないんですよね?

 コントロベルシアみたいなのは、やっぱり集まらないとあれなんですけど、ただ自分一人でですね、例えばクアトロって楽器があるんですけど、夕飯後にテラスで、家族がギターを弾いて、クアトロをぽろぽろっていうのは、いまでもありますね。田舎行くと。

(後半に続く)
posted by eLPop at 18:48 | Calle eLPop