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追悼エルナン・ガンボア(1947-2016)

2016.01.13

"El cuatro de Venezuela"「ベネズエラのクアトロ」の肩書きで世界に知られたクアトロ奏者、歌手、作曲家のエルナン・ガンボアが2016年1月10日、アルゼンチンのブエノスアイレスで、肺がんのため亡くなった。享年69歳。

音楽一家から人気カルテットへ

エルナンの父・カルミート・ガンボアは歌手、作曲家、バンドーラ奏者として活躍し、グアヤナ地方の古都シウダボリバルで大きな影響力のある音楽家であった。ギタリスト・作曲家のアントニオを輩出したラウロ家、マンドリン奏者クリストバルのソト家、クアトロ奏者チェオを産んだウルタード家とならんで、ガンボア家はこの町有数の音楽一家であった。

父の影響でエルナンは幼少時から音楽活動を開始。とくにクアトロにその才能を発揮した。ガンボア家に集っていた同郷の大学生仲間とともに1972年4人組ボーカルユニット《セレナータ・グアヤネサ》を結成。故郷グアヤナ地方の伝統音楽を皮切りに、当時まだ全国的には知られていなかったベネズエラ各地の民衆音楽を大衆に親しみやすいポップな男性コーラスのスタイルで普及させた。1986年に脱退するまで11枚の音源をこのユニットで録音している。


セレナータ・グアヤネサ「復活祭の朝」


独奏クアトロの開拓

人気グループ、セレナータ・グアヤネサで活動する傍ら、エルナン・ガンボアは、ベネズエラの民衆的4弦ギターであるクアトロの技術開拓にも力を注いだ。都市弦楽ユニット《ロス・アナウコ》に参加。1977年には初の独奏アルバムを録音。クアトロ奏者・歌手として2011年まで25枚のアルバムを世に出している。

器楽奏者としてのエルナン・ガンボアの一大功績は、「カンブール・ピントン」の呼称で知られる伝統的なクアトロ調弦(ラ・レ・ファ#・オクターブ下のシ)を温存しての、独奏クアトロのテクニック開発にあった。これは、右手のストローク(ラスゲオ)を温存しつつも、爪弾き(プンテオ)ならびに左手の押弦と開放弦を組み合わせることによってメロディを奏でる方法で、ガンボアは「ラスガプンテオ奏法」と名づけている。ウクレレで行われる「ジャカソロ」と原理は同じであるが、ベネズエラ音楽はポリリズムが複雑であり、上下両方向にカッティングされるため、ガンボア流の奏法は打楽器的な技術においてより高度である。また、カンブール・ピントン調弦によるクアトロは、音域が2オクターブと狭く、ポジション移動の速度が要求される。


エルナン・ガンボア独奏「エロルサの祭り」

それまでに知られたクアトロ独奏者には、ハシント・ペレス、フレディ・レイナがいた。民衆音楽家であったペレスは主に爪弾きによって出身地ミランダ州の民謡を演奏。学究肌の教養人レイナは第一弦をオクターブ上げて、旋律演奏を容易にし、音域を拡大した独自のメソッドを提唱した。レイナにより、バロック・ギター曲から民謡までを演目としてリサイタルを行うソロ楽器としてのクアトロ奏法が確立した。これにたいして、エルナン・ガンボアは、ベネズエラ民衆が500年間伝承してきた伝統調弦を使用しながらも、豊かなリズムを十全に表現し、ベネズエラ全土の音楽をあますところなく演奏した。現代のクアトロ奏法はガンボア以降爆発的に発展することになる。クアトロの第一人者としてたびたび来日しているチェオ・ウルタードは、エルナンとともにカルミート・ガンボアの薫陶を受けた弟分と呼べる関係である。


エルナン・ガンボア独奏「パハリージョ」


チャランゴとクアトロ〜アメリカ大陸の弦

エルナン・ガンボアの名声がアメリカ大陸を超えて広まったのは、1986年にアルゼンチン・チャランゴの名手ハイメ・トーレスと録音した二重奏アルバム『チャランゴとクアトロ』によってであった。南米北部を代表するクアトロ、アンデス地方を代表するチャランゴ――16世紀にスペインから伝播し、南米大陸に土着化した民衆のギター2種の名手が共演する企画は、アルゼンチン音楽・ベネズエラ音楽両者にバランスがとれた選曲とふたりの名手の渾身の演奏、そして極上のサウンド・エンジニアリングもあいまって、発表30年経ったいまも聴き継がれる名盤である。とりわけ、当時まだ国外で知られることが稀だったベネズエラ音楽の素晴らしさを全世界に伝えるうえで、大きな役割を果たした作品でああった。



『チャランゴとクアトロ』A面1曲目「さらば、オクマレへ」


この企画は、21世紀に入り、ペルーのギタリスト、ルチョ・ゴンサレスを加えた3重奏「クエルダス・デ・アメリカ(アメリカ大陸の弦)」に発展する。熟練の名手3人が、技巧を抑制して音楽に奉仕する大人の至芸は世界のリスナーを魅了した。


『クエルダス・デ・アメリカ』DVDトレイラー


エルナン・ガンボアの思い出

私がはじめてエルナン・ガンボアに会ったのは1988年6月、カラカスの地下鉄アルタミラ駅に併設された、いまは滅多に使われない屋外イベントスペースだった。

それに先立つ1986年にハイメ・トーレスとの二重奏アルバム『チャランゴとクアトロ』が発表されており、エルナンとハイメは会心の新譜をお披露目する南米ツアーの最終日程としてベネズエラで公演していたのだ。ベネズエラに住んで2年目を迎える私はふたりの野外ライブに足を運び、巨匠同士が互いをリスペクトしあう名演に感銘を受けた。終演後、発表の予定もないのに両人にインタビュー取材を申しこんだ。当時私は大学を卒業して3年目。ラテンアメリカ音楽のいちリスナーにすぎず、活字で文章を発表する経験はいっさいなかった。このインタビューはのちに『ラティーナ』誌上(1989年1月、2月)に掲載され、いまでは私が生業の一端とする、「人に会って、話を聴き、その資料に批評を加えて文章とする作品」の第一号となった。

大学は医学部に進学(のちに教育学部に転向)し、生物・化学の高校教師だったこともあるエルナンは弁舌明晰なインテリで、伝統音楽をふまえた現代ベネズエラ音楽のパノラマをわかりやすく、ときには細部にも立ちいって教えてくれた。エルナンはベネズエラ音楽の入門者にたいして懇切丁寧で熱心な指南役だった。いっぽうで、批評家としてのエルナンは民衆音楽に関して非常に厳しい見識のもちぬしだった。伝統を再創造する使命に駆られる都市の知識人特有の民衆文化観といえる。たとえば、ウーゴ・ブランコのようなベネズエラ音楽のマーケティング手法を、彼は「ベネズエラ伝統音楽とはなんらの関係もない」と、外国人の若者を前にしてバッサリ斬り捨てて見せた。エルナン・ガンボアは生身に接した初めてのベネズエラ人音楽家(しかも巨匠)であったので、26歳の私は強烈な影響を受けた。

エルナンは私を若い友人として迎えてくれ、私から『チャランゴとクアトロ』の日本盤や『ラティーナ』のインタビュー記事掲載誌を献呈するなど、交流は数年間続いた。いま思えばエルナンは、私を通じて日本向けプロモーションの道が拓けることを現実のこととして期待していたはずだ。だが、皮肉なことに、私はその後、エルナンの同郷の後輩にして彼の洗礼子(ahijado)であるチェオ・ウルタードと同世代の友として個人的親交を深め、クアトロの名手として日本に積極的に紹介するのはチェオのほうになってしまった。私はこうした経緯がとてもうしろめたかった。エルナンは人一倍自尊心が強いと聞いていたこともあり、私の方からじょじょに遠ざかってしまった。

1990年代初頭から晩年までの20年間、エルナン・ガンボアは難病を抱える息子の治療環境を求めて、妻とともに米国に暮らした。2010年以降は、妻の故郷であり、音楽家としてもっとも大きな成功を納めてきたアルゼンチンに移り住み、ブエノスアイレスを拠点に大陸各地で公演していた。

エルナン・ガンボアの至芸

『チャランゴとクアトロ』に収録された現代ベネズエラ民謡の名曲『老馬 Caballo Viejo』(詞曲シモン・ディアス)のエルナン・ガンボア弾き語り版がこの曲のあらゆる音源のなかで、私は一番好きだ。エルナン以外は全員アルゼンチン人が演奏しているため、ホローポとチャカレーラのちゃんぽんのような、ベネズエラ音楽としては若干変なノリになる部分もある。にもかかわらず、いや、だからこそかえって、深い懐と揺るがぬ重心、そしてはるかな視線を感じさせるような気がする。「南米大陸から世界へ」音楽を伝える使命をおびたを身体と精神から、奏でられた音楽であるように思われるのだ。


「老馬」『チャランゴとクアトロ』収録


25枚のソロ音源の中には、フルオーケストラをバックにラテンスタンダードを歌うといった、エルナン・ガンボアの魅力を引き出したとは言いがたい企画も散見される。セルフ・プロデュースの限界といえようか。だが、クアトロ一本だけの(弾き語りも含む)独奏ライブは、いつでも素晴らしかった。知性あふれるトークを交えた演奏は、ダイナミックに、ロマンティックに、メランコリックに、チャーミングにベネズエラ音楽を聴かせ、ときに青白い炎がゆらめくような「鬼気迫る」瞬間もみせた。

そうしたエルナン・ガンボアの至芸で記憶に鮮やかなのは、1990年頃カラカス芸術協会ホールで聴いたクアトロ独奏によるカリプソ「復活祭の朝 Easter Morning 」である。明晰かつ簡潔な語り口にユーモアもまじえ、エルカジャオの町のカーニバルと仮装パレードがどんなものか説明し、セレナータ・グアヤネサがはじめてカリプソを録音した時、「物知らぬ識者」から「英語の歌などけしからん」と批判された笑い話なども披露。客席が和んだ中、シンプルな旋律の単弦爪弾きで曲は始まった。テーマ8小節が延々とループするカーニバルソングは、次第に複雑なリズムへと展開。パレードを織りなすさまざまな打楽器の音が交錯していく。その絶頂が過ぎた頃、土埃舞うパレードの群衆のすり足のリズムが重心低く響き、会場全体がカーニバルの空気に包まれた。それは引き波のようにフェイドアウトしていった。ふたたび短い旋律が静かに単弦爪弾きで奏でられ、演奏は終わった。一瞬の静寂が会場を支配したのち、万雷の拍手が鳴り響き、嘆声が漏れ、客席に笑顔があふれた。その音楽のスケールの大きさに、私はぞくぞくするような感動に襲われた。そのすべてが4本の弦だけから奏でられたということは、むしろ瑣末な事実にすぎなかった。

インターネットの時代となって、私はエルナン・ガンボアとフェイスブックでの「再会」を果たした。だが、生身のエルナンと、直接あいまみえることは、ないままとなってしまった。CNNの番組で健在の様子を確認したのはつい2年前のことだったが、じわじわと熱気が増していくあのクアトロ独奏をもう一度生で聴く機会はついにやってこなかった。

さようなら、エルナン・ガンボア
あなたは私にとって最初の「ベネズエラ民衆文化の師」でした。

追記
2015年1月24日、ベネズエラ国立テレサ・カレーニョ劇場リオス・レイナ・ホールにおいて、チェオ・ウルタードならびにノエル・ガンボア(エルナンの弟)、セレナータ・グアヤネサらが集まり、エルナン・ガンボアの追善公演が行われた。このイベントは、同月30日、ガンボア家の故郷シウダボリバルでも巡演された。



チェオ・ウルタードらが集って行われたエルナン・ガンボアお別れコンサート


posted by eLPop at 14:49 | 石橋純の熱帯秘法館