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ディエゴ・エル・シガーラ来日インタビュー〈2〉

2015.12.13

ベボの泉、ベボが導いた道

 1968年生まれのシガーラは、天才カンタオール、カマロン・デ・ラ・イスラの後継者の一人として、フラメンコ界の第一線に躍り出た。ソロ・デビュー作は、98年の『ウンデベルUndebel』。いかにもフラメンコで、ヒターノらしい題名……カロー語起源とのことで、神々しさの意。
 “カマロン”がエビ(小海老から車海老サイズまでを指す)なら、“シガーラ”はテナガエビ(正式名称ヨーロッパアカザエビで、イタリアのスキャンピ、フランスのラングスティーヌと同じ)。いつ頃、なぜこんな愛称を芸名にしたのか?との問いに、「若い頃よく動き回っていたので、家族や友人らからそう呼ばれるようになった」と答えている。また、「通常、フラメンコではアーティスト名を選んだり変えたりすることはないので、仕事として歌い始めた頃、シガーラと呼ばれるようになり、そのまま使い続けている」とのこと。
 まず現代のカンタオールで、革命児カマロンの影響を受けなかった者はいない。いかにカマロンの歌唱法から脱却できるかが、長らく後進らに課せられた命題だったともいえる。シガーラは、クランクアップしたばかりのドキュメンタリー映画『Calle 54』を、監督・脚本家フェルナンド・トルエバの自宅で見せてもらい、初めてベボ・バルデスの演奏に触れてたちまち“恋に落ちた”と語った。ベボとの出会いがシガーラに伝統の縛りを超える着想を与え、まろやかな独特の熟成の歌声を体得させていったのは間違いない。とまれ、インタビュー後編をお届けするとしよう。

――前作のプロジェクトはアルゼンチンがテーマだったが、次にサルサへのオマージュと決めたのには、何か特別な意図があったのか?
Cigala いや、『トゥクマンの月のロマンセ』のずっと前から、このアイディアがあった。ベボ・バルデスとも、このアイディアを語り合っていたんだよ。それでキューバを訪れ、ロス・バンバンのフアン・フォルメルとも顔合わせしていたし、そこから少しずつ構想を編んでゆき、形にしていって、何か良いテーマがあるとキープしておいた。そういう探索を、ずっと以前から徐々に始めていたわけだ。もうこの4〜5年かけて探し続けてきて、ようやっと100曲近く聴いた中から絞り込み、レパートリーが固まったんだ。もう毎晩毎晩、旅のさなかでも、『トゥクマン…』プロジェクトの間もずっと。『トゥクマン…』は、仲間と一緒に自宅で録音したんだが、かなり録音期間は短かったね。でも、『ラグリマス・ネグラス(黒い涙)』のほうが、もっと完成まで短かったな。3日間でレコーディングしたんだから。『トゥクマン…』は、集中して連日12時間、3週間かけて作った。というのも、早く録音してしまわないと、自分の気持ちが次のプロジェクトへと動いてしまうのを、どうにも抑えられなかったから。『トゥクマン…』に較べて、サルサのほうが、作業が大がかりになるのは目に見えていたし。サルサは多くのパーカッションを重ね、管楽器も入ってくる。コンガ、パイラ、ボンゴ、パルマ、ギター……もう、いっぱいね。
――あらゆる要素を積み上げていく必要があると。
Cigala もちろん! なので、敢えてゆっくり、時間をかけて作りたかった。衝動的に作ってしまうのではなく、穏やかな状態で、しかも手をかけて完璧に、満足のいくものに仕上げたい。いや、完璧は存在しないが、満足できるクオリティの仕上がりに近づけたいんだ。なぜなら、音楽にパーフェクトは存在しないからね。パーフェクトでは、グラシア(面白味)に欠ける。不完全だからこそ、面白いんだ。

――どのアルバムの選曲にも、単なる名曲尽くしでなく、独自の視点があって興味深い。選曲にあたって、何かポイントがあるのか?
Cigala クラシコ(古典の名曲)はすでにあり、誰もが知っている。だから俺は探し求める。あまり知られていないその曲が、作られた時代には何らかの形で価値を持っていたからだ。残念ながら話題にならなかった、或いは有名曲とは呼ばれなかっただけで、敢えてそこに目をつけ、見直すことに価値があると思ったからだ。あまり聴かれておらず、いわゆる有名曲ではないが、自分がそれを表に、陽の射すところに出そうというわけだ。例えば、セリア・クルスの「クアンド・デスピエルテス」は、ジョニー・パチェーコと共演したレパートリーだが、俺が歌ってみせたら、反対に(ラテン・サイドの)みんなから「それ、何の曲?」って言われたんだよ(笑)。それは、セリア・クルスがファニア・オールスターズとの時代に作られたテーマなんだが、時を経て俺が聴いて、初めて自分の中に飛び込んできたわけだね。とても感動したよ。だけど敢えて、楽曲を探す旅には出ない。探そうとすると見つからないものだからね。だから、自分のほうへ楽曲が訪れ来るのを待つ。向こうからやって来たその歌が、俺に何を見せてくれるのだろうか……という素直な気持ちでいて、自分からは決して求めたりしない。探そうとすれば、永遠にアルバム制作は終わらないからね(笑)。
――ふむ、追えば逃げてしまうわけですな。
Cigala そうそう。
――それに、あなたはフリオ・イグレシアスじゃないから、それでいいんだと思います。
Cigala アッハハハハ……セニョール・フリオ・イグレシアスは尊敬する友人だ。でも互いは、昼と夜みたいに違う(笑)。
――どちらが昼ですかね?
Cigala 俺が夜だ! ハッハッハッハ……

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――確認させていただきたいことが……お生まれは、マドリードのどの地域?どのバリオ?
Cigala マドリードでもっとも由緒正しいバリオ、バリオ・ラバピエスだ。ガキの頃、アグスティン・ララ広場の、アグスティン・ララ像の周りでボールを蹴って遊んでいた。
――そこからもう、あなたはラテンアメリカと繋がってません?(笑)
Cigala そのとおりだよ。その頃すでに、繋がっていたんだなぁ、信じられないことにラテンアメリカと……。ララ像の除幕式の日に、マリアッチ楽団がやって来て演奏を披露した。ガキだった俺はメキシコ人が珍しくて、マリアッチ楽士にメキシコのコインをもらったんだよ。ちょうど今の息子(※傍らに寄り添うラファエル少年、7歳)の年齢ぐらいだったな。コインを記念にもらえない?って、声かけたんだ。
――ご家族の中にも、プロのカンタオールやギタリストがいたのか?
Cigala もちろん、父もカンタオールだったし、母方の伯父ラファエル・ファリーナも歌っていた。別の叔父たちもタブラオで歌っていたね。母も美しい声で歌が巧かったが、父がプロ活動を許さなかった……決してね。だから母が歌うのは、結婚式とかクリスマスとかの行事だけ。父が嫌がったんでね。
――昔堅気の方なんですね?
Cigala そう、古い気質と考え方でさ(笑)。

――ベボ・バルデスが、あなたにラテンアメリカの扉を開いたわけですが……。
Cigala 世界の扉をだ! まったく違う世界の扉を開いてくれた。ベボと知り合えたことは、俺にとって英雄に出会えたにも等しい。どの時代を見渡しても、彼ほど偉大な人物はいない。彼のピアノのお蔭……フラメンコギターしか知らなかった自分の世界から、ベボのピアノが新しい世界を見せてくれたのだから。あらゆる音楽に関する知識を、彼は授けてくれた。かつて自分の頭をよぎったこともないような知識まで、惜しみなく教えてくれた。アフロキューバ音楽とラテン音楽から、タンゴまで。「ソレダー(孤独)」(※カルロス・ガルデル作曲、アルフレド・レペラ作詞のタンゴ・カンシオン)とか「ラス・クアレンタ」(※ロベルト・グレラ作曲、フランシスコ・ゴリンド作詞のタンゴ)を歌うようアドバイスしてくれたのも、ベボだった。俺の声が、クルーナーにふさわしい驚くべき幅広い音域を持つと教えてくれて、だからボレロもタンゴも歌えるよと諭してくれた。自分ではまったく理解できていなかったけれど、彼の話を聞くうちに納得できてきたんだ。ベボと出会えたことは、人生最大の幸せだ。彼は音楽の天才だ。一番今、彼に逢いたいよ……。
――じゃあ、亡くなったと聞いた時は悲しかったでしょう?(※2013年3月22日、スペインのマラガで94歳の生涯を閉じた)
Cigala すごく、ものすごく……訃報を聞いたのは、『トゥクマンの月のロマンセ』の録音中だった。スタジオ入りしていて、ちょっと休憩をとるため下の階のロビーに降りてきてテレビをつけたら、ベボ・バルデスが亡くなったというニュースを見た。妻のアンパロと二人して、言葉を失ってしまったよ。その5分後に俺の携帯電話が鳴り始めて、これほどの偉大な音楽家を失ったことについて俺自身のコメントを求めてきた。なので、もういっさい電話には出なかった。ハ〜ァ、本当に苦しかったなぁ……(深い溜め息)。でも、今は天国にいるから……ほかの偉大な仲間と一緒にね。

――2000年のアルバム中の「ノ・ティエネ・ドゥエニョNo tiene dueño」という曲。その一節に……De la fuente que bebo no tiene dueño.(※俺の飲む泉に主はおらぬ)とある。その次のアルバムでは、「ベボの泉La fuente de Bebo」(※bebo=俺は飲むから、固有名詞=Bebo)に変わった。
Cigala それは、ベボへのオマージュだったんだ。収録した『コーレン・ティエンポ・デ・アレグリア』は、ベボと知り合ったばかりのアルバム。レコーディングのさなか、彼に参加して欲しいと誘って、「アマール・イ・ビビール」(※ボレロ)と「セニョール・デル・アイレ」(※グアヒーラ)を共演し、もう1曲「ベボの泉」(※ブレリーア)の歌詞をベボに捧げたわけだ。そのあと、映画監督フェルナンド・トルエバの家で一緒に夕食をとり、酒を飲みながらベボと話をした。一緒にボレロのアルバムを作ろう、とね。彼はすぐ「もちろんだ、息子よ。望むところだ、息子よ……」(※キューバ訛りで再現)ってね。それでスタジオ入りしたら、彼が言うんだ。「私はクバーノのピアノを弾くから、キミはヒターノの歌い方でやりな!」とね。その指示のまま録音を続け、『黒い涙』が3日間で出来上がった。俺はピアノと歌うなんて、なんせ初めてだったからね。たぶん、だからこそ、あれだけの作品が生まれたんだと思う。まぁ初めての経験だったし、ピアノ演奏を追いかけるのに必死で、実はいっぱいいっぱいだったがね(笑)。
――さっきのフレーズがあったので、あなたが「ベボの泉」をどんどん飲みほしているというイメージを、ずっと抱いてきたんです。
Cigala ハハハ、なるほど。ベボというお人は、まったく電撃的な刺激を与えてくれる。あのエネルギーたるや! ベボと顔を合わせていると、彼の眼差しが自分の内側に突き刺さってくるほどのエネルギーだったんだ。ベボの視線にはただならぬものがあって、情熱的。しかも紳士的で、洗練された品格を持つ人物だった。俺が何か解らないことで戸惑っていると、すぐさまそれを見抜き、まるで俺の気持ちを察しているかのように、丁寧にひとつひとつ教えてくれたものだ。たちまち察して、自分の道へと導いてくれたんだ。それがベボという人なんだよ。
――とにかく、次作を楽しみにしています。
Cigala ドミニカ、プエルトリコ、キューバ、ニューヨーク録音となるビッグ・プロジェクトだ。あ゛〜〜〜考えるだけで頭が痛いや(笑)。

 インタビュー終了後のイベント会場で、ラテン音楽との最初のコンタクトについて尋ねると、「子供の頃、ルーチョ・ガティーカなんかをよく聴いたものだが、まともに向き合えたのは、ことごとくベボのお蔭だ」と、あらためて強調していたのが印象に残る。また、eLPop幹事長(?)岡本郁生氏が挙手し、ラテンで一番好きな歌手は?と問えば、迷わず「エクトル・ラボー」と即答。
 シガーラのラテン音楽に対する“恋”は、スペインの記事で綴られていたような“戯れの火遊び”どころか、カンタオールの人生を一変させてしまう宿命的な出会いだったに違いあるまい。
 キャリア10枚目となる新作の完成が待たれるが、併せて2016年にオマーラ・ポルトゥオンドとのヨーロッパ「85」ツアーが予定されていることも、補足しておこう。
posted by eLPop at 03:40 | 佐藤由美のGO!アデントロ