Top > 水口良樹のペルー四方山がたり > 映画「SIGO SIENDO(カチカニラクミ)」を巡る徒然 その1

映画「SIGO SIENDO(カチカニラクミ)」を巡る徒然 その1

2015.11.23

04sigo_siendo_26166.jpg

◆その1:イントロダクションとアマゾン編

 山形国際ドキュメンタリー映画祭のコンペティション部門で、かねてより見たくてたまらなかったペルーの音楽映画「SIGO SIENDO(シゴ・シエンド)」(2013)が上映されるということで見に行ってきた。結局東京でもセルバンテス文化センターで上映されることになったので、わざわざ山形まで行かなくても見れたのだが、それでも実際に監督に直接質問をしたり山形の映画祭の中での観客の反応などを感じながらの観劇は有意義なものであった(と自分に言い聞かせている)。
 その後「エル・ポップ・パーティVol.5:ラテン音楽最新リポート」で「SIGO SIENDO」を紹介させていただいた(その時の紹介記事はこちら)。しかし、まだまだ語り足りないことも多いので数回に渡りもう少し突っ込んでご紹介できればと思う。


まずは予告編



 この映画は、スペインで映画を学んだリマ出身のハビエル・コルクエラ監督が、「アイデンティティの物語」と語る作品だ。統合されえないペルー民衆の生きる姿を、彼ら民衆自身が常にともにあった音楽との関わりを通して描いたものだ。タイトルは「シゴ・シエンド」というスペイン語であるが、監督はこの映画を一貫して副題の「kachkamiraqmi(カチカニラクミ)」で呼んでいたことから、おそらく監督自身が付けたかった本来のタイトルは「カチカニラクミ」(ケチュア語)ではなかっただろうかと考えられる。その意味は「私(たち)は(今も変わらず)ここにいる」で、ケチュア語での挨拶のひとつだという。

 ペルーには、非常に多くの民族が住み、多言語/多文化が今なお共存している社会である。しかし同時にスペイン人のラテンアメリカ到達以来、そして独立後も変わらず、日々彼らの生活を西洋近代資本主義社会の最下層に編入するために強い圧力がかけられ続けている。その一方で、こうした民族的多様性は、国のアピールポイントとして都合よく利用/消費されてきた。そうした空虚な、半ば虚構とも言える「ペルー共和国」像に対して、実際にそれぞれの土地で、社会の周縁部とみなされる社会的位置づけの中で泣き、笑い、喜びも悲しみもその一切を自らのものとして生きてきた民衆音楽家たちの生き様を切り取ることで、そうした公式の「語り」に異議申し立てをした映画だと言える。
 そのため当然ながら、ここで登場する「ペルー音楽」に、日本の街角でも見かけるいわゆる「フォルクローレ」と呼ばれるコンフントスタイルの楽団も「コンドルは飛んで行く」も登場しない。外に向けてはこうしたステレオタイプの「ペルー像」を破壊し、実際にペルーの民衆音楽が生活の中でかけがえのない伴侶として存在しているその姿を切り取り提示してくれているのだ。

 この映画が扱っているのは、広大で多様なペルーのごく一部の地域だ。沿岸部は首都のリマと南部アフロ集落のエル・カルメン。そしてアンデス地域はこれまた南部のアヤクーチョ県プキオ近郊。そしてアマゾンは高地アマゾンのアマソナス県だ。カタログ的な作品ではないと監督も断っているが、もちろん、それによってあれもこれも素晴らしいのにこぼれ落ちてしまっているとか、これがあればもっとインパクトあっただろうと言う思いはある。しかし、それでもよくぞこの場所を選んだと喝采を送りたくなるほどに、この映画が創りだす情景には圧倒的な説得力がある。繰り返し響くバイオリンの音色に、リマのスラムの情景に、そしてアマゾンの豊かな水と森の風景に、果てしないアンデスの山並みに、リマの忘れ去られた古いカジェホン(集合住宅)に。ペルーの今を生きている人々の、我々からはかけ離れた一端が強い印象とともに描き出される。ステレオタイプを一切排除した、まさに民衆が生きている空気感と肌触りを伝えてくれる、そんな音楽ドキュメンタリーである。

 この映画は音楽ドキュメンタリー映画なので数多くの民衆音楽家たちが登場する。監督曰く、彼等は「ペルー国内においてもテレビにもラジオにもほとんど登場することがない、メインストリームから阻害された民衆音楽家たち」でありながらにして、それぞれのコミュニティにおいてはヒーローであり、生ける伝説である素晴らしい音楽家たちだ(撮影後亡くなってしまっている方も数名おられる)。映画の劇中では、この素晴らしき音楽家たちは改めて紹介されることなく、テロップさえもつかない。それ故知っている人だけがその姿を見て演奏が始まる前から興奮し、演奏が始まれば初めて見た人も超一流の素晴らしい演奏であることに気づく、という仕掛けの映画になっている。これはおそらく、ペルーの内と外、それぞれの視点で異なる見方を提示する意図によるのではないかと思う。市井のおっちゃんが持っているくたびれた楽器が、一度その人が奏で出すと魔法の楽器へと変貌する。そうして一般民衆の中に息づく魔術的ペルーの音楽的多様性と豊かさを見せる外部者向けの構造と、敬愛すべき偉大なるマエストロたちの人生を紐解きながら彼等の魂の音楽に再会する内部者向けの構造である。ただし、その構造故に、映画の中で心をうち震わした素晴らしい演奏と出会えたとしても、その音楽家がはたしてなんという人なのかわからないという作りになってしまっている。映画のホームページをみるとその多くについては紹介されてはいるが、その一手間をかけないとわからない、という安易に答えを与えない監督の仕掛けに見事にハマっているような錯覚に陥ったりもする。


 さて、実際の物語はアマゾンから始まる。ペルーの高地アマゾンに住む先住民シピバの女性の印象的な語りとそれに続く歌である。
 監督によると、ここで歌われた歌は本来はアヤワスカの儀礼の時に歌われる即興の歌とのことだが、ここでは幻覚を呼び起こす聖なる植物アヤワスカは登場しない。静かに船に乗って歌われる彼女の歌がこの物語の導入となる。そして彼女の歌はその後も繰り返し作中に登場する。物語はアマゾンから始まり、チンチャ・アンデスを経てリマにいたり、最後は再びアマゾンのシャーマン、ロニ・ワノの歌で終わることからも、この歌が如何に映画の中心を占める重要な存在であるのかは明白である。強い印象を残すその歌は、作中のさまざまな社会をもっとも外側から、もっとも力強く編み上げている。それは、この映画が描こうとした民衆のもっとも陽の光があてられてこなかった人たちである、ということと、今もっとも変化の最前線で民族の記憶と誇りを日々問われ続けている人たちであるということとも関係があるのだろう。
 21世紀は水の世紀と言われている。水をめぐる問題は、社会の周縁に生きる人々を真っ先に直撃する。自然とともに生きる人々はなおさらである。この作品のもう一つのテーマは水である、と語る監督だが、このシピバの女性とともに描かれる夢幻の中のような光景と歌声により、水というものが持つ神秘性とその生存に不可欠な重要性が改めて提起されているように思われる。監督は、鉱山開発による水質汚染が彼等の生活を直撃していることと、それに対する反対運動で死者が出ていることなどに言及しながら、この問題が決して辺境に住む先住民だけの問題でないことを力説している。

(その2につづく)
posted by eLPop at 02:19 | 水口良樹のペルー四方山がたり