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来日直前! ホセ・フェリシアーノ・インタビュー

2015.07.13

7月16日(木)〜18日(土)、プエルトリコ出身のシンガー・ソングライター、ホセ・フェリシアーノがブルーノート東京で公演を行う。昨年11月に来日したばかりだというのに、またあの素晴らしいパフォーマンスが見られるのかと思うと、興奮を抑えきれない。前回来日時に行ったインタビュー、部分的には月刊「ラティーナ」に掲載させていただいたのだが、再来日を直前にして、全編をここでご紹介したいと思う。

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――私が中学生のころ(1970年代初頭)、あなたの曲がよくラジオでかかっていましたよ。

ホセ・フェリシアーノ(JF) どの曲かな?

――「Light My Fire」「Rain」「Que Sera」とか…






JF 僕のスペイン語の曲も日本でかかってた?

――いや、あまりかかってませんでしたね。

JF 「Porque Te Tengo Que Olvidar」「Paso La Vida Pensando」「Volvere Alguna Vez」「Samba Pa Ti」「En Aranjuez Con Tu Amor」…。いろんなスペイン語の曲、たくさんあるんだけどね。








――5歳までプエルトリコで育ったということですが、当時の思い出は何かありますか?

JF 僕のおじさんが、音楽を教えてくれたんだ。彼はプエルトリコのクアトロという楽器を弾いていた。いつも僕は、クラッカーの缶で彼に合わせて演奏していた。そのころはパーカッションをプレイしてたんだ。そして4歳のとき初めてハーモニカを吹いた。5歳のときニューヨークへ来て、7歳でアコーディオン(註:コンセルティーナと呼ばれる小型のアコーディオン)を始めた。14歳までアコーディオンを弾いていて、その間に8歳でウクレレ、9歳でギターを弾くようになった。友だちがお父さんからもらったギターをね。

――当時はどんな曲を弾いていたんですか?

JF ラジオでかかっていた曲だね。チャック・ベリー、エルヴィス・プレスリー。ラテンももちろんかかっていたから、ラテン音楽。それが50年代で、60年代になってフォーク・ミュージックを弾くようになった、。1963年、ヴィレッジの「ガーリーズ・フォーク・シティ」でスタートしたんだ。

――9歳のとき、ブロンクスのプエルトリカン・シアターのステージに立ったということなんですが、これは?

JF アコーディオンでね。ラジオ番組主催のコンテストだった。母が申し込んだ。

――50年代といえばマンボの時代ですよね。マチート、ティト、プエンテ…

JF もちろん全部聞いていたよ。でも僕はまだ若かったから、そういう歌を歌ってはいなかった。マチート、ティト・ロドリゲス、ペレス・プラド、ベニ・モレ、ダニエル・サントス、トリオ・ロス・パンチョスのジョニー・アルビーノ、なんかをよく聞いていた。

――ヒバロ音楽はどうですか? 生まれ故郷のラレスはヒバロ音楽の地域ですよね。

JF ヒバロ音楽はニューヨークでもよく聞いていた。ラミート、彼はヒバロのベストのミュージシャン。そして、チュイート・エル・デ・バヤモン。あと、ラ・カランドリア。彼女はヒバロ音楽の素晴らしい歌手だった

――おかあさんがよくボレロを歌っていたとか?

JF ああ、もちろん歌ったけど、ボレロはレコードを聞いて覚えた。母が持っていたレコードで。のちに…1957年か58年だが…クアトロを弾いていたおじがプエルトリコからニューヨークへ来た。彼はレコードのコレクターだったので、彼のレコードを聞かせてもらってたよ。

――なぜアコーディオンからギターに転向したのでしょう?

JF ギターを聞いたとたん、恋に落ちた。そしてアコーディオンより表現力があると思った。

――ギタリストでは誰が好きですか?

JF 偉大なレキント奏者のミゲリート・アルカイデ(Miguelito Arcaide)。ジョニー・アルビーノと一緒にトリオ・サンフアンをやってたオラ・マルティネス(Ola Martinez)。クラシック・ギターのアンドレス・セゴビア(Andrés Segovia)。他にクラシック・ギターではジュリアン・ブリーム、ジョン・ウィリアムス。ジャズでは、レス・ポール、ウェス・モンゴメリー、ジョニー・スミス、チャーリー・バード、ルイス・ボンファ、ジャンゴ・ラインハルト、といった人たちだね。

――当時は一日に14時間以上練習していたと聞きましたが…

JF そうだよ。聞いて、やってみて、繰り返す。なんでも聞いたものをね。クラシック音楽のセゴビアのレコードを聞いて、練習する。16歳のときクラシック・ギターのレッスンを受けたときに言われて、クラシックの楽曲を練習するようになった。

――あなたのギターを聞いていると、フラメンコのサウンドやクアトロのフレージングを感じることがあるんですが。

JF 僕はフラメンコのギタリストじゃない。そうなろうと思ったこともないしね。僕がナイロン弦のギターを弾いて、指が凄く速いからフラメンコを思わせるのかもしれない。もちろんフラメンコは聞くけど、フラメンコに入れ込んだことはない。

――いまは何時間ぐらい練習を?

JF いまは練習する代わりにスタジオで録音している。それが練習の替わりかな。ツアーの時はあまり練習する必要はないしね。

――17歳のときにヴィレッジで歌い始めたんでしたよね?

JF そうだ。1963年にヴィレッジの「ガーリーズ・フォーク・シティ」や他の場所で歌い始めた。それがキャリアのスタートだった。

――ボブ・ディランやジョーン・バエズも歌っていたんですよね?

JF 彼らも僕の出ていた「ガーリーズ」に出ていたよ。そこでボブ・ディランに会ったんだ。

――なぜ、ラテン・クラブではなく、ヴィレッジだったんですか? 

JF ラテン・クラブには年齢制限があった。ある年以上じゃなければならなかったし、僕はそういう場所では歌いたくなかった。もっと、アメリカンのシーンで歌いたかった。ラテン・シーンではなく。
1967年、音楽祭に出演するためにアルゼンチンに行くまで、僕はラテン・シーンには参入しなかった。そこでボレロを録音することになったんだ。Youtubeで僕の名前をいれたら…Jose Feliciano, Spanishと入れたら…僕の初期のスペイン語の録音が出てくるよ。

――アルゼンチンで「Poquita Fe」を録音したんですよね? それがあなたの最初のオリジナルですか?

JF いや、それはボビー・カポの作品だ。ほかに、アグスティン・ララの「Noche de Ronda」、ロベルト・カルトラルの「El Reloj」、子供のころに聞いていたたくさんのボレロを録音した。




――フォーク・クラブではボレロは歌わなかったんですか?

JF そうだ。唯一フォーク・クラブでやったのは「Dos Cruces」。1964年、最初のレコードに入れた曲だ。


――フォーク・クラブではどんな曲を演奏していましたか? オリジナルでしょうか?

JF いや。そのころはまだ曲を書いていなかったから、フォーク・ミュージックを歌っていた。ボブ・ディランの「Don’t Think Twice It’s Alright」、ピーター・ポール&マリー、ピート・シーガーの曲なんかをね。僕はフォーク・ミュージシャンを敬愛していた。

――ほかにはどんな歌手を…?

JF キングストン・トリオ。ブルース歌手のレッド・ベリー、ブラウニー・マギー、マディ・ウォーターズ。僕はブルース・シンガーが大好きだった。

――「Light My Fire」はロサンゼルスで録音したんですね?

JF 1968年.僕の4枚目のアルバム『フェリシアーノ』に入れた。プロデューサーはリック・ジャラード(Rick Jarrard)

――どういう経緯で? ドアーズは知ってたんですか?

JF いやドアーズは知らなかった。でも、67年に出たときに曲を聞いて好きになった。プロデューサーのジャラードが68年にカルフォルニアのフォーク・クラブで僕が演奏するのを見て、アルバム『フェリシアーノ』を録音することになった。その録音セッションの最後に「Light My Fire」を収録してくれ、ということで、録ることになった。

――ドアーズのメンバーとは会いましたか?

JF レイ・マンザレクしか会ってない。ロビー・クリーガーには会ってない。ドラマーに会ったかもしれないけど、覚えてない。

――ジム・モリソンは?

JF ジム・モリソンには会ってない。

――そのころどんな曲が好きでした?

JF いろんな曲が好きだったよ、録音した「California Dreaming」「In My Life」「Always Something to remind me」「Last Thing On My Mind」、僕はさまざまな曲が好きだった。そして結果的にそういう曲がアルバムに入った。

――そのころはどこに住んでいましたか?

JF ロサンゼルスだ。1967年にニューヨークから引っ越したんだ。

――理由は?

JF 寒い気候がイヤでカリフォルニアに引っ越した。

――60年代後半には、ブガルーとかサルサといったムーヴメントがありました。

JF それには巻き込まれなかった。僕はボレロに夢中になっていたんだ。そういう動きは65年か66年ごろに起きた。僕はほかのものに夢中になっていて、サルサには行かなかった。

――なぜですか? 嫌いだったんですか?

JF いや、嫌いじゃないけど、僕の音楽じゃない。

――なるほど。では、サンタナやラテンロックは?

JF 僕はサンタナに1970年、カリフォルニアで会った。そして83年には彼とデュエットした。スペイン語アルバムアルバム『Escenas de amor』を作って、そこで彼と「Samba Pa’ Ti」をやった。彼の曲だ。僕のプロデューサーがスペイン語の歌詞をつけて。なかなかいいバラードになった。サンタナはギターを弾いている。


――それ以来、親交があるんですね?

JF もちろん。サンタナはとてもいい男で、とてもスピリチュアルで、偉大なミュージシャンだ。

――テレビ・ドラマ「チコ・アンド・ザ・マン」のテーマ曲を歌っていますよね?

JF 「Chico And The Man」はテレビ番組のために1973年に書いた。その年、ヴァケーションでドラマーと一緒にブラジルにいた。そしたら、テーマ曲を書いてほしいからとカルフォルニアに呼び戻されて、そうだな……ほんの数分で書いた。そしてRCAで録音したんだ。

――「チコ・アンド・ザ・マン」はラティーノが主人公の最初のドラマ、といわれているようですが。

JF いや、最初にラティーノがテレビに出たのはデシ・アルナスだろう。「アイ・ラヴ・ルーシー」の。50年代だよ。

――この曲は、ジョー・バターンがそのあとカヴァーしましたよね?

JF いや、それは知らない。とにかく私が最初だったんだ。

――これまで共演した中で一番印象的だった人は?

JF それは難しいな。彼らはそれぞれ、素晴らしい人だったから。

――グロリアとエミリオ・エステファンにインタビューしたとき、「付き合ってる当時、あなたの声はバイアグラだった」といっていましたよ。

JF (爆笑)それはいいね。僕には何もいうことはないよ。

――最初に東京に来たのは?

JF 1970年。いや、71年だな。たくさんコンサートをした。そのあとが75年。渋谷公会堂、厚生年金、大阪、福岡、北海道、九州……全国でやった。

――日本はどうですか?

JF ブルーノートもいいんだけど、コンサート・ホールでやりたいね。電車や汽車でコンサートに行きたいんだ。

――使っているギターを教えてください。

JF エレクトリックは、ウェッバー(Webber)。クラシックはラグーナ(Laguna)。そして、ポール・リード・スミス(Paul Reed Smith)、ギブソン・レスポール、ギルドの12弦、リッケンバッカーの12弦、マーティンのスティール、これはすごく気に入ってる。ときによって使い分けている。

――今回は?

JF ラグーナとウェッバーだ。

――いまもまだカルフォルニアに住んでるんですか?

JF いや、コネティカットだ。東海岸の。

――寒いでしょ?

JF 残念なことに、そうなんだよ(笑)

(2014年11月13日 ブルーノート東京にて)
posted by eLPop at 14:29 | 岡本郁生のラテン横丁