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<いーぐる連続公演・第560回「日本のラテン」>でかけた曲

2015.06.22

★2015年6月20日(土)<いーぐる連続公演・第560回「日本のラテン」>でかけた曲リスト

El Manisero/Don Azpiazu’s Orchestra 1930年5月録音
南京豆売り/鉄仮面     1930年(昭和5年)10月録音:1931年1月発売
ラ・クカラチャ/小林千代子   1934年(昭和9年)
おやおやルンバ/三益愛子    1939年(昭和14年)
夜来香/山口淑子    1949年(昭和24年)録音:1950年発売
ベサメ・ムーチョ/淡谷のり子 1952年(昭和27年)録音・発売
Besame Mucho/Los Tres Diamantes
Sin Ti/Trio Los Panchos
パパはマンボがお好き/高島忠夫、金色仮面  1955年(昭和30年)発売
チャチャチャは素晴らしい/江利チエミ
   (Milagros del Cha Cha Cha/Enrique Jorrin)1954〜5年?
ルンバ・ハポネサ/アイ・ジョージ     1955年?
Cerezo Rosa/Perez Prado
セレソ・ローサ/見砂直照と東京キューバン・ボーイズ  1955年
(マンボNo.8/有馬徹とノーチェ・クバーナ  『情熱のラテンビート』1967年)
お祭りマンボ/美空ひばり     1952年
お祭りマンボ/浜口庫之助とアフロクバーノ  1955年
さいざんすマンボ/トニー谷&宮城まり子   1950年代初頭?
東京ドドンパ娘/渡辺マリ     1961年
みどりちゃんのドドンパ/田代みどり+スカイライナー・アンサンブル 1961年
Magica Luna/Celia Cruz
月影のキューバ/クリスタルシスターズ 1960年? 
(コーヒールンバ/西田佐知子    1961年?)
(恋はクンビア/弘田三枝子   1965年)
南京豆売り/鶴岡雅義とトリオ・ロス・カバジェロス 1965年
小樽のひとよ/鶴岡雅義と東京ロマンチカ   1967年
コモエスタ赤坂/ロス・インディオス   1968年
夜の銀狐/斉条史朗    1969年?
(星のフラメンコ/西郷輝彦    1966年)
(恋のメキシカンロック/橋幸夫  1967年)  
(レッツゴーブガルー/バニーズ  1968年?)
レインボー・ラヴ/オルケスタ・デル・ソル 1981年
Touch The New York Pink/松岡直也   1982年
赤い鳥逃げた/中森明菜   1985年
ダブルブッキング/郷ひろみ(La Chica de Cuba/Philippe Lavil) 1989年
私はピアノ/オルケスタ・デ・ラ・ルス  1991年
カプセル/CHICA BOOM   1992年
ガンバッテヤンド/ディアマンテス   1993年
私の彼は雪だるま/アラスカバンド   1994年
ヨコスカ・マンボ/クレイジーケンバンド&野坂昭如 2001年(※オリジナル1974年)
(ロドリゲス兄弟/クレイジーケンバンド  2005年)
夜の銀狐/南加遊太郎

*()内は予定していたがかけなかった曲。

「いーぐる」の後藤店長から「<日本のラテン>で講演しろ」との命が下り、悩みに悩んだあげくの選曲。ラテン音楽最初の世界的ヒット「南京豆売り」がニューヨークで録音された5ヶ月後にはもう日本でカバーが作られていたという話から始まって、2000年代まで駆け足で振り返った。

いろいろ考えるところがあったが、今回改めて気づいたのは、私がサルサを聞き始めた70年代半ば当時、マンボやトリオものなどいわゆる「古いラテン」がなぜイヤがられていたかということ。

第二次大戦が終わってラテンもジャズとして再び一気に日本に入ってきたわけだが、演奏される場所は大人の社交場としてのグランド・キャバレーがメインだった。1950年代のマンボ全盛時代、ニューヨークでもビッグバンドによるマンボはたとえば「パレイディアム」のような大きなダンスホールで演奏され踊られていたわけで、このころ、マンボの聞かれ方は日米でおおむね相似形だったといってよい。

しかしその後、プレスリーが登場してロカビリー・ブームが巻き起こり、さらにベンチャーズ、ビートルズが日本を席巻するようになると、楽団はビッグバンドではなく小編成のコンボとなり、演奏の場は当時のジャズ喫茶(ライヴハウス)へと移って行った。そんな中でラテンは相変わらずビッグバンドを続けていたのである。

実はニューヨークにおいても、ビッグバンド中心のマンボは1960年を境に急激に下火になっていき、その後、比較的小編成のバンドによるブガルーやサルサが誕生する。とはいえ、マンボにしても、ブガルー、サルサにしても、それを担っていたのはラティーノたちであった。つまり、世代交代によって新しい種類のラテン音楽が登場したのである。

しかし日本の場合、ラテンはもともと外来のものである。ビッグバンドのマンボ、あるいはトリオものを演奏する人たちの年齢が上がっていって、その下の世代がロカビリー、エレキ、グループサウンズに夢中になったとき、当然ながら、その中から新しいラテン音楽は誕生しなかった。

こうして日本では、マンボ〜トリオものは完全に「キャバレー」=「大人の世界(夜の世界)」の音楽に追いやられて行ったのではないだろうか。

今回、70年代の楽曲がまったくなかったのはなぜだろう?と考えると、たしかにあのころ、日本の音楽界は歌謡曲とフォーク〜ニューミュージックがメインで、いわゆるラテンは、完全に過去のものとなっていたのだ。

そこに突然上陸したサルサ。これは、よく考えればマンボの延長線上にあったわけなのだが、当時サルサを聞き始めた若者たちは完全にロックやブルースと同じ視線でサルサをとらえていたのだった。

いろいろと考察していくときりがなくなるのだが、このへんの事情は、今後もさらに深く探って行きたいと思っているところだ。
posted by eLPop at 01:36 | 岡本郁生のラテン横丁