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ラリー・ハーロウ・インタビューA

2015.01.07

――60年代になってどう変わったんでしょうか?

60年代というのは革命のときだ。ビートルズ、ベトナム、ウッドストック、セックス、ドラッグ・・・そして音楽も変わった。

50年代後半は、♪1,2,3,…together,1,2,3… bailando cha cha cha…みたいなシンプルな歌詞、シンプルなコード、シンプルなアレンジの曲ばかりだったが、このころから、ヒューマニティ、戦争、プロテストなどを書くようになった。

歌詞もアレンジももっと良くなったし、演奏者ももっと良くなった。プエルトリコから、そしてキューバからの亡命者も来た。ファンも多くなった。われわれが演奏するところにはいつも200人の女の子が来ていた。そうすると、300人の男が来る。なので常に500人の客がいた。

週に10回のステージをやってたよ。クラブからクラブへまわって。私だけじゃない。ウィリー・コロン、パチェーコ、オルケスタ・ブロードウェイ、リッチー・レイ…みんなそうだ。衣装も変わった。サイケデリックな感じになったりして。楽しかったね。



――改めて、あなたのバックグラウンドを教えてください。

両親はともにブルックリン生まれ。父方はもともとオーストリアのウィーンからの移民で、母方はウクライナのキエフからだ。親戚は、ラビだったり、シナゴーグで歌う人たちだったりで、とても音楽的な家族だった。母はピアノを弾き、オペラを歌っていた。父の兄弟はバイオリンやピアノを弾き、コメディアンになった人もいる。ショウビジネスだ。

父は18歳でサックスのプロになった。だが、メリーランドでクルマの事故にあい、肺がつぶれてしまった。
そのとき命を救ってくれた医者の名前が「Harlowe」なんだ。で、彼から名前を取って「Harlow」とした、最後の「e」はなくしてね。

父は「ラテン・クォーター」という有名なナイトクラブで楽団を持っていた。野球選手とかカッコいいやつらが集めるようなクラブだ。
私は8、9、10歳ぐらいから毎回ショウを見ていた。ジェリー・ルイスとか、コメディアン、うまい歌手をたくさん見てた。父はダンス・オーケストラを持っていて、16人編成でコンティネンタル・ミュージックをやっていた。でも、テキサスの人が来ればテキサスの歌を、パリの人が来ればパリの歌を、イタリア人が来ればイタリアの歌を歌った。スぺイン語でも歌った。スペイン語はよくわからなかったと思うが、情熱的に「ベサメ・ムーチョ」を歌っていたよ。

夜の仕事だったが、12〜13歳になると仲間にしてくれて、ときどき52丁目へ行ってジャズを聞いていた。チャーリー・パーカーとかをね。そして高校に入って、アフリカ系のやつらとラテン音楽をやり始めた。キューバのマンボを。「マンボNo1」「マンボ No5」とか。(♪歌う…)ビッグバンドでだよ。

最初、「できるか?」というので弾いてみたら「ヒドイな」とすぐクビにされた。そこで、ジョー・ロコやノロ・モラレスのレコードをコピーして次の週に行ってまた弾いたら、今度は「OK!」と。



――一番大きいのはノロ・モラレスの影響でしょうか?

ノロ、ペルチン、リリ・マルティネス。あとは、ジョー・ロコ、ホセ・クルベーロ。ホセはあとで私のマネージャーになった。彼はティト・プエンテのマネージャーでもあった。チャーリー・パルミエリ、エディ・パルミエリもそう。ファニアと契約したのはティトのおかげだ。ティトにはほんとうに世話になった。

――昔は「ハーロウはユダヤ人“なのに”ラテンをやっている」と紹介されていました。いまでは「ハーロウはユダヤ人“だから”ラテンをやっている」んだと思います。他にもたくさんユダヤ人の音楽家がいますよね。ルイス・カーン、バリー・ロジャーズ…。ガーシュウィンもそうですよね。

もともとは、すべて中東から来た、ということじゃないのかな? それがヨーロッパ、そしてスペインを通ってスペイン植民地へ行った、と。キューバ、プエルトリコ、さらに米国へと。

サルサというのは、アフロ・キューバンとビバップ/ジャズのミックスだ。キューバが閉鎖されてから、我々は何かを作り出さなきゃならないと思った。サルサはすべてのミックスだ。ニューヨークのラテン・サウンドはそれまでのキューバ音楽とはぜんぜん違うんだ。

――より良い歌詞、より良いアレンジ、より良いプレイヤー、ということでしょうか。

私は、ちょうどいいときに、いい場所にいたと思う。
音楽以外でも、私は衣装を替えたし、バンドの楽器編成を変えて別の楽器を使うようになった。バタとかね。
そしてラテン・オペラを書いて、4チャンネルも試した。最初のデジタル、最初の4チャンネルだった。4チャンネルの幸せな時代だよ。とにかくトップ・レベルでね。マグネティック・フィルムに録音、ドルビーなどさまざまなノイズ・リダクションも試した。そのころからトラック数も増えていった。いまじゃ、みんな家にスタジオがあってひとりですべての楽器を演奏してたりするわけだけど(笑)

(続く)
posted by eLPop at 21:51 | 岡本郁生のラテン横丁