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「エル・プレベジョ」をめぐる物語

2014.12.31

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ペルーのムシカ・クリオーヤを代表する名曲に「El Plebeyo」という曲がある。「庶民」という名前の、市井の若者が身分違いの恋に苦しむ恋の歌だ。ムシカ・クリオーヤにおいてもっとも重要な作曲家の一人であり、素晴らしい名曲を数多く残したバリオ(下町)の音楽家、フェリペ・ピングロ・アルバの残した作品だ。この「エル・プレベジョ」は、チャブーカ・グランダの「ラ・フロール・デ・ラ・カネーラ(ニッケの花)」と並び称されるペルーのバルスを代表する一曲である。
 今回はこの名曲と、作曲者フェリペ・ピングロ、そしてこのバルスと共に有名になったペルーの国民的歌手ヘスス・バスケスとその周辺の物語を少しご紹介したいと思う。


 ペルー沿岸地方の民衆音楽であるムシカ・クリオーヤは、その多くがフィエスタの音楽として愛される踊りの音楽だ。時代時代に即した音楽を柔軟に取り入れ、また独自の発展をみせながら常に人々の心に寄り添う音楽として愛されてきた。夜を徹して歌い、踊り、呑み、冗談で笑い、語り合うフィエスタの情景は、今なお変わることなく続いている。
 19世紀にはマリネラ(当時はサマクエカ、チレナと呼ばれていた)がフィエスタの花形だったが、19世紀後半より徐々にバルス(ワルツ)やポルカといった新しくヨーロッパから入ってきた音楽がラテンアメリカ全土で流行し始め、御多分にもれずペルーのバリオでもバルスやポルカが人気の踊りとなっていった。
 しかしバルスやポルカの人気も20世紀初頭には次第に減速し、多くの国では土着の音楽と融合が進み、バルス自体が演奏されることも次第に減っていった。ペルーでも、20世紀初頭以降はタンゴやマズルカ、フォックストロットといった新しい音楽にお株を奪われつつあった。

 20世紀初頭、民衆の生活の場であるリマのバリオでは、カジェホンと呼ばれる中庭を持った集合住宅に住む者が多かった。そこではお互いの生活が筒抜けで、時に水場も共有で井戸端会議の最前線だったりする長屋的な生活が繰り広げられていた。こうしたカジェホンがムシカ・クリオーヤの育まれた現場だった。当時、それぞれのバリオは今より閉鎖的で結束が強かった。それ故互いにライバル意識を持って張り合うことも少なくなかった。フィエスタで皆が楽しみにしている音楽も、それぞれ自分のバリオの音楽家たちによって演奏されており、バリオごとにレパートリーも演奏のスタイルも少しずつ違っていた。そんな閉じられたバリオでは、堅気の仕事をしながらフィエスタがあると演奏に打ち興じる音楽親父たちが人気者で、中には代々一族がみんな音楽家なんて家系も少なくなかった。

 レコードやラジオ放送が一般化する前の民衆音楽家たちの多くは、小さなバリオ社会のヒーローだった。そしてそんな時代に生まれながら、バリオの枠を超えて愛された偉大な音楽家が、フェリペ・ピングロ・アルバだ。リマの中でも特に音楽が盛んだったバリオス・アルトス地区に生まれた彼は、ギターも歌も非常にうまい名手だったと言われているが、何よりも多数の名曲を残した作曲家で、ポルカ、タンゴ、マズルカ、ワンステップ、フォックストロットなど様々な曲を書いた。中でも特筆すべきは数多くのバルスの傑作を作り、バルスをムシカ・クリオーヤの中心的な音楽にまで押し上げる一端を担った立役者であったことであろう。彼は民衆目線で多くの名曲を作ったが、中でも身分の違う叶わぬ恋を歌ったバルス「ルイス・エンリケ、エル・プレベジョLuis Enrique, el plebeyo」(1930年作曲)は、今なおムシカ・クリオーヤを代表する名曲として愛され続けている。ペルーにおける彼の存在は、メキシコにおけるアグスティン・ララやプエルト・リコにおけるラファエル・エルナンデスに相当するとも言われる。


(ヘスス・バスケスとオスカル・アビレスのギターによる名演)
 
 それではここで少しこの記事の肝となる「エル・プレベジョ」という曲について見てみよう。バルス屈指の名曲として上げられるこの曲は、ピングロが彼の友人の実際の悲恋をもとに作ったバルスだ。歌の中で描かれている恋する青年ルイス・エンリケは彼の友人がモデルであった。
 歌の中でルイス・エンリケは庶民の出でありながら、身分違いの恋に心を焦がす。想い人は貴族の女性。それ故決して叶うことのない恋であることはあまりに明白でありながら、エンリケはその報われることのない想いに焦がれ神に尋ねずにはいられない。
 「同じ赤い血が流れているのに、庶民の私と、高貴な彼女に人としてどんな違いがあるのでしょうか?神さえも愛するというのに、この恋が罪となってしまうのはなぜなのでしょうか?」と。
 その悲痛な叫びは多くの人の心を打ち、今なお歌い継がれる名曲となったのである。

 ルイス・エンリケの名前でこの曲のモデルとなったホルヘ・ラサロ・ロアイサによると、彼とピングロとは音楽仲間で、よく彼の仕立屋にピングロはギターを持って遊びに来て仕事部屋で一緒に演奏していたという。
 そんなある日、ホルヘはかつての叶わなかった恋の話をピングロに物語った。ピングロはその話を熱いまなざしで黙って聞くと特にコメントもせずに帰り、数日後、ふらりとやって来ると一曲の新作バルスを聴かせてくれた。それが「エル・プレベジョ」であったという。君の話は普遍性を持っていた。というピングロの演奏後のコメントが印象的であったという。

 ムシカ・クリオーヤの新しい世界を切り開いたピングロは、演奏と作曲に素晴らしい才能を持ちながら1936年に早逝した。わずか36歳の生涯であった。死後、彼の死を偲んだ友人音楽家たちは、ピングロの遺した素晴らしい音楽を守り伝えていこうとフェリペ・ピングロ文化センターを設立した。そしてその2年後、その文化センター主催のピングロ追悼コンサートで、綺羅星のごとく登場したのが当時18歳だったうら若き女性歌手ヘスス・バスケスだった。

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 ペルーの首都リマの旧市街の中心であるバリオ・セルカードに生まれたヘスス・バスケスは、18歳の時、友人でその後歌手として大成するエステル・グラナードスと共に、ラジオに出演するなど歌手としての活動を少しずつ始めた。ところがその年のうちに、彼女の一生を方向付ける大きな転機が訪れた。それが先ほど述べた追悼コンサートだった。そのコンサートで、彼女はピングロの代表曲「エル・プレベジョ」を3度も乞われて歌うほど非常に高い評価を得た。文化センターの長であり、ピングロの友人でもあった「ポルカ王」ペドロ・エスピネルは、その歌声の素晴らしさに惚れ込み、当時制作していた映画「El Gallo de mi Galpón」(1938)の中でも彼女に「エル・プレベジョ」を歌わせた。その映画は大きな反響を呼び、彼女はその後多くのラジオで活躍するようになった。


 10代のヘスス・バスケスが映画の中で歌う「エル・プレベジョ」

 さらに翌年、彼女は雑誌「リマの竪琴」主催の「伝統の歌声」コンテストで、再びピングロの「エル・プレベジョ」を歌って「クリオーヤ歌謡の女王」に選ばれた。この優勝は彼女の名声を決定づけ、それ以来彼女は敬愛の情を込めて「クリオーヤ歌謡の女王」の名で呼ばれるようになったのだった。
 このようにまさに「エル・プレベジョ」を歌って愛される歌手へと成長したヘスス・バスケスは、同時にそれによってピングロの再評価にも大きな役割を果たした。ピングロの作品の素晴らしさが彼女の歌声によってより深く人々の心に刻みつけられ、作曲者であったピングロの評価もより高まっていくこととなった。彼女が登場したまさにその時代は、ムシカ・クリオーヤがバルスを中心とした音楽へと転身し、同時にバリオ音楽の人気者という枠を飛び出して多くのラジオ・スターが登場し始めたその大きな転機となっていた時代であった。
 その後も彼女の活躍は目覚しく、45年にはボリビア、アルゼンチンで海外公演を行い、ブエノスアイレスではオデオン・レコードで最初の録音を行った。また中南米諸国に加え、アメリカ合衆国やヨーロッパ諸国でも公演活動を続けた。数多くの名曲を録音し、人々の前で歌い続けた彼女は、国内外で高い評価を得、いつしか本当にムシカ・クリオーヤ最高の歌姫へとなっていった。

 ムシカ・クリオーヤはバリオの音楽から多くのスターが輝く民衆音楽へと脱皮し、数多くのレコードが録音され、踊られた。そんな中でも、「エル・プレベジョ」にとってヘスス・バスケスは、そしてヘスス・バスケスにとって「エル・プレベジョ」は互いに特別な存在で在り続けた。そうしてムシカ・クリオーヤの人気が高まりその音楽を聴く人は増えたが、バリオで生き続けたフィエスタのためにだけ演奏されてきたムシカ・クリオーヤの存在は、伝統的なバリオの外側に住む人々にとっては過去のものとなり、いつしか時の波間に忘れ去られていった。
 フェリペ・ピングロが活躍し、数多くの市井の音楽家たちが切磋琢磨し合ったクリオーヨ魂は、ムシカ・クリオーヤがショーミュージックへと転身したあとも様々なフィエスタの中で生き続け、「エル・プレベジョ」も様々な歌い手に、そして何よりも聴衆に愛されながら今もペルーの誇る名曲として日々繰り返し歌い継がれているのである。
posted by eLPop at 23:44 | 水口良樹のペルー四方山がたり