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セントロ・コスコ・デ・アルテ・ナティーボの偉大な足跡

2014.11.25

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 インカの都が置かれた世界遺産都市クスコ。そこで今なお愛される一つの楽団がある。「セントロ・コスコ・デ・アルテ・ナティーボ(クスコ土着芸術センター)」と名付けられたその楽団は、自らの劇場と舞踊団を持つ、由緒正しいペルーを代表するエストゥディアンティーナとして知られている。(ちなみにコスコとは、クスコのケチュア語での発音である)
 エストゥディアンティーナとは、そもそもスペインで生まれた学生弦楽合奏団だ。学費を稼ぐために学生たちが集まって演奏したのがその起源とされている。それがラテンアメリカに渡ると学生だけでなく、地元の名士たちのサロン音楽になったり、移民たちの県人会音楽として発達していった。あまり知られてはいないのだが、そんなこんなでエストゥディアンティーナは、20世紀前半期頃までラテンアメリカの都市音楽の重要なスタイルの一つとして各地で愛された楽器編成だった。基本的にはマンドリンとギターを中心に、バイオリンやアコーディオン、ギタロン(ベースギター)などで構成され、地域毎のローカルな楽器がそれに加えられる。ペルー沿岸部ではそれがカスタネットやカホンだったりするし、アンデス地域ではケーナやサンポーニャ、チャランゴやアルパだったりするというわけだ。
 このセントロ・コスコ・デ・アルテ・ナティーボはクスコを代表するエストゥディアンティーナであるが、実はこの楽団はそれだけではない、ペルー音楽史に燦然と輝く革命的な楽団でもあったのである。今回はその辺りを紹介したいと思う。
  20世紀初頭のペルーは、インカ音楽と呼ばれるアンデス風の創作都市音楽が作曲され始めた時代であり、リマや地方都市に住むインテリ層の意識が次第にアンデス文化を視野に入れはじめた時代であった。その最たるものが歌劇「コンドルは飛んでいく」の成功なのであるが、このようなインカ音楽誕生の背景には、先住民をいかにペルー国民として編入していくか、というペルーが抱える大きな社会問題があった。その問題に向きあう中で誕生したインディヘニスモと呼ばれる先住民擁護運動は、社会制度的に先住民を国家の枠組みに編入していくだけでなく、先住民文化を文学や音楽、芸術の諸分野から再評価する、という役割を担っていた。インカ音楽は、その音楽分野での第一段階といって良いものであり、後に登場するワイノ全盛時代を準備した重要なアンデス音楽市場成立に向けた最初の大きな動きであったといえる。
 先程も紹介したように、1913年に初演された歌劇「コンドルは飛んでいく」は、アンデス文化やアンデス風音楽を、リマの人々に広く伝えた大きなインパクトのあった事件であった。しかし、「コンドルは飛んでいく」は、あくまで管弦楽によるアンデス風音楽を基盤としている音楽であり、演奏者もアンデス出身者ではなかった。

 こうしたリマでのアンデス風「インカ音楽」の流行に、アンデス地域からこれぞ本物の「インカ音楽」!と名乗りをあげたのが、これから紹介するクスコ発の芸能プロジェクトであった。
 そのプロジェクトとは、1923年から翌24年にかけて行われた「ペルー・インカ芸術使節団(ミシオン・ペルアナ・デ・アルテ・インカイコ)」の巡業公演であった。クスコを代表するインディヘニスモの旗手ルイス・バルカルセルは、クスコの音楽家たちを集め、従来の都市エストゥディアンティーナにアンデスの楽器を積極的に導入、それまでには存在しなかった新たなスタイルのアンデス風エストゥディアンティーナ編成を作り上げ、その楽団にアンデスの農村部で演奏されていた音楽を演奏させた。それにより、都市部においてギターやマンドリン、バイオリンなどの弦楽器を中心に編成されていたエストゥディアンティーナに、ケーナやハープ、チャランゴなどの農村部の先住民が主に使っていた楽器が新たに導入されることとなった。また、音楽に関しても、先住民的メロディが西洋の美学に基づいて様式化され、アンデス先住民音楽をベースとした新たな音楽へと生まれ変わった。その過程で先住民音楽に特有の甲高い裏声などの部分も聴きやすいようにとアレンジされることとなった。さらに都市のメスティソ層が中心に演奏してきたヤラビー、ワイノ、マリネラなどがレパートリーとして加えられた。ちなみに、こうした実践の担い手となった音楽家や踊り手のほとんどはクスコの中流ないしは上流出身者だった。

 ペルー・インカ芸術使節団は、ペルー政府からの援助を一切受けずに、ラテンアメリカ諸国(ブエノスアイレス、ラパス、モンテビデオなど)及びペルー国内を巡業して周り、ペルーの文化大使と大絶賛された。この公演の成功は、クスコ、そしてアンデス地域の文化が、ペルーやラテンアメリカ諸国にとって価値があり、賞賛されるに足るものである証明として認識され、彼ら自身の担ってきた音楽文化への誇りの獲得につながっていった。

 この当時まったく新しかった編成による音楽的成功は、このアンデス都市音楽と農村音楽の融合という実験的手法に自信を持たせ、更なる音楽的発展を多くの音楽家たちに予感させたのであろう。その成功の余韻も冷めやらぬ1924年のうちに、ペルー・インカ芸術使節団は、クスコでセントロ・コスコ・デ・アルテ・ナティーボ(コスコ土着芸術センター)として改組されることとなった。このセントロ・コスコは、クスコ県下の音楽と踊りを調査し、舞台化し、普及させることを目的とした団体として活動することとなり、エストゥディアンティーナ編成の音楽部門と、舞踊部門によって構成されるスタイルが確立していった。
 1920年代にクスコで始まったインカ使節団からセントロ・コスコに続く音楽組織の発展は、大きな音楽的革新を伴ったものであった。こうしたアンデス音楽の新たな革新は、都市部で大きな衝撃を与えた後、周辺の農村地域にも広がっていった。アンデス音楽研究者のソイラ・メンドーサは、その結果、都市近郊の先住民の音楽に新しく西洋的感覚が取り込まれる「フォルクローレ化」が進行したと指摘している。
 
 このような、クスコにおける1920年代のインカ使節団からセントロ・コスコへの流れは、インカの首都であったクスコが音楽的にも中心地としてアンデス音楽の普及に大きな影響力を持つのだ、というイメージをペルー内外に印象付けることに成功した。それ以降、インカ音楽の正統はクスコにあり、というイメージが生み出され、地方の音楽家たちはクスコの衣裳を着て異なる地域の音楽を演奏させられるといったステレオタイプ化された新たな「インカ音楽」のイメージに振り回されることにもなっていった。
 しかし、そんなクスコの黄金時代は長くは続かなかった。50年代以降、リマへのアンデス移民が急速に増加していく中、インカ音楽は次第にアンデス移民たちの「故郷の音楽」へと転換していき、その中で首都リマに近くより多くの移民を輩出したワンカーヨやワラス、後にアヤクーチョなどの音楽が台頭していくこととなった。そんな中、クスコは音楽的優位を確立できず、次第にその地位を失っていくこととなってしまったのである。

 とは言え、セントロ・コスコはその間も毎日クスコ近郊の音楽や舞踊を自前の劇場で公演しつづけ、時に国内ツアーやヨーロッパツアーなどもこなしながら粛々と活動を続けていった。また、今なおクスコ最高のチャランゴ奏者として語り継がれる故フリオ・ベナベンテ・ディアスなど、クスコの多くの音楽家たちがセントロ・コスコで演奏し、また音楽キャリアのステップとしてセントロ・コスコから活躍の場を広げていった。
 かつて革新的アンデス音楽を切り開いた伝説的楽団であったセントロ・コスコは、今では昔ながらの古風なクスコの民謡を我々に見せてくれる楽団としてクスコ市内で愛される存在となっている。時代の移り変わりの中で、それでもクスコの誇る重要な楽団として、彼らは今日も毎日のショーを演奏し、踊り続けている。ぜひ、クスコを訪れた時には彼らの劇場にも訪れてみてはいかがでしょうか?
posted by eLPop at 17:34 | 水口良樹のペルー四方山がたり